錬金術師 遭う
命綱のないあてのない綱渡り。ゆらゆら揺られて今にも落ちそうでそれでもなんとか今日を歩く。その先に光があると信じて。
それが人間の唯一にして最大の過失。
その先、渡りきったその先に、
光なんてそんなものあるはずがないのに。
見覚えしかない森。僕はこの森に見覚えしかない。木と葉。そして草が占める空間。誰が最後に訪れたのだろうか。雑草は好き放題伸びている。長いものでは僕の腰のあたりまで草が青々と茂っている。草は風になびきサラサラと音を立てている。僕の腰ほどもある雑草も例外ではない。風にあおられて大きく揺れることはなくても小さくゆっくりと揺れていた。その度にサラサラと音が鳴るのだ。
自然を感じる。
嫌なほどに。
この場所に僕以外の人の姿は見受けられなかった。誰もいないこの空間に僕は一人で立っていた。ただ何をするわけでもなく。ただ何もせず立っていた。
立っていることがまるでするべきことのように。それがまるで義務のように。あたかもそれをすることに何か意味があるように。
実際は何の意味も持ち合わせてはいない。立っていることに何一つ意味はない。立っている必要はないのだ。座っていてもいいのだ。しゃがんでいてもいいのだ。極端に言えば逆立ちをしていてもいいのだ。この場合体勢に意味はない。意味があるのはここに僕がいるということだけだった。
ここは。この森は僕にとってとても大切な場所なのだ。
僕の母と父が永遠に互を愛すると誓った場所なのだから。
無関係とはあいにくいかないのだ。ここは僕の母と父にとって大事な場所であると同時に僕の大事な場所でもあるのだ。
僕はいつも行き詰まるとここの空気を吸いに来る。両親が助言をくれる気がするのだ。単なる錯覚に過ぎないということもわかっている。だがここに来たとき自分の抱えていた悩みが払拭されたことやヒントを得ることができたことは間違いのない事実だということもわかっている。
ここは僕にとって唯一、母を。父を感じられる場所なのだ。
幼い頃から家に両親はいなかった。いつもどこかに出かけて家にいなかったのだ。母も父もいなかった。家のどこを探しても両親の痕跡はなった。いつも食器の位置は同じ。椅子の位置も僕が動かすもの以外は全く動いていない。両親の部屋はあるもののクモの巣があちこちに張り巡らされていて使用されている形跡すらなかった。
いつも僕を一人にするそんな両親が嫌いだった時期もある。でも今はこれ以上ないくらい両親のことが好きだ。
僕をおいて先に死んでしまった両親でも。
それでも自分の親なのだから。
僕ひとりだけをおいて幸せそうにふたり揃ってあの世に行った奴でも紛れもない僕の両親なのだ。
両親が死んだことを知ったときそれほど悲しみはしなかった。それこそ草がなびいているのを眺めている時と心境は同じだった。おおよそ落ち着いていて感情が乱れることもなくただ静かに知らせを聞いた。親戚のおじさんはいつもの穏やかな表情を一変させて僕のもとへ文字通り飛んでやってきた。それなのに僕は悠長に昼食を食べていた。親戚のおじさんから話を聞いている間、僕は昼食のスープを口に運ぶのをやめなかった。そうでもしないと泣きそうだったからではない。ただお腹が減っていたからだと記憶している。僕は親の死という事実よりお腹がすいていたことに気を取られていたのだ。
スープの中のパンやじゃがいもなどを咀嚼しながら事実を理解しても僕はスープを食べることをやめなかった。やめることはできただろうが別段この場でスープを食べることをやめることが意味のある行為だとは思えなかった。
葬式の日も僕は喪服など持っていないので出席しなかった。誰も手配してくれなかったしそれ以前に僕には出席の意がなかった。
僕はその日もこの森にいた。天を衝かんばかりの十七本の大木に囲まれたこの広間のような森に一人出来ていた。真ん中にある切り株に腰をかけて天を仰いでいた。意味はなかった。
はずだ。
僕は立っているという意味のない行為をやめ葬式当日の時のように切り株に座り天を仰いだ。
何も感じなかった。
何一つだ。
何も感じ取れないのだ。これといって、何一つ。おかしな話だ。僕はそう思う。自分の親族。ましてや両親の葬式に出席しなかったあの日、僕は何も感じなかったというのだろうか。何一つ感じられなかったというのだろうか。
それならば僕はなんて薄情な人間なのだろうか。
