● 044 少女Ⅴ
5月30日、サルファス日。黄色の日。
特に代わり映えのない、ちょっと贅沢な気分になれる中休みの日。少し遅い朝食で他愛のない話をする。
訓練室での魔法鍛錬は午後から行うことにして、週市のない中央広場も見てみようということになり、中央区までゆっくり散歩をした。
市場が開かれていない平日の広場は閑散としていて、ベンチに座ってのんびりするにはちょうどいい長閑さだった。
ああ、この世界に来て、エディ君と出会ってもう一か月が過ぎたんだなあと感慨にふける。実感する。
たった一月の間に色々なことがあった。本当に色々なことが。
隣に座るエディ君のことを意識する。意識してしまう。
「いい天気ですね」
「はい…」
このまま、ずっと平和な日が続けばいいのに。ふとそう思ってしまった。けれど、口にすることはできない。決して。
「ずっとこんな日が続いたらいいのに…」
思わずびっくりしてエディ君の方を見てしまった。
はっとした様子から一転、顔を真っ赤にして俯いてしまう。
そして、ごめんなさい…、と今にも消え入ってしまいそうな声で謝ってくる。
「勇者なのに」それ以上は言わせない。しっかりと手を握って黙らせる。
「あ…」
「僕も同じ気持ちです。こんな平和な日がずっと続いたらいいのにって、そう思っています。そう願うのは悪いことじゃありません」
「はい…。ありがとうございます」
「全部、終わらせましょう。いつか必ず」
「はい。必ず」
エディ君は笑って頷いてくれた。
でも、それはどこか寂しそうな笑顔だった。
きっと、エディ君はまだ本心では確信できていない。将来の勝利も、幸せも。
だから何だ。落ち込んでたまるか。
僕は絶対、諦めない。
「そうだ」
「どうしましたか?」
「僕が使い捨て用のバッグを手作りすればいいんです。そうすれば安全にマナ結晶をたくさん持って行けます」
「アキラさんが…、バッグを」
昨日お店で思い付いていたことを、いかにも突然閃きました、という感じで話して物悲しい空気を追い払う。
グッドアイデアなのは確かだし。
ベルトポーチみたいに腰に巻いて固定すれば邪魔にならないし、安い布で作ればそう大した出費にもならないと思うし。
「帰りに布と裁縫道具を買いに行きましょう」
「アキラさんが手作り…。天使様なのに手作り…。アキラさんの…」
アンニュイな表情から一転、途轍もないカルチャーショックを受けてしまったかのように放心するエディ君の手を引いて帰路につく(そんなに意外かなあ?)。
型紙と生地はどこで買えるだろう。使い捨て前提だから、ある程度丈夫なものならどんなものでも問題ないかな。色は…、淡い青系で。初心者向けの裁縫の本も買わないと、と考えながら2人で銀星街を巡っていると型紙と生地の専門店なる小さなお店を発見した。僕にとっては目から鱗で、とても新鮮な発見だった。きっと前の世界でもこういうお店はあったのだろう。僕が全然興味を持っていなかっただけで。
お店の人はとても親切な人で、自分でベルトポーチを作ってみたいという無謀な相談に笑顔で応じてくれた。初心者用の裁縫道具も入門書も一揃いで売っていて、商売上手だなあと感心して思わずニコニコである。エディ君も店員さんもニコニコ。
裁縫は、中学校の家庭科の授業でほんの少しだけ縫物をした経験がある以外は未知の領域だ。
レッツチャレンジ!
