ホームレス・ディオゲネス
日曜日、友人と繁華街を歩いていた。映画を見て、その後、昼飯を食べた。「相手が可愛い彼女だったらなあ」と友人はピラフを食べながら呟いた。「まったくなあ」と僕はカルボナーラを食べながら言った。
昼飯を食べた後は街をブラブラする事になった。僕らは雑談したり、黙ったりしながら街を歩いた。適当に歩いていると、何人かホームレスがダンボールで寝ている場所に出た。
「まだこんな人達がいるんだな」
友人の声は、道で寝ているホームレスに届きそうなくらい大きかったので、僕は心配になった。「そうだな」 僕は小声で言った。
ふと、奇妙なホームレスが目にとまった。ひげもじゃで、服装も汚く、春の日和には似つかわしくない外見をしていたが、それ以上に奇妙なものがあった。ランプだ。巨大なランプ……しかも、おそろしく古風な、骨董品のようなランプが隣に置いてあった。彼自身は寝ているのか起きているのかもわからず、座ってうつむいていた。
「あれ、なんだろ」
友人に声を掛けると、「さあな」と興味を示さないようだった。僕は興味があったので、友人の袖を引っ張り、「ちょっと聞いてみる」と言った。「おい、マジか」 友人は信じられない、という様子だった。
しゃがみこんで、ホームレスの男の顔を見た。五十すぎくらいに見えたが、もっと若いのかもしれず、あるいはもっと年がいっているのかもしれなかった。得体が知れなかった。目は見開いており、眼光は鋭かった。
「すいません」
声を掛けると、目だけがギョロリと動いた。こちらを見た。僕はひるまなかった。
「すいません、ちょっと聞きたいんですが」
「話す事なんかなんもない」
くぐもった、ほとんど聞き取れないような声でホームレスは言った。僕は、なおも質問した。
「これは何の為に使うんですか?」
ランプを指差しながら質問した。ホームレスは、僕を睨みつけた。
「…………じゃ」
「え?」
「…………のためじゃ」
「え? なんですか? もう一度きちんと…」
「人間を探すためじゃ! この街には人間が一人もおらんからな!!」
周りの人間が一世にこちらを見るくらいの怒声が響いた。僕はその答え…いや、それ以上に剣幕に驚いた。友人がさっと僕の側にやってきて
「おい、行こうぜ。頭がおかしいんだよ」
と助言した。僕はしゃがみこむのをやめて、ホームレスに頭を下げた。「すいませんでした」 そのまま、行ってしまおうと思ったが、ホームレスはなおも言葉を重ねてきた。
「頭がおかしいのはお前らの方だ。俺じゃない! 自分じゃ気付いとらんらしいがな!!」
ホームレスは叫んだ。友人は僕の肘を掴んで「早く行くぞ。気が違っているんだ」と急かした。僕らは慌てて、怒声を上げる男から逃げ出した。小走りで走りながら、友人が
「何やってんだ? あれは気がおかしいんだから!」
と言う。僕も小走りで友人についていきながら
「いや、そんな事ないよ」
と言った。「はあ? 何言ってんだ?」 友人は目をまるくしていた。僕は…立ち止まった。
「おかしくないね。さっきのジイさんはおかしくないんだよ。本当は」
「何言ってんだ? お前こそ、頭がおかしくなっちまったのか?」
「…ちょっと話聞いてくる」
僕はくるりと振り返って、さっきのホームレスのいた方角に走り出した。今や、僕はあの男に色々聞いてみたい気持ちに駆られていた。何故、この街には人間がいないのか、どうして人間を探しているのか。例え、狂人であっても、話を聞いてみないわけにはいかないと感じていた。後ろから友人が「どこ行くんだよ!」と叫んだが、無視した。僕は走った。
僕は走って…走って…元いた場所に戻った。ランプのホームレスがいた所。だが、そこに男の姿はなかった。ランプもなかった。どこに行った? こんな短時間でどこかに行けるはずがない。
あたりを見渡しても、男の影も形もない。僕は、別のホームレスに声をかけた。
「ちょっとすいません!」
「………なんだ」
しわくちゃの白髪の、生まれてから死ぬまで終始不機嫌といった顔に言葉を浴びせた。
「さっきまでここにいた人を知りませんか? 隣にランプを置いていました。ホームレスです。『人間を探している』と言っていました。今さっき、すぐさっきまでそこにいたのに!」
「知らんなあ」
不機嫌な男は言った。僕は耳を疑った。
「ランプを置いた奴なんか知らんよ。大体、ランプなんて何に使うんだ? …ここに三年いるが、そんな奴は見た事ない」
「いや、さっきまで、すぐさっきまでここにいたんです! いないはずがない! だって今さっき…あなただって聞いたでしょう! ランプの男が怒鳴り声を上げたのを!」
「知らんなあ。ここは静かなもんだよ。怒鳴り声なんか知らない」
不機嫌な男が、全く嘘をついていないようなので、面食らってしまった。…いや、そんなはずはない!
その後、僕は他のホームレスにも話を聞いてみたが、ランプのホームレスは知らないという事だった。怒鳴り声も聞いていない、と。友人は見たはずだが、彼はホームレスの行き先は知らない。
僕は途方に暮れた。白昼夢を見たのか? 人間を探している人間を? 樽の中のディオゲネスを、一瞬、街の中に見たのか? 古代ギリシャの変人哲学者が、一瞬だけこの世界に蘇ったのか?
夢でも見ていたのだろうか? 一瞬、こっちの頭がおかしくなってしまったのだろうか? 混乱している僕の肩に誰かが手を置いた。振り返ると友人だった。
「おい、大丈夫か?」
彼は心配そうな表情をしていた。僕は今あった事を話した。
「お前も見たよな? ランプのホームレス? お前も見たよな?」
「興奮するなよ。……見たよ」
友人が見た、と言って僕は少し安心した。あれは夢ではなかったのだ。
「見たよな? だよな? 実在するよな? もう少し、あの人を探したいんだ!」
「おいおい! 本当に気が違ったのか? もう行くぞ。もういいだろう?」
「よくないよ」
僕はくるりと振り返った。まだ、話を聞いていないホームレスがいる。ランプの男はどこにいるか、探してみよう……そうだ……
「おい、もういいだろう!!」
友人が僕の肩を強く掴んだ。彼は怒っているようだった。
「もういいだろう!! あんなジイさんどうだっていい! 急にどうしちまったんだよ!」
「正気になったのさ」
僕は薄く笑いながら友人に言った。友人はゾッとしたようだった。
「これまでが気が違ってたんだ。大切な何かを忘れてたんだ。人を…人を探さないと。ここに人はいない。君も俺も人間じゃないよ。どの街に行っても人間はいない。一人もいない。びっくりするけど本当に……本当に一人もいないんだ」
僕は愉快な気持ちになっていた。極めて、愉快な気持ちになっていた。
「だから、ランプの男を探すんだ。今までが夢を見ていたんだよ。あんなくだらない映画なんて見てる暇なんてなかったんだ。今までの人生が間違ってたんだよ。お前にわかるか? 俺達の人生の方が夢みたいなもんだよ。人間を…人間を…探さないと。そうしないといけないんだ。手を離してくれよ。これから行く所があるんだ」
僕は友人の手を取り外した。友人はもはや何も言わなかった。
友人を背に、歩き出した。もはや、友人が僕を止める事はなかった。僕はランプ持ちのホームレスを探し始めた。