プロローグ
二〇一一年四月十一日、あの東日本大震災から数えてちょうど一ヶ月が過ぎようとしていた。震災の影響で延期されていた麻耶香の小学校入学式の日がやってきた。
親権を争う裁判の最初にクリアしなければならない関門が、娘を自宅近くの小学校に入学させることができるかどうかだと考えていた達也にとって、大きな意味を持つ特別な日である。
入学式が始まるのは午後一時であったが、達也は朝からそわそわとその時間がくるのを待ちきれぬ心地であった。一年前、勤めていた会社を定年で退職して以来、クローゼットのハンガーに吊るしたままとなっていたスーツを白いワイシャツの上に着込む。
娘と手を繋いで小学校へ続く通学路を一緒に歩く。達也が待ち望んできたそんな光景がやっと現実のものとなった。前の年のクリスマスにデパートに連れていき、麻耶香に自分で選ばせた真新しいピンクのランドセルは、この日を迎えるために学習机の上に準備されている。
そのランドセルを小さな背中に背負い、麻耶香は化粧に手間取って遅れてくることになったエリカが一緒ではないことに対して特に不平も言わず達也と並んで元気一杯、小学校への門をくぐった。
麻耶香が通うことになる藩山小学校は、少子化時代には珍しい、仙台でも有数のマンモス校である。今年、新入生となる児童だけでも二百名を越え、入学式会場となる広い体育館は大勢の父兄と来賓たちであふれていた。
市内の多くの学校同様、この体育館もあの大震災直後からつい数日前まで津波で被災した多くの人々を受け入れる避難所として供されていた。それらの人たちもそれぞれ仮設住宅やら親戚の家など、とりあえずの落ち着く先に散っていったのだろう。
達也はコンパクトカメラを手に式会場の父兄席最前列のパイプ椅子に陣取った。式の途中から参席したエリカは、後ろの方に座っているらしかった。
やがて大きな手拍子とピアノ伴奏に合わせて、担任となる先生に先導された新一年生が入場してきた。麻耶香も大勢の児童達の行進に合わせ、やや緊張した表情である。
この瞬間を待ち焦がれていた達也は、娘の晴れがましい姿を自分の目にしっかりと焼きつけておこうと目で追った。
ここ数年に及ぶ、両親の離婚を巡る裁判の進行と共に増幅されてきた家庭内の不和という、子どもにとってはこのうえなく辛い環境の中でも深刻な情緒不安に陥ることもなく、無事にここまで育ってくれたことが何よりもうれしかった。
小学校入学を果たしてしまえば、いかに家庭裁判所のお墨付きを得ているとはいえ、母親側が麻耶香を転校させてまで別居を強行することの正当性は薄くなる。
子どもの成長にとって大きな節目となるこの入学の日が、いつ終わるとも知れない法廷の争いの転機になってくれれば、と達也は思いたかった。