● 047 開花
ゆらゆらと空中を飛んで巨大な聖樹の迷宮を潜り抜け、死によってではなく自らの意志で神殿に降り立つ。
「初めて死んでから、長い間、ここだけが僕に許された場所でした」
ただただ清浄で静謐な復活の神殿の中心。エディ君が膝を折り、大理石のように滑らかな白い床にそっと触れた。
「命も…、魂も…」
膝を付いたまま胸に手を当てる。まるで誓いのように。
「アキラさん」
「はい」
――《光の聖剣》
――《光の加護》
煌々と輝く赤い聖剣に、水色に淡く光る6枚の加護の花弁を重ねる。
2つの光が合わさった瞬間、聖剣はたわみ、極小の星となり、淡い紫の光を溢れさせた。
眩くも柔らかな、蓮華に似た菫色の光が大きく咲き誇る。神殿ごと、僕たちを優しく包み込んでいく。
光の花。死が訪れる最後の瞬間に僕たちを苦痛から遠ざけ、悪夢めいた黄昏の戦地でいつも安らかな死を与えてくれる魔法。
奇跡が色づいたかのようなその花を復活の神殿で咲かせてみよう、とエディ君と話し合って決めたのは今朝のこと。
ほとんど同時に目覚めた時、そうする必要がある、と2人共が思い付いていた。
数々の艱難辛苦を乗り越え、この光の花を最も大切な場所で満開まで咲かせる日がやって来たのだと。
それは決して闇の魔物を消し去るだけでも、安らかな死をもたらすだけの光ではないと、はじめから分かっていたかのように。
と、ここまでが、いささか誇張した詩的表現。
明け透けに言うと、僕とエディ君の魔力が合算で遂に1万の大台を超えたからだ。
昨日の戦いで9000体以上もの陰魔を倒し、エディ君のキャパシティが約3600、僕は約7000まで一気に成長した。
魔力と命を吸い取り尽くす魔法とはいえ、さすがに魔力を1万も注げば何かが起こるんじゃないだろうかという軽い思い付き。
1万でだめなら次は5万、10万くらいで試せばいい。ともかくたくさんの魔力を光の花に注げば何か起こるはず、起こったらいいなという期待がある。
それで、ダメで元々、ちょっと試してみようという話になり、休日の散歩デートの延長で神殿までやって来た。復活の神殿で試せば、もし失敗して死んでもその場で復活して安心安全なので。
ダメもとではあるけど、何かが起きるはずという直感はある。さっきからビンビン来ている。魔法も奇跡もある世界だから、天使の直感は馬鹿にできないと思う。
「綺麗ですね」
「はい。とても」
――1000エルネ。まだまだ魔力が光の花に吸い込まれていく。流石に1000では足りなかったようだ。
――2000エルネ。
――4000エルネ。
思っていたよりは速いペースで魔力が注がれていく。僕達の手元に浮かぶ極小の星を中心に、菫色に色づいた美しい半透明の花弁が視界を包み込み、夢でも見ないような幻想的な光の芸術を作り出している。
――6000。
祈りとは異なる表情で菫色の星を見詰めるエディ君。
綺麗だ、と思う。心から。
――そして。
――8192。
――《光の神域》
菫色の神聖な空間が花開いた。
+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+
――2405/268435456。
――眼下のレヴァリアは『物の理』の時空と『数の理』の時空が重なり合った宇宙に浮かんでいる。
まず最初にそう理解できたのは、僕が天使だからだろうか。それとも地球という全く別の世界を知っているからだろうか。
――二つの理は『神の理』によって創造された。
真実の知識が流れ込む。真実の現実が花開く。
数多ある『神理』。それは数多の神々そのもの。一つ一つの神こそが理。理こそが神。
それらは天上の神理空間に座し、物理か数理、あるいは両方を支配し、全く新しい現実世界を創造し、破壊し得る存在。存在の存在。
ここは神理空間の片隅。今この瞬間だけは、僕とエディ君は神々の末席に座している。
僕たちは二人で一つ。生まれたばかりの、双子のような陰陽の連星。
――足元には巨大な青い星が浮かんでいる。その青い海と茶褐色の荒廃した大地、真円の形をした大結界が眼下に広がる。
