2 契約の代償
微かに鼻先を掠めた芳香に、少年は眉を潜めた。酷く甘やかで胸焼けがしそうになる。だがそれも“彼にとっては”の話で、通常であれば香りの感想はおろか気付くこともないだろう。そのくらい微かであるのに確かな存在感は彼の足を速めた。
窮屈な家のしきたりから逃げ出して、一度も踏み入れたことのない地で迷わずにいれるほど運が良い訳でもないようだ。似たような煉瓦造りの建造物やただ考えなく整列させただけのような樹木に感慨深くなることも無く、ただ今すぐ帰るのは癪だという一心で彷徨い続けていたのだった。
(……あの路地裏から匂ってくる。誰かいるのか)
おそらくは、この面白みの無い街並みから更に味気無い場所へと抜ける路地に違いない。偏見の塊だと言われれば否定はしないが、この考えを改めさせられる要素も転がってはいやしない。
ただの気まぐれだったのだ。ここに来たのも、匂いを感じ取ったのも、覗いてみようと思った事さえも。偶然が偶然を呼び重なっただけの事象に過ぎない。
(女……か。俺より少し年下ってところか)
案の定だった。匂いでだいたいの予想は付いていて、外れることは有り得なかった。幼さをまだ多分に含む少女の顔は青白く、転んで擦り剥いたのだろう、小さな手の甲にはうすく血が流れていた。
「う……、いた、い……」
生気の無い顔を上げ、少女がこちらの存在に気付く。
「おにいさん、だれ……?」
「通りすがりだ」
不思議そうにこちらを見詰めるその瞳は美しい金髪に不釣合いなほど黒々としていた。闇の精霊にでも見初められたのか。我ながら夢見がちな考えだと心の中で嘲る。
「おまえ、永くないな」
初対面で告げるには些か配慮も何も無い台詞だが、少女は気にする素振りも見せず笑う。
「そうよ、生まれつき身体が弱いの。でもこんなでも、良いおうちの“しゅくじょ”なんですって。どうせ早いうちにいなくなってしまうのに、“ほこり”を失わないためにしぬまでおべんきょうやお作法をたたきこまれるの」
「逃げ出したのか」
「でもここで終わっちゃうみたい。ひとりじゃなくて良かったわ。ねえおにいさん、もしかわいそうな女の子のさいごのおねがいをきいてくれるなら、その時までいっしょにいてくれないかしら」
「これでも忙しい」
「あらそう。じゃあいいわ」
嘆くでもなく、諦めたかのように全てを受け止めんとする姿が自分に重なった。けれどきっとこの少女は同情を望まない。誇り高き生き方を、無意識のうちにしようとしている。
「……意味は無い、」
独り言のように呟いて、少女の手を取る。傷口に唇を押し当てて、血の痕に舌を滑らす。匂いと違わず噎せ返りそうな甘さと抜けるほんの少しの苦味。だがどこか癖になる、そんな中毒性を秘めていた。
淡い燐光が二人を包む。少年の蒼い瞳に微かに赤い光が現れて、境界線が紫に滲むさまは美しいと思った。空気に融けるように光が収まったのち、少女は体調の変化に気付く。
「あなたは、神さまなの?」
「死神だったら良かったか」
「吸血鬼、なのね」
多くを言わずとも理解する賢さは好ましいとすら思う。
「こんなちょっとで足りたの?」
「ヒトの世に噂される妄言など当てにするものじゃない。血を啜らねば生命を維持出来ない時代などとうに過ぎた」
「……そうなのね。肝に銘じておくわ」
「それは馳走になった代金だと思え。だがこんな詰まらない世でも、生きていたいと願うならば」
蒼と黒の瞳が交差する。この効果は一時的なものだ、と少年は前置きして言葉を続けた。
「呼べば良い、俺を」
名前も知らずに?
ふと湧いた疑問を口にするのは野暮だと感じた。きっと、そんな表面的な関係で縛らずとも良いのだ。掛け値なしにそう信じてしまうのは、あの蒼い瞳がとても綺麗だったから。それで良い。
契約は結ばれた。生き血と引き換えに得る生は、果たして僥倖か、それとも代償か。利害の一致と言ってしまえば聞こえは良いが、この気まぐれこそが身を滅ぼしかねないと彼が知る頃には、おそらくはもう手遅れだったのだ。