39話 婚約者からのお願い
その日の夜。
「あの、クロエ様。少しご相談したいことがあるのですが」
今日の夕飯はクロエの大好きなラタトゥイユに鴨のロースト、それから野菜のマリネ。
いずれも好物ばかりで心弾んだクロエに、アイザックがそっと声をかけてきた。
「なんだ」
「金虎神殿の花乙女の祭りなんですが、クロエ様も参加なさいますか?」
「うむ。警護にあたる」
「……警護?」
小首をかしげるアイザックにうなずき、クロエはスプーンを手にした。
「午前の部の警護を朱紅隊が行うのだ」
「あ……そうなんですか。いや、実はぼくも声がかかったんです」
「そうなのか?」
「はい。記帳が一番混雑するので、そこの手伝いをと言われました。ただ、クロエ様が花乙女として参加するのであれば、エスコートしないといけませんし」
「参加せん。安心しろ」
「では、一緒にお仕事できるんですね」
そう言って微笑む彼がなんだかまぶしい。
直視できずにクロエはラタトゥイユに視線を落とした。これに集中しよう。
スプーンを入れ、口に運ぶ。
うまい。
オリーブオイルとトマトはなんでこんなに相性がいいんだろう。茄子もズッキーニも油でよく炒められていて甘い。
しばらくそうやってスプーンを口に運び続けて、ようやく正気を取り戻す。
「そういえば、裁判の結審を待って配置が決まるのだな、神職の」
「ええ、そうですね」
空いたクロエのグラスにワインを注ぎながら、アイザックがうなずく。
「いままで聞いたことがなかったが……。本職はなんなのだ? 神殿ではなにをしていたのだ?」
まさかシャリーの世話ばかりをしているわけではないだろうし、幽騎士退治専属ではあるまい。あれは本来、神殿騎士が行うものだ。
母上のことがあって廃嫡騒ぎに巻き込まれ、湖水地方に赴任予定だったが、それも宙に浮いた。仕方なく、歓楽街で相談事業のようなことをしていたが、それもずっとではないだろう。
「翻訳をしていました」
「翻訳?」
意外だと目を丸くする。
「大学では外国語を専門にしていたので。隣国で発表された学説を翻訳して、神殿の蔵書にする仕事を」
「へぇ」
「今回の騒ぎで湖水地方への転勤が決まったため、ぼくの席にはサミュエルがおさまったようですが」
「ほう。弟御も外国語が堪能なのか?」
「いえ、まったく。大学も結局退学してしまって……」
アイザックが苦く笑う。
「この前、元同僚から『君の弟は全く出勤してこないがどうなっているんだ』と言われて……。仕官すらしていないそうです。どうりで神殿で顔をあわせないはずだ」
アイザックの様子からすれば、向こうもこちらも避けていたために出会わないのだと思っていたようだ。
「やはり裁判のことがあって出仕しづらいのだろうか。だとしたら自業自得だが」
「いえ、その前からのようです。花乙女の記帳の件も、本当はサミュエルに任せたかったようなのですが、『ルビー嬢のエスコートがあるから』と」
「来るつもりなのか! どの面下げて!?」
思わず驚いてしまい、慌てて口を閉じる。
アイザックは苦笑いを漏らした。
「その……すまない」
「いいんです。本当のことですから」
アイザックは淡々と応じると、パンをちぎって口に運ぶ。
「今日、副隊長から聞いたが、ことが露呈したために、ルビー嬢もサミュエル殿もかなり……」
「たたかれていますね」
珍しくクロエの言葉を遮ってアイザックが答えた。
「たぶん、それでもあのふたりは状況が分かっていないのでしょう。だから堂々と出てこられるんです。花乙女の場でも、『違うんです、そうじゃないんです』と訴えて仲間を集めたいのではないですか?」
いまさらそんなことをしてもどうにもならんだろう。
そんなことぐらい、クロエにもわかる。
「その……なにか私にできることがあればなんでも言ってくれ」
サミュエルとルビーから受けた仕打ち。クロエならもう二度と会いたくないと思うし、なんならぎったんぎったんに切り刻んでやりたいぐらいだ。アイザックだって本当は憎いと思う気持ちもあるのだろう。
だが、一方で「弟と元婚約者を憎む自分」が許せないでいるようにも見える。
だからこそ、さっきから珍しく表情を押し隠しているのだろう。
「気遣ってくださっているんですか?」
「もちろんだろう」
クロエは胸を張った。
「なんでも言ってくれ」
「じゃあ」
アイザックはくすりと笑った。
「今晩は、ハグとキスだけじゃなくて……。それ以上いろいろしてもいいですか?」
途端に、クロエはカランと音をたててスプーンを取り落とした。
「い、いかんいかん! 大変だ!」
「やはり結婚前はダメですか?」
「違う! スプーンを落とした!」
「ああ、新しいものを持ってきますね」
からかうような笑い声を残してキッチンに行くアイザックを見て、クロエは顔を熱くして「あいつめ!」と歯ぎしりする。
わかっているくせに! からかいおって!!
