遺言
【本編】
男は死の淵を彷徨っている。
そして、そのことも分かっている。
しかし、今すぐに死ぬわけにはいかない。
あの男にあることを伝えなければ死ぬわけにはいかない。
それを伝えることに意味があるとは思えないが、それでも死の間際の最後の言葉だ。
あの男は受け止めてくれるはずだ。
そしてその言葉を守ってくれるはずだ。何がなんでも……。
そう思わなければ、安心して死ねない。
死に際の言葉――そう『遺言』は、それほどの重みがあって然るべきだ。
「ただいま、内府様がご到着なされました!」
取次の家臣の言葉が、伏見城のこの一室に響き渡った。
待ち望んでいたあの男がやってきた。最後の言葉を伝えるべきあの男が……。
そう、あの男――内府、つまり内大臣こと、徳川家康が……。
取次の家臣の言葉で、今まで目を閉じていた男は、目を開けた。
瞼は開いたものの、夕刻の淡い光は差し込んでくるものの、ほとんど何もぼやけて見えない。そこには数人の人々がいるのは、気配で分かるが、起き上ることさえままならない。
一瞬ここがどこかも定かでなくなる。……が、次の瞬間、最後に自分がすべきことにはっと気づき、気丈にも横にいた女人に声をかける。
「淀! わしを起こしてくれ!」
「なりませぬ! (太閤)殿下! お体にさわります!」
「よい。わしの命はもうすぐ潰える。最後に内府に伝えねば……」
それだけ話すのに息も絶え絶えの状態であった。
「分かりました。私が横で支えましょう。殿下はお気兼ねなく、お語らい下され」
そう言うと、一人の男が、その死の淵の小柄な男の身体を横から抱き上げ、彼の上半身を起き上らせた。
「かたじけない。利家殿。貴殿だけは、いつどのような時にもわしを支えてくれる」
小柄な男――太閤殿下こと豊臣秀吉は目に涙をためながら、旧友であり今は加賀百万石の大大名である前田利家にこう呟いた。
豊臣秀吉が前田利家に支えられて半身を起き上らせた直後、伏見城の一室であるこの部屋に、内大臣徳川家康が入ってきた。
「殿下! お体にさわります。どうか横になっていただかねば……」
家康は入ってくるなり、慌ててそう言った。
「よい。内府殿、お気を遣われるな。今日は気分が良い。わしは内府殿と話がしたいのだ」
そう秀吉は言いながら、家康の演技とは思えない今の場の慌てぶりに苦笑しながらも、それが自然体でできる家康の大きさに改めて感じ入った。いや、今は畏怖と感じられるほどであるが……。
しかし、先ほどまで起き上るのもやっとであった秀吉も、ことここに至って、平静にものを語れるところは、やはり一浪人から、太閤殿下という位人臣を極めるまで成り上がったほどのモノは伊達ではない。
「内府殿」
「はい。殿下」
「小牧、長久手が懐かしいのぉ~」
「そうですな。殿下。後にも先にも、殿下と私が知力と胆力の全てを尽くしきって戦ったのは、あの一戦だけでしたな」
「結局、あの戦いは内府に軍配が上がったの。今でもわしがあれほど煮え湯を飲まされたのはあの時だけじゃ。くやしい限りじゃ」
「はい。しかし、その後の外交戦略で、この内府は、殿下の前に膝を屈することとなりました。結局、最後は殿下の勝ちでございます」
内府の話はいつも心地よい。これが家康の懐の深さであろう。
「最後はわしの勝ちか。そう言えば、内府との和議の後は歯ごたえのない戦ばかりじゃったの。長曾我部も島津も、北条も最上も伊達も、一人としてわしの心胆を寒かしめるほどの者はおらなんだ。最後に勝ったのはわしということになるのかの……」
「それが証拠に、殿下はついに日ノ本を統一されたではありませんか。右府様(織田信長のこと)が成し遂げられなかった戦国時代を終焉させたのは、他ならぬ殿下でありますぞ」
家康は満面の笑みを顔全体で表現していた。
「……最後に勝ったのはわしなのか……?」
秀吉は、誰にも聞こえないようそう呟いていた。今、死の際で秀吉は初めて後悔をしていた。
何故、関東の北条を平らげ、戦わずして落ちた奥州をもってして満足をしなかったのか?
