今更だけど、伝えたい思いがある
好きな人と過ごした時間は、「長さ」ではなく「深さ」に意味があるのだと。そのようなことをどこかで聞いた覚えがある。
頭をよぎるその思いは、心の中に漣を残し、心の奥底に沈んでいく。
日の高く上がった昼下がり、広い教室の窓際の前から二番目に位置する席で、僕は突っ伏したまま開かれた窓に顔をよせる。
春風に揺れるカーテンは柔らかく、ひんやりとしていて、顔を優しくなでるようになびいている。
かすかと開いた瞳に、窓の外からは眩しいほどの日が差し込む。組まれた腕に顔を埋める、自分の息を感じる、吐き出した憂いは冷たい机から跳ね返り自分の顔に冷たく刺さった。
僕は少し埋もれていた顔をあげ、隙間から覗くように前方に座る彼女の後姿を伺う。長くイスまで下げられた彼女の黒髪は、そよ風に揺れてきれいに舞っている。
何やら甘い匂いが風に乗っていた、それが彼女の使うシャンプーの香りなのかはわからない、結局流行りに疎い僕は考えるのをあきらめた。そんなことはやはり大事じゃないと思う、それが分かってしまったら、それこそ野暮って言う奴だろう。
いつものように、彼女は文庫本を手にしているらしい、そして僕もいつもと同じように、そんな彼女を静かに見守っていた。
教室の喧騒に騒ぎ立てる背景も、今は耳に届かないほど、僕はこの空間に留まりたい。
この気持ちを表す語彙を僕は持ち合わせていない、ただこの日常が自分のものであると主張したい気持ちに駆られた。
こんな風に僕らが僕の勝手に想像した空間に浸っていると、必ずといっていいほど二人のどちらかに声がかかる。
「春人ぉ!なに寝てんだよ!?こんな真昼間から寝ている奴なんていね~ぞ」
ほら来た。
「いるじゃないか」
僕は自分を指さす、子供っぽい反抗は安らぎを壊した彼へのイラつき混じりだった。
「あのなぁ……まぁいいか」
「うん、これでいいんだ、で?」
「そうそう、俺さ、今日お前と帰れなくなった、急用できちまって」
彼は鼻の下をこすりながら、少し自慢げに言った。彼が帰りに僕の買い物に付き合う話はどこへやら。
「別にいいけど、部活今日だっけ?」
違うとはわかっていた、ただ気が付けば言葉が口から出ていた。
「そうじゃねぇんだな、実は~、女子に呼び出されてよぅ、本当困っちまうぜ」
彼はにやにやと笑みを浮かべ、嬉しそうだ。こいつ、桜井涼太は僕の幼馴染であって、クラスの人気者という、僕とは違う人種だ。目鼻は整っているし、二年にしてサッカー部のキャプテン、その上…すごく金持ちだ。
「まぁそういうことで、埋め合わせは今度するから、許してちょっ」
彼はコロッと笑顔を爽やかなものに変えた。まぁ別にそこまで大したことではないが、一応約束を破られたので。僕も素直に彼の軽い謝罪を受け入れる。
「いいよ」
気づいたら声音がいつもより優しくなっていた。普段より幾分素直な僕に彼は許しをもらえなかったと思ったのか「おう、悪いな」と口ごもりながら踵を返す。僕は許しているつもりなのだが。
だが彼の向ける背中姿に落ち込んだ様子はなかった、多分僕が本気で怒ることはないと確信はしているんだろう、っていうかそれ以前にそういうやつだったな。
振り向くと前の彼女はいつの間にか席を離れていた、何か残念な気持ちになるがそれが何なのか自分でもよくわからなかった。
結局、彼女は昼休みが終わるまで席にもどってこなかった。
******
放課後、斜めがかった夕日を左の頬にあてながら帰り支度をする。
席隣の窓はもう締まっていた。目の前の彼女をこっそりと眺めながら適当に教科書などをカバンに詰めてゆく。
「かなでちゃん、私たち帰りに勉強会兼お茶していくんだけど、どうかな?」
突然の声に僕は視線を自分のカバンに戻す、自意識過剰なのかもしれない。
