34話 ぼくの寝室に来ませんか?
その日の晩。
クロエはもう火の消えたリビングのソファに座り、なんとなく闇に沈む庭を見ていた。
かがり火があるわけでもない。あかりといえば月光だけだ。
それでも陰影ができるのだからすごい。
差し込む月光のおかげで室内にいても漆黒の闇というわけではない。
耳を澄ますと、りーりーと虫の音が聞こえる。時折、なにやら声がするのは警備兵が会話をしているからだろう。
クロエは、手に持っていたグラスを傾けた。
先日副隊長からもらったワインだ。
ふと、背後できぃと扉が開く音がしてクロエは振り返る。
「どうしたんですか? 眠れないんですか?」
アイザックだ。
驚いたように目を丸くする。そうすると彼の瞳に月光がすべり、猫目石のようだ。
「眠って、起きた。そこから眠れなくなった」
そう。
ノラを店員に預け、クロエはアイザックと共にこの家に戻ってきた。
クロエは風呂に入りながら今後のことを考え、夕食をとりながらアイザックといろいろ打ち合わせをした
そのあと、それをメモ書きし、やれやれとベッドに入って眠ったのだが。
二時間もしないうちにぱちりと目が覚めてしまい、そこからいろんな考えが頭をめぐって眠れなくなってしまったのだ。
「起こしたか?」
「ああ、いえ。物音がしたので、念のために来ただけです」
アイザックが静かに近寄って来るので、クロエは隣をぽんぽんと叩いた。
「座るか?」
「いいですか?」
断りを入れてアイザックが座る。
きしりとソファが鳴って、わずかに傾いだ。
そしてふわと月光のようなはかなさで彼のぬくもりを感じる。
「いつも眠れないときはこうやっているんですか?」
アイザックに尋ねられ、クロエは首を傾げた。
「どうだろうな。寝室で本を読んでいるときもあるし……。ああ、そうだ。今日はなんとなく」
人恋しかったのかもしれないと気づいた。
寝室で過ごすのではなく、わざわざここまできたのは、「ひょっとしたら誰かの声が聞こえるかも」と無意識に考えていたのかもしれない。実際、警備兵の声が聞こえてほっとしている自分がいるし。
アイザックが隣に座ってくれて、さらに心が落ち着いている。
「ルビーの侍女のことで?」
「ん? ああ……そうだな。それもあるし……。その、仕事のことがな」
「仕事?」
クロエは頷き、グラスを傾けた。
「誰もが自分で仕事を選べる社会になるといいな、と思ってな」
「自分で選ぶ?」
「私もそうだが、アイクもそうではないか? 家を継ぐということが生まれながらに決まっていて、それに疑義を挟まずに生きてきた。ああ、勘違いするな。いやだからといって、私はこの仕事が嫌いではないのだ。私はきっと、恵まれている。好きな仕事をやれている。だが、繁華街のひとたちは違うのではないか?」
望んで娼婦や男娼になったのだろうか。ほとんどは違うだろう。カネのため、家のために売られてきた人間がほとんどだ。
「もし朱紅隊に女性が来たら、一生働けるようにといろんな設備を整えたり、準備をしたりしている。いろんな工夫をしているが……。それを選んでくれなかったら意味がないのだなぁ……」
というか、とクロエはつぶやく。
「自分だけが頑張ったってどうしようもないのだ。ほかの職種も同じでなければ」
クロエだけが目を三角に釣り上げて必死になっても、王城の経理課を見れば結果はわかる。『ひとりで大騒ぎして』。世間の評価はそれだ。
そして、彼らの言う通り、もっと女性に適した職場というものがあるのではないだろうか。
そこがもっと女性の意見を取り入れて……。
「そうかもしれませんが、だからといってクロエ様の頑張りが無駄になっているとは思いませんよ」
「それはどうも」
クロエは肩をすくめる。慰められている。というか、自分は慰めてほしくてこんなことを口にしている。
「お世辞でもなんでもなくそう思っています。今日会った店員さん」
「同志か?」
「ええ。彼女や、繁華街の娼婦や男娼を見ればわかります。あなたを見て、止めた足を動かし始めたんです」
クロエはアイザックに視線を向けた。
彼も自分を見ていた。
白皙の頬。
闇に溶けそうなほどの漆黒の髪。
名工がノミをふるって作ったかのような美麗な青年。
彼は真剣な面持ちで自分を見ている。
「クロエ様の行動は多少強引かもしれない。だけど、その動きに引きずられるように足を動かせた人もいるんです。そのあと、歩き出すか、ふたたび足を止めるか。それは本人の問題です。でも、あなたが投げた石は確実に波紋を広げ、誰かの心に届いていますよ。その証拠に侍女はあなたが示す未来にむかって一歩踏み出したんですから」
アイザックはクロエの手を包み、握ってくれた。そこからもゆっくりとぬくもりが伝わって来る。
アイザックが言うのは、ノラのことだろう。
彼女だけじゃない。朱紅隊に応募してきた三人の女性もそうだ。
クロエは「うちしか選ぶものがなかったのだ」と思っていた。
そしてそのことで落ち込んだのだとようやく自分で気づいた。
しぶしぶ選んだに違いない。本当は違うことがしたいのに、仕方なく選んだのだろう。
クロエが一生懸命整えて準備したものを、そんな風に思っている。
そう考えて落ち込んだのだ。
(だけど。……彼女たちは選んでくれたのかもしれない)
副隊長のいうとおり、「子育て中にはいい条件だ」そう思って、畑違いだが頑張ろうと思って手を挙げてくれたのかもしれない。
だったら、その芽を育てるのが自分の役割だ。
「ありがとう」
クロエはアイザックの手を握り返した。
「いいえ、とんでもない。あの」
「なんだ?」
「まだ、起きていますか?」
「その……つもりだが」
「だったら、ぼくの寝室に来ませんか?」
「は?」
クロエは目を丸くする。
寝室に来ませんか。
(これは……あれか、誘われているのか? 夫婦の営み的なことを? いやまあ、婚約したのだし。いたしても問題ないのだが)
下着がない。
そんなことを考えた。
ヨハンナ刀自が言っていたやつ。まだ買っていない。
「アイク」
「はい?」
「今日は色っぽい下着とやらをつけていないのだが」
「……………は?」