天使レヴァから創られた大結界の内側には広大な緑の大地と、その緑を侵食するように点々と穿たれた黄昏色の歪んだ円がある。
大結界の外側では黒々とした無数の陰魔の大群が蠢いている。その数、1207万。そして、大きく弧を描く地平線の近くには真っ黒な一つの点…、陰黒龍ギラーが滲んで見える。
――そして、頭上の天空では七色の無数の光がキラキラと輝いている。全てが神々だ。
光の女神様は近くにはいない。
ここは僕が最初に女神様と話をした空間とも異なっている。あの温かな場所に比べたら、ここは極寒の暗黒空間。
同じ神様の世界でも、宇宙の星々のように隔たりはあまりに大きい。未熟な内はこの虚空を渡ることは不可能だろう。
女神様が与えてくれた唯一無二の魔法が僕たちをここまで引き上げた。
――魔法とは神理から零れ出た燐光の数式であり、魔力とは燐光のバイナリー(二進数)である。神々の奇跡には全く及ばないが、星々を造り変える程度の力はある。
今、この目に映っているのは星を構成する物質だけではない。
数的な魔力と魔法が惑星全土で大きく流動しているのが分かる。大空でも、大地でも。
レヴァリアは光り輝く魔力で満ちている。陰魔は暗黒の魔力で造られている。
この宇宙は『三次元空間(α)+時間軸(γ)』の物理時空で成り立っている。
しかし、この星にだけ、星より一回り大きな『三次元空間(β)+時間軸(γ)』の数理時空が重なっている。
二つの時空において時間軸(γ)は共通している。しかし、三次元空間(α)と三次元空間(β)は同一のものではない。原理不明。
三次元の数理時空とは如何なるものか。理解困難。三次元サーキット?バイナリーな量子が複雑な三次元回路を形成している…。
そして、神理時空の空間は少なくとも四次元以上。時間軸は二本以上。女神様のいるところは五次元か、さらに上。
だから、ここからは全てが見える。時間座標の移動はできず、空間情報が圧縮されて潰れているけれど、少なくともあの星を覆う地表くらいなら全て。
一人一人が懸命に生きている。諦めることなく戦い続けている戦士がいる。幸せな家庭を守り続けている母親がいる。父親の無事を祈り続けている子どもがいる。
一人一人が懸命に死んでいく。雄たけびを上げて剣を振り上げる戦士がいる。家族の幸せを願いながら息を引き取る母親がいる。仲良く抱き合いながら飛び降りる子ども達がいる。
それら全てが同時に見える。
誰もが命を燃やし続けて…。
「父さん、母さん…。ミア…」
あまりに莫大な情報の海の底で溺れる寸前、すぐ隣から大事な人の声が聞こえた。
だから、命の海に溺れて消える訳にはいかない。
僕は僕で、本当に大切なのはエディ君だから。
「エディ君」
「あの山の麓に、ボクの家があって…。その、ミアというのはボクの妹です。二歳年下の…」
「見えます。元気に羊を追いかけている女の子も、ご夫婦が仲良く洗濯物を干しているところも」
「はい。あの赤毛の女の子がミアです。ああ、無事でよかった…」
「はい、本当に。すぐ隣の家に、トムと雰囲気のよく似た神官様がいらっしゃいます。多分、エディ君のご家族を陰ながら護衛しているんだと思います」
「僕もそう思います。トムのお弟子様かもしれません」
エディ君は泣いていない。涙を我慢しているようにも見えない。
驚きと祈り。
そっか、今年で12歳だから追いつかれたのか、と言葉を零しながら、菫色の燐光へと少しずつ体を崩しながら、足元の小さな世界を見続けていた。
僕も少しずつ崩れていく。光の花へ注いだ魔力が急速に虚空へと蒸発していく。この世界にいられる時間は長くない。
感傷を凍結し、虚空から漂ってきた燐光から必要な情報を得る。この燐光に必要な情報が入っていると直感的に理解できる。
これは…、はい。分かりました、女神様。
「ごめんなさい。貴重な時間を使ってしまいました。どうしても気になってしまって」
「謝らないで下さい。ご家族のことより大事なことなんてありません」
「ありがとうございます。その…、ここはどこでしょう」
「天上にある神域…、神様の世界の端っこのようです。いわば神域辺境ですね」
「神域辺境…」