彼女の友達だ、いつもこんな感じに彼女を眺めていると僕には桜井から、彼女にはこの二人の女子から声がかかる。ちなみに今話したのが佐藤で、もう一人が確か真田という名前だった気がする。別に偏見ではないが、名前通り平均的で可愛らしい二人だと僕は至って客観的に思う。
耳を立てていると彼女が丁重に断る言葉を口にするのが聞こえた。やわらかな声音は彼女の名前の通り、音を『奏』でるように心地いい響きだ。
彼女は用事があるようで、誘った彼女の友達は一緒に用事を済ませに行くといった、でも彼女は「そんなの悪いわ」と断った。よっぽど大事な用事らしい。
佐藤は明るく「じゃあまた今度ってことで、約束よ!」と言ってウィンクを飛ばした。
「えぇ」と微笑み返す神崎さんが目の前にいた。というか僕はいつからこの対話に顔を上げていたのだろう。
軽い挨拶を交わし、去っていく彼女の友達たちを見ていると、横から注がれる視線を感じた。
振り向くと彼女は僕の方を向いている。はてなマークを乗せたような表情で小首を傾げていた。そしてふわっと微笑んで見せた。
「…」
言葉を失った、間の空きすぎたせいか返事が見つからない。そもそも話しかけられていないので、返事というか僕から話掛けることになる。逃げ出したい。
だが、次こそはと心に決めていた、どこからか来た勇気で、僕は笑顔を返すことにした、無難な選択だと思う、ただその顔は多分醜いほどにぎこちなかっただろう。
そして軽い会釈を交わし、僕たちはほぼ同時に歩き出した。少なくとも僕だけは、自己意識のすぎたせいか、気まずさの中、彼女とは違うドアをくぐって教室を出ることにした。
少し早足になっていたのは気まずさのせいだろう、彼女が気づいていないことを祈ろう。
下駄箱の前で彼女と会うことはなかった。バクバクと跳ねる心臓はこれ以上刺激を与えるなと抗議する。少しだけ残念だが、これも身のためだと思った、今日はここまでにしよう。何事にも順序っていうものがある、僕のモットーだ。
今までは気まずさで即行逃げている、今日は少なくとも笑顔が返せた。そんな自分をほめていいと思う。
多分声が掛からなかったのも、これまで逃げていた僕への接し方がわからないのだろう、臆病な僕が悪い。
それでも彼女は微笑んでくれた、希望はやはりやすやすと捨てるものではないな。
靴を履き替え、つま先で地面を何度か叩くと僕は両手を制服のポケットに入れた。颯爽とした足取りでスーパーへの道へと発つ。
******
立ち並ぶ棚の間を縫っていく、右肩にカバンをかけながら、左手に買い物籠を下げていた。
ショッピングや流行りに疎い僕でも、スーパーの中を歩き回って商品を見回すのは嫌いではない。これが人間の本能なのかは知らないが、なぜか満足感が湧くのだ。
目当ての惣菜売り場を最終目的地にして、僕は綺麗に並べられた商品の紹介や名前を意味もなく頭の中で繰り返す。
すると、足元に何かの膨らみを感じる。
何かの商品が床に落ちているのかと思い、反射的に何歩か後ずさった。
足元を見ると、見覚えのある黒い冊子のようなものが落ちていた。恐る恐る手に取ってみると、それはうちの学校の生徒手帳だった。
みるからに新しい手帳を僕はゆっくりと開く、正直言うとかなり興味があった、宝を見つけたような感じだろうか。生徒手帳だけど。
指でつまんだカバーを開けると、顔写真とともに生徒の名前が目に飛び込んできた。
一瞬目を疑ったが、スーパーの明るい蛍光灯の下でその名前ははっきりと浮かび上がる。
「神崎…奏…!?」
それは他の誰でもなく、僕の前の席に座る彼女だった。たった今、学校で別れた彼女の生徒手帳が手の中にある、僕は正直に思ってしまう。運命なんだろうかと。
いつ見ても整った顔立ちで、サラサラとした黒髪が特徴な彼女だ、写真の中でわずかながら口角が上がっている。そんな彼女が自分を覗き込んでいると思うと、たとえ写真でもなんか恥ずかしい。
