6 与えられし罰
いつものかっちりと着込んだ姿ではなく、緩やかなシルクの夜着だと気付いて緊張に身をやつす。そしてそれは自身も同じだと今更ながらに羞恥を覚えた。
「変わらないな、この部屋も」
「そうね。わたくしはわたくしのままだもの」
動揺を気取られぬよう、慎重に言葉を選ぶ。これから全てが暴かれようというのに、無駄な抵抗と知っていても隠そうとせずにはいられなかった。自分でさえ認めていない感情を直視するのを、少しでも遅らせたいだけなのかもしれない。
「契約更新、といこうか」
豪奢な刺繍を施された総レースの天蓋の、四方の枠に括り付けられた紐を外される。途端にそこは逃げることを許されない切り取られた空間となり、まるで世界に二人きりしかいない錯覚に囚われた。枕元まで後ずさる少女を追う青年の姿はどんな神々の彫像にも負けない程美しく、ただその漆黒の瞳を所在無さげに泳がせるしかなかった。そっと顎を持ち上げる指先のしなやかさに、拒む術も見出せない。
「……今日は押し退けないのだな。しおらしい事だ」
「契約ですもの。お戯れとは違うでしょう?」
精一杯の強がりと見透かされていないわけもない。あの日言外に彼を拒否した時のことをきっと根に持っているのだろうと、底知れぬ執着を感じて打ち震える。
少女は諦め切ったようにそっと目を瞑る。そしてどこか期待を持つ自身を叱咤する。どの口で言えようか、拒否をした理由が自分自身の為であったなど。本来相容れぬ関係に溺れてしまわぬように枷をはめ続けてきた結果は、結局は思い通りでしかなかったのだ。
身も心も蕩けてしまう感覚、というのを少女は初めて知った。触れた熱が穏やかに唇を覆ったのはほんの一瞬の事で、免疫のない彼女は求め蠢く異物の侵入をあっさりと許す。急かすような余裕の無い動きは口内を蹂躙し、絡め取り、小さな悲鳴をも飲み込ませる。苦しさに見開いた目には蒼薔薇の色彩が映り、目尻に浮かぶ涙で滲む。どちらのものともつかぬ交じり合った唾液が繋ぐ細い糸がぷつりと途切れる頃、靄がかった意識は鮮明に彼の顔を認識した。見慣れているはずの彼の頬は思ったよりずっと血色が良く、けれどおそらくは自分ほどではない。無表情に真実を告げられたあの日よりもやはりこの方が彼らしい。安堵したのも束の間、見られたくないとでも言うように顔を逸らした彼の唇が首筋に吸い付いて、ぴくりと身じろいだ。
血を啜られる時のものとは全く違う感覚に襲われる。なめらかに触れる唇がきつく痕を残すように吸い上げ、頭の中がじんじんと痺れ思わずぎゅっと目を瞑る。何も感じなければいい、心を閉ざして過ぎ行く嵐を見送ればいい。そんな微かな反発心すら見抜かれて、思わず剥き出しにさせられる感情の波を彼は楽しんでいるようだった。骨張った長い指先、てのひら、そして少し薄めの唇で、最早触れられていない箇所などどこにも無い。
気を抜けば失いそうになる意識は抗えない刺激に浮上を繰り返し、いっそのこと手放してしまえればと幾筋も流れる涙の丸い粒にすら自己投影してしまう。心と身体が切り離せればどんなに良いだろう。一夜限りとするにはあまりにも深い愛情で満たされるのが解る。きっとこれは罰なのだろう、道を違えた自分への。
「……っ、……あ……っ」
もたらされる痛みも与えられる快感も、かき混ぜられて一つになっていく。底光りする赤が滲む瞳に囚われて、ただされるがまま受け入れる事で精一杯だ。目元を吸う柔らかな熱が泣くなと伝えてくるようで、余計に涙を零しては呆れたように優しく笑う。得体の知れぬ何かが奥底から湧き上がってきた頃には青年もそんな余裕を見せなくなり、最後の時が近いと知る。不意に頬に触れてきた指先は少し冷えている。まるで置いてきぼりにされたかのように。
何か言いたげにこちらを見る彼に、どうしたのと瞳で問いかけた。響く心音にかき消されそうなほど、声を出すのも今は辛い。逡巡していた蒼い瞳が再び真っ直ぐに彼女を見詰める。ただ一言、それを告げるのに多くの時間を要した。そう、出会ったあの日からずっと秘めていた想いを。
「……愛していた。セレスティア」
「え、……あぁ、や……ッ」
上り詰めたものが解放されていく。荒海にもみくちゃにされたかのような、体中が引きちぎられてバラバラになってしまうのではないかという強すぎる快感。身体だけではなく、心も全て壊れてしまいそうだった。あれだけ手放したいと思っていたのに。今はただただ浚われまいと自分自身を抱き締めて護る。安っぽいプライドもかなぐり捨てて。
海面が凪ぐような穏やかなまどろみから覚めれば、ベッドの脇に腰掛ける彼に髪を撫でられていた。少しだけ気を失っていたらしい。互いの夜着に乱れは無く、夢だったのではないかとすら思う。けれど自分の全てがそれを否定している。思わず手を伸ばして彼の手に触れてみた。確かにここにいる、それを確かめたくて。
「ずるいわね、貴方は知っていたの」
「知らないと思っていたか?」
「そうよね。……でも、貴方は教えてくれないのでしょう?」
「いざその時に、間違えて俺の名を呼んでしまっては困るだろう」
ああ、知っていたならそうなるのかもしれない。比べるどころか、相手に彼を投影してしまうに違いない。ただ一度きりの短い行為に、彼の癖も体温も全て刻み付けられてしまったのだから。
「……安心しろ、与えられるだけ与えた。もう血と引き換えにせずとも、人間の平均寿命辺りまでは生きられるだろう」
青年の言葉に若干の違和感を覚えて少女は彼を見詰める。与える、そんな言い方を今までしたことがなかった。あくまでも対価だと常々答えていたはず。まさか、と問いかけても表情を変えない姿に疑念は確信に変わる。もしかしたら、取り返しの付かないことを。
「もう眠れ。お互い在るべき場所に戻るだけだ」
まぶたの上に翳された大きなてのひらの温かさが眠りに誘う。抗おうにもそれを許さない優しさに堕ちていくしか道は残されていなかった。
……幸せに。
最後に聞いた彼の声音を、道連れに。