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若き王の失錯

作者:




 人は生まれによって人生を大きく左右されるものだ。王族として生まれた俺に多くは羨望の眼差しを向けるだろう。高貴な身分に生まれたことを羨むのは当然のことだ。誰だって貧しいよりは豊かな方を望むだろう。だが、俺の生まれには両親の懊悩と悲願と様々な感情が絡みついていた。俺の誕生は単純に歓迎されていなかったのだ。

 王族として生まれたものの俺の幼い頃の人生は明るいものではなかった。誰の血を引いているか、それが貴族社会では重要視をされていた。父は王と愛人の子で公の場からは排除されていた。それを父は納得しながら恨んでもいた。時折零す恨み言を子守歌代わりに聞いていた俺が王家や貴族に対して複雑な感情を持つようになるのは時間の問題だった。離宮でひっそりと生活するも交流を絶って生活するわけにはいかず最小限の付き合いをしてきたが王宮に住む王族や有力貴族達から向けられる蔑みの眼に嫌悪の情を抱くようになっていった。心とは裏腹に笑顔を作ることだけが上達をしていった。

 父と母は俺が正当な王になるのだと小さい頃からそればかりを言っていた。実際は叔父のヴァーリックには複数の子供がいるのだから王位などこちらには巡ってこないのだと俺は夢想する両親に呆れたものだ。父はその生の幕を閉じる時まで王宮で正当に扱われることを願っていた。

 亡き父の怨念だというのか運命の歯車は狂いだした。

 王であるヴァーリックの崩御が端緒であった。自然死と発表されているがそれが事実ではないことは王都から離れた俺の耳にも簡単に届いたものだ。曰く、王子による反逆であるとか、痴情による縺れだとか、様々な説が流布された。王位継承権上位の王子達による争いが王都で激化をしていた。何しろ、その王子達から自分の陣営に迎えたいという手紙が何通も届いていた。それに応えなかったのはこれまで非在にされてきた恨みもあれば、大局に影響はないだろうという楽観によるものだった。話しが複雑化したのはその先の話だった。有力な王子が暗殺されて、王位継承は混迷を極めた。そして、今迄俺を除け者にしてきた貴族達が俺を担ぎ上げようとしていた。傀儡として御しやすいと貴族達に思われていたことは酷い屈辱だった。日陰に生きてきた俺を周囲は好機なのだと祭り上げて、あれよあれよという間に王位継承戦争の中心人物にさせられていた。その時に王として有力視されていたのは前王の弟ミロスであった。悪辣な王家の血縁だというのに人徳者として有名で、領土拡大の戦争の際にも否定的な立ち位置にいた人物だった。そういった高潔な人物を一部の貴族連中が疎んでいたのは俺にとって歓迎すべきことだった。

 機運がこちらに傾いているのだと思い始めた頃には有力な貴族から結婚相手にと娘を紹介されることが多くなっていた。自分を軽んじてきた貴族社会から伴侶を選ぶだなんて望まぬ行為で俺には早急に婚約者となり得る女性を探さなければならなかった。貴族に口を挟ませぬことを考えれば身分は重要で王室と同格の存在が好ましく、親類縁者を思い描いたが彼女らは揃いも揃って俺を蔑んだ目で見詰めていた。そんな相手と幾久しく過ごすなんて恐ろしい苦行のように思えた。そうして、嘗てこの国が滅ぼした国の王族達というものが俺の脳に過ぎった。十数年前、領土拡大の戦いが始まる前に融和を図る為に両国で催されたパーティーで見かけた黒髪の幼児のことが印象に残っていた。周囲の無条件の愛に包まれてこの世に悪は満ちていないのだと無邪気に笑う様子は羨ましくもあり妬ましくもあった。あの子は今どうしているのかと今更なことを思い出した。併呑された国の王家は処刑された場合もあれば、生き残り教会などで幽閉されている場合もあり、行方不明になっている場合もあった。詳しいことは幼かった頃の自分には伝わってくることはなかった。ただ、ヴィンケルは勝ったのだとそれだけ聞かされていた。事実を知りたくなくて曖昧模糊にしていたのだと今の自分ならば分かった。俺は、彼女の行方を極秘裏に捜索させた。自分のようにこの国の貴族から歓迎されていない血縁というのはシンパシーを持つには十分で、一緒に何かを為すには相応しい相手のように思えた。奇しくも自分に付き随った反ミロスの貴族には嘗ての敵国の王族を保護しようとしているミロスを歓迎していない者もいて、俺が亡国の皇女を選ぶことこそが意趣返しにもなるのだと愉快な気持ちになった。

 戦況は傾き、終局を迎える為に叔父を処刑した。区切りを付ける為の行為に苦い気持ちを抱いていた頃に信を置く貴族から手紙が寄越された。それは自分が待ち望んでいた吉報だった。教会で密やかに育てられていた皇女を保護したというものだった。純度の高い忠誠を捧げられているわけではないが、事取引に関しては律儀な男の報告は自分の眼で確かめるには十分で俺は掃討を名目に期待に胸を膨らませながら向かった。