◇◇◇
6月1日、エシス日。緑の日。
6月は未明の大雨から始まった。
大粒の雨が屋根や街路を激しく叩く音で目が覚める。
昨夜はポーチ作りに熱中して少しだけ夜更かしをしてしまった。ほとんど生まれて初めてのことばかりだから、天使の頭脳と手先をもってしても早々簡単にはいかない。
なみ縫い、ぐし縫い、半返し縫い、本返し縫い、まつり縫い。ポーチ作りには本返し縫い。魔力路の鍛錬と同様、毎日少しずつ練習を繰り返して針の扱いに慣れていこう。
エシス日の緑の日は、いつもならウィバクの黄昏領域に行って死ぬまで陰魔と戦う日だ。
けれど今日は激しい雨で、夜のように暗い。窓の外の街並みが灰色に煙っている。
「エディ君。今日はお休みにしませんか?」
「えっと、いいんですか?」
「いいんです。絶対にスケジュール通り働かないといけない、なんてことはありません」
「でも…」
おや。珍しくエディ君が渋っている。いくら天使の言うことでも、陰魔との戦いだけはズル休みをするのは抵抗感があるようだ。
どうしようかな。
よし、今日も一歩踏み込んでみよう。女神様、どうか僕に勇気を。
「雨は黄昏領域でも変わらず降っていますか?」
「あ、はい。それは変わりません。黄昏領域を取り囲む天盤結界は、陰魔の存在と影響を内側に完全に閉じ込めることに特化しているので。雨風や僕たちは普通に通り抜けられます」
「じゃあ、やっぱりお休みにした方がいいですね。土砂降りの中で、あんな怪物の大群とわざわざ戦うのは狂気の沙汰です」
「狂気の沙汰」
「はい。考えるだけで悪夢です。エディ君もそう思いませんか?」
「それは…、はい。考えるだけで、気が滅入ります」
「よかった」
「えっ?」
うん。よかった。
「正直に答えてくれて。気が滅入るって言ってくれて、安心しました」
「あっ…、それは、その…」
「気が滅入るのは、雨が降っている時だけですか?」
「う…」
返答に窮し、ずるいです、と以心伝心の目線を送ってくるエディ君。ごめんね。
「ボクはずっと心配していました。我慢して何も言わないでいるだけで、エディ君は陰魔と戦うことが嫌なんじゃないかって」
「…はい。本当は…」
「本当は?」
「あそこで戦うのは怖くて、痛くて、辛いんです。でも、勇者だから当たり前のことだからって思ってきて。できて当然の、勇者の使命だから…。でも、どうしても。どうしても、あのまま消えるのが嫌で。誰かの役に立ちたくて…」
「教えてくれてありがとうございます。これからも、嫌だったら嫌だって、あまり我慢せずに教えてください。僕にだけ。僕にだけだったら、大丈夫ですから」
「…はい。ありがとうございます」
今すぐエディ君をハグしたい。どうしよう。我慢した方がいいかな。
いいや、我慢しなくて。いい雰囲気だし。
よし、最近磨かれてきた絶妙の力加減のハグテクニックで――
「その…、あまり我慢せずに、ということは、我慢してもいいんですか…?」
「――えっ、と、はい。勿論です。オトコノコは色々と我慢してしまうものだと知っていますから。我慢すること自体が悪いとは言いません」
「なるほど…、分かりました。…どうしましたか?」
「いえ、こほん。エディ君、こういう時に大事な考え方は何でしょう?ヒントは、今までに僕が言ってきたことです」
「ゼンマイを緩める、ですね。気を抜ける時にしっかり休んで、ストレスの発散をします」
「大正解です。ご褒美のハグを進呈します」
「わぷっ!?」
もう、という視線。
そのままなし崩しで休みにして、午前中はエディ君とマンツーマンの地理、歴史、魔法の授業を行った。魔法鍛錬も休みだ。やっぱり週に一日は完全休養日が必要かな。
昼食は銀星街で外食の新規開拓を行い、第一印象に任せてお蕎麦屋さんのような渋い店構えの食事処に思い切って入店した。
こういうお店に子どもだけが来店するのは珍しいのか、ちょっと驚かれた。店員さんもお客さんも年配の人が多い。でも、視線はとても柔らかかった。
ざるソバのような麺類の料理を注文すると、ソバのような風味と触感を味わうことができた。うん、これはやはりソバだ。美味しい。麺とつゆの冷たさも熱ぼったい体には丁度よかった。エディ君もつるつると美味しそうに食べていた。気に入ったみたいでよかった。
食後にはソバ湯のサービス付き。
ソバ湯をどうやって頂いたらいいのか分からない様子のエディ君。こうやって飲めばいいですよ、とストレートとソバつゆ割りの二通りの飲み方を教える。何故かソバの食べ方には詳しいロリ天使である。
