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7 壊された居場所

 小鳥のさえずりと、暖かな日差し。いつもの朝だった。しかし、昨日までと同じものは彼女自身の中には何一つ無かった。

「……傷は消せても、この気だるさまでは治せないのね」

 歩くたびに下腹部にずんと響くこの感覚すら愛おしい。確かに痛みはないし、鏡台の前で確かめた首筋もいつも通り滑らかだった。それでも昨晩起こった事実は決して夢でも偽りでもない。そしてそれは、もう彼と二度と会うことはないという事を示していた。

 輿入れまで、あと二日。今はまだ少しだけ余韻に浸っていたい。きっと酷い顔をしているに違いないと、人目を避けて裏庭へと向かう。蒼薔薇の植え込みと対の位置に咲き誇るツルバキアの花は植え替えの時期も近い。庭師の心配も跳ね除けて、数年に一度自らの手で施している。せめて細い指先に傷が付かないように、と厚い手袋の着用だけは懇願されているが。

 嫁いでしまえば、庭師がこの庭も丁寧に世話をしてくれるだろう。けれどもしそれでも出入りを禁じてしまえば。蒼い薔薇も、季節ごとに咲く美しい花も全て枯れ果ててあっという間に荒れ放題になってしまう。むしろその方が良いのでは、と一瞬だけ考えて悔いた。花には罪はない。そして、そんな事はきっと出来ない。彼女の大切な人が贈ってくれたあの薔薇を枯らすことなど。花びらはしっとりと指先に吸い付いてきて、どこか甘く爽やかな薫りを放つ。色も佇まいも全てが彼を連想させて、もう流すまいと決めた涙はいとも簡単に頬を伝う。滲んだ視界に手が滑り、ちくりと棘が刺さった指先の血が花びらに染み込む様は余計に心を震わせた。

「……美味しくは、ないわね」

 丸く指先に溜まる血を舐め取って、鉄錆の風味に顔をしかめる。こんなものを平然と飲み下す彼と自分との隔たりを自らに思い知らせるように。遠い存在、交わることの無い世界。言い聞かせてみても無駄だと知っていて、そうせずには居られなかった。






 側仕えである彼は、主の変化に困惑していた。“外”に行く際同行させて貰えない分、城にいる時分には心地よく過ごしてもらおうと精一杯の努力を重ねていた。実際に降り立ったことはなくても、主の行く場所と想い人に関しては本人から聞かされていて良く理解している。信頼されているという自負は彼の自信となり、主より年上だというのに童顔で他人にからかわれる事もほとんど気にならなくなっていた。

 だからこそ、どんな些細な表情の変化も見逃すはずがなかった。吸血鬼の世界では日が落ちてからが行動時間だというのに、日付が変わった頃に帰城した主は珍しくそのまま朝方まで寝入ってしまっていた。起き抜けに目覚ましの紅茶を差し入れてみても何も語らない。昨日は思い詰めた表情でかの人の元へ行っていたはずだ。何かあったのだろう。これから日が昇る時間だから休んで良い、との言葉に彼は逆らった。迷惑でなければお側に、と乞う側仕えに主は穏やかにそれを許す。溜まっていた書類の承認などを始める主の近くに控え、いつどんな指示がきても動けるようにしていたがこの数時間で彼がした仕事は紅茶のおかわりを注ぐことくらいであった。

「無理して付き合わなくて良いのだぞ。俺もこれが終わったら休む」

「ではその時まで。……皇子、不躾な事は重々承知しておりますが」

「……けじめを付けたまでだ。アルヴィン、お前が気にすることは何も無い」

 身を切るような決断だったのだろう。蒼く美しい瞳にはいつもの覇気が無い。許されない事だと解っていても、心の奥底でアルヴィンは二人を応援していた。彼が皇子でなかったら、そもそも吸血鬼でなかったら、それとも彼女の方がこの世界の住人だったなら。それらは考えるだけ仕方の無いもので、厳しい現実に為す術は見当たらない。約束された栄光も、ただ互いを想う男女にとっては枷でしかないのか。一度会ってみたかった、主が心奪われたという黒い瞳の淑女に。自分と同じ金色の髪、というのも親近感が湧いた原因かもしれなかったけれど。

「あ、そうです、陛下が今宵玉座に参るようにと」

「分かった。……そろそろ呼ばれると思っていた」

 内容は聞かなくても何となく理解していた。それはアルヴィンも同じだった。帝位を継ぐには跡継ぎを為さなくてはならない。例え相手を愛していたとしても、蒼い瞳の子が生まれなければ婚姻すら出来ないのだ。ゆえに現皇帝も愛する者と結ばれなかったと聞く。ただ子を産ませるためだけに何人もの女性と、……その先は考えるのも億劫だった。

「今から言う事は聞かなかった事にしろ」

「はい」

「今この時ほど、この世界が滅びれば良いと思ったことはない」

「……はい」

 この主に仕えたまま滅びるのならそれでも良いのかもしれない。ふとそう感じたことを言い出せずに部屋を後にする。彼には主が全てだった。誰よりも幸せであって欲しかった。主が幸せでない世界を惜しむ側仕えがどこにいるというのだ。


「何も要らない。……要らなかった。そうだろう?」

 明るさに見えなくなってしまった月に問いかけた。満月まで、あと二日。

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