僕はキョロキョロと周りを見回した、彼女が居ないか、というよりも他の人の目線が自分に向かれていないことを確認する。
そしてまた僕は生徒手帳に目を落とす。全てを暗記するかのように、僕は一文字一文字逃さずに読んだ。
あくまで落とし物を届けるという名目で。
生徒手帳には名前以外に、生年月日や発行日、それから生徒番号が書いて有った。
生年月日: 平成六年 四月十二日
発行日: 平成二十二年 九月一日
生徒番号: 20116232
生年月日を必死に頭に刷り込む。三月の始りと言う時に、こんな生年月日を知らされた僕は実に運がいい。
その生徒手帳を僕は懐に仕舞い、ある可能性に気付く。彼女がこのスーパーに来ているという可能性に。
僕の手帳と違い新品のような手帳に手を当てながら、学校での彼女を思い出す。そして、その発行日時について。
僕は歩き出す、今度こそ目的地まで真っ直ぐ歩く。それが惣菜コーナーではなく、彼女のいるところという目的変更は余儀なくされた。なぜだろうか、今更、何を期待しているのかはわからないが。
棚や棚の間を見回しがら、それなりに面積を張るスーパーを歩き回っては、始業式の日のことに想いを馳せる。
******
夏休み明けの初日、高校生活、後半のスタートを僕は気だるげに切った。
長い始業式をを終え、僕はみんなと共に教室へと入り込む。僕たちの学校は三年間、クラス替えをしないため、一年一学期立ってもクラスメイトは誰ひとりとして変わらなかった。
僕の席は窓辺の二番目に位置する場所。微妙に目立たないそこは、僕にはぴったしな席だと思う。
席に着くなり、机に突っ伏す。汗ばんだ背中を、背もたれにべったりと持っていかれるのは気持ち悪い、その上、比較的冷えている机は張り付いていて気持ちいい。
「なぁ、今日の授業は国語だけだろ?」
僕が机でだらけていると、涼太がいつの間にか目の前の空席に座り、声をかけてきた。
「あぁ〜そうだった〜嫌だぁ、もう帰りたい」
開かれた窓から吹き込む風は汗ばんだ背中に当たって、涼しい。
ただ、高く昇る日に当たる位置なので、結果的には最悪だ。
「そういやぁ転校生とかなんとか言ってたぞ、みんなそれが楽しみみたいでさ」
「ふ〜ん、まぁ期待するのはやめておく、この暑さで期待を裏切られては熱中症になりかねない」
僕はため息を吐く、夏休み明けなのもあって、正直今すぐ春になってほしい。高二の春、クラス替えもないから、手放すものはなにもないので。季節を二つほと飛ばしたところで、誰も文句は言わないだろう。
目を閉じていると、始業のベルが鳴る。「おっとっと」と呟きながら、涼太は自分の席へと戻っていく。
勢いよく教室に飛び込んできた担任の先生は、いつものようにハイテンションで出席を取った。
そんなこんなで10分のホームルームも終わりに近ずいていく、そして担任の先生は「ぬふふふ」と不気味な笑みを浮かべた。
「実は皆さんに良いお知らせがあります…」
クラスが騒つく、「転校生か!?」と高らかに叫ぶ生徒を無視して、先生はドアの向こう、廊下に向けて声をかける。
「入っておいで」
そんなテンプレートな呼びかけに応えるように、スライド式の扉は開かれた。教室に歓声が上がる。相変わらず僕のクラスは大げさで少しうるさい。
窓の外を見ていた僕は、さりげなく振り向く。明るい太陽と相対的に、教室内は暗く、視界が一瞬、模糊なものとなった。
徐々に取り戻す視界にまず映ったのはそのキラキラと日の明かりに反射する長く、艶のある黒髪だった。
腰あたりまで下ろされた髪は、背後から吹き込む風で優雅にも靡いていた。壇上に上がると、白いチョークを手に取り、『神崎奏』と柔らかな書体で黒板に刻む。
簡単な自己紹介をした、自分は父親の仕事の関係でしばらくこちらで世話になるとかという話だった。なんともテンプレな展開だと思ったが、それ以上に実感した。王道は良いから王道なんだと。
