37話 この任務、必ずこなしてみせる!
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数時間後。
クロエはぱちりと目を覚ました。
まだ夜が明けきっていない室内は暗い。
ただ、深夜というほどでもないようだ。
ランプがなくても室内の様子はわかるほど。
きっとあと一時間ほどで空は夜と朝が混じる青紫色になるだろう。
(しまった。眠ってしまった)
見慣れない天井を見て、クロエは記憶をたどる。
眠れないからとリビングに行き、そこでアイザックと話をした。
シャリーが寝室にいると言われたので、やってきて撫でたのだが、その極上の毛並みを堪能していたら、非常に眠くなり、そのまま眠ってしまったようだ。
自分はベッドに眠っているが、アイザックはどうしたのだろう。そもそもシャリーは、と上半身を起こした。
アイザックの姿はすぐに目に入った。
椅子に座り、机に突っ伏して眠っていたからだ。
シャリーは物陰にいるのか、それとも室外に出たのかよくわからなかった。
「アイク」
声をかけるが、彼はよほど深く眠っているのか身じろぎしない。まさか死んでいるのではあるまいな、とベッドから降りて近づいた。
「アイク」
肩を軽く揺すると、驚いたように跳ね起きる。
「あ、目が覚めました?」
「というか、起こしてくれたらよかったのに。ベッドを占領した」
「ああ、それは別に。まだ朝には早いようですから。眠ってください」
「アイクがな? 私はもう十分に寝た」
夜中目覚めたときのようなだるさも重ぐるしさもない。
それはきっと胸中をアイザックに吐きだし、シャリーに癒されたからなのだろうと自分でわかっている。
「ベッドで一緒に寝ればよかったのに。邪魔なら、ちょっと横に押してもらえば」
「いくらなんでもそれは」
アイザックは笑い、大きく背伸びをした。
こりをほぐすように肩を回すから、しのびない。そもそも彼のベッドなのに。
「婚約者同士なのだから問題なかろう?」
「そう……なのでしょうが、一緒のベッドというのは……その。ぼくが眠れるかどうか」
「寝相は悪くない。小さなころから寝袋に入っていたからな」
「なんですかそれ」
「固定されるのだ、寝相が」
「そうなんですか」
アイザックは愉快そうに笑うと、机に頬杖をついて、立ったままのクロエを見上げた。
「でも、そういった問題じゃなくて。昨日、クロエ様はぼくとそういったことをしたくはなかったのでしょう? だから同衾をご遠慮しました」
「……ものすごく不思議なのだが」
「はい?」
「アイクは私を見て欲情するのか?」
そのことが不思議で仕方ない。
クロエは他の女性のようにスカートを日常的にはかないし、胸元が開いた上着も着用しない。髪になにか飾りをつけていることもないし、そもそも化粧もしない。
アデル子爵令嬢のようでも、ルビー伯爵令嬢のようでもない。
菓子店の店員のようでも、ノラのようでもない。
クロエは女性でありながら、女性のような服装やしぐさ、声音を持っていない。
だから「軍隊」という男社会で生活ができている。
だが「男」ではない。
クロエ自身も、自分が男になりたいわけではないと知っている。
ただ、男社会で生きていくためには、このスタイルがなじむだけだからしているにすぎない。ようするに「皮」をかぶっているだけなのだ。
なので軍隊でも自分が実は浮いていることは知っている。
同様に、生まれ持った性別で過ごすことを強要される「社交界」ではなおさらのこと、クロエは浮きまくっている。
自分的には「女性だ」という性自認はある。だから、頭の中には「結婚して子を産まねば」という思いがついて回る。
しかし、世間が枠づけた「女性らしさ」と自分は違う。
クロエの生き方や服装は「男性的」であると思われてしまう。
クロエの考えと、世間の考えはなじまない。
ある程度、他人が距離をおくのは当然だと思って過ごしてきた。
(だけど、この男は……)
アイザックは出会ってからというものずっとクロエを「女性」として扱う。
「欲情しますけど。なんなら昨日、ものすごく我慢しましたけど」