ソバ湯を飲んでみて、エディ君は何とも言えない味わいの顔をしていた。まあ、慣れない内はね。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
美味しかったです。また来ます。
宿に帰って食後の将棋でのんびりしてから、午後はポーチ作りに取り組んだ。
型紙通りに布を裁ち、教科書通りに丁寧に縫っていく。隣のベッドからのエディ君の注目がくすぐったい。読書をしているふりをしてチラチラと。バレバレだよ。
そうして、主張の激しい雨音と控えめな灯りに包まれ、穏やかな時間が過ぎていった。
そういえば、エディ君はたまには一人になりたいと思ったりしないのだろうか。
いくら僕たちが良好な関係でも、四六時中べったりというのは不健康かもしれない。どの口が言うのか、という良心からのツッコミは無視する。
誰にも邪魔されないプライベートな時間と空間はとても大事だ。いけない、もっと早く気が付くべきだった。
ということをそれとなく聞いてみるときょとんとされた。
それからふと神妙になって。
「ボクはもう、もう一人ぼっちには戻れそうにありません」
と、恥ずかしそうに。寂しい言葉なのに、昨日とは真逆のニュアンスの声色。つまり、心から嬉しそうに。
不覚にもぐらりときた。
重症だ。二人とも。
◇◇◇
6月2日、メルギア日。水色の日。
二日連続の雨。
バッドコンディションがそのまま命の危険に直結するため、ハンターの仕事は基本的に雨天中止になるらしい。
念のためにギルドに行って受付のシャランさんに相談してみよう。
と思っていたら、カサンドラさんの方が先にギルドに来ていて、今日のキャンセルを伝えるために僕たちを待ってくれていた。代わりに、明日晴れたら狩りに行こうという提案付きで。カサンドラさんは本当に尊敬すべき立派な社会人だ。
できるならカサンドラさんにも本当のことを話したい。
でも、急に僕たちの秘密を告白してもカサンドラさんを困らせてしまうだけだろう。
単なる自己満足で巻き込んでしまうのは迷惑になるという思いも、いつか世間に知られる前に話しておきたいという思いもある。
難しい…。どうしよう…。
喫茶店の白猫庵は開店していたので、臨時で魔法鍛錬を済ませてからお客さんが少なくて暇そうにだらけていたセーラちゃんとぐだぐだ話をして気分転換をした。
セーラちゃんは僕の大事な女友達だ。
それに、彼女はこう、日常のシンボルというか、ちょっとドジっ子なセーラちゃんが明るく元気に働いているのを見ているだけでこっちも元気になれる。
この気持ちをなんというのだったか。
そう、ファンだ。
僕はセーラちゃんのファンなのだ。
絶対僕だけじゃないね。僕みたいな隠れファンが他にもたくさんいると見た。
ほら、チラチラ視線を向けているあっちの席の鎧姿の熟練ハンターさんとか絶対。他にも名前は知らないけど、店内でよく何度も遭遇する人はかなり多い。セーラちゃん目当ての常連さんが一体何割占めていることか。敢えてロリコンとは言うまい(※いや、ロリコンか…?)。ミドルティーンこそ最強である(※異論は認める)。
エディ君は…、うん、大丈夫そう。
隣でニコニコと僕達を見守っているだけで満足している様子。妹の交友関係を見守るお兄ちゃんかな?
帰り際の会計中、「私はショタコンじゃないから安心してね」とセーラちゃんに耳打ちされた。「可愛い弟みたいなものだし」とも。
そう言われて、内心でドキンとしてからほっとしている自分がいた。
というか、もしかしなくてもバレてる…?
「可愛いなあ、もう。えへへ…」
ちょっとだけ動揺してしまった僕を見て、感極まった様子を通り越してだらしない顔をしてしまうセーラちゃん。接客中は明確にアウトな表情だった。そして予定調和通り、カウンターの向こうからマスターさんのお盆チョップを頭長に戴き、そのままスタッフオンリーの扉の向こう側へと連行されてしまった。合掌。
今日もお仕置き部屋行きかー、でも今日はよく頑張ってた、あんまりドジしなかったな、偉い、そういえば最近あんまり泣いてないよね、ほら姫ちゃんと姫君が来てから、成程ね、確かにお姉ちゃんっぽくなった、いい傾向だ、等々のお客様の声。
流石、常連客の皆さんはよく分かっている。
姫君、姫ちゃんという愛称についてはスルーの方向で。以前のショタ姫、ロリ姫よりはましかな?
◇◇◇
6月3日、ウォルン日。青の日。
雨が上がって一転快晴。
先日の初めてのスライムハントが上首尾に終わったヒガン湿地では、存分に天の恵みを受けたためか前回よりもスライムが活き活きとしていた。
数も前回より数割増し?
