幕間2
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クロエとアイザックの婚約式当日。
シェードウィン公爵邸に向かう一台の馬車があった。
その車内にいるのは、アイザックの元婚約者であるルビー・オースティン伯爵令嬢と、アイザックの弟であるサミュエル・ハミルトン伯爵。
「やっぱりあのネイルサロン、いいわよねぇ。そう思わない、ノラ?」
「さようでございますね」
自分の爪をみながら、ルビーが隣に座る侍女のノラに話しかける。ノラはそつなく答えながら、自分が仕える若い主を見た。
年は二十歳。
いまが盛りのバラのような美しさをルビーは持っていた。
金色の巻き髪に、ミルクのような肌。
青い瞳はまるで宝石をはめこんだようだ。
社交界では「オースティン伯爵家のバラ」とまで呼ばれ、その美しさは王都で知らぬ者はいない。
そのことを彼女自身も自覚しているのだろう。
髪や肌、爪や衣服へのこだわりがすごい。
彼女がうっとりと見つめているマニキュア。
それは昨日、サロンの職員ふたりがかりで磨き上げ、爪先だけ染められたものだ。
王都民であるノラから見れば、ルビーの爪は、まさに上流階級のそれだ。
家事や水仕事など一度もしたことがなく、すこしでも肌が乾燥しようものならまるで病気にでもなったように騒ぎ立ててクリームやオイルを塗りたくる。
「あの……お嬢様」
「なあに?」
ルビーはいろんな角度から爪を確認しながら、ノラに生返事をする。
ノラはごくりとつばを飲み込み、意を決した。
「その……結局。招待状はない……ので、ございますよね?」
おそるおそる尋ねる。
メイドや執事たちでもルビーの扱いは難しいと評判だ。気分にムラがあるし、なによりオースティン伯爵が溺愛しているので、ルビーが「あのメイドが!」「あの執事が!」と騒ぎ立てれば、事情も聞かずに厳しいお仕置きをされる場合がある。
ただ、ノラだけは別だ。
なぜだか、ルビーと同い年の自分は一度もきついことを言われたり、叱責されたことはない。
外出にはノラを連れていきたがるし、お茶会に同行させられるのもノラだ。
だからメイドや執事たちも「厄介なこと」をルビーに伝えるときは、ノラから言わせようとする。
今回も、「婚約者と共に、元婚約者の婚約式に行く」というとんでもない外出に同行させられたのはそんな理由もある。
おまけに、当然と言えば当然だが、招待状がないのだ。
それなのに「祝いに行く」と言ってきかない。
さすがに執事長がオースティン伯爵に相談し、実弟であるサミュエルから「招待状」をねだってみたのだが、当日になっても返事は来ない。
返事が来ないのが返事なのだと、使用人たちは全員わかっているのだが。
『きっと招待状を出すのを忘れたのだわ』と、ルビーは意に介していない。
オースティン伯爵も『娘がこういっているのだ。なにか確たるものがあるのだろう』と、外出を許可してしまった。
だが、招待状がないのだ。
相手は公爵家。
その婚約式だ。
伯爵令嬢といえど、門前払いを受けてもおかしくない。
そんな事態に遭遇したら「あなたのせいよ!」と癇癪をおこして余計なとばっちりを使用人は受けるだろう。
誰もが同行を嫌がり、「ノラなら大丈夫だろう」と半ば押し付けられるようにこの役目を負わされた。
「ないわ」
あっさりとルビーが言うから、ノラはめまいがしてきた。
招待状がないと婚約式も結婚式も行かない。一般市民のノラでさえそんな良識はある。
「心配するな、入れる入れる」
向かいの席に座っているサミュエルがのんきに笑う。
ノラは頬をひきつらせながら、愛想笑いを浮かべた。
ルビーの元婚約者であるアイザックとはふたつ違いの弟であり、ハミルトン伯爵位を半年ほど前に継承した若き実業家でもある。
つい最近、ルビーとは婚約をしたのだが、ふたりの関係はアイザックと婚約したときから始まっていたことを、ノラは知っている。
