● 005 降臨(4)
深い森の中をふわふわと飛び続ける。
エディ君がようやく平静さを取り戻したのは、苔生した聖域の森にほんの少しだけ爽やかな空気が混じり始めた頃のことだった。
「森を出る前に少しだけ時間をください」
飛行状態を解いて大木の根元に降り立つ。そこには大きな虚があり、まるで宝箱のような金属製の箱が安置されていた。
木製でないのは、この湿潤な森の中で箱ごと腐り落ちないようにするためだろう。それにしても、白っぽい箱の表面には一つの錆すらない。腐食しない金属にはいくつか心当たりがあるけれど…。
箱の中に収められていたものは、大きなフード付きの薄墨色のローブと数種類の硬貨が詰まった巾着袋、何も入っていない数個の巾着袋、そして一個の古めかしい懐中時計。
「このままの恰好では目立ち過ぎるので、このローブを頭から被って頂けますか?」
「分かりました」
「すみません、天使様なのに、正体を隠すようなことを…」
「いいえ、気にしないでください」
僕は完全な異邦人で不審者なので、身分が保証されるまで悪目立ちするつもりはない。素直に言うことを聞いて天衣の上に分厚いローブを羽織る。
裾がかなり長く、鮮やかな天衣がすっぽり隠れる。白いローファーはほんの少しだけ見えてしまうけれど、まあこのくらいなら大丈夫だろう。
支度を終えてエディ君の方を窺うと、彼も手早くローブに袖を通し、フードを目深に被っているところだった。
「エディ様?」
「…ボクも、あまり目立ちたくないので」
それは、人の住む場所で、自分の顔と勇者という肩書きを隠したいと思っているということだろうか。
目に眩しい紅白の服装が目立って恥ずかしいという理由だけならまだいい。しかしもし、あまりよくない理由で普段からそうしているとしたら。
杞憂だったらいいのに。ついさっきまでの明るい会話や赤い顔が暗い森の奥に引っ込んでしまったかのようだ。
けれど、楽観的には考えられない程に、エディ君がフードで隠す直前の表情はあまりに暗かった。
エディ君は慣れた手つきで大量の硬貨の4分の1くらいを空の袋に入れ直して懐に収め、俯いたまま懐中時計が示す時刻を確認する。そして残りの硬貨と時計を大事そうにそっと箱に戻した。
本当に、聞いて確かめたいことが次から次へと積み重なっていく。
「ここから、テイガンドと呼ばれる辺境の都市に向かいます。歩いても夕暮れまでには着きますから、街に着いたらすぐに宿を取りましょう。お話は、その後で」
「分かりました。ついて行きます」
袋の中には銀貨と金貨らしきものも見えた。生活に困窮している様子はないようだ。死んで復活してからのことが想定されていて、事前に準備もできている。まだ幼いのに用意がいい。
でも、それ以外は?
僕は勇者と出会えた。途方もなく巨大なドラゴンによって一緒に殺され、一緒に復活できた。ここまではいい。ここまでは。
けれど、事態は思っている以上に深刻かもしれない。
そもそも、勇者が一人きりであんな絶望的な場所にいたのは何故だろう。
そもそも、深刻な問題がなければ天使は必要とされなかったのでは?
