4 黄昏の貴公子
玉座には、男が一人座っている。煌びやかな王冠も豪奢に翻るマントも無いが、彼には王たる者の威厳があった。見た目よりもずっと長く生きているようで、その瞳は鬱蒼と茂る夜の森に似た暗い蒼。見下ろす先には、数多くいる子供達の中で一番若い青年がいる。自身よりまだ明るい蒼の瞳は伏せられ、礼儀正しく跪いていた。
「戻ったか、皇子」
「……はい、父上」
「畏まらずとも良い、楽にしろ。堅苦しいのは嫌いでな」
「はい」
面を上げた息子の顔を無遠慮にじろじろと眺めるが、相変わらずの無表情だ。そうあるように躾けたのは他でもない自分だったか。
「最近は、変わりないか」
「ええ、特には」
父が息子を労うさまはどこか微笑ましいものがある。だがこの二人の中では、駆け引きのようなものが存在していた。唯一、皇子と呼ばれる事を許される一人の青年は紛れも無く現皇帝の跡継ぎであった。
「纏う血の薫りもこの数年変わりないな。相当なお気に入りのようだ」
青年の表情に当惑が含まれたのを、皇帝は面白いものを見るように笑う。見透かされているのを気付いていないわけもなかろうに。
「そんなに頻繁に通うなら、呼び寄せても良いぞ」
「そういったつもりはありません」
ヒトをこの国に引き入れる、その意味は嫌なほどに知っていた。過去には快楽に血を啜るだけの奴隷として連れて来られた者もいる。皇族、一般民問わずそれは行われ、陰で葬り去られた存在は後を絶たない。
「改めて言うまでもないが。通常血色の瞳を持つ吸血鬼の世界で、代々皇帝と為り得るのは生まれながらに蒼薔薇の如き光を宿した者だけだ。その者が死ねば帝国は崩壊する。誰もが知るこの世の理であるからして権力争いなども起こりようもない。窮屈な役目を生まれた瞬間から負う我らは、多少の我儘は許されるがな」
「……理解しております」
「お前の行動には全帝国民の命がかかっている。それを忘れるなよ。……下がって良い」
「失礼します」
解っていた、つもりだった。だがこうしてわざわざ父王直々に警告されるという事は、つまりそういうことだ。例え他の者に感付かれることが無くとも、このままでは国を守る責を果たせないと判断されたのだ。
「そろそろ潮時か」
沈痛な響きを聞き取るものはいない。決意は足を急がせる。あと幾度、こうして降り立つことが出来るだろうか。
血塗られた帝国には決して咲かない花の香りを辿る。春に咲くらしいそれは小振りで上品に見えて、強くあまやかな芳香を放つ。雌木に生る実には毒があるのよ、と語った少女が好んで付ける香水はどこにいてもその存在を知らしめた。似ている、とは終ぞ伝えなかった。甘さや上品さ、よりも有毒の部分に反応するだろうと想像して少しだけ口角が上がる。
「……今日は早いのね、珍しい。でも早い分にはやっぱり貴方らしいのかもしれないわ」
青年は返事をせずに近寄る。その様子の重々しさに気付く頃には既に彼の腕の中で、前触れも無く突き立てられた牙の感触に思わず声が出てしまう。
「もう、この頃、変よ?何だか急かされている感じ……」
「屋敷の周りが随分と騒々しかったな。決まったのか」
「ええ、三日後よ」
余計な言葉を交えないで会話が出来ることが、二人にとって唯一の救いのように思えた。
「喜ばしいはずの当人は酷いしかめっ面だがな」
「また意地悪を仰って、容赦のない方ね」
元々だろう、と軽口を返すいつもの姿に少女は安堵の息を吐く。だが胸騒ぎが止まらない。きっと、このままではいられないのだと理解だけは及んでも、受け止められるかは別の問題なのだ。
「侯爵が嫌いか」
「好き嫌いの問題ではないわ。けれど、そういう対象には見れないわね。優しいけれど、それだけ。そういう人間が一番虫唾が走るのよ」
「随分な評価だ。同情するな」
思ってもいない事を。青年は心の中で嘲笑する。どこか思い詰めたような表情を見せる少女に視線で促し、想像通りの言葉を引き出した。
「……それでも、貴方がいないとわたくしは命を繋げられないのでしょう?侯爵様の目を盗んで、まだわたくしを永らえさせるおつもりはあるの?」
「他人のものとなる人間なら手放すと言って欲しいのか」
「それならそれで、構わないけれど」
「安心しろ、契約はどちらかが死ぬまで続く。……だが」
頬に触れた彼の手は氷のように冷たい。冴え冴えとした蒼い瞳が一つの宝玉だったなら、おそらくはもっと。今の少女には、それを押し返すだけの熱が作れない。なぜならこの身体は彼のものでしかなくて、侵食を甘んじて受け入れるしか道はないのだから。
「逢わずとも永らえさせる事は出来る。選択肢は二つだけだ。生か、死か」
その宣告は、非情と罵るにはどうにも慈悲深い、甘く哀しい真実だった。