「お前が探していた相手を見付けた」

 淡々と報告をするグリモアルトが連れてきた少女を見詰めたかったが長躯のグリモアルトの影に隠れて小柄な彼女を見ることはできなかった。

「君が連絡を寄越してきたから、俺自ら来たんだ」

「手紙にも書いたが――」

「分かっているよ。人擦れしてないんだろ」

 早く彼女を見せろと言外に訴えればグリモアルトは注意を促すように声を漏らすので苛立って声を遮ってしまう。

「オルローク……」

 呆れたような眼差しを向けるグリモアルトを俺の焦慮など分からないだろうと軽く睨んで俺は彼の背で頭を下げている少女を見遣る。

 深々と頭を下げていて顔を見ることはできなかった。

「君がミラかい」

 怖がらせないように殊更優しい声で話しかければ、少女の小さな躯殻が震えた。

「驚いた。本当に髪が黒いんだな」

 思わず手に取って確認をしてしまう。

 何しろ、偽物をこれまで幾人も見てきていて違いというものが今回の事で明確に分かったのだ。

 烏の濡羽色の髪は少し濡れていた。

「オルローク」

「ああ、分かってるよ」

 窘めるような声にハッと我に返ると俺は髪から手を離した。

 俺の行動に口を挟むなんてグリモアルトらしからぬ行動だ。

「顔を上げてくれるかい? 大丈夫、安心して。君を傷付けるつもりはないよ」

 躊躇したかのように動きを止めた少女だったがそれでも数拍して意を決したのか怖ず怖ずと頭を上げた。

 蒼い煌めく眼が俺の身体を貫いた。

 思い出の中の面影を持ち美しさに磨きが掛かったうら若い乙女だった。

「驚いた、予想よりも可愛いだなんて」

 思い出は美化されるなんて聞いたことがあったが想像を上回る愛らしさだった。鼻はそこまで高くないが引き締まった口元と大きな目との均整が取れていた。

 この子と将来を共にするのだと思うと途端嬉しくなるのだから我ながら現金だと呆れたものだ。

「悪趣味だな」

「余計な世話だよ」

 ポツリと呟いたグリモアルトの言葉を拾い上げた俺は顔を曇らせた彼女を見詰めながら言葉を蹴散らした。

「ミラで合っているかい?」

 行方不明になっている皇女がそのまま本名、といっても沢山あった名前の一つをそのまま名乗っているとは予想外で偽物なのではないかという疑念は胸を過ぎった。

「ミラ……です」

 たどたどしくなくそれは慣れた親しんだ名乗りの声で怯えている様子の少女が到底演技を出来ていると思えなかった。

「初めまして。俺はオルローク。この国の王だ」

 眼を瞠り服従の礼をとろうとする彼女を制すればミラは困惑の眼差しを向けてきた。感情を素直に容に浮かび上がらせる少女は貴族社会を悠然と泳ぐ令嬢達とは違っていた。

「畏まらないで。君にはそういう態度を取って欲しくないんだ」

 畏まられて遠ざけられるのは避けたいことだった。ミラとはこれから先、長く過ごすのだから沈黙が苦痛にならないほどの関係を築きたいのだ。

 困却しミラの視線はグリモアルトに縋るように彷徨った。それを認めた時は胸に靄がかかったように不愉快だった。権力者なのは俺だというのにミラの中では頼りになるのはグリモアルトなのだ。

「それで、証拠は本当なのかい?」

 グリモアルトの上に立つ存在なのだとミラに示したくて俺は軽い口調で声を掛けた。

 声質の違いに気付いたのかグリモアルトは一瞬眉を寄せたが即座にそれを揉み消して真顔で声を漏らした。

「神父ならば生かしたままだ。聞きたきゃ自分の耳で確認すれば良い」

 やや投げ遣りな返事のグリモアルトだったが、彼が寄越してきた報告書は細緻なものだった。

 黒髪と青い目という身体的特徴だけではなく、彼女を含めた孤児を慰問に来ていたミロスのこと、不自然に黒髪の少女が多いこと、彼女自身の薄らぼんやりとした過去の話、拷問した神父がミロスからミラを託されたということまで調べ上げていた。

「この黒髪も偽物じゃないだろうね」

 偽物は幾つも見てきたとグリモアルトの仕事を疑うようなことを言えば彼は不愉快そうに眉を寄せた。

「先刻俺が髪を洗ってもそのままだ」

「君がかい?」

「他の誰かにさせるわけにはいかないだろう」

 それが俺の耳には御為倒しのように聞こえた。

 グリモアルトの彼女に対する態度は普通のそれからは逸脱しているように思えた。新興貴族の彼は実力によってその地位を確固たるものとしてきた。多少の汚れ仕事にだって労を厭わない。そういう相手だからこそ俺も仕事を頼むことが出来た。

