10話 アイザックのいない神殿
ここから数度交渉を繰り返し、『うーん、じゃあ議会で提案してもらうように言うけどさぁ。わかんないよ?』と言葉を濁されるかと思ったのに。
「クロエには頼み事ばっかりお願いしているし。これぐらいしておかないとね」
「王太子に人としての心があるのは、王妃陛下の教育のたまものですね」
「なんで素直にわたしをほめないのかな」
「あんまりほめるところがないんです」
ひどいな、とミハエルは笑った。
「だけどさぁ、君がこうやってなんだか元気になったのはアイザックのたまものだな」
「は? 私はいつも元気ですが」
じろりとにらみつけると、ミハエルは苦笑いした。
「自分で気づかなかっただけだろ? 約1年ぐらいひどいもんだったよ。そこにメイドの造反があってさらに毛艶や肌も悪くなってさ。酒で肝臓壊すか、その前に栄養失調で死ぬかどっちかかと思ってたよ」
「そんなでしたか?」
無意識に頬を触る。が、手袋をしていたのを忘れた。
「アイザックの飯、うまいだろ?」
「ええ、とても」
「今度食いに行っていい?」
「そうしたらアイザック卿をかくまっている意味がございませんが」
「ま、そうか」
あははは、と能天気にまた笑う。
「しかし……いつまで彼をこのような状態に?」
もちろん猫と一緒ならクロエとしてはいつまでもいてもらってもいいのだが。
それがアイザックのためになるとは思えない。
「というか神殿側はなにも言ってこないのですか? 彼が湖水地方の神殿に到着していないことはもうわかるはず」
「言ってこないねぇ。なんなら社交界でも宮廷内でもアイザックが行方不明になったと誰も言いださない」
「ということは、神殿も暗殺に加担しているのですか?」
「いや、身内だな。いま、アイザックの代わりにハミルトン伯爵家を代表して弟のサミュエルが神殿に仕官している。なんとでもなるんだろう」
「兄を湖水地方に追い出して、自分がその後釜に座ったのですか。図々しい男だ。いずれ天罰がくだるのでは?」
言いながら、ふと気づく。
幽騎士が出現しているのは王都の西。
そこは。
ちょうど金虎神殿が守りを固めているはずのところだ。
「サミュエルはねー……。だいぶん、社交界で落ちて行ってるから、天罰より自滅のほうが早いかもな」
「自滅?」
クロエは腕を組むミハエルを見た。
「評判最悪。そもそも女癖が悪かったからなぁ。でも継いだ当初こそ、ほら、社交的じゃない? アイザックより」
「そうなんですか? 私はサミュエル某もアイザック卿もあまり存じ上げなかったので」
「あー……君、そうだったよね」
「社交界でなにかしたのですか、サミュエル某は」
「ま、大口たたいてはいるけど。それに見合ったことはなにひとつできてないことが露呈しててね」
「ハミルトン伯爵家の事業ですか?」
当世、爵位もちの家でも事業のひとつやふたつは行っている。
ハミルトン伯爵もなにかしていたのだろうか。
「貿易事業で詐欺にひっかかった」
「あー……。貴族にありがち」
「だろ? で、アイザックの代わりに金虎神殿に神官として奉仕しているんだけどさあ」
「はい」
「それもままならず」
「やっぱり。というかそのサミュエル某は、それまでなにをしていたんですか」
「それまでって?」
「爵位を継ぐまでです」
「社交界や国内や、女の家をウロウロ」
「ウロウロって……」
「まあ、貴族の次男三男なんて、意識してしっかり育てないとさ。ごくつぶしになるっていう見本みたいな男だよね」
「ですがルビー嬢とはまだ婚約を?」
「顔がいいからなぁ、サミュエル」
「さようで」
あきれてものが言えないが、それはまあ当事者間のことだ。クロエが口を出すことではない。
「では私はこれで隊に戻り、王太子から押し付けられた……失礼、承った件について持ち帰り、隊員と共有をしたいと思います」
「いま、堂々と押し付けられたって言ったよね」
「失礼いたします!」
「敬礼したら不敬がリセットされるシステムじゃないからね⁉」