19話 ふたりの門出
もう日付が変わったころ。
クロエはアイザックを連れて自宅に戻った。
「おかえりなさいませ」
自宅警備兵が敬礼をするので、クロエも答礼をする。
「いつもありがとう」
「とんでもありません」
玄関に向かい、鍵を開けようと扉の前で足を止めると、かさりと落ち葉を踏む音がした。
「にゃおう」
登場したのはシャリーだ。
「きれいに洗えたか?」
アイザックが尋ねると、シャリーは身軽に彼の肩に飛び乗った。頬をすりつけるようにして「なおう」と鳴く。
「だまされないからな。明るいところで絶対に確認する」
アイザックの言葉に、クロエは「こいつ、人の心がないのか!」「とんでもない男と結婚することになったものだ」と驚いたものの、「まあ、むこうもたいがいな女だと思っているからおあいこか」と心を落ち着けた。
いやしかし。
猫にあんなことをされたら、とりあえずなにもかも許してしまうものではないのか。
クロエが玄関扉を開けると、アイザックが会釈をして先に入る。
肩に乗ったままのシャリーが、通り過ぎざまに「うな」とあいさつをしたので、クロエは感激した。なんて賢い猫なんだろう。
「いますぐ灯りをつけてまいります」
「わかった」
クロエが外套を脱ぎ、制帽を壁のフックにかけているころには廊下や食堂に明かりが入った。
「とりあえず食堂へどうぞ」
顔だけひょっこり出してアイザックが言う。
「うむ」
言われた通りに食堂に行くと、テーブルにはグラスがふたつ。
ひとつには水が満たされ、もうひとつは空。その代わり白ワインの瓶が添えられていた。
「お風呂の湯を沸かすための焼き石を準備しています。いま、軽くなにか食べるものを」
「なーおう」
「ないよ、お前には」
「ニギャ! ウギャ!」
椅子に座ると、キッチンからそんなやりとりが聞こえてくる。
「シャリーは今日の立役者だ。なにか食べられるものを」
クロエは制服の襟元を緩めながら言うと、キッチンからため息が聞こえてきた。
しばらくするとアイザックがトレーにチーズをのせて戻って来る。
「では、この前やり損ねた、この猫用クッキーをどうぞ」
クロエの前にチーズの皿を置き、猫用クッキーを差し出された。「うな、うな!」と喜ぶシャリーがアイザックの肩から飛び降り、クロエの足元にすりよる。
「ね、ねねねねねねねねねこが!!!!!!!!」
喜びの舞いを舞っている!!! なんと可愛いのか! 顔、ちっさ!!!! 胴体、ぬるぬるする!
「シャリー、じっとして! え? ぼくがやりましょうか?」
「ばかもの! わたしがやる!」
アイザックから猫クッキーを受け取った。
シャリーが後ろ足で立ち上がり、クロエのひざに前足をかけるので、その肉球のやわからさに卒倒しそうになる。
気を引き締め、そういえば前回は丸ごと持っていかれたことを思い出し、二つにわって、半分を差し出した。
ぱく、とシャリーは口にくわえ、しゃくしゃくと咀嚼した。
「うにゃ」
食べたとばかりに鳴くので、もう半分を与えると、今度はそれをくわえて室内の隅に行ってしまう。きっとゆっくり味わうのだろう。
「チーズ以外のものも用意しましょうか?」
「いや、かまわん。石が焼けるまで、まだ時間があるのだろう?」
「ええ、まあ」
「では貴卿もグラスを持ってこい」
キッチンからアイザックはグラス持参で戻ってきた。
瓶を傾けてワインを満たし、自分のグラスにも注いだ。
「お疲れ」
グラスを掲げると、アイザックも隣の椅子に座ってグラスを上げた。
「お疲れさまでした」
「なんだか大変な一日だったな」
「そうですね」
ワインを傾け、アイザックが苦笑いする。クロエはそれを一瞥し、自分もワインを口に運んだ。
「明日、正式にアイクのことを発表しよう。神殿にも行き、湖水地方に行くまでに暴漢に襲われた旨を伝える」
「……ですねぇ」
ほう、とアイザックが吐息を漏らす。
ミハエルからは『命からがら逃げたところをわたしが見つけて保護。そのあと、クロエに看病を頼んだらふたりに恋が芽生えた』ということにしろ、と言われている。
時が来るまでかくまう必要があったため、偽名と変装をさせてクロエの屋敷にかくまったのだ、と。
「本当にその……ぼくと結婚してよかったのですか?」
「かまわん」
クロエは言い、グラスを飲み干す。手酌でもう一度ワインを注ぎながら、アイザックを見た。
「こちらは願ったりかなったりだ。そっちは違うだろうがな」
にやりと笑って見せたのに、アイザックは激しく首を横に振る。
「こちらこそ思ってもいないことで」
「そうなのか? まあ、こんな嫁が来るとは思わなかっただろうしな」
「ぼくとしては……本当に光栄です」
まあ、お世辞だろうとクロエはワインを飲む。
「婚約発表会をせねばならんな。アイクもご実家に連絡がいるだろうし、わたしも職場と親戚に報告をせねばならん。会場はどうすればいいのだ」
「自宅で行うことが普通ですが……」
「ここは手狭だ。実家を使おう」
「ご実家が使えるのですか? 確かお母様がご健在でしたね」
「母は修道院でミサライブざんまいだ。いまは空き家だが、管理人をおいて手入れしてもらっている」
「ああ、家は無人にするといたみますからね」
「臨時雇いになるが、元の使用人達も呼びかければ何人か協力してくれるだろう。打ち合わせをしよう」
「それはぼくがやります。神殿に連絡したところで、すぐに神官として復帰することは難しいでしょうから。日中、手が空いています」
「たすかる。婚約式かぁ……。日取りを決めて、リストを作成して、案内状を送付して……。面倒だな」
「ぼくがカードや段取りをしますよ?」
アイザックに言われ、クロエは目をまたたかせた。
それは助かるが、まるっと投げるのはいかがなものか。
婚約も結婚もふたりが当事者だ。
「いや、自分のことは自分でする。困ったらお願いする形でもよいか?」
「もちろん。ああ、ではカードや封筒なんかはそれらしいものを用意しておきます」
「……普通の便箋と封筒じゃだめなのか」
「軍のマークがついたもので婚約式の案内を送るのはちょっと……」
徴兵でもあるまいし、と苦笑いされる。確かにな、とクロエは頷いた。それぞれ適応した様式というものがある。
「では、お願いしよう」
「わかりました。なにか希望はありますか? ピンクがいいとか、青がいいとか」
「縁起の良いもののを」
「そういうの、気にするんですね」
「軍にいる限りはそうだ」
真面目に頷いたら、アイザックは嬉しそうに笑った。
「なんだ?」
「いえ、あなたの新しい一面を知れてうれしいな、と」
「変な奴だ」
心底そう言ったのに、アイザックは笑みを湛えたまま、グラスを差し出してきた。
お代わりが欲しいのだろうかと思ったのだが。
彼は、クロエのガラスと合わせ、ちん、と澄んだ音を立てた。
「あらためて、ふたりの門出に」
「うむ、よろしく頼む」
しっかり頭を下げたのに。
今度は愉快そうにアイザックが声をたてて笑うから不思議だ。彼はフォークが落ちてもおかしい年頃なのだろうか。
「うにゃーう」
シャリーが手で顔を洗いながらなにか言う。アイザックは立ち上がった。
「ああ、そろそろ石が焼けたかな。お風呂を準備しましょう」
こうして。
婚約が決まったふたりの夜は、更けていった。