出来るだけ早く確認するべきことは、勇者であるエディ君がどのくらい深刻な状況に陥っているか、そしてどのくらいのサポートを必要としているかだ。
◇◇◇
虚の大木から歩くこと数分。
木々の幹と梢の向こう側から、自然な陽光が漏れているのが見えてきた。
「森の周りには誰もいません。今なら大丈夫です」
まだ森の中にいるのにそう断言したエディ君を不思議に思って視線を向けると、彼の手元に薄緑色の光球が浮かんでいた。
小振りなスイカくらいの大きさの淡い光球の内部では、極めて緻密な森と平原が濃い緑色の光線で描写されていた。その中心の、森の縁の地点には寄り添うように白い光点が二つ。きっとエディ君と僕だ。他に光点はない。目を凝らすと、風で木々がざわめき、原っぱが波打っているのが分かる。
「勇者の力とは別の…、僕が生まれた時に女神様から授かった『天網絵図』という聖術です。周りの地形がこうして立体的に描かれて、一目で自分と敵の位置が分かるんです」
「リア…、こほん。とても綺麗ですね…」
いきなりゲームのUI的な現象を目の当たりにして、リアルタイムの3Dマッピングかあ、綺麗だなあ、と小学生並の感想しか浮かばない僕。
そして、フードのせいで顔は見えないけれど、どこか誇らしげなエディ君の声。
どうやら、この世界には魔法らしい魔法もあるし、科学的な魔法もあるようだ。
きっと魔法は万能なのだろう。空を飛べるし、光も生み出せる。気落ちしていた少年を慰めてもくれる。無限の可能性を秘めている。そうだといいな。
色々な疑問を棚上げにしたまま、少し救われたような気分で二人で何で森を抜けると、明るい青空と草原が広がっていた。
シロツメクサに似た草花が地面一杯に敷き詰められている。
この異世界に来てから初めての青い空を見上げる。心地よい風が緑を揺らしながら吹き抜けていき、更にもう少しだけ救われたような気分になった。
よかった。この世界は美しい。
「このまま真っ直ぐ進むと街道があって、それを左手に行くとテイガンドに着きます。南端の辺境ではありますが、聖域の傍にある都市なので比較的安全で、かなり発展しています」
「どのくらいの人達が暮らしているのですか?」
「確か、もうすぐ人口が5万を超えると聞いたことがあります」
5万。決して少なくない、と思う。人間がそれだけいれば何ができるだろう。中世都市をイメージする…。
「あと…、すみません、少しだけ待っていて下さい。ここで葉っぱを集めていきます」
「葉っぱですか?」
「はい。普通の人は森の中には入れませんが、外側に落ちた聖樹の葉は拾うことができます。落ちたばかりの新鮮なものなら錬金術の良質な素材になるので、街で高く買い取ってくれるんです」
「そうなんですね。それなら僕も拾います」
「えっ、アキラ様にそんな労働をさせるわけには…。ボクが拾いますから…。」
「いいえ。黙って見ているわけにはいきません。僕にはエディ様を支えるという使命がありますから。喜んでお手伝いします」
「その…、分かりました。ありがとうございます…」
「どうしたしまして」
そうと決まれば、と森の外縁に沿ってせっせと青くて大きな葉っぱを拾い集めていく。茶色く変色したものと渇いて硬くなったものは除外して、まだ艶々とした新鮮な葉っぱを探す。
最初はエディ君の見よう見まね。慣れてくると段々ペースが速くなる。ああ、こんなことをするのはいつ以来だろう。幼い頃のどんぐり拾いを思い出す。宝探しみたいで結構楽しい。
「そろそろ行きましょう。どのくらい集まりましたか?」
「85枚です。エディ様は?」
「あっ、えーと…82枚ですね」
「やった、勝ちました」
「っ…」
おっといけない。ちょっと負けず嫌いなところが出てしまった。いくら相手が大人びているとはいえ、12歳くらいの男の子相手になにをやっているんだ、僕は。
おや、また勇者君が赤くなっている。本当に心当たりがない。何故に?
「せ、折角たくさん集めたので急いで町に行きましょう。今日中に持っていけば高く買ってくれるはずです」
「はい。…あっ」
何かの気配がしてそちらを見ると、男女2人ずつの大人のグループがこちらに向かって歩いてきているのが見えた。全員若く、全身を褐色の革製の防具で覆っている。おおっ、レザーアーマー!実物!リアル!(テンションアップ!)
顔は20歳くらいのお兄さん、お姉さんといった風貌だ。僕たちに気付いても、まるで気にせず軽く笑って談笑している。
「こんにちは」
「こんにちは。あなた達も落ち葉拾い?まだ小さいのに偉いね。でも、たまーにこの辺りでも怖い魔獣が出るから、よく気を付けてね」
「はい、ありがとうございます。えっと、ここからあっちの方までは大体拾ってしまったので…」
「そう、じゃあ私たちはこっちから集めるわ。教えてくれてありがとう」
どうしようか迷っていると、以外にもエディ君の方から積極的に話しかけて、相手に合わせてとても友好的に会話を終えていた。
しかも、まるで本当の子どものように。
3Dマップの魔法はいつの間にか消されていた。
すごい。全く危なげがないコミュニケーション。パーフェクトでは?
