カップル
「もう別れてくれないか」
突然、スイッチを切り替えたかのように、トーンを落とした声が私の鼓膜を揺さぶる。
テーブルを挟み、向かい側に座る彼。とても小さなテーブルの為、ほとんどお互いの両膝がぶつかり合うのではと、毎日危惧していた。
彼は愛想笑いを浮かばせている。私に同意を求めるつぶらな瞳がそこにはあった。テーブルに片方の肘をつきながら、
「何で?」
当然の疑問を彼にぶつけた。彼はしきりに瞬きをしながら、頭を左右に振った。私には、別れる理由が皆目見当も付かない。
深呼吸をし、少しの間考え込む。もう付き合って約三年にもなるが、今まで別れをほのめかすような素振りは見られなかった。
私は彼に徹底的に尽くした。手料理や掃除、洗濯まで行ってきた。もう家事全般は任せられているとまで思い込んでいた程。
彼は恥ずかしがり屋な為、褒める事は無かったが、相思相愛の為、私に感謝しているだろうと思っていた。
数分間考え込んでいたが、何も理由が思い浮かばない。頭がぼんやりしているせいか、長時間の思考は不可能であった。
そんな私の考えを見抜いたのか、彼の愛想笑いが更に深みを増す。人間、向かって左側から笑みを作りやすいと聞いた事があるが、彼は本当に分かりやすい。私は趣味で写真もよく撮っていた為、本当に笑っている時の笑顔は欠かさず、ファインダーに収めていた。
愛想笑いを見続ける事に、多少の苛立ちを感じてしまった為、私は降参した。
「お願いだから、理由を教えて」
眼に涙を少し浮かべながら、彼に訴えかけた。彼は、反面私の発言を聞くと同時に、明らかに落胆の表情へと変化した。
「理由は分からない?」
何度目かも分からない質問を繰り返す。耳にタコが出来る程、同じような台詞を聞かされたせいで、私は眼を細め彼を睨み付けたい衝動に駆られた。
しかし、彼には良い女であり続けたい。衝動を抑え込み、自分の髪を片手でときながら、満面の笑みで問いかける。
「ごめんなさい。全く分からないの。理由は何?」
なるべく笑顔を取り繕い、彼に問いかけた。緊張の為か、視界がぼやける。カメラのピントが合っていないような見え方に、吐き気まで込み上げてきた。
ダンッ!
目の前のテーブルを叩き付ける音が響く。
今まで、彼の方向しか見ていなかった為、斜め前に座っていた人物は眼中に無かった。
机を叩き付けた人物は、怒りの形相で私を睨み付ける。
「いい加減にしてよ。あんたのせいで、こんな」
「おいっ!黙ってろ」
彼の優しい声音から一転、甲高い声が私の頭の中を刺激する。あの女は何をそんなに怒っているのか。
きつすぎる香水。肩を丸出しにし、かなり露出の高い服装。つりあがった眉は気の強さを醸し出している。
一目見て、彼のタイプでは無いと思った。
彼の言動を無視して、派手な女は怒鳴り散らす。遂には、私の彼の左腕に泣きながら縋り付いた。
「そんな汚い手で触らないで」
私は片手に持ち、彼の首筋にずっと添えていた包丁を女の首に突き刺した。意外と簡単に刺さり、すぐに女は悲鳴も上げず、絶命した。
包丁を抜く。血が噴き出し私と彼に飛び散った。返り血を浴びた彼は、状況の把握が出来ていないのか眼の焦点が合っていなかった。
再度、彼の首筋に包丁を当てながら、笑顔で問う。
「別れる理由は何?」
血を浴びたショックもあるのか、彼はしどろもどろに言葉を紡ぎだす。
「もう何年間俺の跡を追ってるんだよ。引っ越しても、すぐに合鍵を作って、何度も勝手に部屋に入りやがって。俺には彼女が……」
途中から、彼が何を言っているのか理解出来なかった。泣きながら私に許しを得ようとする姿に思わず溜息が出る。
既に落ちかかった夕日が窓から差し込み、血のついた包丁を照らし出す。
血の色に負けない綺麗なオレンジ色の光を見て、思わず感激の溜息をついた。