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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

生存者インタビュー

作者: 青井青

 ドアをノックし、スーツ姿の男が病室に入った。窓際のベッドのそばの椅子に座っていた母親と思しき中年女性が立ち上がり、こちらに近づいてくる。


「東都新聞の速見と申します――」


 母親は差し出された名刺を受け取り、どうぞ、とベッドの方に案内する。


 ピンクのパジャマに焦げ茶のカーディガンを肩から羽織った少女がリクライニングで起こしたマットに背を預け、窓の外に目を向けていた。右腕に白いギプスが巻かれている。


 病室は一階の角にある個室だった。窓の外には敷地の外からの視界を遮るように花や低木が植えられ、フェンスの向こうにはくすんだ早秋の空が見える。


「今日はよろしくお願いします」


 速見が声を掛ける。少女は窓の外に目を向けたままだ。加湿器が白い水蒸気を吐き出すシューという音がかすかに聞こえた。


「清香、記者の方よ」


 母親に促されると、少女がようやく声を発した。


「あれ、藪枯(やぶが)らしでしょうか?」


 視線の先にはつる状の多年草がフェンスに絡みつくように生い茂り、所々に緑とオレンジとピンクの粒々の花が咲いていた。


「すいません……私はあまり花には詳しくなくて……」


 速見が申し訳なさそうに言うと、少女が窓から振り返った。


 肩まで届く長い黒髪、涙袋の上の大きな目、少し不機嫌そうに突き出した肉厚な唇……整った顔立ちの美少女と言えた。


 ただ、その目は何も見ていないかのように心を読ませない。あるいは――事件の精神的なショックがまだ残っているのだろうか。


 速見は鞄からノートと筆記具、ICレコーダーを取り出すと、ベッドのそばの丸椅子に腰を落とした。


「今日はお時間をいただき、ありがとうございます。おつらいとは思いますが、事件のことを聞かせてください」


 少女は押し黙っている。多少のやりにくさを感じながら速見はペンを握った。


 日本中を震撼させたあの事件の唯一の生存者である少女は――女子高生ということもあって世間の耳目を集めた。


 最初に運び込まれた病院には記者やカメラマンはおろか、YouTuberまで忍び込もうとしてトラブルになった。


 プライバシーの問題もあり、怪我の回復を待って少女は郊外の病院に移送された。今、病室の外にある表札も偽名だ。


 単独インタビューはまだどのマスコミも実現していない。このチャンスを絶対にモノにしたかった。


「清香さんは8号車にいらっしゃったんですね?」 


 速見が訊ねると、少女がはい、とうなずく。


「7号車寄りの座席に座っていました」


「犯人が電車に乗ってきたときのことを覚えていますか?」


「……成城学園で帽子を目深に被り、白いマスクをした男性が近くのドアから乗ってきました。バイオリンケースのようなバッグを肩に担ぎ、手にクーラーボックスを持っていました」