奥州を平定したのが天正一八年(西暦一五九〇年)。あれから今日まで八年の歳月があった。これだけの歳月があれば、十分に豊臣政権を盤石なものにできたはずである。
しかし、この八年間に自分がしたこととはなにか。子供に恵まれなかったという不幸が後々に尾を引いているが、それでも、最初の子供を失ったのち、自分の甥の秀次を盛り立てていけば何ら問題なかった。
秀次は確かに、何かを成すべき者としては、少々物足りない人物であったが、秀吉の作り上げた地盤を守っていくという面に関して、問題がある人物ではなかった。むしろ、自分で事が成し遂げられない分、今あるものを守っていくことに対しては従順である。
そんな秀次を、秀吉は自害に追いやった。
次子である秀頼が誕生したのもその原因ではあるが、それでも秀吉が秀次をどこまでも推していれば何ら問題がなかった。秀頼に政権を継がせたいという気持ちが、中途半端な形でいつまでもあったのが最大の要因である。
内的なそのような事情に、さらに朝鮮及び明(現在の中国)への遠征という外的要因が付加される。
個々の戦闘能力でいえば、倭民族は、朝鮮民族及び中華民族よりはるかに優れている。
しかし、問題は敵地の領土の広大さと、それに伴う人口の差である。
各地で勝ちはおさめるものの、その都度戦線は長く伸びきり、補給が届かないという深刻な事態に陥った。
今秀吉の後継者は五歳に満たない秀頼ただ一人である。
「内府殿!」
「はい。殿下」
「お願いです。わしの亡き後は、内府殿が秀頼を盛り立てて、この豊臣家を支えて下され」
「むろんです、殿下。この内府が身命を賭して、秀頼様を盛り立てていきましょう。だからご安心ください」
家康のこの快諾に、秀吉は逆に居ても立っても居られない心地となった。
「内府殿。たのみますぞ。本当にたのみますぞ」
小柄な秀吉が、家康の大きな腹に頭を擦り付けんばかりに何度も何度もその言葉を繰り返した。
「殿下。もったいない程のお言葉。この内府、誓いは決して破りません!」
家康の言葉を聞くたびに秀吉は、ますます不安になり、そして自身の心は、言葉とは真逆にますます冷めていくのを敏感に感じ取った。
自分の主君である織田信長の死後、秀吉が行ってきた行為の数々をこの場で思い返していたのである。
信長が本能寺で明智光秀に倒されたのち、秀吉は光秀を討ち果たしたことにより、その後のいわゆる清州会議で主導権を握ることに成功する。
信長と共に亡くなった信長の長男である信忠の子――わずか二歳の三法師(後の秀信)の後継者となったのである。
その後、それに不満を持つ信長の三男信孝とその後継者である織田家筆頭家老の柴田勝家を滅ぼし、さらに次男信雄とも争い、その実権を奪った。
結局、信雄も自分が推した秀信でさえも今では、一大名に成り下がっている。
織田家を盛り立てるより、戦のない世界を構築するにはやむを得ない事情だった。その道理を秀吉は十分すぎるほど理解している。
自分亡きあと、幼子の秀頼を盛り立てて豊臣家を存続させる。それも、家の存続のみならず、日ノ本の覇者の系譜として豊臣家を存続させ続ける。
今の状況下において、それは無理な話である。
秀吉にとって、戦国時代の終焉を本気で望むのであれば、今、日ノ本で最も実力のある徳川家康に政権を譲るのが、最上の選択であった。
しかし、老いた秀吉にそれは出来なかった。
秀頼の親としてそれは出来なかった。
そして、最後の際の言葉が、家康への懇願しかなかった。
そして、その安らかさを永遠に得ることのない益体のない懇願は、秀吉の力が尽きるまで続けられ、翌日、太閤殿下秀吉は身罷ることとなる。
ある書物には全てを成し遂げた安らかな笑顔であったと記されていた。
【完】
【あとがき】
秀吉が亡くなった翌年、五大老の一人で家康に次ぐ実力者である前田利家が死去した。
豊臣家と家康の調整役を行っていた利家が亡くなったことにより、家康の他の大名への影響力は益々大きくなった。
その状況に対して、同じく五大老の一人である上杉景勝が家康への叛意を露わにする。
家康も上杉征伐に大坂を発つが、その隙を狙って、五奉行の一人である石田三成が、友人の大谷吉継を巻き込み挙兵する。
これが世に名高い関ヶ原の合戦であり、結果、わずか一日で勝敗が決した。
この戦いで石田三成方西軍が敗北したことにより、豊臣家は一大名の地位に転落する。
それでも豊臣家にはまだ存続していく道が残されたわけだが、事態を正確に把握できない豊臣家臣団によって、大坂城から退去しない豊臣家は、関ヶ原の後、改易された大名やその家臣、あるいは秀吉によって禁止されたキリスト教徒とそれを背後で操る列強諸国の江戸幕府転覆の旗頭として祭り上げられたのであった。
家康は、自分の存命中に事態の打開を図るべく、ついに大坂城を攻撃。冬の陣、夏の陣の二回に渡る戦いで、大坂城は落城。豊臣家は滅亡した。
秀吉の死から十七年後。関ヶ原の戦いから十五年後の出来事であった。
結果、江戸幕府の成立により、戦国時代は完全に終焉し、以後、二百六十五年に及ぶ徳川長期政権となったのは、皆が周知するところと思われる。
以下は作者の見解であるが、西暦一八五六年のペリー率いる黒船の来航がきっかけで江戸幕府はその幕を閉じることになるが、それは外部からの列強という圧力に対抗するための処置として起こった出来事であるので、江戸幕府は内政事情の崩壊による終焉ではない。
歴史にifは禁句であるが、もし、ペリーが来航しなければ、江戸幕府はその先何百年、日本の政治を担い続けていたであろうか。




