観兵式
賢司が奉文と今後の敵性勢力への対応を話し合い、軍事パレードが行われることが決定してから、早二ヶ月が経過した。勿論、その間にも貴族派からのちょっかいであったり、ハープスブルック王国からのものと思われる工作活動が時々起こったりと、忙しい日々を送る大和皇国。
そんな中でも、大和皇家はめげずに軍事パレードという新しい国事に向けて、着々と準備を進めていた。賢司と奉文が話し合いを終えた後も、定期的に貴文や真司、王妃咲子も加えながらあぁでもない、こうでもないと試行錯誤を重ねた。
そもそも賢司が疑問に思うことがある。それは、
(そもそも第一に、この国は皇族の圧倒的な威光によって、代々続いてきた国だったはず……なのに何故、ここ十数年でこれほどまでに国内に敵性勢力が増えたのだ?)
ということである。賢司もいくつかの可能性を考えた。その中で最も有力な説が、逆に皇族が強大になりすぎたが故に、その富や権力を欲っする者が出てきたのでは? と。
この国は賢司の前世の母国に似ている所があると言える。それは、まず第一として皇族は絶対不可侵な存在であり、もはや神のように崇め奉られていること。教典に聖皇は神であるとまでは記されていないが、この国で信仰されている宗教、聖神教は聖皇の事を"神の言葉の代弁者"として定めている。
故に国民は皆、聖皇という存在を神格化しているのだ。これはある意味、聖皇という存在そのもので既に国民のほとんどを人心掌握してしまっているということにもなる。
つまり、
(仮に玉座を手にすることができれば、それ即ち皇族の富だけでなく、国民からも絶大な支持を受けるということにもなり得るというわけか)
しかし賢司はそこまで考えて馬鹿馬鹿しいと思った。何故なら、
(皇族が絶大な支持と尊敬を集めているのは歴史の重みと、これまでお国のためにそのお力を振るってこられた先代方のおかげだ。そこら辺にわんさか居る貴族如きがどれだけ努力してその座を奪っても、国民からの支持など得られまい。浅慮もここまで来れば、才能か?)
「捕らぬ狸の皮算用とはよく言ったものだな」
賢司はこの場に居ない敵勢力の者たちに向けての皮肉を述べながら、今日の午前に行った御前会議での自分の提案と報告を改めて紙にまとめて記している。
内容は、
1.この2ヶ月で大分魔銃の性能が上がり、威力・前回の欠点なども改善出来たので、そろそろ大量生産態勢に移る準備をして欲しいというもの。
2.大量生産に移った場合、軍の運用法がガラッと変わるので、賢司が新たにデザインした"軍服"というものを着用して、訓練を行ってみて欲しいというもの。
3.軍隊の行進式典を行うに際して、ただ行進するだけではつまらないので、音楽も追加してみてはどうかという貴文兄上の提案に追加で思いついたことがあるので、検討してみて欲しいというもの。
大まかにはこの3つである。因みに3番目の追加の思いつきとは、軍の隊の服装と色を分けてみてはどうか? というものである。特に軍楽隊に関しては特別な式典にのみ大きな出番があるので、より派手で目立ち易いデザインにすべきと賢司は提案した。
そしてそれに付随して、賢司は他の部隊の服も色分けをしていくつもりである。近衛抜刀隊と特戦魔導師団は今までの真紅の全身鎧と紫色の着物のような服装から、漆黒の全身鎧と漆黒の法衣という形で統一。装備するものは違えど色を統一することで、より皇族を護衛する為に存在する最上位の武士団だということが強調される。
他の軍は軍服に装備が変更されるかもしれないというのに、何故近衛抜刀隊は鎧のままなのかというと、それは単純に戦闘方法の違いによるものである。
近衛抜刀隊はあくまで剣技に強力な魔法を付与し、戦うのがメイン。そして魔銃という存在が誕生したとしても、彼らレベルの戦闘力ならば、近接戦闘はまだまだ有効な戦闘手段となる。なので敵と至近距離で戦うのならば、防御力の高い全身鎧の方がいいという話なのである。
しかし一般兵に関しては剣技が多少出来たとしても、魔法はほとんどが身体強化や初級程度の魔法のみ。中には中級を扱う者もいるようだが、賢司としてはまだ少し物足りないと感じている。
何せ、賢司自身が数ヶ月前に氷と雷のみではあるが、上級魔法の修得に成功したのだ。他は全て中級も扱える。このレベルの者になると、敵の部隊に多少中級が扱える者がちらほらいたとしても、それ以上の力でねじ伏せることが可能なのでそこまで問題にはならない。よって、初級や中級が扱えても、魔法戦闘で大いに役に立つわけではないのだ。
それならば、一般兵は魔物の素材によって作られ、普通の服よりは防御力のある軍服を着て魔銃を持たせ、機動力と"全て"中級で統一された火力によって戦わせる方がはるかに戦力になり得るのである。
これらの理由から、一般の武士たちの装備はネズミ色の制服と戦闘の際に着る戦闘服。これらを支給することでひとまずの案は完成する。
