3話 夢のような猫がいる暮らし
「アイザックはハミルトン伯爵の……というか、お母上とお父上の間にできた子だよ」
いつもはヘラヘラした顔のミハエルが珍しく怒りをにじませて言うのを、クロエは若干の驚きでもって見た。
「ではお家騒動ということでしょうか」
クロエの言葉にミハエルは力強く頷いて見せた。
「弟のサミュエルが伯爵位を奪いたかったんだろう。サミュエルについてはアイザックも同格の家への縁談をいくつか用意していたが……。こういっちゃなんだがサミュエルは女癖が悪い」
「あんたがいいますか」
「まあ、そのもつれでいろんな噂がたっていたからね。自分がおもうような良家との縁談はことごとく断られていたと聞く」
「それで兄を追放して自分が伯爵になり、好きな女を手にしようと?」
虫唾が走る、とクロエはこぶしを握る。
女をなんだとおもっているのだ。
カネと家柄がついてくるわけじゃない。
ひとりの人間を娶るのだ。
妻たる人間を尊重できぬのなら結婚などすべきではない。
サミュエルという男に会ったことはないが、ルビーの地位と持参金が目当てなのだろう。
だがそのルビーもサミュエルの魅力とハミルトン伯爵家というものが欲しい。
お互い様だろうか。
となれば被害者はこの男と。
不貞を疑われた母君ということになる。
「彼はてっきり湖水地方に行っているのだと思っていました」
「実際行こうとしていたみたいだけどね。その前にこのざまさ」
湿度を帯びたミハエルの声にクロエは目をまたたかせた。
「どういうことです?」
「一族からも神殿からも『世間体が悪いから湖水地方への出立は夜に』と命じられ、供もなく王都を出たら賊に襲われたらしい」
「賊に……。犯人は?」
「わからん。なんとか逃げ切って、わたしのところに来たときには息も絶え絶えだ。事情を伝えたあとにすぐこの状態でな」
「どの程度の傷なのです?」
医者に診せなくてもいいのだろうか。
クロエはソファに近づき、そっと毛布を剥ぐ。むっと血の匂いが濃くなる。
彼は神官服姿だったが、おもわず眉根が寄った。
腕や胴など服が切り裂かれていて血が変色して染みついている。
とりあえず一番大きく切り裂かれている右腕の上腕に指を添わせる。
血が凝固してざらりとしていたが。
「……ん?」
つい声が漏れる。
傷が、ないのだ。
クロエは慎重に顔を近づけた。
服は確かに切り裂かれ、そのときに血が噴き出したからだろう。どす黒く変色している。
腕もそうだ。
強くこすらなくても、ボロボロと乾燥した血が剥離する。
だが。
肝心の傷がない。
(これは……どういうことだ?)
ミハエルの話では、つい昨晩にでも賊に襲われ、ここに逃げ込んできたような感じだったが、実は数か月前の話か? いやそれなら時期があわない。
婚約破棄は一か月前の話なのだ。
そこからすぐに、いやその前ぐらいに襲われておかなくてはつじつまが合わない。
「命に別状はないが、今後も賊に狙われる可能性は高い」
戸惑うクロエをよそにミハエルは話をつづけた。
「そこでアイザックをかくまってやりたいんだ」
「そう……ですか」
「クロエの家に」
「なんで私!」
つい素っ頓狂な声が出る。
「最近あれだろ? メイドが全員辞めたらしいじゃないか」
「う」
クロエは言葉に詰まる。が、すぐに反撃に転じた。
「全員ではありません。ひとりは残っています」
「誰」
「ヨハンナです」
「あのおばあちゃんか! クロエのこと好きだからなぁ」
「その言い方では、ほかのメイドが私のことを嫌いのようではないですか」
「そうなんだろ?」
「嫌い……というか、私はまっとうに仕事をしなさいと注意したのです」
クロエは朱紅隊隊長に就任した際に、実家を出た。
一軒家を借りてメイドと調理人を雇って生活をしている。
ただ。クロエは軍人だ。
業務内容や野営訓練などで月によってはほぼ家にいないこともある。
先日、その主人不在時にメイドが恋人を引っ張り込んでいたことが発覚したのだ。しかもそれが自分の隊の隊員で、クロエ自身が何度か家にも連れて来たことがある男だった。
恋愛は自由だと思う。
しかし仕事をおろそかにするのはダメだ。
野営で帰宅するたびに、掃除のあらや食事のいい加減さが目についた。洗濯だけがばっちりだったのは老女ヨハンナが真剣に取り組んでいてくれたからだ。
メイドに部屋住みをさせているので、主のいないときに引っ張り込むのは……まあ、自分にみつからなければギリセーフだとも思う。
近衛隊員といえば良家の子息だ。その隊員狙いでクロエのメイドになるのも……まあ、ありだとは考える。
だが、徐々に色恋がメインになり、クロエが在宅するとあからさまにメイドたちはうんざりしはじめた。真面目に仕事をしなくてはならないからだ。
クロエがいるというのにメイド同士無駄話をし、大きな声で笑い声をたてたりさえする。
『いまは業務中ではないのか。君たちの仕事に対する矜持とはなんだ』
