紅葉の夢
「裕二君、段々若い頃の曾祖父さんに似てきたわね」
喧しい声で会話を繰り広げる泥酔した親族を尻目に、テーブルに置かれた普段食べることないような豪勢な料理を黙々と堪能していた私に、向かいの席に座る鳩子叔母さんが慈愛に満ちた顔で云った。
予想だにしなかった言葉に目を丸くして、進んでいた箸は止まる。
口内に広がる脂がのったとろけるように柔らかいサーモンを嚥下した後、口を開こうとしたが、先程まで騒いでいた親戚が目を丸くして私の顔を凝視していたことに少し戸惑う。
「ああ〜、言われてみれば似てる似てる」
「そうか、裕二は父親似でも母親似でもないと思っていたら、曾祖父さんに似ているのか」
「そうね、面影あるわ〜」
鳩子叔母さんの言葉に周囲の席に座る親族の人達は其々感嘆と驚きの声を上げ、今は亡き曾祖父さんを懐かしんでいるのか追慕に満ちた瞳で私の顔を見つめる。
親族達の視線を浴びて目のやり場に困ったところ、右隣に座る顔を真っ赤にさせた祖父が酔った手つきで私の肩を叩き、口から酒の匂いを漂わせながら飲んでいた缶ビールを見せてきた。
「ほれ、どうだ裕二。酒飲まんか?」
「ごめんなさい、まだ未成年なんで…」
やんわりと断ると如何してか皆んなが大笑いをした。
酒を勧められた時に断る常套句を云っただけで、別段面白味のある返しをしたわけではないのに、爆笑する彼等の声に顔を顰め、理解出来ずに思わず首を傾げる。
困惑する私を見た左隣に座る辰巳伯父さんが腹を抱えて笑っては、目から流れる涙を手で拭い、頭を振りながら口を開いた。
「いや、なに。そういう変に真面目なところも曾祖父さんに似ているのか。お前の親父さんなんて十八歳迎える前から酒を飲んどったぞ」
左端に座る父を一瞥する。
父は酒に酔っているらしく顔を少し赤らめ、競馬の解説番組を見ながら2本目の缶ビールを飲み干したらしく、本日3本目の缶ビールを開けようとしていたのを見て呆れてしまった。
医者からお酒を控えるように言われているにも拘らず、全く言う通りにしないのだ。
物心ついた頃から夕飯時だけでなく常日頃から酒を浴びるように飲む父親を見てきたため、成人していない父親が酒を飲んでいたという辰巳さんの言葉に何だかすんなりと納得してしまう。
「ああ、なんだが想像できちゃいます」
「もう、未成年の子にお酒を勧めないで下さい」
「ああ、すまんすまん」
未成年にお酒を勧めた祖父を見兼ねた祖母が険しい顔で諌め、祖父はおざなりな返事を述べただけで反省の色が見られないが、平常運転で直ぐさま話題を変えた祖父に祖母は盛大な溜息を吐いた。
歳をとるたびにひょうきんな性格が顕著に表れている祖父に何を言い聞かせても無駄だと分かっているため、一番の苦労人である祖母も心のどかで諦めているのだろう。
しかしながら、それでも祖父に対してストレスを抱いてしまうのか最近になって祖母はストレス発散と言わんばかりに酒を飲むようになり、今では家族一の酒豪となってしまった。
「それにしても曾祖父さん、か……曾祖父さんが死んじまって今日で13年の月日が流れたのか。ほんと時間が過ぎるのは早いな」
辰巳伯父さんは手にしていた缶ビールをテーブルに置き、哀愁を漂わせ、悄然と呟く。
何時の間にか喧騒を取り戻した食卓で、辰巳伯父さんの姿が何故か脳裏に焼きいてしまった。
止まっていた思考を振り払い、味噌汁を啜る。
少し温かった。
窓から吹き込む清涼の夜風が肌を愛撫する。
鈴虫達が奏でる心安らぐ合唱を鑑賞しながら目を閉じて意識を手放そうとするが、中々寝付けず、布団から出て喉の渇きを潤そうと台所にある冷蔵庫の下へ足を運ぶことにした。
台所は母屋にあり、自室が離れにあるため少し歩かなければならない。