唯一の肉親である親の死に何も感じなかったというのは子供としては異常だろう。どんなに家を留守にすることが多く顔もよく覚えていないような、正確には思い出せるもののそれが果たして本当に自分の親なのか判断がつかなくなっているような親であっても親の死という凶報には涙することが普通ではないのだろうか。動くこともない。冷えて硬くなった亡骸を見て子供らしく喚きながら涙することが普通なのではないだろうか。それが当たり前な子供の姿ではないのだろうか。
それでも僕は冷淡に鼻を鳴らした。
仮に親の亡骸を見て僕が泣いたとして誰が喜ぶのだろうか。親が喜ぶだろうか。死人が喋るものか。死人に口なし。死んだ人間は誰にも何も語らない。何一つとして語ることはない。ましてや喜ぶものか。死んだ人間は何も感じない。何も考えない。考えたり感じることは生きている人間の特権だ。死人にその権利はない。
僕は考えることを欠かない。無駄だと分かっていることでも考える。その度にくだらないと感じることもある。しかしくだらないと感じるたびに僕は生きているのだなと実感することもある。
おかしな話だがこれが僕でそれが現実だ。
この森は僕にいろいろなことを教えてくれる。直接ではない。森は喋らない。だから直接は何も語らない。僕が自然から意味を汲み取り様々な形に構築し直して理解、解釈をしているという形に過ぎないがこの森が教えてくれていることと同義だろう。ここはいろいろな知識が集まる場所だ。母と父のこともこの森が教えてくれた。
誰もこの地に踏み入ることはない。誰ひとりとして。僕以外誰ひとりとしてこの地に足を踏み込めない。この森は封鎖されているのだ。誰がそうしたのか誰がこんな面倒なことをしたのかはわからない。だが久しくこの地を訪れた時には変な看板がかかっていた。そして長い、長い長い鎖でこの森は囲まれていた。
危険。
開拓予定
立ち入り禁止。
看板にはそう書いてあった。鎖はとても古めかしいもので錆びていて赤くなってしまっていた。今にもちぎれそうななんて頼りない鎖だろうかと思ったが思いのほかその効果は発揮されているようで、三時間近くここにいるが誰ひとり来やしない。たかが看板と錆に錆びた鎖ごときで誰も近寄らなくなるとは人間とは誠に面白い生き物だ。
誰のこともここにいれば忘れられる。母と父のことだけを考えられる。自分自身を見つめ返せる。誰もことも感じないから自分本位で物事を考えられる。自分のためだけに考えを張り巡らせることができる。そしてくだらないと簡単に切り捨てることができる。ここにいるときだけは自分を中心に世界が回っているのだとそんな突拍子もない馬鹿げたことも平気でさも当たり前のように考えることができる。この外と隔絶されたこの場所では。
この場所がなければ僕は僕ではなかったのだろう。両親が永遠の愛を誓うこともなかったのだから僕はこの世に存在しなかったかもしれない。この場所があったからこそ僕という命が誕生できたのかもしれない。
しかしあくまで想像に過ぎない。運命とはいくつもの分岐点がある。しかし結局行き着く未来は同じなのだ。だからこの場所がなかったとしても母と父はどこか別の場所で永遠の愛を誓い僕は生まれていたのかもしれない。それも想像に過ぎない。僕の考えはいつだってそうだ。推論に過ぎず実証もできない不完全な考えばかり。仮説は実証できて初めて事実になる。実証もできない反証もろくにできない仮説は仮説にはなりえない。仮説として扱ってはならない。だから僕は可能性を否定する。仮説にもなれない考えを僕は嫌悪する。この森以外では。
この森の中では実証も反証もできない仮説でも許される気がするのだ。子供の無邪気な質問のようだと、優しく肯定される気がするのだ。だから僕はこの森を離れられない。どれだけこの森が変わり果ててしまおうと僕はここから離れられない。どんなに頑張っても母を忘れたくないから、父を否定したくないから僕はここをいつまでも訪れ続けるだろう。それが己の未熟さの象徴だと分かっていても。ここに来ることだけはやめられない気がするのだ。
いつまでたっても親に甘えているわけにはいかないというのはわかっている。親に甘んじて何かを許してもらえる時期はもう過ぎてしまおうとしているというのもわかっている。それでも僕はここを訪れるのだろう。
二度とここに来ないと誓ったあの日の誓いを忘れここに来てしまっているのだから。
座りながら天を仰ぐ。そこにひょっこりと顔が覗く。顔見知りだった。知り合いの娘で名前はなんだったか……
そうだ。
シモン・フォルカシュ。
僕の知り合いの商人の娘でたしか僕と同い年だったはずだ。