そして先生は見回す、空いた席を探しているようだ、その視線の止まる先を僕は先読みした。目の前にある空席。そして、案の定、先生はこう言った。
「とりあえず、北原の前で良いかな?じゃあ、座って」
彼女は「はい」と先生に相槌を打つと、僕の目の前まで歩いてきた、そして僕の顔を覗き込む。
「初めまして、北原くん、これからよろしくお願いします」
この時、僕は確信した。幾多の季節を超えて、二つだけかもしれないが、たった今、春の息吹が横顔に当たったことを、確信した。僕はこの時、初めて心がほころぶことを感じたと思う。
こんな日常が続く、明日も、明後日も。多分僕は卒業まで、春と言う名の季節にずっととどまっていると確信する。
担任の先生が教室を出て行くと、入れ替わるように国語の先生が入ってくる。
「起立、礼」と日直がいつものルーチンを進めた、そんな何千回と繰り返した動作は、今日はいつもより力が入る。自分でも驚いていると先生は教科書を取り出すように指示する。
カバンに手を伸ばし、手探りで唯一の教科書を抜き出す。
すると前の様子がおかしいのに気付いた。慌てる後姿は「教科書を忘れた」ということを十分に物語っていた。
なぜか僕まで焦り出す。国語の先生はチェックするように見回す、堅物の先生は眼鏡の奥に宿る殺気で威嚇をやめてくれない。正直物凄く怖い。
僕には策はあった、映画のワンシーンのような方法が、ただ現実は所詮映画ではない、もし失敗すれば周りの人たちからの視線が怖い。今回の自意識ばかりは過剰ではないだろう。
それでも僕は目の前に座る転校生を、こんな猛獣の前に差し出すわけができない、と自分に言い聞かせた。そして決意する、博打に出ると。
国語の先生の目はもうすぐ僕たち、窓際の席に届くところまで来ていた。僕は立つことを決めた、教科書を前の彼女に渡して、自分立ち上がり、犠牲になるというものだ。彼女の身代わりも悪くないと思う。
深呼吸を二回して、僕は彼女の肩に教科書を持った手を伸ばし、立つモーションへと入る。タイミングを合わせる。
そして僕が彼女の肩を突こうとした途端、彼女は立ち上がる。
僕はというと、手を宙に浮かせたまま、腰を浮かせていた。我ながらかなり滑稽なポーズだ。そして思い出した、映画のシナリオはこうだった: 後ろの席でヒロインが教科書を忘れたため、主人公は立ち上がると同時に後ろの机に教科書を置いていたのだ。
通りで上手くいかないわけだ。僕後ろの席じゃん、ヒロイン役じゃん。
その後、先生に理由を説明した彼女は初日でもあるので許された。彼女は結局僕が何をしようとしたのかわからないままで、僕も浮かせた腰を下ろした、残ったのは破綻した計画と、辱めだけだった。
******
彼女が転校してきてから数週間がたった、彼女には友達が二人できたみたいだ。
いつも明るく振る舞う佐藤とすこし内気な真田の二人らしい。
僕は結局あれから一言も声をかけられないでいた。たとえ相手が声を掛けてきたとしても、反応に困り、ぎこちない笑顔を浮かべることしかできなかった。
このままでは誰かに先取りされると思いつつも、僕は行動を起こせないでいた。
「お前さぁ、神崎のこと好きなの?」
帰り道に涼太の何気ないその言葉に、悪意はたぶんなかっただろう。だが僕はその人ことで心拍が上がるのを感じた。
「何で…そう思うの?」
「いや、なんとなくなんだけどな」
彼は口を尖らせ「純粋に気になった」というような眼差しを僕に向けてくる。夕日に照らされた顔はとても直視できないほどに、「明るかった」。
僕は嘘がつけない方の人間だ、無意識に視線を逸らす。
「そんなことはないよ、気のせい気のせい」
「そっか~まぁいいや」
彼は両腕を後頭部に回し前を向き直る。
「涼太こそさ、彼女のこと好きなの?」
聞くか迷ったが、結局結論よりも言葉が先に口から飛び出す。
「ん、俺が?なになに?気になるのか~?やっぱりお前…」