母屋と離れを繫ぐ廊下はひんやりとしており、築百年を優に超えると思われる我が家の日本家屋の廊下を歩くたび、板が軋んで年季の入った音が不規則に鳴り続ける。
幼少の頃はこの音が不快で恐ろしい気持ちを抱いていたが、今やなんとも思わなくなった。
台所に辿り着くまで五つの部屋を通ることになるのだが、案の定部屋の其処彼処から喧しい鼾が聴こえ、その鼾の大きさに苦笑する。
昨日の午前中に曾祖父の十三回忌の準備やら親族や村の皆んなをもてなしなどで皆んなも疲労していたに違いないが、それでも外から聴こえる子守唄のような鈴虫達の優しい音色と比べると天と地の差があり、何だか可笑しくて笑ってしまった。
ちょっとやそっとの物音でも泥酔した彼等なら起きないだろうが、台所の近くには齢90を超える曽祖母が寝ているため道中忍び足で歩く。
渡り廊下を過ぎ、曽祖母の部屋を通り過ぎ、台所へと辿り着いた。
無人の台所は電気が消されているため一寸先すら見えない真っ暗な闇が広がっており、視覚が奪われた代わりに聴覚が研ぎ澄まされたのか、外から耳心地のよい川のせせらぎが微量ながら流れ込んでいる。
明かりをつけると冷蔵庫を力任せに開け中を物色するがめぼしいものはなく、仕方ないためコップに水道水を注ぎ、一気に飲み込んだ。
壁に掛けられた時計を見遣ると時刻は十二時を過ぎており、自室に戻って床に就こうにも台所に辿り着くまでに開いた窓から吹く夜風に当たってしまい目が覚めてしまったため、このまま布団を被っても寝付けそうにない。
幼少期の頃、寝付けない時は曾祖父さんが私を連れて外に散歩することが多々あったのを思い出し、久しぶりに夜の田舎町を歩いてみたい衝動に駆られ、足は玄関の方に動いていた。
裸足で靴を履くのは憚られる。
しかしながら、サンダルはこの春入居したアパートに置いてあるため、仕方なく玄関の隅にある廃品回収で棄てるために置いておいた小汚い靴箱を開けた。
其処から土と汗の匂いが鼻腔を擽り、思わず顔を顰めるが、中学生の頃に買った青色のサンダルを取り出して見遣るが、色褪せてしまっている上に所々破けており、履いてみると中学生の頃と比べて足が大きくなったのか少し窮屈だった。
玄関の戸を開ける。
眩い光が飛び込んで来た。
手を伸ばせば届きそうな巨大な月は闇夜を照らす街灯のよう。
太陽とは異なりその美しくも儚げな姿を肉眼で視認しても人体に悪影響を及ぼすことはないため、国や人種が違えども人々から好まれていたのだろう。
広漠の空を幾千の星々が散りばめられ、時折一筋の流星が銀閃を輝かせて天翔る。
数年前までは慣れ親しんだ景色であったはずの眺めではあるが、大学に進学してこの田舎町から離れて久しくこの佳景を見れずにいたものとしては、都会では見ることのできない稀有な存在だと今更ながら実感してしまう。
眠気が訪れるまであてもなく周辺を散歩すること数分、私の脳内では鳩子叔母さんの言葉を反芻していた。
確かに中学生の頃に友人や家族から私の顔つきは父親とも母親ともあまり似ていないと言われたことがあったが、まさか曽祖父似とはつゆも思わなかったし、其れを曾祖父の命日に指摘されたことで何処か運命的だと思ってしまった。
「しかし、ひいじいちゃんが死んで今日で十三年の月日が経ったのか。早いもんだな」
過ぎ去る年月の早さに驚き、月に曾祖父の顔を思い浮かべる。
曽祖父は敬愛する人物の一人であった。
家族の中でも一番頑固者の曾祖父さんは口煩くて言葉遣いが荒い人であったが曾孫の私には異様に優しく、甘党であった彼は毎日ヤクルトと角砂糖を常に棚に常備しており、其れを一緒に食べては昔話を話してくれた。
曾祖父さんが話す昔話は戦争の話が大半で、彼は太平洋戦争時にパプアニューギニアのラバウルに軍人として勤め、ある程度優秀な飛行機乗りだったらしく、数え切れないほどの米軍機を撃ち落としては敵だけでなく仲間からも畏れられていたと言っていた。