シモン・フォルカシュを一言で表すなら病弱の一言に尽きるだろう。シモンはみんなから病弱な女の子という立ち位置を与えられている。本人もそれが嫌なようではない。だから病弱な女の子でいるし憤りを見せることもない。当然のように激しい運動はしない。理由は知らない。いつも父親の後ろをついて歩いていて本をいつも片手に持ってる。読んでるところはほんとにごく数回しか見ていないが大切な本のようでいつもしっかり握って手放すことはない。
五年前に商人であるシモンの父がやってきてから何度も顔を合わせているが活発に動いてる姿を未だ見ていない。僕はそれ勝手ながらを病弱なせいだとしている。それが病弱で体が運動に適していないせいなのだと思っている。シモンもそれでいいのだろう。何も言及してくる素振りはない。だからそれでお互いに納得している事柄なのだろう。お互いに納得してそうしてるに過ぎないんだろう。
シモンは病弱だが直接的な弱さには思えなかった。脆弱というようには全く見えなかった。強く腕を握れば折れてしまうだとか打ちどころが悪ければすぐ意識が昏倒してしまうとかそんな危うさは全くと言っていいほどになかった。線が細く華奢な体をしているのに危うさや儚さは微塵も感じられなかった。まるでとても精巧な粘土細工に鉄の芯材を使っているかのようだ。
友達はいないらしい。
一人もだ。
ただのひとりも。僕たちにとって至極当然のように存在するたった一人というごく少数の人間がシモンにはいないのだ。
それが悲しい言っいるところは一度も見たことがない。確かに僕たちの年代は人数が少ない。
僕らが生まれたのは戦争が終わった年。終戦の年。大半の人間が大半の種族が息絶えた凄惨な戦争が幕を閉じた記念すべき年だ。この世界の総人口は百年前から減少傾向にあり僕たちの生まれた八百年はここ百年で最低を記録した。死亡率が高かったのもあるが出生率が非常に低かったからだ。母体に感染すると高確率で胎児が死に至るという疫病が八百年前後で急速に全国に広がり出生率が著しく低下した。そのせいで今年十五歳になる人たちは非常に少ない。
しかし友達なら年上でも年下でも別にかまわない。それなら十五歳という多感な時期に友達がいないのは少し異常だと思う。少なくとも多少自分が異常であるという自覚のある僕でさえ友人はいる。たった一人だけなのだが、それでも友人は友人だ。
それがいないのだ。
僕のように一人しかいないのではない。
ひとりも、いないのだ。
それは他人から見たらなんて悲しいことなんだろうかと思うかもしれない。でもシモンはそうは思ってないのだ。悲しいなんて全く思ってはいのだ。それが嫌だとも友達が欲しいとも一言も言わないし友達がいないことに何かしら不都合を持つ様子もない。友達はいなくて当然と見ているこっちがそう思ってしまうほどだった。
普通は無理だと思う。友達がいないということは悩みを話し合うことができないということ。励まし合うことができないということ。恋愛相談ができないということ。一緒に遊べないということ。
それでも構わないというのだろうか。それでいいのだろうか。本人がそんなに自分に対して無関心でいいのだろうか。もっと多感な時期なのだから自分本位で何もかも考えていいのではないだろうか。
僕はひょっこりと僕のことを覗き込んでいる顔を見ていると少し悲しくなってきた。余計なお世話だろうが僕はそう思ったのだ。シモンは覗き込んだ体勢のまま小首をかしげた。とても可愛らしい。柔らかく口角を上げ少し目を細めた自分と同い年の少女はとても可愛らしく見えた。
「ここは立ち入り禁止ですよ」
自分も立ち入っておきながらなんだその言い草。まるで僕だけが悪いみたいじゃないか。同罪だ同罪。同じ罪と書いて同罪。
「お前もな」
「私はいいんですよ。優等生ですから」
どこがだ。
シモンは頭が悪い。数学を教えたことがあるが見るに耐えなかったことがある。お世辞にも優等生とは言えない
シモンは笑っているがその破滅的な脳みそを知っている身としては笑えない。
「何してたの?」
近づいてくる。一歩、また一歩と。確実にゆっくりと。しかし途中で木の根に引っかかって僕に向かってコケる。
華奢な体が一瞬だけ宙を舞う。
僕は咄嗟に受け止めた。両手を使って華奢な体を受け止めた。
我ながらいい判断だとは思った。
受け止めてから気づいた。それが間違いだったと。
シモンの、シモン・フォルカシュの体が冷たかったのだ。まるで氷細工を抱えているかのような冷たさ。おおよそ人間の体温とは思えないほど冷たかった。低体温なんてものをとっくに超えていた。これはおそらくそんなものじゃない。
シモン・フォルカシュには体温がなかったのだ。
人間の暖かさが人と触れ合った時のぬくもりが全くなかったのだ。