● 008 勇者(1)
実は、一度死ぬか眠って意識を失えばもう一度女神様と会えるのでは期待していた。お約束展開として。でもそんなことはなかった。現実は非情である。
ううん、非情だなんていっちゃダメだ。今の僕は充分に恵まれている。
ただ、この異世界は、かなりシビアだ。
恵まれているのは事実だとしても。
多分、相当に。ファンタジーなんて言っていられないくらい。
そんなことを頭の片隅で考えながら、小龍の宿の食堂で黒パン一つと小盛りの野菜サラダ、よく焼けた腸詰めソーセージと血のソーセージ一本ずつ、コーンスープの朝食セットを頂いた。胃が小さいのでこれだけでもうお腹いっぱいだ。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
近くにいた宿の女中さんに少しお辞儀をしてそう言うと、「お粗末様でした」と優しく返してくれた。
女中さんは僕たちが食べ終わった時にたまたまテーブルの近くにいた、というよりもはじめから何気ない振りをして僕たち二人の食事風景を見守っていた、という表現の方が正確っぽいのだけれど、僕も女中さんもそんなことはおくびにも出さない。フードを被ったままの年若い少年少女がたった二人で宿に泊まるなんてかなりエキセントリックなはず。心配をおかけしてごめんなさい。気付かない内にマナー違反も山ほどしているだろう。かえすがえすごめんなさい。
「朝ごはん美味しかったですね、お兄ちゃん」
「はい。とても美味しかったです」
む、ぎこちない笑顔。
朝起きた時からこうだ。口数が少なくて、僕とも中々顔を合わしてくれない。母性本能を刺激された心優しい女中さんの様子にも気づいていなかった。
昨夜のことを気にしているのか、または裸で抱き合って寝ていたことを気にしているのか。
どっちもか…。気にしなくていいのに。
そうしている間にも、たくさんの宿泊客の皆さんがガヤガヤ、ワイワイと会話を弾ませて川のうねりのように流れていく。この都市の朝は随分と早いようだ。
好奇の視線がちらほらと。目を合わせないように顔を俯かせているとすぐに視線が切れる。
大多数の大人にとって、フードを目深に被った見ず知らずの子どもは通行の障害物でしかない。僕だって自分の用事があれば隅にいる小さな子どもを一々気にしたりはしない。
「…ごめんなさい。後ろ盾があればもっと安全に…。ボクが相応しくないから…」
「大丈夫です。謝らないでください」
でもエディ君は全然楽観的には考えられないようだ。
自己卑下は精神衛生上よくない。一度落ち込めば負のスパイラルに陥ってどんどん落ち続けていく。どんな事情があったのかは分からない。昨夜の独白から、女神教という(恐らくはこの世界での一大宗教)組織との関わりで『気づいたら自由に外へ行けなくなっていて』『結局、神殿から逃げて』と言わせるだけの過去があり、それからずっと一人きりだったと想像するしかない。『勇者を継いだのは2年前の12歳の時』という言葉も気になっている。もしかしたら、エディ君は…。
だとしても、相応しくないなんて、絶対そんなことはない。
でも。
エディ君自身が話してくれるまで、彼を下手に慰めることはできない。
だからせめて手を握る。
人目がなかったらハグできたのに。ままならないものだ。
ぶかぶかの薄墨色のローブを着て、目立たないように寄り添う二人きりの子どもたち。周りからは仲のいい兄妹のように見えているだろうか。
◇◇◇
「今日は、まず下着を用意します」
「は、はい」
ちょっと元気になったエディ君は手を繋いだまま力強く断言した。僕は気圧された。
問答無用で2回も裸のお付き合いをされたことを根に持っていたかな、という冷静な思考半分、女の子用の下着なんてどこで買うんだろう、という呑気さ半分で頷いた。
宿から半刻ほど時間をかけて歩く。朝の空気が石畳の表面にかすかに残っていた。
たどり着いたのはとても古びた白亜の建物だった。シンプルで重厚。その素材も建築様式も、通りに立ち並んでいる住居や商店のどれとも異なっている。
特に目を引くのは尖塔のように細く高く尖った屋根と、玄関の非常に大きな大扉。
「ここは、使われなくなった廃教会です」
廃教会。
廃棄された教会。それが意味するものは何だろう。
ちょっと予想外の展開に驚いていると、エディ君は僕の手を引いてすたすたと敷地に入っていく。
ギギーッ。
年季の入った扉に特有の音が鳴り響いた。
そのまま、彼は僕に有無を言わせずに礼拝堂らしき場所に連れ込んだ。心理面はさておき、行動面ではエディ君は一貫して積極的だ。為すべきことを為せる人。とても有能で、一方で過労になりやすいタイプ。
エディ君に廃教会と言わしめた建物の内部は、僕が最初に降り立ったあの世界の果てのような場所で瑕疵一つなく威容を誇っていた神殿と雰囲気がよく似ていた。荘厳な絵画を縁取る高い天井と、それを支える数列の円柱。美しいステンドグラス。
決して広くはないけれど、神聖で静かな世界がぎゅっと凝縮されたかのよう。
静謐、という言葉が自然と浮かんでくる。
その奥で、白いローブ姿のご老人が背中を向けて祈りを捧げていた。あの時のエディ君のように。
扉が開く音には気付いていたのだろう。そして来訪者にも心当たりがあったに違いない。
祈りを中断し、落ち着いた様子でこちらに振り向き、柔和な笑顔を見せてきた。