 淡々とした口調で少女は記憶を語る。


「最初に犯人の男を見たとき、どう思われましたか?」


「釣りにでも行くのかなと思いました。アウトドア用の黄色いアウターを着ていたので……ただ平日の夕方でしたし、妙な時間に釣りに行くのだなと思ったのを覚えています」


 なるほど、と言いながら速見がメモをとる。


「それで……犯人が発砲を始めたときの様子を聞かせていただきたいのですが」


 ちらっと上目遣いで少女の顔を窺う。重度のPTSD(心的外傷後ストレス障害)との噂もあったが、表情に変化はない。


「最初に撃たれたのは、私の隣にいたスーツ姿の会社員の男性です。ただ、私は犯人が発砲する瞬間を見ていません。手元の本に目を落としていたので……」


「では銃撃に気づいたのは?」


「音です。バンとすごい音がして……突然、膝の上で開いていた本に血が飛び散って、隣の男性がもたれかかってきました……」


 事件の概要はこうだ。急行が狛江駅を通り過ぎたあたりで男は肩に掛けていたガンケースからショットガンを取り出し、車両にいた乗客を次々に撃ち殺し始めた。


 凶器に使用された散弾銃はレミントンM870。近距離で放射状に拡散した鉛の弾丸を避けることは不可能で、多数の死傷者が出る原因にもなった。


 犯人は7号車との連結部近くで発砲を始めたので、乗客はいっせいに進行方向とは逆の9号車に向かって逃げた。


 乗客を追って犯人は8号車から9号車に移った。死傷者がいちばん多かったのは最後尾の10号車で、折り重なるように人が倒れていたという。


 平日の夕方で犠牲者には学生も多かった。事件の起きた三つの車両で生存した乗客は、最初に8号車にいたこの少女――新田清香だけだ。


「ご自身も怪我をされたんですね?」


 速見は少女の右腕に巻かれた白いギプス目を向けた。


「はい、銃声がした後、右腕がすごく熱くなって……血が出ているのに気づきました」


 警察の発表では、少女は肘と二の腕に被弾し、弾丸の摘出手術を受けている。


「犯人のことで覚えていることはありますか?」


「目が合いました。乗客を追って9号車に行こうとするとき、私の前を通り過ぎたんです。そのときに……」


「顔は覚えていますか?」


 少女は首を振る。


「帽子を目深に被っていましたし、大きなマスクをしていたので……見えたのは目だけです。それも一瞬でした」


「あなたに気づいて犯人はどうしましたか?」


「通り過ぎていきました。右腕から出血していましたし、隣の男性の返り血を大量に浴びていたので、重傷でどうせ死ぬと思ったのではないでしょうか」


「なるほど……」


 8号車から10号車まで行く過程で、犯人は生きた人間を〝丁寧に〟と言えば語弊があるが、一人一人撃ち殺している。


「犯人がいなくなった後、7号車に逃げようとは思わなかったのですか?」


 乗客を追って10号車まで行った犯人が8号車に戻ってくるまで時間があった。その間になぜ隣の車両に避難しなかったのか。


「……自分でもよくわかりません」


 負傷し、恐らくショック状態だったのだろう。無理もない。普通の女子高生が目の前で大量虐殺を見せられたのだ。


「8号車にあなた以外に生存者はいましたか?」


「うめき声は聞こえました。ただ、立ち上がったり、動いている人はいませんでした」


 10号車まで行った犯人は、生きている乗客にとどめを刺しながら元いた車両に戻ってきた。何人もの乗客が死後に弾丸を撃ち込まれており、犯人の異常さを表すエピソードとして語られている。


「犯人が8号車に戻ってきた後の行動を教えてください」


「持ってきたクーラーボックスからペットボトルを出し、床にガソリンを撒いて火をつけました」


「その様子を見られていたのですね?」


「はい、クーラーボックスは私のそばに置いてあったので……一瞬で電車の中が炎と煙に包まれ、その後、銃声がしました」


 燃えさかる車両の中、座席に座った犯人は猟銃を口に咥え、足で引き金を引いて自らの頭を撃ち抜き、命を絶った。


 乗客によって緊急停止ボタンが押され、車両は狛江と川崎を結ぶ多摩川の鉄橋上で停止していた。駅員が駆けつけ、外からドアを開け、床に倒れていた少女だけをかろうじて救出した。


 36人が即死、瀕死の重傷で運び出された7人も後日、病院で亡くなり、最終的な死傷者の数は43人に達した――これが日本中を震撼させた小田急線銃乱射事件のあらましである。


 重い息を吐き、速見はメモから顔を上げた。


「なぜ清香さんだけが生き残れたと思いますか?」


 犯人は〝死体撃ち〟までして、乗客を一人残らず虐殺している。だが最初と最後、目の前を二度も通り過ぎたのに、この少女をなぜか見逃している。


「わかりません……ただ、私はあまり存在感がないので……」


 速見がけげんな顔をする。


「幼稚園の頃、バスに乗っていたのに気づかれなくて、そのまま車内に置き去りにされたことがあるんです。よく友達にも透明人間とか、空気みたいだって言われます。いてもいなくても同じっていうか……」


 本人はあくまで真剣で、冗談を口にした気はないようだ。速見はあえて難しい顔でメモ帳に「透明人間」「空気」と書き記した。


「他に覚えていることはありますか?」


「確証はないんですけど……」


 ためらような素振りに気づき、速見は身を乗り出した。記者の勘で、この少女は重要な情報をまだしゃべっていないと感じた。


「どんな些細なことでもかまいません。教えてください」


「……私以外に生きている人がいたんです」


 速見がメモをとる手を止め、少女の顔をまじまじと見た。


「別の車両の乗客のことですか?」


「いえ、8号車です」


 速見が眉をひそめる。三つの車両に生存者はいない。窓から逃げ出せた乗客もいない。警察がそう発表している。


「見たんです。車両が炎で包まれ、銃声がした後、窓から人が川に飛び込むのを……」


「それは乗客でしょうか?」


 だが事件後、生存者として名乗り出た人間はいない。


「たぶん犯人です」


「犯人? しかし――」


 犯人の遺体は8号車内で焼死体で発見されている。妻と離婚問題でモメていた三十代の男性で、所持していた猟銃を使い、自宅で妻子を殺害した後、自暴自棄になって犯行に及んだと言われている。