というのも、アイザックとの顔合わせ後、「だんぜん弟のサミュエルのほうが男前じゃない!」と馬車内でノラを相手に騒いだからだ。
『絶対、サミュエルのほうがいい!』
オースティン伯爵に言い続け、とんでもない悪だくみの末にアイザックを蹴落として、ルビーはサミュエルとの婚約までこぎつけた。
しかもノラはこのふたりが、婚約前から、いわゆる男女の仲であることを知っていた。
というのも、「ノラと外出してくる」と言ってハミルトン伯爵家に行き、ハラハラするノラを見張りに立たせてそういうことを繰り返してきたからだ。
口が堅い。
ルビーはノラのそんなところを気に入っているのかもしれないが、ノラからすれば、心臓に悪い。もしこんなことが伯爵の耳に入れば。自分の管理不行き届きを責められる。
最近では常に胃が痛い。
何度も侍女を辞めようと思ったのだが、家にはノラの稼ぎをあてにしている両親がいる。父は腕のいい大工だったが、数年前に屋根から落ちて体の自由がきかない。母は近所の定食屋で働いていたが、社交的な性格でないせいか、雇い主からは「いやならやめとくれ」と何度も言われているという。そんな両親は、ノラの仕送りを頼りにしている。
(……お嬢様がご結婚なさったら、オースティン伯爵家を出る。それまでの辛抱だわ)
オースティン伯爵夫人は、娘と違って穏やかで優しい方だ。
それまでの我慢だと自分に言い聞かせる。
「でも兄上もやるもんだなぁ。勉強ばっかりの堅物だと思ったのに、まさか王家の女をしとめるとはなぁ」
キリキリと痛む胃を、お仕着せの上から押さえてうつむいていたら、サミュエルがそんなことを言う。語尾にはルビーの鼻で笑う声が混じった。
「王家の女って。あれでしょ? 軍隊に入ったひとでしょ? すんごい変わり者だって話じゃない。なんだっけ。スネークアイ? こっわ」
「ルビーは見たことあるのか? その軍隊に入った王家の女」
「ないない。社交界にほぼ出てこないもん」
「へー」
「あ。でもあれか。最近はあのほら、王太子にふられた身の程しらずの子爵令嬢。あの子の関係でお茶会とかには顔を見せてるらしいわよ。でもねぇ」
ルビーは笑う。
「軍隊でしょ? 軍人でしょう? 肌なんて日に焼けて、筋肉だってすごいんじゃない? 髪だってきっとぼさぼさよ。だから王族なのに結婚相手もいなくてさ、それでアイザックに走ったんじゃない?」
「兄上、なんか顔にすごい傷が残っているんだって?」
「らしいわよ。ってかさ」
ルビーは途端に不機嫌そうに眉根を寄せて、向かいのサミュエルをにらんだ。
「あんたがきっちり始末しないから! 生きてるじゃないの!」
「いやあ……。まさか兄上があんなに強いとはなぁ……。自分も半死半生だったみたいだけど、男5人を全員殺すなんて」
素直に驚いているサミュエルに、ルビーは舌打ちをする。
湖水地方に転勤が決まったアイザック。
王都から出た直後を雇った殺し屋に襲わせたのだが、あろうことかその殺し屋全員が殺されたのだ。
任務達成の報告があまりにも遅いのでサミュエルがこっそりのぞきに行ったら、殺し屋たちの死体はあるものの、肝心のアイザックがいない。
瀕死の殺し屋の頬を叩いて『兄上はどうなった』と尋ねると、『化け物だ』とだけ答えて息絶えた。
放置されたアイザックのものらしい上着には、べったりと血がついていた。
この出血量ならいずれどこかで死ぬだろう。
そんな風に考えていたのに。
先日、『賊に襲われた。危ないところを王太子に助けられ、その後介抱してくれた女公爵との婚約が決まる』という情報過多なニュースにサミュエルは卒倒しそうになった。
『アイザックを殺そうとしたことが、王太子にばれたんじゃないの⁉』
ルビーに迫られて、サミュエルはなんとかアイザックに会おうとするのだが、すべて断られる。
せめて外出先で話しかけようと思うのに、兄は市民が住むような平屋から全く出てこない。しかもその質素な平屋には、不釣り合いなほどに厳重な警備が敷かれている。とても忍び込めそうにない。