彼はニヤつきながらと僕の顔をのぞき込んでくる。
「そんなことないって…この話はここまで!」
僕は地面を見つめ、顔が熱くなるのを感じた。さすがはモテる男子は人をちゃかすことにも長けていた。彼のそんな強気な態度を少しでも分けてもらいたい。
僕の思いがばれたかは知らないが、彼のあの答え方では多分彼も好きなのだろうとさすがに僕も勘付く。
だが自分の考えが外れていることを祈ることにした、彼にだけは、学校一モテる彼にだけは敵わない。
そんな願いも乏しく、次の日、教室へ入ると窓辺で談笑する四人が目に飛び込んでくる。椅子に座ったままの彼女を囲んでいる友達は、いつものように佐藤と真田だった。そしてその中に涼太もいた。
楽しそうに涼太の話を聞いている彼女は、笑顔を浮かべている。とこか悔しくて、だがそれ以上に自分が情けなかった。こんな臆病な自分を祟る。
ただ、人間が容易く変わることを許さないのが自然の摂理だと。きかっけは、こんなちんけな妬みでは到底足りないことも僕は知っていた。
黙々と自分の席に歩み出す。
「おはよう」
相変わらず元気に声をかけてくる涼太お坊ちゃん。目を向けられない。
「うん、おはよう」
それでも僕は見栄を張って、何事もなかったかのように挨拶をする、誰に見栄を張っているのかは知らない。
席に着くと僕は机に突っ伏した。そろそろ秋だと知らせるように、冷えた風が窓から吹き込む。
揺れるカーテンを見ながら、この風が彼らの話声を載せて、僕の耳に届かないところまで運んでくれればと思った。
顔を腕に埋めて、自分の愚かさと向き合うことにした。時間はかかるが、いつか僕もこの乾いた風のように、少しづつでいいから、心を冷ませること願う。
******
半年前の記憶を脳裏に蘇らせながら、僕はスーパーの棚の間を隈なくチェックしていた。
あの後、気まずくなった僕は、結局半年間、彼女とはまともな会話ができないままでいた。涼太には何日か掛かったけど、結局自然に今でも振舞っている。
僕は今取っている行動を正当化する術を見つけた、それはただ落とし物を返すという良心からくるものだと。
本来の目的を見失ったような気もするが、今は腹を膨らます今晩の惣菜よりも、恥で頭を満たす記憶よりも、期待に胸を膨らませ、彼女を探す。
そして、5分間歩き回った末、彼女はそこにいた。いつものように僕に背を向けている、まだ僕には気づいてないらしい。
左手に下げた買い物かごには食材がいろいろと入っている。正直重そうで持ってあげたいけど、その勇気をあいにく持ち合わせていない。その点、涼太なら上手くやっているだろう。あの時諦めたって言うのに、僕はやはり今でもまだ諦めがついていないらしい。
そんな冷めない熱を心に秘め、僕は彼女の後ろ姿を眺めていた。立ち尽くしたままでいると、ふと何かを感じたのか、彼女は振り返った。こちらをまっすぐ見たまま、驚いた表情を浮かべる。そして、いつものように、ふわっと微笑んだ。
「北原くん?」
話しかけられた、半年間で話した回数は数えられるほどだった、それも『クラスメイト』としての会話で、『友達』としての会話などない。
「あのさ…これ…落ちてた…」
僕は歯切れの悪いまま言葉を発する。そしてポケットに手を伸ばし、生徒手帳を取り出す。
彼女は生徒手帳を見てハッとなった、そしてそれを両手で受け取る。そして僕を見ながら疑問符を浮かべた顔をする。きっと思っているだろう、僕が彼女の後についてきたとか。多分僕は今から問いただされるのだろう。
「生徒手帳を拾ってくれてありがとう、北原くん」
「えっ?」
「あっ、もしかして友達には堅苦しかったかな、桜井君には友達とはもっと気軽でいいよと言われてて、ごめんね、私、人付き合いが苦手で、今友達が四人もいるのが本当夢のようで」
彼女はしまったという表情を顔に浮かばせ慌てた、何を言っているのだろう、友達が四人?