「黒い髪の子なんて沢山、居ます……」

 何が不思議なのだろうかと自分は皇女ではないと伝えようとするミラの声は酷く沈み込んでいた。教会で過ごしていた彼女は教えられて当然のことも知らされていないことは十分に予想が付いた。

「君以外は全部偽物だよ」

 黒髪に青い目の少女を探しているという話しが耳に入ったのか自分の領地で保護をしたのだと偽物を連れてくる貴族達もいた。哀れな少女達は髪を染められた不自然な黒髪ばかりだった。そして、この教会の孤児の黒髪の少女達も同様だった。

「え」

 驚きの声は愛らしくミラは目を瞬かせた。

「黒い髪に蒼い目は亡国の皇族の徴というのは有名な話だよ。叔父上が肩入れをしていたのも一部では有名な話だ」

「待って下さい。違います。私、違います。皇女なんてそんな、私はそんなの知りません。私には親はいなくて、教会でみんなと一緒に暮らしていて、成人したら神に仕えて……」

「神父から言質はもらっている」

 自分は違うのだと必死に否定をしようとするミラの言葉をグリモアルトは遮った。彼を見詰める彼女の目には親愛が宿っていて意地悪をしたくなってくる。

「何したんだい、君」

 この男は薄暗いことをするような男だと言外に告げればミラの頬が小さく引き攣った。

「黙っていたらミラが不幸になるだけだと言ったら素直に口を割った。自分の身はどうなっても良いから皇女はミロス様から託された大切な存在だから丁重に扱って欲しいだと」

 神父という身近な存在の言葉を持ち出されたミラは可哀想なほど顔を青ざめさせた。自分の出自が明らかになった喜びというものはそこにはない。純粋な困却だけだった。

「叔父上が敵国の皇族と交流があって生き残りを保護しようと画策していたのは事実だし、証言もある。時期も髪と眼も合致している。本物に間違いないだろう」

 本物だろうという予想は付いたが彼女が良いのだとその頃には俺は思っていたのだ。

「ミラ、君にはこれから王都で俺を支えてもらうことになる。良いね」

 これからのことを口にすれば彼女は不思議そうに首を傾げた。

 亡国の皇女が市井でこのまま暮らすことが出来る筈もない。

 彼女の為の部屋を準備して、彼女の教育の為の人員を確保して、と浮かれていた俺に冷や水を浴びせるかのようにグリモアルトの低い声が思考を遮った。

「おい、オルローク」

 目の端に留めたミラの表情はグリモアルトをまるで自分を助ける白馬の騎士のように思っているもので腹の底に硬い凝りが出来た気分だった。グリモアルトは少なくとも損得勘定で動く男で、自分の感情は等閑にする男だった。だからこそ新興貴族の彼が中枢に食い込めているのだ。

「誰がただでやると言った。これを保護するのにそれなりに労を割いたのだからそれ相応のものをもらえて当然だろう」

 対価はもらっていない、と不満をぶちまけることは自分の好感を下げるものだと分かっていないのか、それとも分かった上でグリモアルトが告げているのか俺には分からなかったが、俺にとって好都合だと言うことだけは理解出来た。

「君、がめついね。恩を売っておこうとか思わないの?」

「売っているから格安で手配してやっているんだが」

「これぐらいでどうだい?」

「ふざけているのか」

「じゃあ、これぐらいは?」

「もう一声」

 俺達の遣り取りを見ていた彼女の目が悲しげに揺れていた。

「待って下さい。グリモアルト様。私、これからどうなるのですか?」

 こんな遣り取りを見ていたというのにそれでもミラの眼はグリモアルトを捉えて俺を見ようとはしなかった。救いを乞うべきは俺だというのにミラはグリモアルトを縋るように見ていた。

「随分と君に懐いているようだね」

 人の将来の伴侶に対して気安いのではないかと手抜かりを当てこすればグリモアルトは眉間に深い皺を刻んだ。

「冗談だろ」

 溜息を漏らした彼の低い唸るような声にミラの小さな身体が震えた。彼女の気持ちがグリモアルトから剥がれるのならばこれ程喜ばしいことはない。

「……でも、私に優しくしてくれたではないですか」

 戸惑う彼女にグリモアルトは平坦な目を向ける。微かに双眸に傷懐のようなものが滲んでいたのを俺は認めた。

「オルロークに渡すものに不備があったら問題だろう」

 グリモアルトの言葉にミラは傷ついた顔を見せた。

「君、少し優しくし過ぎたんじゃないのか?」

 期待をさせるようなことをしたのだろうと言外に訴えればグリモアルトは思い当たる節があるのか憂色を浮かべたが即座にそれを面上から掻き消した。自分の気持ちを切り替えるかのように長大息した。