「あと、どうやらここからギラーを攻撃できるようです」
「えっ…」
「高次元世界から投下する、局所的で絶対的な破壊をもたらすエネルギー爆弾。一発切りの使い捨てで、光の花を通じて満たすべき魔力は2億6843万5456エルネ。女神様が用意してくれた、僕たちにしか使えない飛びきりの切り札です」
「切り札…」
「ルール違反にならないよう奇跡的な調整が為された分、威力と必要な魔力は完全に固定されています。それに、ここでは魔力が揮発し続けるので貯蓄も不可能です。チャンスは本当に一度切り。そして、上手く直撃させたとしても、ギラーを殺し切ることはできません。最後の最後は、エディ君が直接止めを刺す必要があります。だから、エディ君」
「はい」
「必要なことは全て言ったので、あとは一緒にこの星を見ていましょう。今はただ、できるだけ長くそうしていたいんです」
「……。くす。はい、喜んで」
「ありがとうございます」
僕達がこの神域辺境に来るには8192エルネを光の花に注ぐ必要があった。
通行料だけで2の13乗エルネも必要で、そこから更に注がれた魔力がエネルギー爆弾を鍛造するために『この僕達』に蓄えられていく。僕とエディ君の意識がここに存在できるのは、僅かに通行料を上回った魔力が虚空へと揮発して無くなってしまうまでの間だけ。
――1346/268435456。
光も闇もある。
生も死も。
希望も絶望も。
綺麗なものも、汚いものも。
真実すらも。
例えば、ウィバク黄昏領域。
巨大砂丘が渦巻く深層部に、漆黒の球体を八本脚の上に載せた異形が7体いるのが見える。神官級。
情報を少しだけ読み取り、レヴァリア侵略時には8体いて、封印直前にテル様が命を捨てて一体だけ倒してくれていたのだと判明する。
神官級7体は正七角形を描くように配置され、それぞれのすぐ傍には白く巨大な円柱が天盤まで空高く聳え立っている。7体の神官級と、7本の円柱。各神官級は光る縄によって円柱と繋がれ、強力な制限を受けている。あれもまた天盤結界の一部。
そして、天盤結界の中心部には純白の光で造られた聖堂が存在している。その中で、骨と皮だけになった神官様が鎮座している。
世界各地の黄昏領域がどうやって造られ、維持されてきたのか、エディ君の口から語られたことはない。多分、エディ君にすら知らされていなかったのだろう。
レヴァリアを覆う半球状の大結界。
その真南には僕が降臨した最果ての神殿があり、更に南へ行くとまるで蓋のような真っ黒な真円が大地にそのまま落ちている。直径約1キロメートル。情報を読み取る。常闇の蓋、と呼ばれる闇の結界。陰黒龍ギラーはその中心に屹立している。
加えて、そのような物理時空と重なる数理時空上で、3本の大きな枝を持つ魔法系統樹が黒い蓋から伸び出ている。直径約1キロメートル。常闇の蓋は系統樹が落とした影。魔神が存在しているとされる場所から七色に輝く巨大な魔法システムが生え、密かにギラーを包み込んでいる。
蓋の地下、系統樹の下は完全な漆黒。詳細不明。
魔神が魔法系統樹の一部なのか、あるいは魔法系統樹が魔神の一部なのか。それとも、両者は全く同一の存在なのか。そこまでは分からない。
しかし、魔神の正体は明白だ。
この神域辺境から高次元エネルギー爆弾を落とせば、ギラーを包む魔法系統樹にも大きな損傷を与えるだろう。極めて莫大な魔力が必要とされる理由。
成層圏付近と重なる数理時空には、様々な形の死者の島が浮かんでいるのが見える。善良な人間が魂を癒す花園、魔法使いが知識欲を埋める図書館、罪人が罪悪感を描き続ける工房。死者を純粋な魂に還元し、この星の輪廻に乗せるために。輪廻の輪は静止軌道で銀色に輝いている。
ああ、そして、高潔な聖騎士と神官が集う宮殿が淡い白色の光に包まれている。決して名前を教えてくれない守護者たちがあの場所にいる。
レヴァリアの中心には巨大な塔の大都市が見える。王都セイヴリード。100万人が暮らす不朽不屈の巨塔都市。正真正銘の世界の中心。
王都復古から1100年以上が経過し、支配者たる上層民達の専横が蔓延っている。中層民は虚業に耽り、下層民は反乱の刃を研ぐ。