今思えば其れは子供であった私を喜ばせるために作った話だと分かる。
というのも、単機突撃で敵軍の戦闘機を5機落としたとか、生涯撃墜数五十を超え、ラバウルの魔王と称された軍人と交流があったとか些か現実味に欠けるものが多々あった。
其れに加え、曾祖父さんは虚言癖があり、町内の公民館のことを別荘だと嘘を言ってのけ、四方八方を雄大な山に囲まれた辺境の地であるこの田舎町に遊園地があったとか現実的に有り得ないものまで言っていたのだ。
それに対して幼かった私は疑うことを知らず、誇張された話を齧り付くように聴いては、目を輝かせて曾祖父さんを英雄視して憧憬の念を抱いていた。
だが、小学二年の秋、紅葉が色づき始めた頃に曽祖父は眠るように息をひきとった。
其れは奇しくも私の誕生日の日であった。
一年の中でも特別な日で喜ばしい筈の誕生日は悲しみと喪失感が胸の内を支配して、その年の誕生日ケーキは大好きなチョコレートケーキだったはずなのに甘味ではなく涙の味がしたのを今でも憶えている。
「懐かしいな。あの後、何時までも泣くなって祖父に怒られたっけ」
思い出に浸りながら歩いているうちに近所の公園まで来ていたらしく、ふと、前方の公園に目を向ける。
月明かりに照らされた公園には、長年誰にも使われなくなってしまい色が剥げ落ちて錆びれた遊具と整備されず伸びきった雑草が目立つが、ベンチには艶やかな着物を纏っている女性が座っていた。
夜目遠目であったため女性の顔を判別できなかったが、彼女のような長髪の持ち主で着物を着る人などこの田舎町に所在しているという記憶はないし、何よりもこんな夜遅くに公園で何をしているのか気になってしまい糸を引っ張られるかのように足は彼女の下へ動いていた。
砂利を踏む音が周囲に響き、その音と跫音を彼女も耳にしているはずなのに前から歩み寄っている私の存在に気づいた様子もなく、ジッと天を眺めている。
彼女の顔が鮮明に視認できると私の足は歩みを止めていた。
ベンチに座る女性は見たこともないほどの美貌を有していたのだ。
桜の花びらのような色をした唇はぷっくりとしていて瑞々しく、直視していると此方が気恥ずかしくなってしまうような色気と艶かしさがあった。
物思いに耽った様子で天に浮かぶ月を眺めているその明眸は、人を誘惑する妖艶な色を秘めているがその奥には憂いと哀しみの色が見られ、その弱々しい瞳に魅せられて彼女の不安を払拭したい衝動に駆られる。
何よりも目が惹かれるのは、見るもの全てを魅了する烏の濡れ羽色の長髪であり、秋夜の清涼の風に煽られ揺ら揺らと靡いては私の心を離さない。
その美しさは花を恥じらわせ、月も恥じらい隠れるだろう。
彼女の美貌に見惚れてしまい思考は正常に機能していなかったが徐々に落ち着きを取り戻すと、逸る鼓動を抑えて彼女の目の前まで歩み寄り、彼女の美貌に気後れして吃ることないように口を開いた。
「こ、こんばんは」
彼女はこの時初めて私の存在に気づいたらしく、一瞬、目をぱちくりさせたが直ぐさま花が咲き誇るような笑顔を浮かべた。
最初は年上の人かと思っていたが莞爾として笑う姿を見るに、年下もしくは同年代の人なのではないだろうか。
「こんばんは」
鈴の音のような耳心地のよい声であった。
顔が今までにないほど火照っているのがわかる。
不審者だと思われないように御近所さんと話すような気軽な口調を話すように意識しながら、渇いた口を開いた。
「えっと、こんな夜遅くに何をしていらっしゃるんですか?」
その問いに彼女は眼を見張る美貌を歪ませると悲痛な面持ちに変わると、顔を隠すように俯いて沈黙した。
その様子から察するに私はとんでもないへまをしてしまったらしい。
