35話 婚約者たちの合意
「私的にはなんら問題ないが、男性的にはどうなのだ? やはり……」
「いやあの! 言い方が悪かったですね! 違います、そういう意味じゃない!」
真っ赤になって否定され、クロエはきょとんとした。
「そうなのか。それは申し訳なかった」
「こ、こここここちらこそ! その……! か、勘違いさせるようなことを!」
「いや、私が悪いのだ。こういうことにどうも疎くて。アイクはそのあたり、はっきり言ってくれるし、非常にわかりやすい」
「ぼくこそ、深夜に女性を寝室に誘うなんて非常識でした! いや、その下心とかそんなんじゃなく! いま、シャリーが部屋にいるから、気分転換に……」
「行く」
「は?」
「シャリーがいるんだろう? 遊ぶ」
即決して、すたすたと歩きだす。
アイクの部屋は二階だ。階段を上っていると、アイザックが慌てたようについてきた。
「いや、ですが! ぼくの寝室ですよ⁉」
「かまわん」
「かまいますよ!」
「今日はどうせ色っぽい下着つけていない」
「下着とかより、本人が来ちゃったら問題ですよ!」
ぐい、と腕を引かれ、クロエは首をねじる。
一段下にいるアイザックは、クロエの腕を握ったまま、相変わらず赤い顔でクロエを見上げていた。
「ぼくが襲うとか、そんな風に考えないんですか?」
「襲う」
繰り返してから、クロエは「はて」と小首をかしげた。
自分たちはいまのところ「婚約者」であり、「結婚を前提とした」関係である。
結婚式は半年後だが、世間的にはほぼ「夫婦」として扱われている。
「私たちは婚約者同士であるのだから、合法的な性交渉ではないのか?」
「合意があればね!? あなたとぼくの!」
「合意」
ふたたびクロエはつぶやいた。
そうか。
合意がなければそれすなわち「暴力」であることに変わりはあるまい。
夫婦や婚約者同士であれ、意思確認は大切だ。性交渉をしたくないという相手に一方的に迫るのはやはり、暴力と威圧だろう。
「合意が……あるのですか?」
改めて尋ねられ、クロエは考えた。
合意は、してもいい。
してもいいのだが。
問題は性交渉を今夜するかどうか、ということだ。
クロエはまったく経験がないが、性交渉というものは大変疲れるのだと聞いたことがある。
朱紅隊の既婚者や、士官学校の同期たちが言っていた。
『昨日、一晩中やってたからもうへとへとだ』と。それを聞いたまわりの男たちも『そりゃあ奥さん、大変だろう。いまごろ足腰立たないのでは』と。
いったいどのようなことが繰り広げられているのかよくわからないが。
大変疲れることではあるようだ。
(今日、書類仕事を副隊長に任せて帰宅したから、まずそれを片付けて……。そのあと、新人の訓練内容を実際に試してみたいし……)
明日の業務はかなり煩雑。
かつ、体力も使いそうだ。
「クロエ様」
「なんだ」
「なんとなく察しました。明日、お仕事忙しいんですね」
「うむ。そうなのだ」
「わかりました……」
「申し訳ない」
「いえ、そもそもそんなつもりじゃありませんでしたから」
「今度は期待してくれ。それまでになんかこう、色っぽい下着とやらを購入するから」
「別にぼくはそのままでもいいですよ」
「そうなのか? 貴卿、変っていると言われないか?」
途端にアイザックに爆笑されてしまった。
「クロエ様に言われるとは思いませんでした」
アイザックはまだくつくつと喉の奥で笑う。そして手をつなぎなおすと、先にたって階段を上がり始めた。
「手をつなぐのが好きなのか?」
「クロエ様は嫌いですか?」
「……うーむ。いままでは嫌いだったが、アイクとはいいかな」
正直に答えた。
引っ張られるでもなく、自分が引っ張るわけでもない。
一緒に歩いてくれるからなのか、非常に安心する。
「そうですか、よかった」
アイクは少しだけ顔をこちらに向けて笑う。
「アイクはあれだな」