「ううん、やっぱ友達でも感謝の気持ちはちゃんと伝えなきゃね、だからありがとう」
彼女は桜の花のように咲き誇ったような笑顔で僕に言った。
予想外の言葉だった。無意識と、僕は何歩か後ずさる。逃げ出そうと思った、そして踏みとどまる、頭が真っ白で、何も考えられない。
「うん、そんな事はないよ、僕…用事思い出したから、じ…じゃあな!」
そう言い残して僕は振り向き全力でダッシュした。恥ずかしい、なんなんだ最後の僕の言葉は。ダサすぎて、恥ずかしい、穴があるなら飛び込んで顔を隠したいほどだ。
恥ずかしい、心の中で絶叫した。だがそれ以上に、嬉しかった、僕は今、周りからどう映るのだろう。
聞くまでもないか、きっと幸せすぎる笑顔を浮かべながら、僕を皆んなが羨ましがっているだろう。僕は最後まで言い切れたのだ、少なくとも、何かが動き出した気がした。友達だって言ってくれた事が嬉しかった。
どこかで聞いた事がある、夢とは、信じているだけじゃ叶わないと。そのための第一歩、踏み出す努力をすべきだと。きっと、僕は今日、その第一歩を踏み出した。そして、世界がやっと回り始めた気がした、冷え切った心は、強制的に変わった季節は、また春模様を取り戻す。
それは、次の日の事だった。
「おはよう」
と彼女が声をかけてくれた。ニヤつく顔を僕は必死にこらえて、おはようと返した。
ホームルームに入っても、心臓はバクバクで、自分でもその鼓動が耳に聞こえる。やばい。
彼女の後ろ姿を見ているだけで、僕は頬を緩めちゃいそうで、本当に困ったものだ。この喜びを誰かに分けてあげたいくらいに。
気づいたら担任の先生は教壇にたっていた。
「え〜今日は皆んなにお知らせがある」
担任の先生は教壇で両腕を立てて、深刻そうで、どこか湿っぽく言葉を発する。
「神崎さんは家庭の事情でこの学校を離れる事になった、今年度いっぱいなのでお前らとも終業までの一週間しか残されてない」
この人は何を言っているのだろうかと耳を疑った。神崎さんがまた転校するとそう言っているのだろうか。
前に居る彼女の後ろ姿を見つめていると、神崎さん、と担任の先生が呼びかける。彼女は打ち合わせでもしたのか、自然と立ち上がる。教室を見渡すように、彼女は振り返った。
「短い間でしたが、お世話になりました」
短く紡がれた言葉、僕は内臓をえぐられたように、何かが腹の中でうごめいているような感じになる。そのテンプレートな別れの言葉を僕は受け入れられなかった。何より、垣間見たわずかな希望がが、いとも容易く切られるのが、切なすぎた。
******
「言ってよ〜かなでちゃん!なんで今まで黙ってたの!?」
佐藤が神崎さんの机をバンバン叩き、泣きながらそう言った。感情に素直な彼女が羨ましい。その後ろで真田は刻々と頷いていた、何も言わないが、彼女の目にも悲しみの光は宿っている。
神崎さんはそんな二人を宥めた、ことはお父さんの仕事で急に決まったらしい。もちろん僕はその輪には入れず。ひとり、後ろの席で耳を立てていた。
「何だよ、神崎、もっと早く言ってくれればさ、俺たちだって準備の時間は必要なのに」
涼太がそう言うと、心中は相変わらず不愉快だが、こればかりは賛成だ、心の準備というか、本当に何もかもが始まったばかりだと言うのに。
「そうだ、神崎、みんなでお前を見送りに行くよ」
「そうそう!それがいいや、桜井君は時にいいことをいうね」
佐藤は跳ね上がり、涙でぐしゃぐしゃな顔で笑って見せた。「どういう意味だよそれ」と涼太がツッコむと、四人で嬉しそうに笑い始めた。その四人は言わずとも僕以外の四人だが。
負けだ負けだと脳内で叫ぶ、結局彼女と一番近い桜井に、彼女の見送りまで取られた。全部自分が悪いのはわかってる。
「えぇ、そうしてもらえると嬉しいな」
彼女が涙目でつぶやく。その涙は笑い涙だと僕は思いたい。
「ちなみに、かなでちゃん!今更だけど、誕生日いつ?聞く機会がなくって」
「私…その案いいと思う…みんなでお祝いしよう…お別れ会も兼ねて」
ここに来て真田は初めて口を開いた。
心の奥底から何やら黒ずんだ感情が湧き出てくる。生徒手帳を拾ったあの日、知った彼女の誕生日は僕だけの知ることであってほしい。自己中心なのかもしれないが、それを人に知られたら、悲しいことに、僕は唯一彼女の誕生日を知る『友達』でなくなる。
「誕生日は、ずっと前にすぎたの」
えっ…?