――徳の高い僧侶様だ。
人徳、と呼ばれているものを正しく備えた人を、僕はここで生まれて初めて目の当たりにした。大らかな優しさと思慮深さに裏打ちされた高潔な存在感に直面し、自分がほんの小さな子どもであることを自覚せざるを得ないような。
きっと人は、本当に偉い人を見た時、この人は本物だ、と一目で理解する能力を備えているのだろう。天使だけど。
「おはようございます。そして、お帰りなさいませ、エディンデル様」
「おはようございます、トマス様。ただいま戻りました」
「一日千秋の思いでお待ちしていました。ささ、こちらへ。爺に元気な顔をよく見せてくだされ」
エディ君が優しい仕草の手招きに応じ足を進め、フードを外す。
なので僕もそうする。抵抗感は感じなかった。
「エディンデル様、こ、こちらのお方は…」
トマス様と呼ばれたご老人と視線が合う。それまではエディ君のことで頭が一杯だったのだろう。喜色満面の笑顔が一瞬で驚愕に変わる。口をあんぐりと開けていて、まるで芸人のようなオーバーリアクション。ちょっと申し訳ない気持ちになる。
ここに来てからのエディ君の様子から、目の前のトマス様に全幅の信頼を置いていることは明らかだ。僕が抱いた第一印象もすこぶる良い。良いというか畏れ多い。
なので、謹んで自己紹介を…。おや。
いいですか、というような視線を向けてくるエディ君。こくりと頷く。じゃあ、君に任せるよ。
「天使のアキラ様です。ボクの…、勇者の使命を支えて下さるために降臨なされました」
「……!!!て、てて…」
おや、そこまで言うんだね。ほぼフルオープンだ。
では僕も。
「はじめまして。天使のアキラです。勇者エディンデル様を支える為、光の女神様の使者として参りました」
「……!!!お、おおっ、なんと…、なんと…」
驚きっぱなしのトマス様が涙を浮かべて小刻みに震え始めた。
ガクガクブルブルが止まらない。
大丈夫かな。ちょっと不安になってきた。この世界の人にとって、僕はどのくらいのショックな存在なんだろう。
◇◇◇
ところ変わって、廃教会の質素な応接室。
白い壁と仄かな明り。熱々のお茶。
こういう、日常的で落ち着いた雰囲気はこっちに来てから初めてかもしれない。宿も落ち着いてはいるんだけどね、昨晩から今朝にかけてちょっとあれな雰囲気だったから…。
「申し遅れました。爺は、この棄てられた教会を寝床にしているリバイス・トマスと申します。気軽にトムとお呼び下さいませ、アキラ様」
「はい。よろしくお願いします。トマス様」
「とうに女神教から破門された老人です。ただのトマスでございます。ですので、どうかトムと…」
「…トム様…」
「ぜひとも、トムと…」
「…よろしくお願いします、トム」
「(満面の笑み)」
徳は高いけれど、随分と愉快な好々爺だった。つい先程、ショック状態から立ち直ったかと思ったらいそいそと教会の鍵を閉めて「朝のお祈りはお休みです」と言ってのけたのだから相当だ。
「アキラ様がこう仰ってくださっているのです。エディンデル様も、ご遠慮なく気安くトムとお呼びくだされ。爺はあなた様のトムでございます」
「…トマス様、いつもご厚意に甘えてしまってすみません。今日も用立てて欲しいものがあって…」
「はて、爺はここしばらくの間に耳が遠くなってしまいまして。お茶のお代わりですかな?しばしお待ちを…」
「…トム、ローブをもう何着か頂けますか?」
「(満面の笑み)」
「はあ…。あと、できればアキラ様の衣服も…」
「成程。もちろんですとも。すぐに用意いたします。子どもたちの為に備蓄しているものがありますので、今すぐに」
トマス様改めトムは嬉しそうにすっ飛んでいった。
「その、トムはテル様が…、あ、えっと、先代の勇者様がもしもの時に頼るように教えて下さった方で、本当に頼りになって、素晴らしい神官様なんですが、少し…、いえかなり自由奔放で…」
「そうなんですね。ええと、トムは女神教の…?」
「はい。ご自分では破門された元神官だと仰っていますが、ボクにとってはトマス様こそが女神教の本当の神官様です。教会の裏で孤児院も経営していて、本当に立派な方で…、すみません、前の勇者のテル様のことも、これまでのいきさつもほとんど説明しないままで…」
「あとで大丈夫ですよ。そういえば、これから人前ではエディ君と、ユウ君、どっちの呼び方がいいですか?それとも…、お兄ちゃん?」
「……!?」
「それに、僕のことは呼び捨てか、せめてさん付けじゃないと怪しまれますよ?」
「……!!?」
そりゃあ、子ども同士で様様呼び合ってたら、一体どんな関係なのかと訝しく思われるのは当然なのだ。
お互いに尊敬し合う関係もいいけれど、僕はエディ君と気の置けない間柄になりたいんだ。
「……、……。…名前を使い分けるのは色々とややこしくなるので…、本当に恥ずかしいのですが、お、お兄ちゃんの方でお願いします。あ、あ、…アキラさん…」
「うん、分かりました。改めてよろしくね、お兄ちゃん」
多分、敬語の丁寧な言葉遣いはエディ君の口癖みたいなものなのだろう。多分。そんな気がする。神殿で修業していたと言っていたし、育ちが良くて、昔から誰に対しても礼儀正しく接していたのかな。
妹分をさん付けで呼ぶ丁寧口調のお兄ちゃん。ありかなしかと問われれば、断然ありだ。