「殺した乗客を身代わりに仕立てて、自分は逃げたんだと思います」


 速見は困惑していた。事実ならこれは大変なスクープだが、すべての状況証拠はその会社員が犯人であることを指している。


 彼の自宅から採取されたDNAと頭を撃ち抜かれた焼死体のDNAが一致したし、現場に残されていた散弾銃も、犯人の男が免許を取得したもので間違いない。


「もし、あなたのおっしゃったことが事実なら、あなた以外に生存者がいることになります」


「……そうですね」


「それを警察の方には?」


「言いました。ですが、監視カメラにそんな人間は映っていなかったと……」


 速見のペンをとる手が止まった。


 事実なら大変なスクープだが、すでに被疑者死亡で事件は決着がついている。証拠もないのに「二人目の生存者がいた」など飛ばし記事を書けば、自分の記者生命にもかかわる。


 少女のぼんやりとした目は焦点を結ばず、相変わらず心を読ませない。


 ◇


 そこはマンションの一室だった。フロリーングの床に男性がうつ伏せで倒れ、辺りにドス黒い血の水たまりができていた。


 家の中を足をビニール袋で包んだ鑑識員や刑事たちが忙しく歩き回っている。カシャカシャとシャッターを切る音が部屋に響く。


「被害者の身元は?」


 四十年配の刑事に訊かれ、若い刑事がメモを開いた。


「ええと……東都新聞の記者ですね。氏名は速見真吾、34歳。無断欠勤をしたため、会社の同僚が家に様子を見に来て、管理人の協力を得て室内に入ったところ、亡くなっているのを発見したそうです」


「記者か。それでか」


 背後を振り返る。壁に大きなコルクボードが掛けられ、無数の写真や新聞記事の切り抜きがピンで留めてある。すべて小田急線の銃乱射事件に関するものだった。


「あの事件、おまえが前にいた所轄じゃなかったか?」


「ええ、狛江署です。そうそう、菅野さん。あの事件で、ちょっと奇妙な話を聞いたんですが……」


「奇妙な話?」


「事件で一人だけ生存者がいましたよね?」


「奇跡の女子高生だろ。話題になったな」


「その女子高生のことなんです――」


 言うべきか少しためらった様子を見せた後、若い刑事はしゃべりだした。


 ◇


「今日はありがとうございました」


 速見は立ち上がり、頭を下げた。そばにいる母親にもお礼を伝える。一時間近くに及ぶ取材がようやく終わった。


 結局、もう一人の生存者の件はそれ以上、深く訊ねなかった。検証のしようがなかったからだ。


 少女はもう記者への関心をなくしたように、最初の時と同じように窓の外に目を向けている。


 視線の先には、フェンスに絡みつくようにつる状の多年草が生い茂り、中に緑とオレンジとピンクの粒々の花が咲き、蜜を吸いに蜂がやって来ている。


 よほど花が好きなのだろう。にしても、変わった少女だなと速見は思った。


「では、失礼します――」


 一礼をして、速見が病室を出ようとしたときだった。


「オレンジ、お好きなんですか?」


 ベッドから少女の声がして、速見が足を止めた。新田清香が速見をじっと見つめている。


「ええ……好きな香水で……」


 速見が日頃から愛用している海外製のパフュームだ。 ブラッドオレンジの天然香料を使用した高級品で、生の果実に近い瑞々しい香りを気に入っていた。


 少女はぷいとまた窓に目を戻した。申し訳なさそうに母親が頭を下げ、速見は苦笑して病室を出た。


 病院の廊下を歩き、看護師とすれ違った後、辺りに目を配り、男は近くのリネン室に素早く身を滑り込ませた。


 鞄からゴム手袋を出し、両手にはめると、両刃のダイバーズナイフを取り出し、柄を握りしめる。

 

(覚えていなければ生かしておいてもよかったが……)


 少なくとも取材中に気づいた素振りは見せなかった。実際、自分があの事件の犯人だとはわからなかったのだろう。だが――


(香水を覚えられていたか……)


