3 淑女の憂鬱
時の狭間を縫うようにして作られた帝国は、常人にその存在が気取られることはまず有り得ない。幾重にも張られた結界が迷い人を更に惑わせ、ヒトの生き血を啜る鬼の存在はあくまでも御伽噺の世界のそれであった。
時折気紛れに降りていったまま、存外に住み心地の良さを感じ居つく者もいる。だがそれも同族にしか感じ取れないものであり、実際に首筋に牙を突き立てられない限りは隣で笑う友人がヒトではないかもしれない、などと訝しがろうとすら思わないはずだ。
彼はそこにいた。居つくつもりなどなくても、定期的に寄るべきところがある。それは単なる義務だと切り捨てるには経た時間が長すぎたようにも感じる。
豪奢な作りの屋敷の奥、薔薇の咲き誇る庭園。庭師の丁寧な世話が行き届き、季節を問わず様々な趣向が凝らされ見る人を楽しませる。だがその庭師すら入ることを禁じられている、小さな抜け道の奥に隠された場所があった。この屋敷の令嬢が独りで花を愛でる為だけに誂えられた、ささやかながらも贅沢な花園。
「いらっしゃい。いつも同じ時間ね。種族として皆そうなのかしら、それとも性格?」
「それぞれだ」
短い返事で全てを理解したらしい、くすくすと控えめに笑う少女は穏やかな木漏れ日に優しく身を委ねている。
「……昔を思い出していた。前に来た時に」
「あら奇遇ね、わたくしもよ。もうどのくらい経つかしら」
「八年」
「もうそんなに。あの時は一年もたないかも、なんて医師と両親が話しているのを盗み聞きしたことがあったけれど。驚異的な回復はこの世の奇跡だ、って言われて笑っちゃったわ」
「奇跡、か。血塗られているがな」
間もなく、ゆるやかな応酬を遮る声が聞こえて来る。抜け道の手前で叫んでいるようだ。場所の特定は出来ても、許しがなければ踏み入ることは出来ないと知っている為か。
「……侯爵様のお声だわ。ごめんなさい、ちょっと待っていて下さる?」
ひらり蝶が舞うように、少女は優美に風を纏い緑のアーチの奥へと消えていく。姿が見えずとも声が聞こえずとも、彼女らが何を話しどんな感情を持つのかは意識を研ぎ澄ませれば解る。特異な能力をひけらかす事も無かったが、おそらく感付いてはいるのだろう。
十分も経たぬ間に、少女はひょっこりと現れた。表情はここを出る前と変わっていない。
「体よくあしらってきたようだな」
「“夕方にならお話出来ますわ、またいらして”ってちょっと具合の悪い振りをしてきたの。幼い頃のわたくしの病弱さを御存知だから、これが一番効くわね」
「悪い女だ」
「あら、あのまま貴方を置いてついて行けば良かったかしら?」
そんな事をしないのも解っているし、当然の結果に弱冠の優越感すら覚えているのを見透かされたようで、青年は眉間の皺を深くした。
「今後もきっとこんなことがあるわ。わたくしが所謂奇跡の回復、をしてそれこそもう八年。お父様も期待なさっているのよ」
「……政治の駒、としてな」
「まぁ、端から見ればそうね。でも侯爵様は旧知の仲だし、身の上も申し分ない。誰が見ても、幸せの縮図ねって思うわ」
翳りを見せる黒い瞳がほのかに揺れる。何もかもを諦めきったような、それでいて強く意志が宿る。
「おかしいったらありゃしないわ。わたくしは、得体の知れない者にこの躯を売って、対価として生を得ている。神を冒涜しているのと同じよ。でも、そんなもの信じていないの。この身に流れる血潮だけよ、信じるに値するのは」
わたくしは、貴方無しでは生きていけないの。いっぱしの男が聞けば極上と言えよう口説き文句も、前提を省みれば余韻に浸れる気すらしない。
「日が落ちてきそう。……ちょっと長居したわね。お食事はいかが?吸血鬼さん」
「食事?茶請けの間違いではないか」
「ふふ、思ったよりもずっと良い答よ」
その昔は生命維持の為に必要であったらしいヒトの生き血だが、種族の進化と共に飢えを満たす目的で無益に殺生せずとも良くなった。娯楽とまでは言わないが、エネルギー源であるのは変わりない。若さや美しさ、他にも様々な効果となって表れる。血を吸う事で相手の気持ちを確かめることなど朝飯前といったところか。
太さの違う木材を丹念に編みこませて造られた長椅子は庭園の景観を壊さない。少女はいつもと同じようにそこに座り、そっと髪を掻き上げて白い首筋を晒す。血管がうすく脈打つのが見え、誘うように薫り立つその部分を目掛けて屈み込む。唇が触れるか触れないか、といったところで少女はぽそりと口を開いた。
「近いうちに、話がまとまるでしょうね。考えられないわ、誰かのものになるなんて。だってそういうことでしょう?良家の跡取りを産むだけの存在になって、一生籠の鳥よ」
どの意図があって今この話をしたのか。青年には解らなかった。自身の能力をもってしても、彼女の意思は血から読み取れないのだ。深く深く奥底に隠し持つ思いは決して明かしてくれない。鎖が幾重にも巻き付いた宝箱のほうが、まだ中身を暴くのは容易だ。ただその言葉が自分を揺さ振ろうとしているのは解る。無表情で固めた瞳の奥で、彼女の心のうちを見たいと切に願っている。心臓がじりじりと焼け付きそうになって、もどかしい。
躊躇いを見せないよう、傷一つ無い首筋に歯を立てる。今まで変わることの無かった血の味に、どこか変化が見える。甘さに混じった苦味の底に新しい広がりが感じられ、けれどやはりそれ以上は進めないようだった。もう少し、あともう少し。焦るのは何故か。彼女の辿る運命を、変えることが出来ないからか。
どんどん、と彼女の小さな手が強く胸を打つまで、青年は生き血を啜ることをやめられなかった。
「ちょっと、もう、ダメ!……吸い過ぎ、よ」
我に返ると、真珠色の肌に蒼さが増してぐったりとする少女の姿が見て取れた。今までこんな事は無かったのに、と自分の行動に少し動揺する。
「我を忘れるなんて、貴方らしくないわね。嫉妬しちゃったかしら?」
からかうように紡がれた声に肯定も否定も出来ない。つくづく、感情を顔に出すタイプの者でなくて良かったと思う。駆け引きはそう得意ではない、特に男女のそれとなると。
「悪かった。……ふ、もう吸い収めかもしれぬと思ってな」
「そう」
「安静にしていれば歩けるようになる。丁度良かろう?あの男についた嘘に真実味が増す」
手早く牙の痕を消し去ると、青年は振り返る事無く去っていく。少女は首筋に触れ、その場所に触れた唇が微かに震えていたのを思い出す。レディを置いていくなんて冷たい人ね、と小さく呟いて。
「いっそのこと、全部啜り切ってくれたら良かったのに。そうしたら、わたくしはわたくしのままでいられたかしら」