「ふざけたことを言う。敵国の皇女などに気を許すとでも思ったか。おめでたい馬鹿な女だ。お前を探して助けたのはミロス派に不利になると思ったからに過ぎない」

 自分達の立場を明確に口に出したグリモアルトに彼女の青色の双眸が頼りなげに揺れて薄い皮膜が張られたようだった。

 扼腕して言葉を吐き捨てたグリモアルトの真意がどこにあるのか忖度をさせた俺にははっきりと分かっていた。自分への情を殺させる為に酷いことを告げているのは明白だった。嫌われることによって俺の伴侶となる彼女の未練にならない配慮はグリモアルトが彼女の将来を憂慮していることの証左だった。

「……そうですか」

 見放されたのか、と悲しい顔をして俯いている彼女はグリモアルトの健気な振る舞いなど知りもしない様子だった。もしかしたらあったかもしれない幸福な未来を引き裂いたような気分だったが、彼女と俺が幸せになる未来の為だろうと俺はそれを黙過した。

 そうして、彼女を貰い受けた俺は王都に戻る手筈を整えた。

 準備が出来るまでの間は俺の部屋で過ごすようミラに命じれば彼女は大きな部屋に緊張をして何処に座れば良いのかすら悩んでいた。そんな愛らしい様子に俺の中で胚胎していた恋慕はどんどんと生育していったのだ。

「王都に到着したらミラに見せたいものが沢山あるんだ」

「私に……ですか?」

 困惑の色を容に滲ませたミラはそれでも俺の言うことだからか了承するように小さく頷いた。

「一緒に王宮を探検しようか。俺も網羅してないから、隠し通路とかきっとあるよ」

「それは、楽しそうですね」

 幼い時の遊びを思い出したのかミラは小さく微笑んだ。

 ミラのことを知りたいと色々なことを質問すれば彼女は躊躇いながらも素直に返事をしてくれた。彼女にとって教会のでの生活がどれだけ楽しかったのかを聞いて王宮で彼女が快適に過ごせるようにしなければならないと気を引き締めた。

 時間を重ねてお互いの理解が深まるにしたがいミラは控え目ながらも笑みを漏らすようになったのは俺にとって喜ばしいことだった。

「今日はケーキがあるんだ」

 女の子はスイーツが好きなものだと思い込んでいた俺は少し顔を曇らせたミラの反応に出鼻を挫かれてしまった。上辺だけの遣り取りで人と心を通わせる交流が乏しかった俺は相手を喜ばせる方法を多く知らなかった。機嫌はいつだって取られるもので、機嫌をとることはない。素直にミラに笑って欲しいのだと思っていた俺には難しいことだった。

「嫌いなものだった?」

「いえ、そんなことありません」

 そう言って黙ってしまったミラが何かを飲み込んだのを感じ取る。視線で言葉の先を促せばミラは渋々と声を漏らした。

「以前、グリモアルト様が持って来て下さったものだったので少し驚いたのです」

 自分の知らぬグリモアルトとの思い出を零したミラに俺の中の悋気が頭を擡げる。引き裂いたというのに彼女の中にグリモアルトの存在があることを疎んだ。それが狭量だと分かっていても、彼女の関心の全ては俺でなければ満足出来なくなっていた。

「グリモアルト様は甘すぎるって不満そうでしたが、オルローク様はお好きですか?」

 俺との思い出に上書きしようとするミラの言葉に俺は頷いた。

「俺は好きだよ」

「そうなのですね。頂いて良いですか?」

「勿論だよ。君の為のものなんだから、一緒に食べよう」

 控え目に笑ったミラに俺は一つでも多く共有した思い出が増えれば良いと思った。

 甲斐甲斐しく世話を焼く俺の姿を周囲に印象づけて、王都に出立する前日、この地に暫く駐屯するグリモアルトが声を掛けてきた。

「あれは手に余るか?」

 揶揄めいた言葉は誰を指し示しているかは明白だった。未来の王妃に対して不遜ではないかと軽く睨むがグリモアルトは平然としていた。

「まさか、大人しくて心配になるぐらいだよ」

 何につけても俺の意向というものを探るようになっていた。彼女が縋るように見詰めるのはもうグリモアルトではなく俺だ。

「気に入ったか?」

「当然だろう」

 最悪愛のない結婚と婚姻生活を考えていた俺にとってミラは愛おしくて堪らない存在になっていた。彼女のいない生活など考えられなかった程だ。

「そうか……それなら良い」

 そういって視線を切ったグリモアルトの双眸に滲んでいた恋著の色を俺は見なかったふりをした。






 王都へミラを連れ帰った俺だが戻ってきたという意識は薄い。これまで王都から遠い離宮で静養という名目で排斥されていた父を持っていた為王宮は慣れ親しんだものではなかった。それでも王となったのだから還る場所は王都にある王宮だった。実際、王宮を掌握しているのかと問われれば肯うことは出来ない。王宮というものは全て俺に平伏するものだが口蜜腹剣の徒は幾らにもいるものだ。自分のものなのに真に制御下にない奇妙な生き物のようにも思えた。

