26話 就寝前の約束
その一時間後に、食事会はお開きとなった。
副隊長とミハエルを送り出したあと、アイザックは衛兵に夜食を渡し、その間にクロエは食器やダイニングの片づけをした。
客が帰ったからシャリーが出てくるかと思ったが、今日はもう一匹だけで過ごすつもりなのか、姿を現さなかった。
戻ってきたアイザックと一緒に片づけを終えると、急かされて入浴を済ませる。「お先に」と声をかけて寝室に入ると、いつもの就寝時間より二時間遅い。ああ、それでアイザックに急かされたのかとようやく気づいた。
(さて、眠るか)
ワインをいつもより多めに吞んだせいか、とろんとした眠気がもうそこまで来ている。
カーテンを閉め、ランプの灯を消そうとしたら、ドアノックが鳴った。
「なんだ」
扉を開いた。
「あの……夜分にすみません」
そこに立っていたのはアイザックだ。
彼も風呂を済ませたらしい。寝間着姿で、髪はまだ濡れていた。
「シャリーがいないとか?」
ついそんなことを聞いてしまった。
「シャリー? いえ、あいつはぼくの部屋にいます」
部屋にいるのか!!!!! うらやましすぎるだろう! 一緒に寝たりするんだろうか⁉
クロエは犬をずっと飼ってきたが、ベッドの上にだけは絶対上げなかった。それはそれ、と一線を引いていたのだ。
そのかわり、ふたりで床に寝転がったり、テントのなかではごろ寝して過ごしていたのだが。
「そ、そうか……。で、どうかしたのか?」
平静を装いながら尋ねると、アイザックは少しだけ困ったように小首をかしげてクロエを見降ろす。
(ん? そうか。いままで向かい合ったことなどなかったが、私より身長が高いのか)
クロエの身長はそこそこ高い。母も高身長の部類だ。
だから軍でも身長が同じの男はざらにいた。
アイザックと向かい合うときと言えば、ほとんど食事の席だ。互いに座っていたので、あまり身長差など気にしたことはなかった。
「その……。はっきりと申し上げますが」
「うむ」
「ぼくはこの婚約や結婚を前向きにとらえています」
「私もだ」
「………………」
「なんだ」
「いや、前向きにとらえていることに間違いはないのでしょうが、お互い同じ方向を向いてるような気がしていなくて……」
「ほう、いかなる点において」
「その……結婚して、ぼくたちはその、子をなすようなことをするわけですよね?」
「うむ、もちろんだ。お互いの家のためにも子をなさねばならん。子ができぬなら仕方ないが、精いっぱい努力するつもりだ」
「別にその、子をなすだけに結婚をするわけではなくて、ですね」
「うむ?」
「両者の合意というか。お互い、好意があっての行為であってほしいわけです」
「こういがあってのこうい」
呟いてから、ようやくクロエは納得がいった。
「うむ。私はアイクが好きだ」
「…………………」
「疑うのか」
「いや、嫌われてはいない気が……しますが。それはあの、例えば、副隊長とぼくならどっちが好きですか?」
「…………王太子とアイクなら、断然、アイクだと答えるのだが」
クロエは腕を組み「はて」と首を傾げた。
どっちが好きか。
両方好きだとしか答えようがない。
「いま、どっちも好きだと思ったでしょう?」
「おお、そうだ。比べようがない」
「いや、その辺がちょっと違うんです」
「なにがだ。では聞くが、アイクはどうなのだ。王太子殿下と私ならどっちが好きなのだ」
「そりゃクロエ様ですよ」
なんだかうなだれて言うので、おおこれは愚問だったと思いなおす。
「では……うむ、誰がいいかな」
「いや、そうではなくてですね。ぼくはちゃんと好きなんです、クロエ様が」
「私もちゃんと好きだぞ、アイクを」
「…………………その、ですね」
「うむ」
「ルビー嬢と婚約していた時は、こんなことを思うことはなかったんです」
「うむ?」
「あの時はぼくもハミルトン伯爵家を背負っていましたので、ルビー嬢との婚姻というのはどちらかというと家を存続させるために必要だった、というか……。まあ、それはあちらも同じだとは思います」
「貴族などそのようなものだろう。副隊長もそうだと言っていた」
「もちろんルビー嬢はお美しい令嬢だし、家柄的にも問題ありません。もっと心を通わせることができれば違ったのでしょうが、当時のぼくは弟のことが一番心配で……。見合いは次々と断られるし、借金は作るし……。なにか事業を任せようと思っても心配でつい口が出てしまうし……。いったい弟はこの後どうなるのか、ぼくがしっかりしなければ、と」
その弟に実家を総どりされてしまうのだから、人が良いにもほどがあるとクロエはあきれたが、当の本人は気づいていないのか、「心の交流が云々」などと真面目に語っている。
「なので、王太子にこのようなお話をいただいたときに、ぼくは心に決めたんです」
ちゃんと聞いていたのに、どこをどう経由してどんな結末に至ろうとしているのかクロエにはさっぱりわからない。
「結婚相手とは、お互い心を通わせる関係になろう、と」
「なっているが?」
「いや、たぶんなってないです」
「なぜ断言する」
「わかってないのはクロエ様だけかと」
いや、お前が何を言うかとクロエは言いかけたのだが。
不意にアイザックは両腕を緩く広げた。
「なので」
「うむ?」
「今後、毎晩眠る前に互いにハグをしましょう」
「ハグ?」
なぜそんなものが必要なのかと尋ねたかったが、クロエはもう眠たかった。
(ハグぐらい、別に時間をとるものでもあるまい)
クロエは目の前のアイザックに、だすんっ、とぶつかると、彼の背中に両腕を回し、バシバシっと叩いた。
「これでいいか?」
「違います! これは試合に勝った時にやるやつです! なんか得点決めたときに!」
またもや断言された。
「ならどうすればいいのだ」
うるさいやつだ、と見上げると、不意に視界が真っ白になる。
アイザックの寝間着の色だと気づいたときには、彼の両手が背中に回され、ゆるくクロエを囲った。
(あたたかい)
一番に思ったのはそれだ。
今日はなんだか肌寒いなと思ったから余計だろうか。
寝間着越しに感じる彼の体温がとても心地よい。
彼の手のひらはクロエの背中にあてられているが、それも拘束されたとかしめつけているというわけでもない。ふわりとしていながら、ちゃんと彼の存在がそこに感じられる。
「いやですか?」
「まったく」
ただ、彼がクロエの首元に顔をうずめるようにするから、しゃべるたびにくすぐったい。
「こういうの、毎晩してもいいですか?」
「私はかまわん」
だが、それがどうして必要なのか、クロエにはいまいちよくわからなかったが、それを尋ねたら話が長くなる気がしたので、クロエは黙っていることにした。