王都地下には不滅を誇る女神教大神殿。当代の神子が鎮座する。大結界の担い手にして、レヴァリアを支える影の支配者。彼女自身は善良な人物であると理解する。
東には真龍妃エス・エリスが治める天空都市ファイバ。標高10000メートルを超えるミラクトル山に造られた神秘の都。
エス・エリスは名君だが、日に日に武断派が勢力を取り戻しつつある。ファイバ中枢に仕掛けられた呪毒爆弾。刻まれた印によると、災禍までの猶予はあと1813日。
西には鮮血姫フェアリエル、巨人骸レッドクラウンとの二正面作戦を堅持し続ける万軍都市シシラナイ。
防備は厚く、三色の宝石に陰りはない。膠着はあと10年は続くだろう。深淵なる腐界迷宮で眠り続ける原生の魔王が目覚めない限り。
南北を貫く一筋の中央街道。その南端に辺境都市テイガンドが見える。東西にはドーウィ森林とオオイル山。
街道を北に辿るだけでいくつもの主要都市に至ることができる。セイヴリードを除き、特に名高いのは農業都市シェカン、錬金都市ケディゲンヘル、迷宮都市ルナーナ、魔導都市ユークン、交易都市ルジュア、地下都市ゼクタム。
街道を外れても、大都市はそこかしこに点在している。鉱脈都市、河港都市、王墓都市、屠龍都市、学園都市、享楽都市…。
全ての都市に大きな苦難があり、希望の種が隠されている。
衛生都市や小都市、市壁を持たない村落をも数えるなら、光が全く届かないような場所は極めて少ない。
ただ、陰魔の爪痕、薄暗い黄昏領域は決して無視できない汚点として豊饒の大地に残り続けている。ウィバクを含め、全部で36箇所。
そして、北の果て。聖水の湖の畔。白亜の北神殿。
神殿とは名ばかりで、その石積みは威信を求めた人の手による建造物に過ぎない。真なる神殿、神託の神殿は更に北にある。神子だけが身を沈めることを許された聖なる湖の底に。
偽りの神殿は停止している。
列柱も、壁も屋根も、内部も全て。時間と空間ごと、神官長バギス・セージアンとその派閥全てが凍結されている。まるでウシガエルのような顔が、部下を叱責する表情のまま固まっている。神罰?神子の制裁?不明。光も含めて全てが停止している為、暗黒に閉ざされた空間と輪郭しか読み取れない。いつ解除されるのかも不明。女神様の回答はない。
エディ君の吐息が虚空に消えていく。
しっかりと手を繋ぐ。大丈夫。
―
―
―
―
―
―
―
―
――何かがおかしい。何かかがあまりにもおかしい。
――本当にギラーを爆撃してもいいのか?魔法系統樹は魔神に等しい。自分がそう結論付けた。魔法系統樹は人間に天恵を与える。魔法系統樹は人間と密接な関係がある。その事実をなかったことにしてはいけない。最悪の場合、このままでは――
でも、だとしたら。
どうすればいい?
――46/268435456。
考えるには、あまりに時間が足りない。
――40/268435456。
聖樹の森の奥深く、光り輝く菫の花に包まれて目を閉じているエディ君と僕がいる。地上のエディ君と、僕自身。神域辺境にいるこの僕たちと同時に存在している。
存在と魔力の繋がりを感じる。
地上の方に意識を割き、万が一を考えて私服のポケットに一つだけ入れておいた一等級マナ結晶に手を忍ばせる。
1000エルネを体内に充填する。問題なし。僕の体を介し、ほとんど一瞬でマナ結晶から光の花へとマナ結晶が注がれていく。僕の体は地上と神域を繋ぐ中継器と化している。
――1035/268435456。
――1034/268435456。
一等級マナ結晶による魔力回復速度を1とすると、魔力が虚空へ揮発していく速度は0.1038。
よって、全てを一等級マナ結晶で賄おうとすると、揮発分を入れて最終的に必要な魔力は2億9952万6484エルネ。
―
―
―
―
考えろ。高次元情報に振り回されるな。
――754/268435456。
――521/268435456。
――288/268435456。
――ルール。そう、ルールだ。光の女神様のルール。けれど、誰との?自分だけのルールでないとしたら。そう仮定して、女神様は、一体誰とルールを取り決めた?