「話は変わりますが、警護は午前中だけなんですか?」
キッチンから戻ってきたアイザックは、もう何食わぬ顔をしている。代わりのスプーンを手渡すので、クロエも澄まして受け取った。
「ああ、そうだ。午後からは空いている」
「じゃあ、ぼくたちもお参りしませんか?」
「花乙女の?」
「ええ。着替える時間はありそうですか?」
「別にかまわんだろう、軍服で。いやか?」
「ぼくは構いません。じゃあ、ぼくも神官服でいいですか?」
「ああ」
「献花の花は用意しておきますね」
「うむ」
そう言ってラタトゥイユを口に運ぶのだが、はて、と首を傾げた。
「よく考えたら、幸せを願うのは神獣の金虎に、であるな?」
「そうです。実家を離れる花嫁の幸せを祈願するんです」
「……シャリーはここにいるし、私は婿をもらうのだが……」
なんだか対象外では、と思う。そのことに気づいたのだろう、アイザックも吹き出して笑った。
「まあ、そこはイベントのひとつとして。楽しみましょう」
「そうだな。ところで今日、シャリーは?」
今日は出迎えにも姿を現していないし、キッチンにもいない。アイザックの寝室でのんびりしているのだろうか。
「なんか神獣同士の会合に出かけたんです」
「そんなのあるのか」
「あるみたいですよ。お互い、供物を持ち寄って夜通し喋ったりするそうです」
「へえ」
なにを話しているのか気になるなと思っていたのに。
ふと視線を感じて顔を向けるとアイザックだ。
「だから、今日はふたりだけの夜なわけです」
にっこり笑って言われた。
クロエは目を白黒させながら、ラタトゥイユを飲み込む。
追い詰められた。退路を断たれた。
なんかそんな気がする。
(嫌……なわけ、ではないのだけど……)
正直、アイザックとの婚姻が決まった時、「やれやれ、これでやっと結婚できる! そして子孫繁栄!」と簡単に考えていた。
いや、簡単だと思った。
この婚姻はミハエルが決めたものだ。アイザックもクロエに対して、なにか特別な感情を抱いているわけではなく、クロエもアイザックに変な感情など芽生えることはない。
そう思っていたのに。
どうにもこうにも、自分はアイザックのことを特別視しているらしい。
この感情や、そこから派生する思考と行動が「恋」や「愛」と呼べるものなのかはクロエにはわからない。
わからないが。
このままアイザックとの関係を続け、性交渉までもってしまったら、もうのっぴきならない状況になりそうな気がした。
確実に、自分はアイザックを「大事な家族」認定するだろう。
いままで一緒に過ごしてきた、犬たちや馬、鷹のように。
人族としては初めての認定になるかもしれない。
彼らの最期まで側にいると決め、痛みやつらさをわかちあう生活が始まる。
そうなると、彼と一生離れられない。
気安い関係とはなりえない。
(その……覚悟、が……今日?)
なんだかそれはそれで早すぎるような……。自分としてはせめて結婚までは待っていただきたい。
だが、あの笑顔が決断を迫っている。
覚悟を決めなければならない。
ごくりと息を呑んだ時、カタカタと音がした。
アイザックもクロエも同時に顔を向ける。
キッチンの裏木戸だ。
カタカタ、と再度揺する音がし、続いて「にゃあ」と鳴き声がした。
「シャリー!」
クロエは援軍を見つけた兵士のように立ち上がる。代わりに、アイザックは忌々しそうに眉根を寄せてため息ついた。
「なんで戻って来るんだろうなぁ」
「早く出迎えよ!」
クロエが急かせる。
アイザックはそれでものんびりとキッチンに向かい、裏木戸を開けたようだ。
「うな」
「今日は神獣の集まりだろ? もっとゆっくりすれば?」
「にゃあ、うにゃにゃにゃにゃ、にゃ!」
「えー……。ごはんいるの? なんか供物食べて来たんじゃないの?」
「にぎゃ!」
シャリーとアイザックがキッチンで会話を続けている。
クロエはそれを聞きながら、今度こそ味わいながら食事を再開した。