「あ、あの…気分を害してしまったなら謝ります。ご、御免なさ」
「人を待っているのです」
私の言葉を遮る芯のこもった力強く、凛とした声であった。
彼女は俯いていた顔を上げて、にっこりと微笑んだ。
「人を?」
「ええ、毎年、この時期会いに来てくれると約束したんです。ですが、彼ったら全然来てくれなくて」
何処か気落ちしているような声音で呟く彼女に私は何と言っていいか分からず、沈黙してしまった。
すると、私の罪悪感で歪められた表情を見た彼女は首を横に振った。
「貴方は気にしないでいいんですよ?元はと言えば、約束を破るあの人が悪いんですから」
「それでも謝らせてください」
「もう、気にしたくてもいいのに。あ、じゃあ、私の話し相手になってくれるかしら?」
「え?それくらいならば別に構いませんよ」
「本当に?断られたら如何しようかと思ったわ。あ、私の名前は紅葉っていうの。宜しくね?」
「ええ、宜しくお願いします、紅葉さん」
錆びれて色褪せてしまったベンチに姿勢良く座る紅葉さんは、不意に自分が座るベンチの余ったスペースに目を向け、ベンチに座れと促すような視線を送った。
確かに彼女を見下ろしたままでの立ち話は彼女に対して失礼します極まりないし、遠慮なく彼女の真横に座らせてもらおう。
年季を感じさせるベンチにゆっくりと座ると、私の体重が加えられたことでベンチから悲鳴のような軋んだ音が鳴る。
「そんなに慎重に座らなくてもいいのに」
口元を隠して上品に笑う彼女に私は羞恥のあまり顔が真っ赤に染まるのを感じ、彼女の視線から逃れるように視線を落とした。
「いえ、ゆっくりと座らないとこのベンチ壊れそうで」
「まあ、確かにこのベンチ年季を感じるわね」
「買い換えようにも使う人が滅多にいませんから、新しい買う必要もないですし」
「少子高齢化と若者の過疎化が激しいから仕方ないけど…やっぱり、寂しいわ。子供の笑い声が聞こえないのは」
悄然として俯いた彼女を見て別の話題を模索していると、眼前に浮かぶ月が目に入った。
中秋の名月が近づいているからか、今日の月明かりは何時もより眩しく感じられる。
「それにしても、今日は月が綺麗ですね」
「そうね、あと数日経てば中秋の名月だからかしら?」
紅葉さんの言葉に昔の記憶が脳内に駆け巡る。
曾祖父さんは中秋の名月になると必ず月見をする人だった。
古びた座布団を尻に敷いて縁側に座る曾祖父は、庭から流れる鈴虫達の鳴き声を耳にしながら、日頃からの態度から考えられないような沈鬱な表情だ深い溜息を吐き、哀しみに満ちた瞳で空に浮かぶ孤独な月を眺めていた。
当時の私は曾祖父さん哀しみに満ちた瞳に気づくことなく、側で彼と天に浮かぶ月を見ていたが、その時に曾祖父さんは何時ものような力任せでガサツに私の頭を撫でるのではなく、壊れ物を扱うような優しく撫でて、普段からは考えられないような慈愛に満ちた表情を見せたのを忘れないだろう。
「中秋の名月か、曽祖父さんも月見が好きだったな……」
「曾祖父さん?」
「ええ、曾祖父さんってば頻繁に月見をしてたんですよ」
「曾お祖父さんはどんな人だったの?」
「え?う〜ん、虚言癖はありましたが、悪い人ではなかったです。何時も人を笑わせることを考えている人で、変わってはいましたがね」
一家で伊勢志摩に旅行した時、宿泊したホテルの従業員に酒に酔った勢いで絡んでは、年配の方しか理解出来ないようなジョークを披露して苦笑いされたのはいい思い出だ。
あの時のホテルマンの満面の笑みでありながら口元が引き攣った表情は見ものだった。
「虚言癖?」
「ええ、曾祖父は何かと嘘を言い張ることが多かったんです。こんな田舎町に遊園地が建設されていたとか、自分は太平洋戦争で敵機を50機墜落させたとか、村の公民館を自分の別荘とか言ってましたから」