更に、今後賢司はとある部隊を新設したいと考えている。
(これから先、もし我らが順調に軍拡を成功させた場合、それを真似たり、もしくはそれに先んじた技術を生み出す国も出てくるだろう。その際に防諜したり、逆に情報を盗んだりする者たちが必要になる)
前世で言う所の"特務機関"という存在のことである。この国にもそういう機関はあるようだが、かつての賢司の母国、大日本帝国が誇る特務機関に比べると、まだ改善の余地があると思ってしまうのである。
「まぁどちらにせよ、今は式典の準備だ。あれこれと欲張ると失敗するからな」
賢司は自分の部屋で独り言を呟きながら作業を続ける。そうして、しばらく作業を続けていると、扉をノックする音が聞こえてくる。
「はい、どうぞ」
賢司が入室許可を出すと、入って来たのは朝美だった。どういった要件か賢司が聞くと、淡々とした口調で朝美が答える。
「失礼致します。陛下が殿下をお呼びで御座います。陛下の執務室に来て欲しいとのことです」
「分かった。直ぐに行こう」
「かしこまりました」
賢司は朝美を後ろに従えながら、広い廊下を歩いて行く。そして数分後、執務室が見えてきた。
執務室の前に着くと、朝美がノックをする。するといつも通り中から護衛の近衛抜刀兵が顔を出す。
「お待ちしておりました、殿下。陛下がお待ちですので、どうぞ中へ」
「うん」
賢司は護衛を横目に通り過ぎると、そのまま執務机で作業をしている奉文の下へ歩いて行く。
「陛下、お呼びとのことで参上致しました」
「うむ、お前も忙しい中悪いな」
「そのようなことを仰らないで下さい。しかし、お心遣い感謝いたします」
「うむ、では只今より機密に関わる話をする故、賢司以外は退室願おう」
奉文のその言葉に、朝美はすぐさま退出したが、護衛の近衛抜刀兵は明らかに迷いを見せた。しかしこれは君主命令。この場合、いくら護衛を全うしようとする彼が正しくとも、従わねば不敬罪となってしまう。
だがこの間の賢司と奉文の会議で、護衛が直ぐに退出したのは山本伯爵と山村子爵がいたからだ。そして今回はいない。迷ってしまっても仕方がないというものである。
ただやはり君主命令が絶対であると判断したのか、護衛は頭を下げて退出した。
「父上、護衛までも下がらせるということは……」
「ああ、例の式典の話だ」
山本伯爵たちがいないのに護衛を下げた時点で予想はしていたが、賢司はなるほどと思った。今回この式典が行われる最大の理由は国内外問わず、敵性勢力対して近衛抜刀隊と特戦魔導師団、更に大貴族たちの私兵団を合わせた大軍の武威を見せつけ、敵対意欲を無くさせるというものである。
もちろん国中に開催宣言を予めしてから、式典を行なってもいいのだが、賢司としてはここで敢えて内密に話を進めて開催日の数日前に発表することで、貴族たちが式典に集まる時間しか用意させないようにする。そうすることで、変な妨害工作をさせないことにつながると考えたのだ。
(まぁ、これはただの式典。妨害などしてもあまり意味は無い。何故なら直接的に貴族派に対して傷を負わせるような物ではないからだ。しかし……)
貴族派の中で特に力の弱い貴族たちは、今回の式典で力の差を目の当たりにして皇族派に寝返る可能性がある。それを防ごうと妨害工作に出るかもしれない。そうさせないためにも万全の状態で式を行わなければならない。
そんなわけで、どこから情報が漏れるかわからないので、この話は近衛抜刀隊、特戦魔導師団、大貴族及びその私兵団の幹部、そして皇族のみにしか知らされていない。
そして今正に、その極秘の件について話そうということらしい。賢司は姿勢を正し、真剣に奉文の話を聞く体勢を整える。
「式典について、ということは何かしらの進展があったのでしょうか?」
「いや、そこまで深刻な話ではない。ただ式典が絡む話故、護衛には部屋から出てもらっただけだ」
「左様で御座いましたか。して、そのお話とは?」
「うむ、式典の名前についての話だ」
(なるほど。父上の言う通り深刻と言うほどではないが、すごく大事なことだな)
「名前、ですか……それを僕と一緒に考えると言うことでしょうか?」
「そう言うことだ」
このような話ならば、賢司としては決まっているも同然である。ある意味、事あるごとに前世への未練を捨て切れてはいないようにも思えるが、それは致し方なき事であろう。
そのようなことを一瞬考えたのちに、賢司が導き出した答えとは、
「それでは父上」
「うむ、何か案が浮かんだか?」
「はい、僕なりにいいと思うものが」
「申してみよ」
「はい。それは……観兵式です」
賢司はこの時知る由もないが、後にこの名前は大陸中に広まることとなる。
"大和皇国大観兵式"
少し名前に変更点があるが、それはこの国の軍隊が、一つとなった時に行われた観兵式で、あまりの壮大さに大和皇国民の観衆すら恐れ慄いたと言われている。
そういった経緯から、後に大観兵式と名前が変更になったのである。