あっさりとアイザックはこたえるから、クロエはあきれた。
「なにが? どこが?」
「ぼくの前じゃ、ちゃんとガウンを着てほしい」
「あ……そう。わかった……けど」
「クロエ様はぼくを見て欲情とかしないんですか?」
「しないなぁ」
今度はクロエがはっきりと答えるから、アイザックははじけるように笑った。
机に突っ伏して笑い続けるその様子を、クロエは変わったものを見るように眺めた。
「クロエ様はいままで恋しい人がいたりとか。そんなのはなかったんですか?」
ようやく笑いがおさまったアイザックは眼のふちに浮かんだ涙をぬぐいながら、背中を起こした。
「恋しい人?」
「士官学校とか、社交界とか。あ、そもそも恋愛対象は男性なんですか? アデル様たちからきゃあきゃあ言われていましたが」
「アデル子爵令嬢はあれだ。なんか私に変な憧れを見ているだけだ。私は男が好きだ」
はっきりと言うと、誤解のある言い方のように思えたが、アイザックは「よかった」と笑った。
「で?」
「ん?」
「士官学校とかにあこがれの先輩とか。人懐っこい後輩とか。そんな人たちに恋したりしなかったんですか?」
問われて振り返ってみる。腕を組み、過去へと逆行していった。
「……男に生まれたらかようになってみたい、と思った上級生は何人かいたが……。あれが恋かと言われたら違うような気がする」
それは「理想」だった。
あんな筋肉が欲しい、あんなふうに動けたら、あんな見栄えであれば。
女のくせにとか、女だからとか。
そんな風に言われないはずなのに。
「それに、結婚とは家が決めることだ。私の場合、王家の意向からは絶対に逃れられない。だから惚れただのなんだの言っても所詮先の無い話。ああ、そうだ」
「なんです?」
「いや、だから結婚相手が決まったら、その男を好きになって大事にしようと思ったんだ、と」
いま、思い出したと続けると、アイザックはまた笑った。
「アイクはどうなのだ。こんな女がいいな、とかあったのではないか?」
いや、むしろ彼こそあっただろう。なにしろ先の婚約者はあの人形みたいなルビー・オースティン伯爵令嬢だ。
「ぼくは、ぼくをそのまま受け入れてくれる人がいればなぁ、と思っていたんですよ」
「誰もがそうではないのか?」
クロエは改めてアイザックを見る。
金髪碧眼の美青年。
物腰はきわめてやわらかく、粗野な動きも言動もしない。頭脳明晰で学位も取得。神官として仕え、クロエも詳しくは知らないが、彼は専門職でもあったらしい。
貴族の女子なら喉から手が出るほどほしい優良物件だろう。
「数か月前までならそうかもしれませんが」
「あ」
そうだ。
彼はいま、伯爵位をはく奪され、苗字すら奪われている。
「だが、その容姿だ。学位もある」
「黙ってじっとしてればね」
「どういうことだ?」
「ぼく、家事が好きなんです。料理とか掃除とか」
「うむ。非常に助かっている」
「いやがる人の方が多いと思いますよ?」
「なにが」
「料理に口出ししたり、掃除のやり方にこだわったりとか」
「そうか? 助かるが……」
「『これは自分の仕事』って思っている領域に入って来られたら誰でもいやでしょう? 特に料理や掃除って女性の分野じゃないですか。ぼくとかぶるんですよ」
「ま……あ、そうか」
「クロエ様はあんまり気にしてないみたいですけど、ぼく、気は強いし、こだわりも人一倍ありますからねぇ」
「そう……か?」
クロエは首を傾げた。
朱紅隊や軍隊ではもっと癖のつよい男は山といる。
それに、アイザックの「こだわり」というものは、たぶんクロエにとって興味がない。
まったく無関心であるといってもいい。
たぶんだが、「この料理にはバジル!」というものではないだろうか。
それをあえて「これにはナツメグだろう!」と推すだけの経験値がクロエにはない。というか、美味しければなんでもいい。
掃除においても、「床ふきはこう! だからクロエ様、そこにモノをおかないで!」と言われれば、クロエは置かない。掃除の仕方も、教えてくれればアイザックの言う通りにクロエはするだろう。
なぜなら、言い方は悪いが、クロエにとって「どうでもいい」ことだからだ。