 亡国の皇女であるミラに対して余所余所しいならまだしも敵意を持つ者もいてミラの傷ついた様子に俺は彼女に黒髪を隠す為にヴェールを被ってはどうだろうかと勧めた。ミラはホッとした様子で俺の手配したヴェールを使うようになっていた。

 王都に戻ってから俺はミロス派の処罰と地盤を固めることに精力を注いだ。それと並行して王妃として相応しい振る舞いが出来るようにする為にミラに教師役を幾人か選抜した。明言はしていないがミラへの態度から俺が彼女を王妃にすることから推察した一部の貴族から後ろ盾になるという甘言もあった。そういった手合いをミラに近付けるのは不本意で俺が手配出来たのは十全とは言えるものではなかった。能力、身分、所作と三拍子揃っている人間は稀だった。能力で選べば身分が足りず口うるさい貴族になにか言われそうだし、かといって文句を言われない程身分が高いからといっても能力を兼ね備えているわけでもなく傲っている者も多くミラに対して友好的な振る舞いが出来るかも疑問だった。

 イングヴァルト・プレヴィンは教師役の中でも特異な男だった。能力に問題はなく、身分にも問題もなく、貴族としての所作にも問題ない。自分の設けた基準に到達している男だったが彼を教師役にするのは少しばかり躊躇した。何しろ容色優れた男だが弁舌に関しても優れている。要は皮肉屋で人とのコミュニケーションに些かの問題があった。周囲の軋轢を気にしないで我が道を行く胆力は繊細なミラとは相性が悪そうに思えた上、プレヴィン家は十数年前の戦争の際に敵国から手酷い傷手を負わされていて、亡国への敵愾心というものが和らいでいるようにも見えなかった。それでもミラの教師役に任命をしたのは仕事に対して誠実であることとイングヴァルトにミラの心根の優しさを教えて少しでも態度が軟化しあわよくば優秀な彼がミラを自主的に手助けするようになれば良いという打算があってのことだった。

「本当アホ面を晒して菓子を食べているな」

「……放って置いて下さい。だって美味しいですもの」

 休憩中だったのか勉強の進捗状況の確認に部屋にこっそり訪れた俺は楽しそうな声のイングヴァルトと不満そうに頬を膨らませたミラを見付けてしまう。

「幾ら、女子供は甘い物が好きだと言っても食い意地が張ってるな。そんなに食べたいなら俺のも食べるか? ああ、勿論、食べたいですって上手に懇願すればの話しだが」

「本当に貴方は意地悪ですね。人に嫌がらせして楽しむなんて性根が歪んでいるのではないですか」

 俺には決して向けないような表情と声色でミラはイングヴァルトを詰る。王都にきてから控え目だった彼女は少しばかり言葉が多くなった。

「人に使われるような愚かさよりは余程性格が悪い方が良いに決まっているだろう」

 ミラを揶揄するようなことを告げているイングヴァルトだが彼女に与えている菓子は毒が混ざらぬように彼の邸宅で作られていることを俺は知っている。

「私のこと馬鹿だって仰っていますか?」

「ああ、それぐらいは分かるか」

 傷ついた顔で顔を俯かせて小さく震えているミラにイングヴァルトは意地の悪い笑みを浮かべているがその眼差しは驚く程優しい。皮肉屋のイングヴァルトが容易く見せない表情を浮かべていることに苛立って思わず声を掛けるタイミングではないのに声を漏らしていた。

「随分と楽しそうだね」

 表情を一瞬で掻き消した二人は同じ様子なのに次に浮かべた顔は違うものだった。ミラは表情を引き締め緊張を滲ませていたがイングヴァルトは人を食ったような笑みを浮かべている。

「オルローク様、挨拶が遅れて申し訳ありません」

 頭を下げたミラは俺の言葉を待つように口を閉ざした。

 イングヴァルトにからかわれたのだと告げてくれないだろうか、と望むのは過ぎたことだろうか。意地悪をされたから怒って欲しい、とそれすらも言ってくれない。

「ミラ様の学習の進度が気がかりだったのですね」

 ご執心で、という声にされぬ嫌味に俺は笑みを返せばイングヴァルトは首を竦めた。

 嫌味をそのまま真っ直ぐ受け止めたミラは恥じ入ったように顔を俯かせ、その表情に嗜虐心が刺激されているのかイングヴァルトの双眸には愉快そうな色が滲んでいた。

「ご心配をお掛けして申し訳ありません。期待に応えられるように邁進致します」

 萎縮している様子のミラは自分の努力が評価されているとは露些かも考えていない様子だった。イングヴァルトはおろか他の教師からも予定よりも順調に進んでいるという報告は受けている。受け持った者は口を揃えて努力家で真面目で素直で良い子なのだと彼女を褒め称える言葉を添えている。

「ミラは俺に何か言っておきたいことあるかい?」

「……いえ、何もありません」

 一瞬、ミラの視線がイングヴァルトを辿ろうとするが即座にそれは引っ込められた。

 先程の遣り取りは取るに足らない日常に落とし込められた遣り取りだというのか、それとも俺に話したところで無意味だと諦められているのか、想像は悪い方向へと傾いてしまう。

「ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした」

 重ねて告げた言葉からそれ以上の会話を望んでいないことを承知しながら俺には見せぬミラの表情を惜しんで俺は少し見学させてくれと二人の勉強の様子を見させてもらった。

 一年を予定していた淑女教育は半年で終わりを迎えた。教師役の任から解かれたイングヴァルトは、肩の荷が下りたなど、嘯いていた。

「ミラは大丈夫か?」

「出来る限りは教えましたし、実践も大丈夫でしょう。俺が教えたのですから」

 自尊の言葉を添えたイングヴァルトにその一言がなければ周囲との軋轢も幾分か少ないだろうと俺は思いながら言葉を吐き出すことを躊躇するようにもぞっと動いたイングヴァルトの口に気付いた。

「でも、腹芸は向いていませんよ。素直な子ですからね」

 お前よりも余程俺の方が理解しているのだ、と喉から迫り上がってきた言葉はあまりにも惨めで俺は舌で押し潰した。

「……使い方を誤らないで下さいね」

 それは間違いなくミラを思っての言葉だった。イングヴァルトがミラの為に自主的に動くようになれば良いなんて打算があったというのに実際、彼がミラを気に掛けているのだと認識すると俺の胸には黒い陽炎のようなものが広がった。

「ミラは俺と結婚するんだ」

 子供じみた主張の言葉を吐き出した俺にイングヴァルトは驚いたように眼を瞠るとやおら笑った。

「……ええ、承知しています。おめでとうございます」

 こんなことで溜飲を下げるなんて王として狭量だろうが自分がミラの夫になるのだということを知らしめたかった。

「予定通り結婚式を執り行う」

 ミラに今後の予定を告げた時、彼女は微かに眼を瞠っただけでそれ以上のことは何も言わなかった。ただ、畏まりました、と深々と綺麗に頭を下げただけだ。もっと喜びを表現してくれても良いだろうと子供じみた恨み言を思ったのは仕方がないことだろう。

 王位継承争いをしていた暗い雰囲気を打破する為にも結婚式は華やかに盛大に執り行われた。俺の隣に立つのがミラであるのだと国中に知らしめる良い機会だった。緊張をしていたのかヴェール越しの彼女の顔は少し強ばっていた。彼女に降り注ぐ不幸を一つ一つ取り除きたいと考えていたし、危険は遠ざけていたつもりだった。誰に訝しがられることなく彼女が自分の妻になったのだという多幸感で俺はこの上なく幸せだった。

 俺は人目に付くよう態々廊下を通ってミラの部屋に訪れた。初夜と呼ばれる今夜に何をされるのかミラも知識として知っているのか緊張した面持ちだった。それでも彼女の美しさが損なわれることはなく、寧ろ繊細さや儚さが一層引き立たされていた。

 細い躯殻を抱き寄せて口付けをして、大きな寝台に押し倒した。微かに彼女の手は戸惑ったように宙を掻いたがそれを押し込めたように拳を握りしめた。一枚、一枚、寝間着を剥げば泣き出しそうな顔をして顔を青ざめさせるものだか初夜で昂ぶっていた気持ちが削がれたのは事実だった。このまま先に進めても誰に咎められることはないだろう。今夜は初夜で夫である俺には彼女を蹂躙する権利がある。ただ欲情に突き動かされるまま我を通してミラが俺をどう思うかという一点で俺の決意は揺らいだ。

「怖いかい?」

 緊張を解したいと声を掛ければ顔を背けていたミラは漸く俺の方を見て小首を傾げた。自分の身体が強ばっていることすら理解出来ていないのだと俺は彼女が胸の前で握りしめていた両手に視線を向けた。

「震えている」

 彼女の身体は何よりも雄弁に俺を拒否していた。

 グリモアルトから彼女を引き渡されてから距離を詰めてきたつもりだったが不足していたのだと思い知らされた。

「……いえ、大丈夫ですから。オルローク様の好きになさって下さい」

 それは彼女が真に願ったことではなく、王妃としての建前の言葉だということぐらい俺には容易に想像が付いた。必死に笑顔を浮かべようとしているが彼女の眥からはらりと雫が零れ落ちた。

「でも、泣いてる」

 俺に指摘されて初めて自覚をしたのかハッとしたミラは自分の頬を撫でた。指先が湿った感覚に愧色を容に浮かべていた。

「……いえ、これは、その……嬉しくて――」

 俺を気遣っての嘘は少しも嬉しい言葉ではなかった。ミラは俺には嫌だと言うことすら言えないのだと突き付けられた気分だった。距離が縮んだと思ったのは甚だしい思い上がりだった。

「嘘を吐かないで。ミラ。神と婚ごうとしていたんだ、怖いのは当然だ。少しは気を許してもらっていたと思っていたんだけど自惚れだったな」

 ミラは神に仕えると自分の将来を定めていたのだから王妃となったことに困惑してるのだろうと俺は自分を慰めた。少し責めるようなことを添えればミラは悲しそうに顔を曇らせるがそれは一瞬のことで直ぐに掻き消した。

