8話 王太子からの呼び出し
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十日後。
クロエは視線を走らせていた書類を机の上に放り、つまらなげに鼻を鳴らした。
「いかがでしたか」
執務机を挟んで直立不動で立つ副隊長が、若干気づかわしさを声ににじませた。
この男は、クロエが就任して以来、ずっと副隊長として補佐にあたってくれている。
その前は彼こそがこの第二近衛隊の隊長だった。若輩であり、かつ女でもあるクロエが隊長になり、自身がその補佐である副隊長となっても変わらず勤めてくれているからこそ、クロエは職務に向き合うことができるのだと日々感謝している。
彼は今年36歳になるはずだ。
クロエもたいがいだと思うが、この副隊長も相当に無表情だ。妻帯しており、子どももふたりいるはずだが、家でもこのように無表情なのだろうかとついいらぬ心配をしてしまう。
「却下された。緊急性を感じない、と」
クロエは『緊急性を感じない』というところをかみつぶす。
隊長になって以来、ずっと財務庁に嘆願していること。
それは駐屯地内に女性専用トイレと更衣室を作るための予算申請だ。
クロエが来るまで、朱紅隊どころか近衛隊に女性はいなかった。そのためクロエはトイレにいくために王城まで行く必要があった。
更衣室だってそうだ。ない。なので現在も執務室で更衣をする。
王家の女性たちからは『護衛も女性がいい』という意見が上がり、クロエが朱紅隊隊長となって女性の隊員を増やすことが望まれた、はずだ。
そのためにはこの労働環境ではいけない。
「女性専用トイレがあります」「更衣室もしっかりしています」とまずは安心して働ける場所であることをアピールしなければ。そのための設備の拡充が急務だと思った。
だが、財務庁は「実際に女性隊員が入ってからでいい」という。
それでは遅いのだ!とクロエが言うと、「そもそも入隊したとしてその女性は長続きするのか」と言い返してくる。
近衛隊には女性隊士はいないが、王国内の騎士団にはごくまれに女性騎士が存在する。
だがそれも「つなぎ」だ。
ようするに爵位家に男子がおらず、直系女子が婿を得るまでの形式的なことだ。実際に戦闘訓練に参加することはほぼ皆無。年に数回、隊服を着て馬に乗せられ、パレードのごとく従者に馬をひかれて歩く程度だ。年頃になって婿を取ると、さっさとその仕事は婿へと移譲される。
だから財務庁は言うのだ。「無駄だ」と。
「そうではない。環境が整っていないから勤められないのだ」「いや、そもそも女性が働きたいと願う職種ではないだろう」「そんなのわからんだろう!」「歴史が物語っている! 却下!」
このやりとりがすでに数年続いている。
結果的に朱紅隊に在籍する女性隊員はクロエただひとりだ。
「嘆願書だけではらちがあかん。もっと別方面から攻めねば」
「別方面とは?」
「そもそも女性の護衛をと希望したのは王族の女性がただ。彼女たちをスポンサーにしよう。で、女性トイレと更衣室の設置だ」
「なるほど、でしたらよい機会になるかもしれません」
「ん?」
いつの間にかしていた貧乏ゆすりをやめ、クロエは副隊長が差し出す手紙を見た。
封筒には「クロエ」としか書かれていない。
受け取り、くるりとひっくり返して顔をしかめた。王太子ミハエルの押印が見えたからだ。
クロエは無言で封を破り、封書を引っ張り出す。
『できるだけ早く執務室へ来て。君のミハエルより』
反射的に握りつぶしてしまった。また女だろうか。今度こそ女がらみのことだろうか。自分が近衛隊にいる意味とはなんなのか。
「王太子殿下はなんと?」
「いますぐ来い、と」
「ご用件については?」
「特に何も」
絶対女だ。間違いなく女性問題解決に関する何かに違いない。
(アイザックといい子爵家の子女といい……。ああ、そういえばあの子女からもお茶会がどうのという案内が来ていたな、面倒くせぇええええええええ)
つい頭を抱えそうになったクロエだったが、副隊長に咳払いされて我に返る。
「本日のお召しの際、王太子殿下より議会にて王妃陛下にご助言いただくようお願い申し上げればいかがでしょうか。王妃陛下はことのほか王太子殿下に甘くございますから」
「うぬぬぬぬぬぬぬ」