婚約式で探ろうと思っていたのに、その招待状が届かない。
恥を忍んで「兄の門出を祝いたい」と連絡しても、返事はない。
アイザックが頼っているニコライアン家に「一緒に連れて行ってほしい」と言うと、あからさまに嫌な顔をされて、断られた。
『ま。兄のことだ。入れてくれる、入れてくれる』
イライラしているルビーには笑ってそう答えた。
自分にはとことん甘い兄だった。
ほとんど出席せずに退学になった大学にも頭を下げて「なんとかなりませんか」とお願いに行ってくれたり、ポーカーで借金を作った時も、黙って支払いをしてくれた。
任せてくれた事業が傾きかけたら、管財人をつけてギリギリのところで持ち直した。
婚約式ぐらい、ぜんぜんいける。
そんな考えのまま行動している。
「もともと堅物でさぁ、なんか優しいんだけど、何考えているのかわかんないところがあったじゃない? アイザックって」
ルビーはノラに手を出す。
ノラはかばんからコンパクトを取り出して手渡した。
「まあ顔は……サミュエルほどじゃないけど、そこそこ? まあ、かっこいいと言えばかっこいいけど。それなのに顔にでっかい傷が残って……。で、あの性格でしょ? 結婚なんてできないって思ったところに、怪力女がすり寄ってきたんだから、渡りに船じゃない?」
ルビーは鏡をみながら、ぱたぱたとおしろいを叩く。「怪力女って」とサミュエルが爆笑する。
「かりにも王族だぜ?」
「王族ってさっきから言うけど……。王太子殿下のいとこでしょ? 女だし。王位継承権もないしさ。それより!」
ルビーはサミュエルに前のめりになる。
「王太子殿下とのつながり! これを今日はメインにするのよ!」
「え? 兄上がなんかチクってないか確認するんじゃないのか?」
「もうこんなに日が経ってもわたしたちが捕まってないってことは、チクってないってことでしょ、バカね! だったら王太子殿下とのコネクションを作っておいて、あなたの事業の後押しをしてもらわないと!」
「あー、なるほどね」
サミュエルがうんうんとうなずくのを見て、ルビーはまた腹が立った。
この男、顔はいいが、頭がダメだ。
せっかくハミルトン家から伯爵位も事業も受け継いだというのに、その事業がいずれも瀕死の状態。
経営悪化の原因はこの男だ。
とことん、先を見る目がない。
アイザックがつけてくれていた管財人がいなければ、今頃伯爵位を売ってどうにかしなければならないほどだった。
(王太子とのコネ。これで事業に箔が付くはず)
そうすれば離れて行った共同経営者も戻って来るだろう。
(嫁いだ先が貧乏なんて絶対いや!)
イライラしながらルビーはコンパクトをぱたんと畳んで、ノラに突き返した。
「まあ、王太子がだめでもさ、兄上に借りればいいじゃん、カネ」
「はあ⁉ だーかーら! 公爵って言っても、貧乏じゃない、あそこは!」
シェードウィン公爵といえば名家だが、当主は女。
しかも女だてらに軍隊に所属し、働いている。
信じられない。
「そういえば、平屋のちっさい家に住んでたっけ。カネないのかな」
「でしょう⁉ わたしも使いに行かせた執事が驚いてたもの。そんな家に……財産なんて」
ふん、と鼻で笑い、ルビーは窓の外を見て驚いた声を上げた。
「あら? 道が違うんじゃない? ここ、郊外に出る道でしょう?」
クロエ・シェードウィンの自宅は王都の中心部、駐屯地近くにあったはずだ。
「いえ、それはクロエ様の寄宿先でして……。婚約式はシェードウィン公爵邸で行われるそうです」
ノラが言う。「ふぅん」とルビーとサミュエルはたいして興味もなさそうに返事をし、それから、たわいのない話を始めた。
ノラは内心でため息をつく。
ノラは生粋の王都民だ。
だから知っている。
シェードウィン公爵邸を。
この邸宅がいかに素晴らしいかを。
(……本当に、こんなので大丈夫なのかしら……)
このふたり、郊外にある公爵邸の広さと豪華ささえ知らないらしい。
ノラは来るはずの波乱を予想し、また胃を痛めるのだった。