どうやら、水分をたっぷり取り込んで分裂して増殖したようだ。
なるほど。単為生殖かあ。スライム侮りがたし。
カサンドラさんが言うには、こういう感じで雨の度にスライムが増え続けてこの湿地全体で数千体ものスライムが棲息しており、過去の『ワイバースの嘆き』のようなモンスターハザードを起こさないよう半年に一度ハンターギルドが総力を挙げて一斉にスライム駆除を行っているらしい。
駆除の際には採算度外視でひたすらスライムの魔石を潰していくため、こうして僕たちが無傷の魔石を大量に確保して市場に流す方が遥かに社会貢献になるとのこと。
社会貢献、という言葉を聞いた時、エディ君の瞳に勇者の光がきらりと煌めていた。
やる気を出したエディ君を止められるものは存在しない。
時折ラットグループに邪魔をされつつも、ポイズンスライムとウォータースライムから次々と魔石を刈り取っていく。
裏技として天眼レンズを使っている時、魔力の流れ方がおかしくなっていることを発見。その方向を探索すると、湿地を全体をぐるりと取り囲んでいる退魔の列柱の一つが黒ずんで傾いてしまっているのを見つけた。急いでその一角に向かうと、おぞ気が走るようなゼラチン地獄を発見。30匹以上ものスライムが積み重なって、急速に劣化し始めた柱にダイレクトアタックをしているところだった。
そこから僕の魔力が尽きそうになるまで狩り続け、200万レン近くの大漁。前回とは違って鼠にあまり魔力を取られず、スライム退治に集中できたのが大きかった。更に、倒壊寸前の列柱を発見し、大きな被害を未然に防いだ功績でギルドから金一封も貰えた。まさに災い転じて福となす。でもちょっと危なかった。次からは保険としてマナ結晶も持っていくことにしよう。
僕たちと相性のいいスライムのお陰で、自力で軍資金を溜める目途が立った。
帰り道でリリアさんのお店に寄ると、明日、お金のことを含めた大事な話し合いをしたいと提案された。
とてもいい流れが来ていると思う。
このまま流れに乗って行けるところまで行こう。
◇◇◇
6月3日の深夜。時刻は23時30分。
不思議と眠れない。
心が落ち着かない感覚。最近色々なことが絶好調すぎて妙に浮ついてしまっている。
完璧な天使の体でも、僕という精神はあまりにも不完全なままだ。未熟にもほどがある。
……。
…人を好きになるとはどういうことだろうか。
傍にいたいと思うことだろうか。幸せになってほしいと願うことだろうか。
だとしたら、僕はもうとっくにエディ君のことを好きになっている。
僕はエディ君が好きだ。
エディ君が嬉しそうに笑うと僕も嬉しい。悲しそうな顔をすると僕も悲しくなる。
そして、誰にも奪われたくないという思いすらある。
それでいい、と僕の中の単純な思考パターンが肯定する。
物事を複雑に考える必要はないと。エディ君との恋愛を始める条件は既に満たされていると。
それでは駄目だ、と僕の中の複雑な思考パターンが否定する。
物事を単純化しすぎてはいけないと。僕の恋愛の条件と彼の恋愛の条件は異なっていると。
エディ君の条件。
それは確かに難題だ。
今すぐどうこうする訳ではないということは前提として。
例えばウィバクを解放した後、一区切りついたからという理由で突然アタックしても、彼はきっと色々と困るだろう。
困らせて何が悪い、と単純な思考パターンであるところのロリ天使な僕が言う。
それこそが恋愛だと。
駆け引きを楽しめと。
自分本位ではいけない、と複雑な思考パターンであるところの文系男子な僕が言う。
彼がどうしたいかが重要だと。
駆け引きをする前にもっと話し合うべきことが残っていると。
ここは、一日の長がある文系男子を尊重する。ごめんねロリ天使。また今度補填するから。
「エディ君、起きていますか?」
「…はい。不思議と眠れなくて…」
「エディ君は…、僕にしたいこととか、僕にしてほしいことはありませんか?」
「…いいえ、大丈夫です。ボクはもう十分に満たされていて、とても幸せですから」
「エディ君は欲がないですね」
「そんなことは…。ボクは…」
「……?」
「……、……」
「……」
「…アキラさんは、ずっと傍にいてくれますか…?」
「はい。勿論です。僕はこれからもずっと傍にいます」
「…でも、アキラさんは天使様で…、いつか…」
「僕はいなくなりません」
「…アキラさん?」
「これは単なる気休めじゃありません。女神様は仰いました。『使命を果たした場合、報酬として勇者と共に不老長寿の命を与えます』と。だから大丈夫です」
「そう…、なんですか?」