クロエは苦言を呈することにしたのだが、これが大反感を買った。
『公女様にお仕えすると聞いていた。確かに公女様なんだろうけど、なんか違う』『行儀見習いができると思っていた』『させられるのは主もいないのに掃除ばっかり』『食事だってなんだかまずそうに食べるし』
矢継ぎ早に攻撃に遭い、クロエは言い返せない。
なぜなら、公女であるが公爵位を継いで剣を佩き、馬に乗り、犬を走らせ、鷹を飛ばせているのだから。
クロエとて最低限のマナーを若年者に教えることはできるが、貴婦人のように躾けることはできない……と思っている。
その代わり、剣の扱い方や、馬具装着の手順、鷹や犬のしつけ方なら喜んで教えるのだが、彼女たちはそれを望んでいない。
『思っていたのと違うというか、明らかに契約違反だと思うので辞めさせてもらいます』
15日前にそう言われ、メイドたちはいっせいにいなくなった。
ヨハンナだけは毎日来て洗濯をしてくれるのだが、『最近腰が痛くて』と言われてひやひやしている。実は『辞めさせていただきたい』と言い出すのではないか、と。
「メイドというか……家事見習いだろう? どうせ結婚までの腰かけなんだから。クロエが細かく言いすぎなんだよ」
「そんなことはありません! 女性とて望むのであれば一生涯をかけて仕事をするのです! ヨハンナがそうではありませんか! 生涯をかけて洗濯業を全うしております。そして私も仕事に誠心誠意向き合っております!」
「まあ……ヨハンナおばあちゃんとクロエはそうかもしれないけど。そうじゃない人が大半というか……多いってことだろう?」
「それは決めつけです!」
苦笑いの王太子の頬をはたいてやりたい。
そう教育したのは男どもではないか、と。
クロエは生まれたときから「近衛隊で働くこと」が運命づけられていた。
一生そうだと教えられていた。だから仕事に真剣に向き合っているし、シェードウィン公爵家の長子として結婚もし、子も産みたいと思う。やることがいろいろあって忙しい。人生が一度じゃ足りないぐらいだ。
だが「女として生まれたのだから子育てだけしなさい。それが仕事だ」と教えられる女子が多いのも事実だ。
だから就職を決めるように結婚相手を探すのに必死になる。
そのあと子育てだけをし始める。それが仕事だと教えられているからだ。
違うのだ、とクロエは言いたい。
結婚もいい、子育てもいい。だが仕事も楽しいのだ。
そして望めば、仕事を続けてもいいじゃないか。
結婚が両者の合意であれば、子育てだって両者の合意のはず。ならば子育てはふたりですべきだ。
それは仕事にも当てはまるるのではないか?
だいたいどうして女はみな、子育てが得意だと思うのだろう。男性はみな、武術が得意か? 違うではないか。それなのにどうして女性だけは「子育てが得意」だと思うのだ。
不得手なら得意なことをすればいい。
クロエはいつもこの持論を伝えるのだが。
男性たちだけではなく女性からもうっとうしがられている……。
「で。アイザックのことなんだけど」
「……なんでしょうか」
「このままだとまた命を狙われそうだからかくまってほしいんだよね、クロエのところに」
「だからなんで私のところに」
「接点がないから」
断言された。
まあ、言われてみればそうかもしれない。
クロエは大学に行ったこともなければ、神殿騎士でもない。宮廷の行事に出席していたアイザックを、友人のミハエルが紹介してくれたから覚えていたにすぎない。
そもそもアイザックは男で、クロエは女だ。仕事をする場がまた違う。
「いま、メイドたちはいないんだろう? 人気もなく最適だ」
「そうですが……。また雇うつもりではあります」
「なら再雇用するまででいい。シャリーも一緒に」
クロエは思わず息を呑んだ。ごくりと喉が鳴る。
そうだ……。猫が家にいる生活を送れるのだ!!!!!
「し、仕方ないですね……」
ごほんと咳ばらいをした。ミハエルは諸手を上げて喜ぶ。
「よかった! あ、アイザックは家事万能だから、元気になったら甘えるといいよ!」
「は? 家事万能? ハミルトン卿……ああ、いまはニコライアン卿ですか。彼は家事ができるのですか?」
いぶかし気に尋ねると、ニヤリと笑われた。
「男だからってのは、クロエに言われたくないだろうね」
そう言われればぐうの音も出ない。
「……で? ニコライアン卿はこのまま連れ帰ればよろしいので?」
「いや、目覚めたらそっちの家によこすよ。さすがにけが人の世話まで頼むことはできないしね」
「あの」
「ん?」
「猫は……なにか用意するものはありますか?」
犬や馬、鷹なら慣れているが、猫に必要なものはなんだろうか。
「ああ、そういうのはアイザックに任せればいいから」
ミハエルが快活に笑う。
ソファで横たわるアイザックの上にはいつの間にかシャリーが座っていて、目が合うと「うなぅ」と鳴かれた。
そのあまりの可愛さに悶絶しそうになり、クロエは舌打ちをして慌ただしく執務室を出て行った。