(逆にあれか……。アイクも私の生活に干渉してこないな)
男ばっかりの仕事はやめろ、とも、料理をもっとうまくなれとも言わない。
女言葉を使えとも、ドレスを着ろ、とも。
そういった意味では、クロエとアイザックは衝突が少ない生活を送っているといえる。
「クロエ様はよく『男らしい』って言われるんじゃないですか?」
「言われるどころか、間違えられる」
「ぼくは『女みたい』って言われるんですよ。料理や掃除が趣味だと言うと」
「あ……」
なるほど。彼は彼で「素」を見せれば、一般女性に引かれるなにかがある、ということののか。
「屋外でのイベント苦手ですし、そもそも必要最低限の筋肉しかありませんしねぇ」
「だが、幽騎士退治は見事だったぞ?」
「たまたまですよ」
アイザックは椅子の背に深くもたれ、クロエを見上げる。
「だから、爵位もなく、神官職さえ失いかけて、得意なものといえば家事しかないぼくを、まるっと受け入れてくれたクロエ様に惚れたんです」
「………そんなもの……なのか?」
なんかこれはあれではないのか。雨の中捨てられた仔犬が、拾い主に忠誠を誓う、的な。
「クロエ様は、ぼくのことが好きですか? 副隊長以上に」
「好きだと思う」
即答すると、アイザックが驚いている。
「なんだ?」
「いや、」
「アイクと手をつなぐのは嫌じゃない。毎日のハグも。というか副隊長とはそんなことしたいと思わない」
「そうですか」
アイザックはそう言って笑うと、立ち上がってクロエを抱きしめた。
「よかった。嫌われてなくて」
「嫌うわけなかろう。というか、ハグはおやすみを言うときにするのではなかったか?」
一応、昨晩もやった気がする。
「これはそのハグとは違うんです」
「そうなのか」
「今日、裁判所に名誉棄損の件で訴えに行くので、そのパワーをクロエ様から吸収しているんです」
「なんと。それは大切だな」
クロエは自分もアイザックの背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。途端にアイザックが笑う。
「ありがとうございます。元気が出ます」
「うむ。しばらくこうしておくか?」
「うーん。だったら」
「ん?」
アイザックが腕を緩める。
クロエはそんな彼を見上げて小首をかしげたのだが。
すぐに彼は腰をかがめ、クロエの顔を覗き込んだかと思うと、唇を重ねてきた。
一瞬だったと思う。
実際、リップ音をたてたほど軽いもので。
恋人同士のキスというより、もっとなんでもない仕草のひとつのような。
そんな感じだったのだが。
「クロエ様⁉」
腰から床に崩れおちたクロエを、アイザックは寸前のところで抱き留めた。
「大丈夫ですか⁉」
「いやちょっと予想外の動きにでられて大変困惑しているがもうしばらく時間をもらえれば通常運転に戻れるが今しばらくはちょっと自分でもなにがどう……」
「ちょ……! 何言って……! クロエ様⁉ 気をしっかり!」
「い、いかん! こんなことではいかん!」
「クロエ様、落ち着いて! すぐに動かない方が……!」
己を奮い立たせてクロエは立ち上がる。
「こんなことで狼狽えてどうするのか! この先にある性行為をしてこそ、子がなせるというのに!」
「クロエ様、もう少し声量を落としていただいて……!」
「自己分析がまだまだできていなかった! これぐらいなんてことないと思っていたのに……! 不覚!」
「まあ……意外ではありましたが」
ガッデーム、とばかりにジタバタ足踏みをするクロエを見て、アイザックはふふ、と笑った。
「可愛いなぁ」
「なにがだ!!!!!! 貴卿、私をバカにしているのか!!!!」
「そんなことは全くありません! 気を悪くしたのなら謝りま……」
「謝らなくてもいい! そのかわり、毎晩ハグをするときに、キスもするぞ!」
「……………は?」
「慣れだ! こういうのは慣れに違いない!」
クロエは右こぶしを握り締め、左手でアイザックを指さして命じた。
「毎晩ハグとキスをするように!」
「それは……はい」
「婚約から結婚! そして子をなす! この任務、必ずこなしてみせる!」
クロエは固く心に誓ったのだった。




