8 静寂の待宵月
夜が明けて目覚めるたびに、何故生きているのだろうと無意識に疑問に思うのは今日が最後になるだろう。いや、終わりにしなければならない。与えられた生を全うすることは自らに課せられた忌々しい役目なのだ。何も考えなければ良い。きっと出来る、今までそうしてきたでしょう?唯一、貴方に関することだけはそうは出来なかったけれど。
お嬢様、と召使の心配する声音は嘘で跳ね除けた。ちょっと気分が優れないわ、と申し訳なさそうに告げれば聡い彼女らはあれこれ想像して放っておいてくれる。輿入れ前で不安定なのだとでも考えているのだろう。それならそれで都合が良い。まさか、侯爵家への嫁入りを心では拒否して別の男を想っているなどと、誰が想像出来るというのか。
「まさかこうなるのを狙っていたのかしら?……そんなわけ、ないわね」
少しばかり恨めしく思えど、彼がそんなに器用なひとではないと知っている。この世の何処かにある吸血鬼の帝国で力のある血筋の者、少女にはそれしか分からない。けれど八年の月日は彼の言葉にしない優しさや脆さを知るには充分すぎた。惹かれてはいけない、そんな枷さえ打ち破る程の想いだけを残して、彼へと続く道は断たれてしまった。枯れてしまったのは心か、それとも。もう涙すら零れない。
闇、と病み、が同じ音を持つことに感心さえ覚えていた。心を病めば闇に蝕まれる、自然の摂理と言っても良い。寝起きの少し惚けた状態で勝手に脳内に流れ込む妄想に納得し、ノックされた扉に向かって許可の意を告げる。主の起きた気配を察して即座に行動する側仕えは彼の乳母子で、唯一信頼できる存在でもあった。
「紅茶をお持ちしました。今日はどうなさいますか」
「……自分でやる」
白くなめらかな陶器でできたシュガーポットの蓋を音も立てずに開け、細工のこまかな金色のスプーンで山盛りに掬っては琥珀色の液体に溶かし込む。それを二度ほど繰り返した時に側仕えの微妙な面持ちに気付いたが、互いに何も言わない。今日だけは、甘ったるいのが欲しかった。噎せても吐いても構わない。彼女の甘やかな記憶を消し去れるなら、と。
結果は火を見るより明らかだ。最早茶色い砂糖水と化したそれは喉を潤さず、ただ狂おしい想いを呼び覚ますだけだった。
「新しいものをお持ちしましょうか」
「いや、いい」
甘ったるいだけで深みのない、彼女の血の味に到底及ぶはずもないものを無理やり飲み下す。既に求め始めているというのか、二度と会えない過去の幻影を。
「少し早く起きすぎた。時間が来るまで下がって良い。……ここで一人でいる」
「畏まりました。……あの、皇子」
「言うな」
何もかもを諦めたような穏やかな声音にアルヴィンは口を噤むしかなかった。見つめる視線に乗って少しでも伝われば良いと願う。帝国の繁栄が主の不幸であるならば、それを受け入れる覚悟を決めた次代の王にどうか安らかな祝福を。
余計なものは何一つ要らなかった。
身分も金銭も、広い部屋も豪奢な調度品も。
全てを引き換えにしても構わなかった。
ただひとつだけ、欲しかったものを得られるのならば。
皇帝は飄々とした風貌で、だが確かに見紛うことなき威厳を放っていた。本題について長々と語ることはなく、解っているだろうとだけ問われ頷いた。だがそこですぐに解放されず、何処か遠くを見るように呟く姿は少しだけ皇子を戸惑わせた。
「罪深い制度だがな、変えられるものでもない」
「……はい」
「私は、お前たちの母を愛せなかった。だが生まれてきた子は皆愛しく思っている。そういうことだ」
父が本当に愛したただ一人の女性は、跡継ぎとなれない赤い瞳の子を産んだ。共にあれないさだめに絶望し、母子共々命を絶ってしまったのだ。数十年の月日は心を癒すこともなく、後悔ばかりが降り積もって行くという。
「ただここにいれば良かった。生きてさえいてくれたなら」
「そうしたら、子の中でその兄を一番に愛しましたか」
「言うようになったではないか。子を等しく愛するようには努めただろうがな」
軽口を叩いたつもりではなかったが、父は面白そうに笑った。一番に愛する人と結ばれなかったのは同じだ、そう思えば耐えられないものではないと言い聞かせた。彼女は幸いまだ生きてこの世にいる。そして分け与えた寿命により、彼女が死ぬ時が自分の死ぬ時でもあった。吸血鬼の寿命よりはるかに短い余生となるが、この先何百年も苛まれるよりはずっと良い。
「同じ後悔はさせたくなかったが」
「そのお気持ちで充分です」
「……だがお前にはまだ道が残されている。行くだろう?」
どこに、と言い掛けて、直後に脳天から突き抜けるような感覚に狼狽した。覚えの有る馨りが急速にその存在を知らしめる。鼓動が乱れ、追いかけたいとでも言うように意思と関係なく身体中の器官がそばだてられる。
「呼ばれたなら出向かねばなるまいて」
父の言葉に、最後の砦とばかりに動かなかった脚が自由を見出す。そのままの勢いで扉の向こうへ走り去る息子の姿に、何を思うのか。ほぼ円となりかけた銀色の月だけがその表情を見ていた。