「なんです?」
「よく笑う」
「クロエ様と暮らし始めてからですよ」
「そうなのか?」
なんか意外だ。
この男はずっとにこにこしている印象なのに。
「あ、よかった。まだいた」
アイザックは自室の扉を開き、クロエを連れて入った。
アイザックの足はまっすぐベッドに向かったが、クロエはきょろきょろと室内を見回した。
以前は、メイドが使用していた部屋だ。
ベッドと箪笥。それから椅子と机。
それだけの部屋。
だけど清潔で、どこかひだまりの匂いがする。机の上におかれたランプが広げる橙色のあかりもおだやかで心が落ち着く。
「シャリー」
アイザックがベッドの上に向かってよびかけている。
クロエは彼の視線をたどった。
「……まるい」
正直な感想だ。
ベッドの上で丸まっているのは、白い球体と化したシャリー。
「犬も丸くなって眠るが……。ここまでこう……。どうなっているのだ」
クロエは困惑したが、だんだんとあのまんまるの中に手を突っ込みたい衝動にかられた。以前飼っていた犬にはよくそれをやって「がふっ」と怒られたのだが。
「猫って、液体ですよね。よくこんな形になるなぁって思うとき、ありますよ」
アイザックが笑う。クロエもうなずいた。
「犬は抱き上げたらこう……後ろ足がくるんとなるが、猫は伸びるのだろう?」
「長くなりますよね。抱っこしたことあるんですか? というか、猫、お嫌いじゃないんですか?」
「嫌いなものか……っ! 猫族が私を嫌うのだ!」
つい力説したら、「うにゃあおう」とシャリーが不満げに鳴いた。
眠いのに、と言いたげに片目だけ開いてクロエをにらむので、慌ててクロエは口を閉じた。
その隣でアイザックがあきれる。
「シャリーは十分寝たろう? ちょっとだけクロエ様と遊べよ」
「そんな畏れ多い!」
「かまいませんよ。ほら、シャリー」
返事は「シャアアアア!」という唸り声だ。
ひい、怒ってらっしゃる!とクロエは思ったのだが、アイザックは動じない。
「じゃあ、撫でるぐらいならいいだろ?」
「……うな」
ふん、とばかりに鼻息を漏らし、シャリーはまた目を閉じた。
「撫でるだけらしいですけど。いいですか?」
「もったいないことだ!」
そもそも神獣なのだし!とクロエはかしこまった。
「お茶か……温めたワインを持ってきましょうか?」
「いや、別に」
かまわん、と言おうとしたのに、アイザックは部屋を出て行ってしまった。
(ううむ……いいのだろうか)
若干悩んだものの、こんな機会はもうないかもしれない。
触れるのだ。
猫を! 念願の!
「し、失礼します」
「うな」
クロエは腰をかがめ、シャリーの身体をそっと撫でてみた。
(や、やわらかい!!!!! 猫の毛、やわらかい!!!!)
クロエは衝撃を受けた。
クロエがいままで飼ってきた動物といえば、犬、馬、鷹。
馬はごわごわしているし、鷹はつやつやしている。
犬種によるのだろうが、クロエは猟犬を好んで選んでいたので、たいがい、短毛かダブルコートといって、表面の毛はごわごわしている犬が多かった。
世の中にかようにやわらかい毛をもつ獣がいるとは! こんなことで雨から身を守れるのだろうか、とクロエは不安になった。
しかも、その下の皮膚もやわらかい!
顔もちっさ! 何度も思うがどうして猫の顔はこんなにちいさいのか!
いや、犬と馬の顔が長すぎるのか⁉
さわさわと撫で続けていると腰が痛くなってきた。
迷った末に、ベッドに上半身をあずけて、さらにシャリーに近づく。
嫌がられて「シャア!」とひっかかれるかと思ったが、薄目をあけて確認されただけで、なにもしなかった。
クロエは幸福に打ち震えながら、なでなでとシャリーの身体を撫でる。
やわらかくてあたたかくて、さらっとしていて。
なにかに似ているな、と。
(ああ、アイクの手だ)
彼の手もこんな感じ。
さわっていると、とても安心する。