「大丈夫です。粗相をして申し訳ありません」

 大丈夫だと告げるミラの指先は震えていて、無理をさせているのだと感じた。淑女教育の時に教師役にも言われたが彼女は真面目な質だ。自分の役割というものを理解してそれが果たせぬことに胸を痛めているのは理解出来ることだった。このまま事を進めてもミラはきっと俺を嫌うだろうという懸念が俺の熱を鎮めた。

「君が大丈夫だというまで、行為は保留にしよう。俺に出来るのはそれぐらいだ。だから、俺のこと嫌いにならないでくれないか」

 覆い被さっていた身体を起こして俺は余裕のある男を装って笑って脱ごうとした服に袖を通し、目に毒な彼女の身体に夜着をかけた。

「待って下さい。失態はお詫び致します。私に慈悲をどうか――」

 あくまで王妃としての務めを果たそうとする彼女に俺は頭を振る。義務で抱いて欲しいなんて男としては屈辱だ。俺は彼女と心を通わせたかった。

「君の身体が俺を受け入れられるまで、少し時間をおこう」

 君が受け入れてくれるまで待つ、と言外に匂わして俺は俺の自室に通じている中扉へと足を向けた。

 昂ぶった熱の処理を一人でするのは虚しいものだ。




 失敗した初夜から幾度夜が巡ってもミラは俺の部屋に通じる中扉を叩こうとはしなかった。無理に部屋に押し入ろうとする度に嫌われて彼女から冷めた目を向けられたらと考えて引き返した。答えは彼女に委ねたのだから俺は待つだけだった。教会で過ごしていた彼女は性的な欲求が薄いのだろうかと思って自分を慰めた。

 王妃として夜伽を放棄していた彼女だが昼間の執務においては精力的に取り組んでいた。それは彼女を快く想っていなかった王宮の一部も認めざるを得ないことで彼女への風当たりは徐々に弱まっていった。未だに王宮を完璧に掌握していないことは忸怩たる思いだがミラの努力が求心力となっていたのは喜ばしいことだった。

 勇気を出して彼女の部屋を訪れようかと思っていた春先に国の僻地から聖女が出現したとの報告があがった。聖女、というのは人ならざる力を持つ奇蹟の存在だと言われていて、瑞祥だとされているが俺は懐疑的だった。元より理屈では分からぬものに信を置いていないし、聖女の話を持ち出した貴族がこれまた誠実とは掛け離れた向上心や二心のありそうだったことが俺に戒心させた。どういう了見なのかと探る為に謁見の機会を設け、貴族は聖女を伴って王宮に馳せ参じた。美辞麗句を並べ立てて聖女らしきものを持ち上げる貴族の言葉に迎合を打ちながら俺は隣に座るミラの表情を窃視した。ミラは教会にいた所為か聖女というものに親しみがあるようで眼をキラキラとさせていた。それは大層可愛らしかったが胡散臭いものを信じている節の彼女の素直さが心配にもなった。目論見を見極めるには手元に置いた方が良いだろうと王宮への滞在を許して、信頼出来る者に聖女と彼女のパトロンとなっている貴族の監視を命じた。

 徐々に王宮に不穏な空気が漂い始めるのとミラの表情に名状にしがたい陰りが帯びるようになったのも同時だった。

 聖女という存在が彼女を苦しめているのならば早々に放逐した方が良いのかと思案したが、聖女のパトロンの動向と謀反への物的証拠を集めるのも大事なことで判断を先延ばしにした。

 ミラ自身は自分への誹謗に屈したくないのか平静を装っていたが日に日に花が萎れるように活力というものを失っているように見えた。

 言うに事欠いて聖女の方が王妃に相応しいという声が上がり始めたのだ。彼女に害心を抱いて王宮を乱そうとしている輩を炙り出すのには有益だった。いっそのこと聖女派なんて名乗る輩を一掃して、王宮の掌握に努めようかと乱暴なことを思うが無闇な流血沙汰をミラは厭いそうでそれは最終手段として心の片隅に留めておくことにした。

 ミラの為に反乱分子の掃除をしようと事を進めていると、彼女のベッドに赤ワインが注がれていたという事案が発生した。私室への嫌がらせは身近に敵となるものがいるということの証左で俺はこのまま反乱分子の掃討を進めて良いものか立ち止まって考えることになる。早急な掃討よりもミラを安全な場所に移動させなければならないのではないかと方針転換をした。王宮にはどこに敵が潜んでいるか分からず危うかった。それならばいっそ慣れ親しんだ離宮の方が彼女の心を慰めるのではないか、と反乱分子の炙り出しと並行してミラの離宮への移動の準備に取りかかった。王宮を安全にしてからミラを離宮から呼び戻すとして離宮に居る間彼女を守ってくれる担い手が必要だった。その相手は悔しいことに即座に思い浮かんだ。グリモアルトとイングヴァルトだ。あの二人ならば自分がいない間にミラを十分に守ってくれるのだという確信があった。二人共年頃だというのに結婚の話を遠ざけていた。王に身を捧げているからなんて忠義者のようなことを嘯いているが彼らが守りたいものは俺の手の中に居るミラだということは俺には分かっていた。実際、碌な条件も告げていないのに二人は自分の領地から王都へと急いたように馳せ参じた。