「すごい曾祖父さんね。御健在なの?」
「いえ、もう他界してますよ。今日が命日で曾祖父さんが死んでから13年もの歳月が経ちますね」
私の言葉が予想外だったのか紅葉さんは申し訳なさそうに顔を歪めて、忙しなく視線を泳がせる。
「その、ごめんなさい。無神経だったわ」
「謝らなくていいですよ。そりゃあ、最初は泣いて悲しみましたが、今はもう心の整理はついてますし」
「貴方、曾祖父さんのことがよっぽど好きだったのね」
心臓が高鳴った。
思いも寄らぬ言葉に目を丸くした私は月から目を離し、紅葉さんに目を向ける。
彼女は我が子を見守る母親のような慈愛に満ちた表情で、私の瞳の奥を見ており、思わず顔を赤らめる。
「どうしてそう思うんですか?」
「だって曾お祖父さんのことを話す貴方、とても嬉しそうだもの」
目を細め、口元に手をやる紅葉さんは上品に笑った。
「そうかもしれませんね」
照れを隠すために言い放ったが、思いの外、ぶっきらぼうな口の聞き方になってしまった。
「その、良かったら曾お祖父さんのことを話してくれないかしら?」
「いいですよ」
それから私は時間を忘れて曾祖父さんに纏わる話をして、紅葉さんは適度に相槌をうち、時には可笑しそうに笑い、耳を傾けてくれた。
「あ、そういえば、曾祖父さんがこの公園に木を植えたことがあるって言ってましたね。そう、確か…………」
昔、公園で遊んでいた時に曾祖父が数十年前に戦友から譲り受けた苗をこの公園に植えたという話をしてくれたことがあった。
その木を一緒に見たことがあったのだが、物心ついて間もない頃で鮮明には憶えていないため、風化されてしまった記憶を思い起こしながら、徐にベンチから立ち上がると周囲を見渡す。
ふと、ベンチの真後ろに佇む唐紅に色づいた紅葉の木に目が留まる。
記憶にある周囲の景色を確かめながら、歩み寄り愛撫するかのような優しい手つきで木の幹に触れた。
自然の脅威から耐え忍ぶために成長したであろう木の幹は、数えきれぬほど縫合され継ぎ接ぎだらけの躰のようで痛々しく、表面が凸凹しており、その木の大きさや幹の太さから推察するに樹齢50年を遥かに超えるものだと思われる。
温かいぬくもりを帯びた微風が吹くと、緑の香りが鼻腔をくすぐり、目を瞑って忘却された記憶を呼び覚ます。
太陽の光を浴びた稲穂の波が黄金色に輝きを放ち、我が物顔で赤蜻蛉が自由気ままにオレンジ色に染まった夕焼け空を駆ける頃。
雑草が駆除された管理の行き届いている公園の敷地内には、群青色に塗り替えれた真新しいベンチの後ろに泰然自若と佇む一本の紅葉の木が夕暮れの光を浴び、情熱的で煽情的であれども線香花火のような儚い命を表しているようで目が奪われる。
過去の記憶から現実の世界に 意識を切り替える。
「そう、この木だ」
静寂が訪れた。
幹から手を離して、再びベンチに戻りて座る。
紅葉さんを見遣ると彼女はこうべを垂れており、表情をうかがえないが如何してか先程までとは違って元気がないように見えたため、首を捻る。
「そっか、隆弘さんは死んじゃったんだ」
悲しみと納得が混合した蚊の鳴くような声であった。
しかし、真横に座っていたため、そんな小さな声を聞き漏らすことなく耳に拾ったのだが、紅葉さんの口から発せられた曽祖父の名前に思わず目を丸くして彼女を凝視する。
彼女は私の視線から逃れるように徐に立ち上がると、孤独な紅葉の木に寄り添うように歩み寄り、先程の私と同じように木の幹に触れた。
ただならぬ様子に思わず立ち上がる。
「紅葉さん、あの私の曾祖父を」
「有難うね、裕二君。私の話し相手になってくれて」
私の遠慮がちの声を遮るように凛とした力強い声を発した。
「いえ、話し相手になるぐらいなら別に感謝されるほどでもないですけど」