「え〜そうなの?ざんね〜ん、でもお別れ会はするでしょ?」
なんでそこで嘘をついたのか、僕にはわからない。誕生日は四月十二の筈なのに、終業式の日は三月二十日、早めの誕生日会は全然ありたと思った。それでも彼女は言わなかった、自分の誕生日を。
「それは…」
「みんな、彼女が困っているからさ、俺は引っ越したことないけど、準備とか大変って聞くぜ。見送りだけにしよう」
「えぇ〜まぁいいけどさ」
いつもその爽やかさが嫌な桜井だが、今のは正直嬉しい申し出だ、僕はその御別れ会にも呼ばれない。って言うか、ひとりで盗み聞きする今のこの境遇はもう十分に虚しい。
「春人、お前も来いよ!?」
突然呼ばれた。机にもたれていた僕は起き上がる。涼太の意味不明な発言に目を瞠った。
「はっ?」
僕は自分の顔を指差した。
「あぁ、お前だ」
涼太もそんな僕を指差す。
神崎さんを見ると、ホッとしたように、彼女は笑みを浮かべながらこっちを見ていた。まるで僕に来てほしいという表情を浮かべながら…多分勘違いだが。
断ろうか迷っていると、またも口だけが先走る。
「わかった、行くよ」
その答えを聞いた神崎さんは、後ろに立つ佐藤や真田の困惑した表情を介さずに、「ありがとう」とこぼした。
口が僕の言うことを聞かないのは問題だが、今回に限っては許してあげよう。少なくとも、僕は彼女にスーパーできちんと言えなかった「さようなら」、をやり直す機会を手に入れたのだから。
******
きっと記憶に残るだろうその日は、空に雲ひとつない晴天に見舞われた。
二年の終業式はきっと一年か経てば、卒業式の記憶によって簡単に塗りつぶされるだろう。だがその時に、彼女がいない卒業式を送るのを考えると胸をぎゅっと締め付けられる。
一週間はあっという間だった、おはようを7回繰り返せた。テストを後ろに回してくる彼女が好きだった
、体育で下げた髪をポニーテールに結む彼女に惚れた、掃除当番で彼女と同じになったことでワクワクした、職員室まで彼女とプリントを持っていく時に感じた、息苦しさが暖かかった。
そんな日常を一週間の間僕はいつも以上にゆっくりと味わう。
半日の授業はあっという間に過ぎていった、そんな最後の朝のおはようは少し湿っぽかった。
駅の外に人はほとんどいない。両親に軽く僕たちは挨拶をした、気遣ってくれたのか、両親は先に駅へと入っていく。
学校から直接来た彼女は制服姿で、結局僕は彼女の私服も、いろんなことに踏み込めていないことに気づく。
佐藤は大粒の涙を流し彼女に抱きつく、そして真田も彼女の後から手を回す。約一名、ボンボンのモテ男を除いては和む絵面だと思えた。
モテ男も抱きつこうとしたが、佐藤にギロリと睨まれて「冗談冗談」と茶化す。本当に何を考えているのやら。
一人一人が別れの言葉を交わしていてはいくら時間があっても足りない。だから、僕たちはみんな一言づつ話すことにした。
涼太、真田、佐藤の順番で僕が最後だった。かける言葉は見つからなかった、昨夜はあんなにも思いを巡らせていたのに、今となっては気持ちの整理ができていない。
きずいたら僕の番になっていた。
一同の視線が僕に向けられた、自意識過剰ではないだろう、ここでしくじればまた変に恥ずかしくなり、いろいろと他人からのタグが増える。
「半年間、神崎さんとあまり話せなかったことが残念だった、またいつでも帰って来てほしい」