「はい、そうなんです。僕は女神様の言葉を一言一句憶えています。『あなたと勇者が望むだけ。戦争が無事に終わればもう一度私と会うことになりますから、その時に千年でも一万年でも、好きな寿命を言ってください』とも仰っていました。ごめんなさい、エディ君も関係することなのに、ちゃんと言っていなくて」
「女神様の言葉…。女神様が…」
ああ、そっか。
エディ君はずっとそのことを心配していたんだ。いつか戦いが終わったら、使命を果たした僕が地上からいなくなるかもしれないって。
長い間、エディ君はずっと一人ぼっちだった。
だからきっと、また一人になってしまうことを恐れている。
それが彼の本心の、底の底に隠されてきた恐怖だ。
怪物の大群と戦う事でもなく。誰かに裏切られることでもなく。
心底、もし僕がいなくなったら、また独りになってしまうことを。
その恐怖をひたすら抑え込んできた。我慢していたんだ。
勇者だから。僕という天使がいるから。男の子だから。
きっと、自分よりも小さな女の子に情けないところを見せたくなくて…。
彼の気持ちはよく分かる。ううん、分からなくちゃいけなかった。
僕は馬鹿だ。大バカ者だ。ヒントはたくさんあったのに。偉そうなことばかり言って、彼の不安に気付かず一番大事なことを言わないままでいたなんて。
「誓います。いつか戦いが終わっても、そのまま一緒にいます。エディ君さえよければ、ずっと」
「あ…、……」
「…エディ君?」
「…ごめんなさ…、だいじょ…です…」
「…そっちに行ってもいいですか?」
「っ…、そ、その…、えっと…」
「行きますね」
ごそごそ。とん…、とたとた。ぎしっ、ごそごそ…。
ぎゅっ。
エディ君の顔を覗き込むような真似はしない。きっと今は見られたくないだろうから。
そっと隣に横たわり、優しく頭を抱えて目を閉じる。
――そして、僕は見つけた。眼下の神殿に、無人の祭壇と相対するように、その子がいた。
その子だけがいた。
真っ直ぐに僕を見上げている。視線が合う。炎のように明るい赤色の髪と宝石のような濃い赤色の瞳。緋色と、茜色。
目を見開いてとても驚いている。驚愕、という言葉がふさわしい表情。
その時にはもう、僕の心は固まっていたのだ。
おこがましくも、この子を救いたい、笑顔にしたい、と。
――ボクは当代の光の勇者、クエーサー・エディンデルと言います。父クエーサー・レイドからはアウデイロの鷹の英雄、母フォトン・メルトからはキヌアの守護者の血を受け継いでいます。お会いできて光栄です、天使様。
僕は秋月昭。読書ばかりに時間を費やしてきた陰キャの文系男子だ。スポーツはからきしで、テストは平均より少し上くらい。
父親は秋月文雄、母親は秋月香、兄は秋月圭。
父さんはブラック企業に勤めてノイローゼになってしまった生真面目な人で、母さんはそんな父さんを支え続けた優しい人で、兄さんは勉強もスポーツもできる自慢の兄で…。
幸せと不幸が同じくらい交ざり合った、ごく普通の一般家庭で生まれ育ち…、そして死んだ。あっと思った時にはもう遅くて、事故に遭って死んでしまった。
父さん、母さん。先に死んじゃってごめんなさい。兄さん、父さんと母さんをよろしく。ああ、兄さんがいて本当に良かった。ひとりっ子じゃなくて。父さんと母さんを二人きりにしないで済んで。
どうか、家族に不幸よりも多くの幸せが訪れますように。
どうか。どうかエディ君に不幸よりも多くの幸せが訪れますように。いつかエディ君が故郷に帰れますように。ご両親と再会できますように。
「エディ君」
僕(アキラ/昭)の声が暗い部屋に染み込み、小さな胸元に隠されていた瞼がゆっくりと開かれ、曇りのない、宝石のような濃い赤色の瞳が僕を見上げてくる。
頭の中で整理していたはずの言葉が蒸発した。
「おでこではないところに、キスをしてもいいですか?」
だから、生まれたばかりの心からの願いを口にする。
エディ君の方はというと、無言のまますごく可愛らしい反応をしてくれて、お陰で少しだけ緊張が和らいだ。
「家族からの、おやすみのキスです。きっと、願うだけでも、言葉だけでも駄目ですから」
この人を幸せにするためならプライドなんてかなぐり捨てて、いくらでも前言を翻そう。何度でもルールを書き換えよう。
きっと誰よりも優しいのに、誰よりも愛を求めることが下手な子。
でも、もう大丈夫。
これから、ずっと一緒だ。
身も心も捧げる神聖な誓いのように、そっと顔を寄せる。
エディ君は目をぎゅっと閉じて頭から爪先まで全身がカチコチに強張ってしまっていたけれど、拒否は全くなかった。
強張りもすぐに解けた。
 