4人の若者全員がこちらに笑顔を向けてひらひらと手を振ってくれている。エディ君がぺこりとお辞儀をしたので僕もそうした。
背後から、いい子たちだったね、きょうだいかな、よく見えなかったけどめっちゃ可愛くなかった?、変態、という声が微かに届いてきた。
「あの人たちもここまで葉っぱを拾いに?」
「そうだと思います。駆け出しのハンターにとっては丁度いい小銭稼ぎになりますから。でも、言われたように森の傍でも稀に魔獣が出るので、子どもだけだと危険です。それでも、働き口のない孤児が命がけでここまで落ち葉拾いに来ることは珍しくありません」
僕たちもそうだと勘違いされた。
エディ君はそれを否定せず、自分が勇者だと明かさなかった。それどころか、なるべく顔を見られないようにしていた。見るからに善良そうな人たちであっても。
ふむ、ふむふむ。
はい、もう確定。
勇者なのに正体を隠している。
不自然にならない程度に人との関わりを避けている。
勇者なのに。
彼自身の気質の問題であれば、寧ろどれだけいいか。
もしそれが、勇者という立場のせいだったら?
◇◇◇
「天気がいいですね」
「はい」
「景色が綺麗です」
「はい」
天使になったと身とはいえ、人生経験はまだまだ乏しい僕が頭を悩ませていたこともあり、道中の会話は少なかった。エディ君はエディ君で物思いに沈んでいるようだった。
ピピピッ。
と、そんな時、エディ君が肩口辺りの空中に浮かばせていた3Dマップの光球が電子音のような音を発した。視力抜群の目の焦点を合わせると、内部に描写された草原の端っこに3つの赤い光点が灯っていた。
そして光球の近くには長方形の透明な板が新たに浮かび上がっていて、そこには『哺乳類型魔物3』という文字が表示されている(もう驚かないぞ)。
「絵図の光球は、敵の接近と、その種類や数も教えてくれます。左斜め前方から3体の魔物…、速度と大きさから、グラスウルフ。草原に生息する最下級の魔狼です」
彼の落ち着いた声に導かれて左の方向を見ると、なだらかに傾斜している草原の只中に3体の狼のような動物がいて、こっちに向かって全力疾走をしてきているのが見えた。
あれがグラスウルフという魔物だろう。魔物というからには普通の動物とは違うはずで、危険性も段違いなのだろう。見るからにとても狂暴そうで、涎を垂らしていて、完全に僕たちを獲物として捉えている。つまり、人間を襲って食べる、という特徴を持っていると考えられる。
「魔物…。敵、ですか?」
「はい。人間の敵のひとつです」
当のグラスウルフはまだまだ遠くて豆粒のよう。ここにたどり着くまでにはもうしばらく時間がかかるだろう。
「このままだと戦うことになりますか?」
「はい。ここで迎え撃ちます」
忘れてはいけないのは、僕には戦う力がないということだ。支援特化で、勇者を支えることしかできないのが僕だ。
そもそも、地球でも空手や剣道等の武道はおろか、ろくにスポーツもしていなかった。ネットやゲーム、読書ばかりに時間を費やしてきたバリバリの…、というかヒョロヒョロのもやしっ子だ。
「加護はいりますか?」
「いえ、あのくらいなら問題ありません。すぐに終わります。…《ウィンドエッジ》」
話し言葉とは明らかに異なる異質な言語の発音と共に、無色透明の力が働き、大分手前まで接近してきていたグラスウルフの首がスパンと一瞬で刎ねられた。3体同時に、鋭利に。ブシュー、と赤い血が吹き上がる。涼やかな風が吹き抜ける。
……。
…………。
えっ?
つよっ。
大量に流れた血に滅茶苦茶驚きつつ、凄い威力だったなあ、RPGだとレベル幾つくらいだろう、エディ君は魔法も使える万能系勇者だなあ、と半ば現実逃避もして。
グロいなあ、強いなあ。でも前途多難だなあ、と僕は頭を呑気に混乱させてしまったのだった。