結局最後まで僕も無難に、彼女や先生見たくテンプレートな言葉しかかけられなかった。だがその言葉でも嬉しかったのか、彼女は微笑み「えぇ」と優しく応えた。
いつも見ていた背中姿が駅の構内へと消えていく、これで自分もけじめがついたとホッと息を吐き出す。
「いっちゃったな〜神崎のやつ」
「そうね〜寂しい〜」
隣で二人は余韻に浸っているのだろう、別れとはこれほどまでに美しいのだと、今日初めて知った。音楽を奏でた後のように彼女はみんなの心にわずかな音を残して去っていった。
「さてと!みんな行こうか」
桜井が切り出す。うん、と女子二人が応えた。
「その前に、春人!今のはナシだ、リテイクしてこい、お前の番はまだ終わってないだろ、いろいろと忘れているだろ!?」
は?僕は呆けたように彼を見つめる。彼の目は決意で満ちていた。
「聞いたよな?俺。お前の気持ち、俺が気づかないかとでも思ったのか?お前が好きだって言うから、このチャンスを作ってやったんだぞ、こんな終わり方俺は認めねぇからな」
真田も佐藤も事情を知ったように、『頑張ってこい』とでもいいたそうな顔で僕を見つめる。
だがこれでいろいろと辻褄が合った。涼太はモテるが、自分から女の子に近ずくなんてことはしないやつだってことを僕は半年間、気づかないでいた。ホント、幼馴染失格だな。
彼女たちに歩み寄った彼は、今日、この日のために準備を進めていたってことだ。多分彼は、僕が踏み出せないでいることを心配してくれていたんだ。
心の奥底から湧き上がる気持ちがあった、感謝や誤解への罪悪感でいっぱいだった。言葉に詰まらせていると「いいから行ってこい!話は後でいくらでも聞いてやらぁ、そんで嫌でも謝らせてやるから心配すんな!」
その言葉を聞いて、気づけば僕は全速でダッシュしていた。駅の構内を駆けながら、彼女の居場所を探した。自意識も、恥ずかしさも、もうどうでもいいと思えた。だって、涼太がいて、繋いでくれて、僕はこんなにも幸せなのだ、この姿を誇っても、恥を掻くことはない。
改札をくぐり、駅の中にあるテラスで足を止める。
中央に立つ大きな桜の木には、鴇色に咲き誇る花びらで彩られていた。
爽やかな風が吹き抜ける。舞い落ちる花びらを目で追った、そこに彼女はいた。
僕に背を向けながら、僕に気づいていない。大きく息を吸い込んだ、僕の気持ちと同じように旨を空気でいっぱいにする。
「神崎さん!!」
大声で叫ぶ僕に、彼女は最初からこの展開を知っていたかのように自然と振り返る。
春風に黒髪をなびかせながら、僕の目をまっすぐ見つめ返す。
好きな人と過ごした時間は、「長さ」ではなく「深さ」に意味があるのだと。そのようなことをどこかで聞いた覚えがある。
きっと僕もそうだったのだろう。
相変わらず柔らかい彼女の笑顔に向けて、僕は心の中にある唯一の言葉をかけた。
「いつかまた会おうよ、そして、少し早いけどさ…四月十二日の誕生日、おめでとう」
微風に乗ったその言葉は、彼女に届いたらしく。
『ありがとう』、と彼女の笑顔はそう僕に返事をくれた。
なんとか投稿間に合った〜(汗。後少しで十三日になっていたので、間に合ってよかったです。拙くも、私はこの文章を四月十二日生まれの彼女に送りたいと思います。心を込めたので、最後まで読んでいただけたら幸いです。これからもよろしくお願いします。お誕生日おめでとうございます・:*:・(*´∀`*)・:*:・。
星ノ森