 彼は幼い頃から動物を殺したり、解剖するのが好きだった。理由など自分でもわからない。ただ、そうしてみたかった。


 衝動を抑えたいときは、猫や小鳥を殺す代わりに、オレンジの果実をナイフで切り刻んだ。その名残で、オレンジの香りを嗅ぐと心が落ち着くのだ。


 社会人になり、自由な時間と金が手に入ると、人を殺したい欲望を抑えられなくなった。家出少女、娼婦、ホームレスなど……消えても騒がれにくい人間を選んで殺してきた。


 だが、三年ほど前にささいなミスで警察に捕まりそうになり、それ以来、殺人を控えていた。


(それが逆に良くなかった……)

 

 抑圧された衝動が大量虐殺となって爆発した。ショットガンで人を撃ち殺しながら、彼はズボンの中で射精をしていた。


 目撃者を残さないため、最初から乗客全員を殺害するつもりだった。車両に生きている人間はいないと思っていた。だが――


(あの娘……新田清香……)


 自分らしくないミスだった。8号車にあんな少女がいただろうか? 最初に撃ち殺した会社員ははっきり覚えているのに、隣にいた少女のことをどうしても思い出せない。


(透明人間か……)


 空気のような存在だと自嘲気味に言っていたが、たしかに風景に溶け込んで一体化してしまうような奇妙な存在感のなさがあった。


(まあいい。奇跡の女子高生には今度こそ死んでもらおう……)


 男はナイフを鞄にしまうと、リネン室を出た。廊下に人気がないことを確認し、再び新田清香のいる病室に戻っていった。


 ◇


「奇妙な話ってあの生存した女子高生のことか?」


 年配の刑事が訊ねると、若い刑事がええ、とうなずいた。


「15、6年前、新潟で集落全体が土石流で埋まった事故を覚えていますか? 山で違法な埋め立てがあって、豪雨で地盤が崩壊し、下に住んでいた集落の人たちが巻き込まれて亡くなった事件です」


「うっすらと覚えてるよ」


「赤ん坊が一人だけ生きていたんです。倒壊した家屋のがれきの隙間で、奇跡的に生後五ヶ月の赤ちゃんが見つかったんです。自衛隊が捜索を開始して87時間目、災害の生存ラインと言われる72時間を過ぎていました」


「その赤ん坊がどうかしたのか?」


「小田急線の事件の奇跡の女子高生って、そのときの事故の赤ちゃんらしいんです」


「へえ……じゃあ今回の事件も含めて、二度も大事件を生き延びたのか。強運な子だな」


「いえ、それが続きがあるんです」


 若い刑事が苦い顔で続けた。


「少女の両親は崩落事故で亡くなったので、彼女は東京にいる叔母夫婦に引き取られたんです。……菅野さん、十年ぐらい前、世田谷で幼稚園のバスの待合所を覚醒剤中毒の男が襲った事件を覚えていますか?」


「ああ、覚えてるよ。子供がたくさん亡くなって、ひどい事件だったよな」


 若い刑事の表情でそれと察したのだろう。菅野の顔色が変わった。


「まさか――」


「ええ……その少女もバスの待合所にいたらしいんです。六人の子供が死んだのに彼女だけは生き残りました」


「…………」


「まだありますよ。彼女が中学生のとき、スキー教室に行く途中、生徒の乗ったバスが崖から転落したんです。運転手は長時間の勤務で睡眠不足だったそうです。バスに乗っていた中学生は全員、死亡しました」


「彼女以外は――か?」


 若い刑事がうなずく。


「奇跡的にかすり傷だけで済んだそうです」


 重苦しい沈黙が部屋に落ちる。事実であるならば、ただの偶然で済ませるにはあまりに〝奇跡が過ぎる〟とでもいうか。


「菅野さんは〝パンドーラーの女神〟をご存知ですか?」


「パンドーラー?」


「ギリシャ神話に出てくる女神のパンドーラー(Pandōrā)です。プロメーテウスが天界から盗んだ火を人類に与えたことに怒ったゼウスは、人類に災いをもたらすためにパンドーラーを地上に遣わしたんです」


 若い刑事は独白するように続けた。


「神々は彼女に決して開けてはいけないと言い含めて箱を持たせ、人間界に行かせました。ですが彼女はある日、好奇心に負けて箱を開けてしまいます。中に入っていたのは疫病、悲嘆、欠乏、犯罪……などの厄災です」


