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あすの湖へ桜より  作者: 久知梨之花
第一章 時を超える春
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重なる春

 影が崩れると耳を塞いでいた鈴の音も、押しつけられていたような空気も、すっと消えた。

夜風が戻り、草の音だけがかすかに響く。

影が崩れ落ちたあとも、湖桜の耳にはまだ、かすかな「たすけて」と訴える残響が残っていた。

けれど周囲の誰も、その音に反応していない。


「……終わった…?」

湖桜は震える声で問いかける。

惣樂はまだ湖面を睨んだまま答えを出さずにいた。

すると扇龍が近づき、そっと彼女の肩に手を置いた。

「びっくりしたでしょ。大丈夫。全部惣樂さんがやっつけてくれたから。」

その言葉に安堵しつつも、違和感を覚える。

「でも……まだ助けを呼んでいるように聞こえて……」


湖桜の耳にだけ、はっきりと声が届く。胸の奥をひゅっと冷たい糸が引っ張るような感覚が走った。


「た”す”け”て”」

その声は酷く冷たく何か訴えかけているように聞こえた。


「……あ……」

気づけば手が、湖へ向かって伸びていた。


 その仕草は——

かつて湖に沈んでいった “桜”と同じ動き だった。


惣樂が気づいて叫ぶ。

「湖桜ちゃん、離れ——」

だが、その前に椿が動いた。

湖桜の姿が光の中で重なったのだ。

桜色のふんわりとした袖。

なびく雀色の髪先。

沈む瞬間に伸ばされた腕。


 椿の呼吸が止まる。


「……桜……っ——」


 名前を呼んだ瞬間、椿は湖桜の手首を掴み、ぐっと強く引き戻した。


 

湖桜の身体が椿の胸にぶつかり、そのまま抱き込まれる。

力が強すぎて、息が詰まるほどだった。


「椿…さん…!?!?」


「行かんといて!!!!もう、僕を置いて行かんといてよ…」


椿の声は、湖桜に向けたというより、“桜を失ったあの瞬間”を必死に否定しているようだった。


 その時。


湖の奥から、まだ崩れきっていなかった影が、裂け目からぬるりと這い出してきた。


 誰も気づくのが一瞬遅れた。


「——ッ!」


 影の腕が椿の脇腹めがけて伸び、黒い爪のようなものが深く食い込んだ。


裂ける音。

湿った感触。

椿の身体が一瞬だけ大きくのけぞる。

痛みに顔を歪めながらも湖桜だけは絶対に離すまいと抱き込んだまま、片手で銛を振り抜いた。


鋭い風の音とともに刃が光り、影の胸を貫く。

暗い靄がはじけ飛び、影は叫び声を上げて崩れ落ちた。


「椿!!」

もえ黄が駆け寄る。


惣樂はすぐに影の形が完全に消えるのを確認し、椿の肩を支えた。


「血が……!」

椿の着物が脇腹から赤黒く染まっている。呼吸が浅く、腕の震えが止まらない。

湖桜は怖さと罪悪感でうまく言葉を出せなかった。


「椿さん…!?わ、私のせいで……っ」

椿は苦しげに息をしながら、それでも湖桜を見て言った。

「……桜…よかった。今度は守れたんや。」

そして、ほんの一瞬、椿は湖桜の頬に触れた。



 湖桜は涙をこぼし、椿の手を握り返した。

 湖面は静まり返り、ただ風だけが、桜のような光の残り香をさらっていった。

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