――光と、闇。女神と、魔神。
――――。
――ダメだ、あまりに次元がかけ離れていて、ここで見聞きしたことはそのまま地上に持ち帰れない。思い出せない夢のように消えてしまう。
危なかった。そのことにすら気付かないまま、全てを無駄にしてしまうところだった。
せめて、本当に必要な情報だけを――
―
―
―『※※※』
よし、できた。ギリギリ、このくらいの情報量なら三次元脳髄でも解凍できるはず。
――130/287081533。
もうここでできることはない。あとは星空のような地上の営みを眺めながら静かに崩れ去っていくだけだ…。
でも。やっぱり。
残り少ない時間で、世界中のどんな光景よりもエディ君の家族へと目が行ってしまう。元気に跳ね回るミアちゃんがもうすごく可愛い。会いたい。そして、エディ君と再会させてあげたい。エディ君が四歳、ミアちゃんが二歳の時に離れ離れになってしまった、かけがえのない家族。
最後に、結局どうしても我慢できなくなってエディ君の横顔を盗み見てしまった。
彼は家族をずっと見続けていて、とても優しい笑顔を浮かべていた。色とりどりの真実には目もくれず。
菫色の燐光がキラキラと輝きながら虚空へ流れていく。全天の星々にも負けないくらい美しく。
僕はその光景を見続けた。永遠のような一瞬の中、茜色の瞳が光に解けるまで、ずっと。
+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+
少し時間感覚がおかしくなっている。テンションも少しおかしい(乙女心のせいか、最近はテンションがおかしくなる日が多い)。
エディ君もベッドの上でぼんやりしている。ほわほわというよりもぽやぽやという感じ。無防備すぎて可愛い。
結局、僕たちはあの神殿で死んで、その場で復活していた。そういう事実になっていた。裸で抱き合っていて、着ていた服がすぐ傍に落ちていたので間違いない。
神々は――
世界は――
魔神は――
思い出せない。
通行料が8192エルネだという事はちゃんと覚えている。
でも、あの世界(あの世界とは?)はあまりに高次元過ぎて、まるで思い出せない夢のようだ。
よく分からない、というのが率直な感想。
ただ、あまりにも美しい理と、光と闇と、彼の横顔と――
――『268435456エルネの高次元爆弾でギラー爆撃可能。チャンスは一度。魔力揮発あり、実費は3億。※※爆撃決行前に魔神と交渉せよ※※』
ふむふむ、中々気が利くじゃないか、僕。
計算は容易だ。取り敢えずの机上の空論では一等級マナ結晶42858個分。金額にして2142億9000万レン。
……。
これは偉大な一歩だ。
僕たちは確かに天上へと辿り着き、解くべき問題が明らかになった。
たった一歩の前進だとしても、そしてそれがあまりに困難な道のりであっても、辿り着くべきゴールはより一層明確になった。
得られたのは極めて茫洋とした夢心地であり、超弩級エネルギー問題である。とても世知辛い。
…………。
………………。
…分かっている。あの文言はちゃんと覚えている。
現実逃避してはいられない。
けれど、それは、あまりにも。
だって、エディ君は今でも十分悩み、苦しんでいる。
たった一年後の未来を考えられないくらい、忌まわしい過去に追い詰められている。
ウィバクを開放してはじめて、エディ君は正真正銘の勇者になれる。侵害された命を取り戻せる。その前提条件だけは、僕がどう慰めても、どう言い繕っても覆すことはできない。
以前に2人で長期目標や中期目標について話し合ったことはある。
けれど、あの時とは別次元の問題だ。一体どうすればそんなことが可能なのか、全く糸口すら掴めない。それどころか、どうすればそんなことが可能だと信じてもらえるのか、全く見当もつかない。
ウィバク解放だけでも身も心も擦り切れそうなのに。3億もの魔力だけでなく、まさか、魔神と――
でも。
…でも。
僕はエディ君を信じなければならない。
こんなに大事なことを言わないでおくなんて、彼を信じないことと同義だ。
だからきっと、明日僕は彼に伝えるだろう。一言一句、正確に。伝えずにはいられないだろう。
◇◇◇
「分かりました。アキラさんを信じます」
エディ君はそう言ってくれた。言ってしまえば、あっけらかんと。そういうことがあってもおかしくない、みたいな表情で。
「だって、死にかけていたボクの目の前にアキラ様が降臨されたんです。きっと未来永劫、それ以上の奇跡は起こりません」
エディ君は断言した。心からそう信じているように。
「だから、もし魔神と話ができるとしても、ボクにとってはそんなに大したことでも、驚くようなことでもありません。…えっと、そんなに意外ですか?…くす。アキラ様はもう少し、ご自分のことを自覚した方がいいと思います。世界でただ一人の、五番目の天使様なんですから」
ふわりと優しく微笑まれた。
エディ君がそんなふうに思っていたなんて知らなかったなあ、調子が戻ってきたエディ君は大物だなあ、等々と思いながら、何故か色々なところが熱くなって、何も言い返せなかった。