 禁断の箱を彼女が開けたことで、人間界にそれらの厄災がもたらされた。


「つまり……彼女は奇跡の少女なんかではないと?」


「ええ、逆です。彼女は厄災を引き寄せる疫病神です。かかわった人間は厄災に見舞われ、全員が不幸になり、死んでしまう」


「…………」


「どの事故でも、瀕死の重傷で救出された人間はいましたが、最後にはみんな亡くなっています。例外はありません。最後には一人残らず死ぬ運命なんです」


 上司が重苦しい顔になったのに気づき、若い刑事は「まあ、ただの都市伝説の類いだと思いますよ」とフォローした。


「パンドーラーの女神か……かかわりたくないもんだな。そんな恐ろしい女には……」


 そう菅野はつぶやいた。


 ◇


 男は今度はノックをせず、ドアをスライドさせた。病室に身を滑り込ませると、頭に黒い目出し帽を被り、鞄からナイフを取り出す。


 母親の姿はなく、ベッドの周りを間仕切りの黄色いカーテンが覆っていた。足音を立てずにベッドに近づくと、男はカーテンを手でめくった。


(いない?……)


 空のベッドを見て、男は舌打ちした。


 検査にでも行ったのだろうか。どこかに隠れて戻るのを待とうにも、病室にはベッドの下ぐらいしか身を潜ませられそうなスペースがない。


(出直すか……)


 だが、そろそろ記者の死体が見つかっている頃だ。いつ母娘に偽記者の情報が伝わってもおかしくない。


(できれば今日、カタをつけたいが……)


 逡巡していると、生ぬるい風が顔を撫でた。


(窓?……)


 ベッドの横の窓が開いていた。庭には少女が熱心に見ていた多年草が見えた。


 ブーンという羽音がして、大きなハチが窓から飛び込んできた。カチカチという歯ぎしりのような不快な音をさせ、男の頭の周りを飛び回る。


 ナイフを握った手で振り払うと、逆にハチは襲いかかってきた。うなじにチクッと鋭い痛みが走る。


「うおっ」


 手からナイフがこぼれ、床に落ちる。


 仲間を呼び寄せたのか、次々にスズメバチが病室に飛来する。男の頭部に集中的に攻撃を仕掛け、目出し帽越しに無数の毒針が突き刺さる。


 引き剥がすように帽子を脱ぐと、今度は顔に群がってきた。顔を覆う両手もあっという間にハチが埋め尽くす。


 肩から上に黒と黄の昆虫がびっしりとひしめき、さながら男の頭部はブツブツの奇妙な果実のように見えた。


 男の膝ががくっと折れ、前のめりに床に倒れた。額がぶつかって床で跳ね、ハチが一斉に飛び立つ。


 アナフィラキシーショックで血圧が下がり、意識が霞んでいく。真っ青な唇を震わせ、ゼェゼェと荒い息を洩らす。


 誰かが病室に入ってくる気配がした。ぼやけた視界にスリッパとパジャマのズボンが見えた。


 少女が――新田清香が立っていた。


 床に倒れている男を、哀れむでも同情するでもなく、最初に会ったときと変わらない感情のない目で見つめている。


 ヤッパリ、アナタモシヌノネ――


 彼女のつぶやきが男の耳に届くことはなかった。瞼と唇は腫れ上がり、顔には赤いじんましんが無数に浮き上がり、大きく開いた目はもう何も見ていない。


 少女に向かって伸ばした腕が床にパタリと力なく落ち、瞳孔が急速に拡大していった。


 こうして小田急線銃乱射事件の関係者はすべて死亡した。一人の少女を残して――



【キイロスズメバチ】

 別名ケブカスズメバチ(毛深雀蜂)はハチ目スズメバチ科スズメバチ亜科スズメバチ属の昆虫。他のスズメバチ類と較べても攻撃性が非常に高く、9月から10月にかけて個体数が最大になる。


 蜂の嗅覚は鋭く、特にスズメバチはオレンジの匂いに強く反応する。オレンジには、2ペンタノール(2-pentanol)という警報フェロモンと同じ匂い成分が入っており、スズメバチを呼び寄せる。


 藪枯らしは、ブドウ科のつる植物で、その花蜜を吸うためスズメバチやアシナガバチが集まることで知られている。


(完)

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― 新着の感想 ―
[一言] 面白い!
2023/01/03 17:31 退会済み
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[良い点] 中途から「この少女が・・・」とは分かる様に書かれていましたが、当人が「自覚」していた事が恐怖ですな。 [気になる点] この少女が「厄災を呼ぶ」存在なのか、「厄災を起す」存在なのか読者を悩ま…
[良い点] オカルト現象でありながら、現実的な伏線もあって、大変面白かったです。
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