 ミラが浮かべる控え目な笑みが少なくなった頃、漸く離宮の準備が整ってミラにそのことを告げた。

「ミラ、最近疲れているだろう。少し、離宮で過ごしたら良い」

 その間に王宮を住みやすい場所に変えようと俺は反乱分子の一掃を算段していた。

 俺の提案にミラは困惑した色を容にのせると、怖ず怖ずと声を漏らした。

「……仕事は、どうしましょうか?」

 彼女の事務処理能力を失うのは惜しいがまずはミラの心身の回復が優先されることだった。此処に至って聖女が紛い物だというのは俺の中で確定的になっていた。病人を快癒したというのならば、不健康そうなミラを放って置く筈もない。聖女のパトロンが聖女を王妃にすげ替えようとしている目論見の証拠は集まりつつあった。

「少し休んだ方が良い」

 花が綻ぶような笑みを浮かべて欲しいと俺はミラに休むことを勧めた。

「君が寂しくないように供廻りは俺が選んでおいたから安心してくれ。離宮の内装も君が好むように改装したんだ」

 少しでも心が安らぐように癪だがグリモアルトとイングヴァルトをはじめミラの同情者を供廻りに選び、離宮の内装も彼女の好みに改装した。心地よく過ごしてもらえればそれで良かった。

「……そうですか」

 落胆したような顔をしたミラに敢えて供廻りを告げなかったのはここで、彼らの名前を出して喜ばれたら少しだけ悔しかったからだ。

 そうしているうちにミラが離宮へと行く日は近付いていた。

 グリモアルトとイングヴァルトにはミラの身にくれぐれも注意するようにと伝えていたが、彼らは彼女の置かれた立場が不満だったのかそれを隠し立てもせず俺に諌言をしてきたほどだった。

「……ミラ様の出立は明日ですね。漸くですね」

 明日からのことを思い浮かべているのか側近の顔には緊張があった。

「ああ」

 離宮への出立を明日に控えてミラから仕事を取り上げた分増えた仕事に執務室で取り組んでいた俺に側近がそう声を掛けた。

 明日を契機に王宮の大掃除をしミラにとって住み心地の良い場所に生まれ変わるのだ。

「陛下、結婚はやはり早計だったのではないですか」

「……そうだな」

 王宮を完璧に掌握してから結婚をすればミラに不幸は多くはなかったのかもしれないと思うがあの時は彼女を直ぐにでも自分のものにしたくて周知したかったのだ。彼女の顔が曇るようなことがあると知れば違う手段をとっていたかもしれない。

「早く片が付くと良いですね」

「ああ」

 ミラが少しでも早く離宮から戻ってこられるように俺は聖女派だなんて告げている痴れ者を一掃しなければならない。

 そうすれば、ミラは幸せになると思っていたのだ。




 鈍くなった頭に執務を切り上げた俺は自室の壁にある中扉に目を遣った。扉の向こう側のミラの部屋では彼女がいつものように静かに眠りに就いているだろう。暫く彼女に会えないことを思うと俺の足は自然と中扉に向かっていた。彼女が意識がある時には臆病風に吹かれて開けることが出来なかった中扉だ。彼女が深い眠りに就いてからこうやって部屋を訪れることは少なくなかった。

 自分の部屋から漏れる仄かな明かりを背に俺は暗がりの中、部屋の中で存在を主張するベッドへと近付いた。

 天蓋のレースを払って彼女の顔を覗き込めば穏やかな笑みを浮かべていた。まろい頬の感触を確かめたくていつものように手を伸ばしたところで違和感を覚える。

 いつもは浅く上下する胸がぴたりと動きを止めている。

 小さな寝息は聞こえない。

 指先が頬を掠めて思いの外冷たい身体に驚愕する。それは人の持つ温度から掛け離れているものだった。

 嫌な予感が頭を過ぎ、震える手でミラの肩を掴んでその冷たさを掌で実感して揺さぶった。

 気の所為にしたかった冷たさを一層感じて俺は彼女の名を呼ぶが応じる声はない。

 彼女の目蓋は閉ざされていた。

 医者を呼ばなければとベッドから扉に向かった俺の目の端に過ぎったのは普段は整頓された彼女の机の上に置かれている紙だった。

 心はそれに手を伸ばしてはならないと警戒を訴えているのに俺は何かに導かれるように手を伸ばしていた。

 そうして俺は彼女の机の上に置かれていた走り書きの遺書を見付けることになる。





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