42話 決闘を申し付ける
「よいよい。別にかようなことを」
「え⁉ クロエ様⁉ この前、婚約式でお会いした⁉ きゃあ! ルビーです!」
してもらうつもりはない、と言おうとしたのを、またルビーにつぶされる。
それどころか彼女は両腕を広げてクロエに抱き着こうとしたから仰天する。
「離れて」
身をよじったら、代わりにアイザックが出てきてルビーを突き放してくれた。
「あら、アイザック! なに? あなたも私のお祈りのために来てくれたの? ありがとう」
ルビーがにっこり笑うからクロエは怖くなった。どんな思考回路をしているのだ、この女は。
「違う。クロエ様のお参りに来たんだ。そしたら君たちが大騒ぎしているから」
アイザックは無表情のままルビーとサミュエルをにらみつけた。
「ここにいるみんなの迷惑だ。ルビー、君の衣装はたいして汚れてもいないんだろう? 大騒ぎするな。サミュエル、君も婚約者をちゃんとエスコートしろ」
「お参り、ねぇ」
サミュエルはクロエに視線を向けた。
なんだ、とクロエはその視線を受ける。彼はニヤニヤしながら言った。
「あの婚約式のときは、へぇ、と思ったけど……。こうやって見たらなんか、まんま男だな。兄上って、どっちかっていうとそっち系?」
そっち系とは、とクロエが真顔で尋ねようとしたのだが、周囲が非難に満ちたざわめきを発して目をまたたかせる。
「失礼、クロエ様」
「ん?」
アイザックは、言うなりクロエの手袋をするりと抜いた。
そのままサミュエルの顔に向かって投げつけた。
ぱち、と音を立てて手袋はサミュエルの頬を叩き、床に落ちる。
サミュエルも。
ルビーさえもあっけにとられてアイザックを見つめた。
「ぼくの婚約者に対する無礼を見逃すことはできない。決闘を申し付ける」
アイザックは詰襟を外すと、神官服の前裾を払った。ばっと裾が空気を切る。
足場を確認するように数度、どん、と床を踏み鳴らすと、肩幅に足を開いたまま腰を落とした。拳を握り、完全に攻撃態勢のまま、顎をしゃくるようにしてサミュエルをにらみつける。
「来いよ。ぶちのめしてやる」
よせ、アイザック。
あきれるクロエの声は、盛大な指笛や拍手にかき消える。見渡すと自分たちを囲うようにして参拝者たちが円になり、「やっちまえ!」「公爵様に無礼だ!」「オースティン伯爵家はしつこいんだよ!」と野次が轟音となった。
「やめろ! 騒ぎを大きくするな! 神殿騎士が来るぞ!」
クロエが大声を発したのだが、ひときわ野次が大きくなってぎょっとした。
振り返ると、すでに殴り合いが始まっている。
「アイク!」
なんで今日だけそんなにケンカっぱやいんだ!
そういう間に、サミュエルが右こぶしをアイザックに叩きこむ。
アイザックはそれをスウェイバックでかわした。
紙一重でかわしているように見えるが、そのためには、拳の軌道を見極める必要がある。一歩間違えれば、当然だが、がっつり当たる。
相手の癖を知っているのか、それとも目がいいのか。
距離感の取り方がうまい。
あたる、と思わせる距離感でかわしていく。
(煽っているな、人が悪い)
クロエは顔をしかめた。
「やれる」と思う瞬間、肩透かしをくらうのだ。腹を立てるのは当然だ。
(で、そこに勝機が産まれる)
ムキになったほうが負けだ。
剣で言うところの「いついた瞬間」が産まれる。
渾身の一発を放つため、力を溜める。
そのとき、動きが一瞬だけ止まる。
そこをアイザックは見逃さなかった。
がつん、と。
見事な一撃がサミュエルの右頬に叩きこまれ、彼は吹っ飛んだ末に床に転がった。
「サミュエル!」
ルビーの悲鳴が聞こえたが、会場は喝采の嵐だ。
「バカだな、拳は大丈夫か?」
クロエはアイザックに近づき、彼の右こぶしを見る。赤くはなっているが腫れているようには見えない。今後も腫れないだろう。
ということは、加減して殴ったのだ。サミュエルの方も歯が折れたりはしていまい。そう踏んだ時、会場後方からいくつもの金属音と怒号が聞こえた。
「神殿騎士である! この騒ぎはなにごとか!」
「どけ、どけぇい!」
ようやくのご到着らしい。
威勢だけいいな、とクロエが苦虫をかみつぶしていると、ルビーがまた金切り声を発した。
「ここです! アイザック卿が私の婚約者を殴り飛ばしたんです!」
「はあ⁉」
クロエとアイザックの声が重なる。
ルビーが、顔を抑えて床にうずくまるサミュエルの側で女優もかくやとばかりに泣き始めた。
クロエとアイザックは絶句だ。
「可哀そうなサミュエル! 神殿騎士さん! はやくあいつらを捕まえて!」
いや、待て待て。
なんかよくわからんが、先にケンカを売ってきたのはそっちなんだろ? で、アイザックが私の代わりに買ってくれたわけだ。それが……いや、もう意味がわからん。
混乱の極みに陥ったクロエを、アイザックがもう諦観の表情で背を撫でてくれる。
「クロエ・シェードウィン公爵、これはいったい?」
神殿騎士のひとりが声をかけてきた。
頭痛を覚えながら口を開こうとしたら、大広間を揺るがすほどの大咆哮が場を制した。
吠え声だけではない。
強風が吹き荒れ、誰もが頭を押さえて地面に伏せた。
疾風が止んだ一瞬。
来場者たちはそっと祭壇に視線を向ける。
そこにいるのは、大きな金色の被毛を持つ虎だ。
「金虎様!」
誰かが叫び、慌てて人々はまた平伏する。
クロエも同じようにしながら、隣でうずくまるアイザックに耳打ちした。
「シャリーか?」
「……聞かないでください……」
どうやら彼は平伏しているのではなく、脱力して床に倒れているらしい。
どよめく会場内を一喝するように金虎はまた吠えた。
「金虎様!」
「い、怒りをお鎮めください!」
「なにかお気にさわりましたか⁉」
神殿騎士がオロオロと謝り、どこからか神官たちが現れて必死に香炉を振る。
そんな人間たちを睥睨し、金虎はすいっ、と視線を移動させた。
誰もがその視線を追う。
先にいるのは。
サミュエルだ。
「え、な……なに?」
サミュエルもさすがに空気を読んだらしい。
狼狽え、金虎に向かってヘラヘラと笑いかけた。
「なに? え? なんかした?」
途端に唸られ、牙を剥かれた。
「……サミュエル卿に怒っておられるのでは?」
「それはそうだ。この騒動……」
「原因は……」
会場のいたるところでヒソヒソと声が上がる。
それを制するように金虎は、ひときわ大きく咆哮すると。
なんと右前足でサミュエルを指さした。
「間違いない!」
「金虎様はサミュエル卿をお怒りだ!!!」
会場がどよめくと、金虎は満足そうにうなずいた。
そして顔を窓に向けると、ちょいちょいと合図するように手招く。
その後、忽然と消えた。
「金虎様⁉」
「いかがいたしました⁉ この者を捕縛すればよろしいのですか⁉」
神官と神殿騎士が叫んだ。
次の瞬間。
広間天井部分のステンドグラスが割れ、燃えるたてがみを持った馬と、それに騎乗する幽騎士が吹っ飛んできた。




