5 破られた鳥籠
その手には、一つの香水瓶があった。卵型の本体を囲むように硝子の花が浮き彫りにしてあり、絶妙なカッティングの効果で光を受ければ虹色に光る。ところどころに散りばめられた細かな宝石は、彼女の誕生石であるアクアマリン、そして“征服されないもの”という語源を持つ気高いダイヤモンドだった。
貴族の女子は生誕の折、それぞれの家が抱える一流の硝子職人と調香師の手によって香水が作られる慣わしとなっている。生まれ月に咲く花の香りをベースに何度も調合を重ね、一年もの月日をかけ祝福の願いを籠めて贈られるのだ。
「栄光、不滅、永遠……どれもわたくしには程遠いわね」
花言葉も宝石言葉も、所詮人が作ったもの。事実が期待通りに進むことは奇跡に近い。
「何も要らないのよ。……要らなかったの」
瓶を持つ手が震える。このまま取り落としてしまえれば、運命は変えられたのかしら。けれど少女にはそんな事は出来なかった。不穏に高鳴る鼓動を宥めるように、胸元に手を触れる。生きている、当たり前の事実が今は重くのしかかっていた。
シルクのネグリジェがさらさらと肌を滑り、そっと脚を沈み込ませた羽毛布団は柔らかく彼女を包み込む。ベッドサイドで淡く光る釣鐘型のランプは、幼い頃に唯一欲しがって手に入れた品だ。我儘の一つも言わない病弱な我が子の可愛いおねだりを聞かない親がどこにいようか。そんな優しい記憶も、思い出すのはもう哀しかった。
握り締めたせいで温度が高まったのか。枕元に噴き付けた薫りはより甘さが増して、くらくらと蝕むように酔いを回そうとする。程なく現れるであろう影に、微笑みかけるだけの余裕は取り戻せそうになかった。
おそらくは最初から選択の余地など無く、全てが計算されていたものだとしたら。例えそれを知っていたところで何が出来よう。結局は、忌まわしいまでの運命などといった人智を超えたものに弄ばれていたに過ぎない。
「逢わずともって、血と引き換えに、じゃなくても出来るということなの」
怪訝そうな表情を浮かべ少女は彼に問う。いくらか間があって、それでも青年は真っ直ぐに答を返そうとはしなかった。
「お前はこれから好きでもない男の妻となり、虫唾の走る腕に抱かれて子を宿し、一生を貴族の屋敷に縛られて生きていくのだろうな」
「……っ、やめて……」
「事実だろう?直視しなくてはならない現実だ。そしてその場所に俺はもういない。生を選ぶならば、な」
かといって、死を選ぶことが許されるだろうか。これまで自身の躯を投げ出してまで生に執着してきた意味は何だったのか。全てを水泡に帰す権利など自分には無いのだ。この十数年の短い人生は既に自分だけのものでは有り得なかった。
「簡単な話だ。お前の初めてを、俺に捧げれば良い。牙を通じてでは大した力が与えられないからな」
見開かれた漆黒を射る二つの蒼は淡々としていて、何の感情も見受けられない。わなわなと震えだす唇から不規則な呼吸が漏れ出す。やっとのことで搾り出した声音は掠れ、いまだ見詰める鋭い瞳から逃れたくて目を逸らした。
「な、なにを、言って」
「あの男よりはいくらかマシだろう?」
「そう、いう……ことじゃ」
「安心しろ。人間と吸血鬼とでは生殖は出来ない。つくりが違うからな」
「待って!どうしていきなり、そんなこと」
少女は戸惑いを通り越して眩暈を起こす。彼の想いには気付いていた。知っていて、知らない振りをした。けれど今の言葉は想いの延長ではなく、まるで義務だとでも言っているようにしか聞こえない。膨らんだ違和感は、どうにかその先を言わせまいと画策する。
「そんな事をして嫁いでも、すぐ気付かれてしまうわ。それこそ死罪でしょう!?」
「知っているだろう。俺は、“自分が付けた傷”であれば完璧に治せる。たとえどんな場所の傷だろうとな」
今までに少しの引き攣れも残さず痕を消してきた首筋に触れながら、悪魔の囁きに似た甘美な声音が耳を犯す。逆らうことを許さない視線を始めて怖いと思った。
「決心がついたなら呼べ。あの日と同じ方法で」
刹那、一陣の風が舞い、手で顔を覆う間に青年の姿は消え去った。
あの日。そう、八年前に初めて出会った日の夜。名前も知らない、何処にいるのかも分からない。そんな人を呼ぶにはどうしたら良いのか。契約は最早確定事項で、悩む隙も無かった。生きていたい、また逢いたい。幼い少女の胸の中には、まだ沢山の願いがあった。そこで精一杯考えたのが、いつも付けている香水の存在だ。自分の分身とも言えよう薫りを、彼は覚えているだろうか。土と血にまみれて消えてはいなかっただろうか?
釣鐘型のランプだけが煌々とベッドサイドを照らす。枕元に強めに噴き付ければいつもの芳香が立ち込める。繊細な硝子細工の香水瓶と、自分をイメージして作られたらしいこの香りは少女にとって大切な宝物だった。
彼女は祈りのポーズを取る。思い浮かべる蒼い瞳。不可能か、奇跡か。両極端の意味を持つかの花が似合うのはおそらくは彼だけに違いない。
「……随分と色っぽい呼び方をするんだな」
部屋の中にいつの間にか現れた少年の姿に、少女は微笑みかける。笑ってこそいないが、彼の優しげで穏やかな表情はこの日以来見る事は無かった。その日を境に変わってしまった運命はきっともう元には戻らない。か弱いヒトの力で抗えるものでは無かったのだから。
それを理解したうえで、決意を強固のものとした。流されるだけの運命も、掴み取ったのは自分だ。ならばまた彼の手を取って、狂わせてしまえばいい。行き着く先は誰も知らない。ただ生きてさえいれば。ひずみに飲み込まれようとも、感覚を失くしても。自分の足で立っていられるならそれでいい。そして、それは彼がいないと成し得ない。
「表情まではあの日と同じとは行かぬか。互いにな」
「大人になってしまったもの。艶が出たのではなくて?」
言葉の駆け引きを楽しむ余裕はもう無い。二度目にこの部屋で逢う意味は、もうただ一つしかなかった。契約の遂行、けれど初めて呼んだ日との決定的な違い。
開けた扉は、閉じるのが道理。そう、心の奥底までも。