「借りを作りたくないお気持ちはわかります。しかし、交渉で必要なのは折れるところは折れるということです」
「うぐぐぐぐぐぐぐぐ」
「しかも王太子殿下はなにやら隊長に秘密裏に依頼したいことがある模様。これはこれでのちのち手札として使えます」
気づけば手紙を手の中に握りこんでいたが、「手札」と言う言葉に反応した。
確かに面倒ごとではある。
なんで自分が王太子のしりぬぐいをしているのだろうと情けなくなることもある。
だが同時に国家機密を抱えていることでもあるのだ。
なにかあるときにこれは交渉事として使用できるかもしれない。
「……うむ。副隊長の申す事、もっともなり」
クロエは言い、握りこんだ封書をばちこーんと机に叩きつけて立ち上がった。
「いまから王太子の執務室に行く」
「……さようで」
「ん?」
珍しく応答に間があったのでクロエが目をまたたかせる。
うやうやしく剣を差し出す副隊長を一瞥したがいつもと変わりはないので、特に問題はないと判断し、着剣した。
「隊を離れるが」
「王太子殿下の件が終わりましたら、すぐにお戻りいただければ問題ございません」
「うむ」
「供をつけましょう」
「いや、いらぬ。王城まではすぐだ」
白手袋をはめ、副隊長がすかさず差し出す制帽を頭につけた。
鏡の前で制服の点検をしていたら、背後に控える副隊長と鏡越しに目が合った。
「どうした」
「少しおどろいたもので」
そういう彼の顔のどこにもそのような表情はない。
ふたりとも直立不動、無表情で鏡に映っている。
「なにが」
「てっきり『王太子に頭など下げるか』と怒り狂うと思っておりました」
「間違ってはいない。腹の中では切り刻んでいる」
「ですがお願いをする、と」
「仕方ない。折れるところは折れてやろう。そのかわり費用対効果がないのであれば新聞社あたりに王太子の女関係をぶちまけてやる」
「隊長」
「なんだ」
「最近、おだやかになられましたね」
「私がか」
「ええ。心なしか肌の調子もよいように見受けられます。そういえば新しく小間使いを雇ったとか」
「ああ、メイドの代わりにな」
「アイクという男子であると警備兵から聞いております。ヨハンナ老からも評価が高いとか」
「うむ、非常に優秀だ。特に料理上手でな? 鴨のコンフィが絶品なのだ。もう食べてしまったのが非常に残念だ」
コンフィは油の中に鴨や水鳥を入れ、低温で煮込む料理だ。食べる直前にオーブンで表面を炙るので、皮はパリッとしているのに肉はほろりと口の中でほどけて油のうま味が口のなかであふれる。
『保存食ですから。今日はなにもよい食材がないな、というときに出しましょう』
アイザックからそう言われ、味見だけと出されたのだがそれでは止まらず、つい『今日の夕飯はこれ』と言ってしまったので食べ尽くしてしまったのだ。
ふと視線を感じ、クロエは視線を鏡に向ける。
自分の肩越しから副隊長はクロエを見ている。
相変わらず表情筋は動かない。
だが目が少しだけ驚きに見開いていた。
「どうした」
「いえ。そのような顔をなさるのだな、と」
「私からすれば貴官がそのような顔をするのが珍しいのだが」
「隊長」
「なんだ」
「今度、その小間使いに会ってみたいのですが」
「誰が」
「自分が」
「貴官が?」
今度はクロエが驚いたが、やっぱり鏡に映る自分の顔はあまり変わらない。
「アイクにも聞いてみるが。では今度、我が家で食事をどうだ?」
「ぜひ」
頭を下げる副隊長に「うむ」と返事をしてからふと思い出して、上着の内ポケットに手をやる。
「そういえば明後日だったか。朱紅隊の飲み会があるのだったな」
「隊長は欠席とお聞きしておりますので、幹事にはその旨伝えておりますが」
「貴官は参加するのだろう?」
「顔を出すだけのつもりです」
当初、クロエは声をかけられるたびに参加していたのだが、どうやら儀礼的な声かけであってあまり望まれていないことに気づいて以来、欠席としている。それはそうだ。上官がいてははめがはずせない。
「餞別だ」
クロエは胸ポケットから用意していた封筒を出した。小切手を入れている。今日、家から用意していたが渡すのを忘れていた。当日までに渡せてよかった。
「皆、喜ぶでしょう」
「うむ。では王太子のところに行く」
「行ってらっしゃいませ」