「ふふっ…そういうところ、隆弘さんに、貴方の曾祖父さんに似ているわ」
紅葉さんは振り返り、誰かの顔と照らし合わせているかような瞳で私を見つめる。
昨夜、親戚達に向けられた時と同じ瞳を向けられて、紅葉さんが待ち焦がれていた人が誰なのか検討がついてしまったのだが、俄かに信じ難い意外な人物に驚きが隠せず、思考が停止して開きかけた口を閉じた。
「隆弘さんには結局会えなかったけど、こうしてあの人の曾孫さんに会えたことは無理を言って地上に来た甲斐があったわ」
まるで、紅葉さんが地上に存在していないような口振りに益々頭が混乱する。
とりあえず、彼女の口ぶりから推測から導いた答えが間違っていないか確認したいため、恥と躊躇いの心を捨て去る。
「紅葉さんが待っていた人って、もしかすると僕の曽祖父ですか?」
「ええ、そうよ。毎年、この時期になると隆弘さんが会いに来てくれるのだけれど、13年前から一度も来てくれなくて寂しくて心配してたのよ。でも、納得いったわ。だって待っていた当の隆弘さんは、13年前に亡くなっていたから」
小学生を教え諭す教師のような優しい口調で話す彼女の瞳には哀惜の陰が見え隠れしており、驚愕の面持ちで呆然と佇む私に触れれば消えてしまいそうな儚い微笑みを浮かべた。
何時からか定かではないが紅葉さんがこの公園で私の曽祖父を待ち続け、遂には長年待っていた人が既に故人であったという事実を突きつけてしまったことに酷い罪悪感が湧き上がり、何と言っていいか分からず言葉が詰まってしまう。
「あの、その、御免なさい」
「ううん、いいの。何時かは分かることだから。私の話し相手になってくれて有難うね。名残惜しいけど、そろそろお別れよ」
彼女の口から発せられた言葉が否応に脳内に響き渡る。
このまま彼女と別れれば、二度と逢えない気がしてならなかった。
「あの、紅葉さん!また貴方に会えますか!?」
何処か遠くへ消えてしまいそうな危うい雰囲気が漂い、悄然と視線を落とした彼女を見て、心が掻き乱され、無意識に私の口はそう口走っていた。
思いもよらなかった言葉だったらしく、彼女は僅かに驚いた顔で必死の形相の私を見遣ると目をぱちくりする。
暫し沈黙していたが、私の顔が可笑しかったのか小さく吹き出すと肩を震わせて、鈴の音のような愛らしい笑い声を洩らした。
「ええ、勿論。裕二君、また来年の今日に逢いましょう」
言い終えるや否や、突如として風が吹き荒れた。
突然の強風に驚愕しながらも、余りの風の強さに砂塵が舞う。
目に塵が入らぬよう咄嗟に瞳を閉じ、両腕を交差させて眼前に遣ると腰を低くして身構え突風を耐え凌ぐが、身構えてからものの数秒で風はおさまり、閉じていた瞼をゆっくりと開くと、紅葉の木に寄り添っていた彼女はいなかった。
周囲を見渡しても人気は感じられないし、耳を澄ましても聴こえてくるのは川のせせらぎと鈴虫達の声だけである。
「紅葉さん、貴女は………」
眼前に佇む優美な色合いに染まった不動の紅葉の木を眺め、無意識に溢れ落ちた言葉の先を口にすることなく、胸の内に仕舞い込む。
口にすれば不粋だと思ってしまった。
彼女には他にも色々と話したいことがあったが、それは来年の機会に取っておこう。
来年の今日、再び彼女に逢えるのだから。
「また、来年逢いましょう、紅葉さん」
紅葉の木に背を向け、公園を後にする。
風が吹いた。
「約束ですよ?」
背後から投げ掛けられた鈴の音のような女性の声が秋風に乗って私の耳に伝わり、思わず振り返る。
紅葉の木が風に煽られて枝が小刻みに動いていた。
高鳴る鼓動と込み上げる歓喜を感じなから、満面の笑みを浮かべる。
「ええ、約束です。また来年、此処に来ます」
上下に揺れ動く紅葉の枝は、手を振っているようだった。