胸騒ぎの始まり
第一章 胸さわぎのはじまり
① 金沢の夕暮れ
三月の終わりが近づいた金沢の夕暮れは、まだ少し肌寒かった。
真田家のある住宅街にも、しっとりした冷たい空気が流れていた。
昼間はやわらかな日差しもあったのに、日が落ちると、どこからか運ばれてくる湿り気を含んだ風が頬をなでる。
遠くでは、車のタイヤが濡れた道をすべるような音がした。
朝のうちにぱらついた雨の名残が、アスファルトを鈍く光らせている。
真田栄子は、食器を洗い終えると、ふうっと小さく息をついた。
台所の窓から見える向かいの家の屋根も、まだうっすら濡れている。
「今日も、あん子、あんな言い方せんでもいいやろに……」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりとこぼした。
その声に、居間で新聞をたたんでいた夫の圭一が顔を上げた。
「香奈美のことけ?」
「そうや。学校どうやったって聞いただけやに、“別に”“うるさい”ばっかりや。ご飯食べとる時も、ずっと機嫌悪そうにして」
栄子は、拭いたばかりの手をエプロンに重ねたまま、落ち着かなげに立っていた。
圭一は新聞を脇へ置いて、少し肩をすくめる。
「中学二年やろ。そら、反抗期ぐらいあるわいね。誰でも通る道や。あんまり深刻に考えんでもええ」
「そう言うけどね、圭一さん……」
「心配しすぎや。あの子なりに色々考えとるげんて」
圭一の声は穏やかだった。
昔からそうだった。慌てず、騒がず、少し距離を置いて物事を見る人だ。
けれど、母親の胸に巣くう不安は、そんな簡単に片づくものではなかった。
② 母の不安
栄子は、台所と居間の境目に立ったまま、二階のほうをちらりと見上げた。
さっきから香奈美は部屋にこもったきり、降りてこない。
夕飯のときも、必要なことしか話さず、食べ終わるなり「もういいやろ」とでも言いたげに席を立った。
以前は、学校であったことを自分から話してくれる子だった。
友達のこと、先生のこと、部活のこと。
笑いながら、ちょっと怒りながら、今日一日の出来事をぽんぽん口にしていた。
それが最近はどうだろう。
何を聞いても「別に」。
少し踏み込めば「わかっとるし」。
気にして声をかければ「放っといて」。
そんな返事ばかりが返ってくる。
栄子は小さく眉を寄せた。
「前は、こんな子じゃなかったがに……」
そのつぶやきには、責める響きより、戸惑いがにじんでいた。
圭一は湯のみを手にしながら、静かに答える。
「前は前や。子どもはずっと同じじゃおらん。変わっていくもんやろ」
「そりゃわかっとる。でも、あまりにも急に変わった気がして……。友達とうまくいっとるんかもわからんし、学校で何かあっても言わんし」
「言いたくない時もあるやろ」
「それでも親やよ? 気になるに決まっとるやろ」
思わず語気が強くなる。
自分でも、少し言いすぎたと思った。
だが、そのくらい栄子の胸の中はざわざわしていた。
圭一は怒るでもなく、困ったように笑う。
「気になるんはわかる。けど、追いかけすぎたら余計に逃げるぞ」
その言葉は正しいのだろう。
たぶん、正しい。
だが、正しいからといって、不安が消えるわけではない。
③ 茂之のひと言
その時、居間の隅で宿題をしていた茂之が、鉛筆を置いた。
「お母さん」
栄子と圭一がそろってそちらを見る。
小学六年生の茂之は、まだあどけなさの残る顔で、それでも妙に落ち着いた目をしていた。
「お姉ちゃんも、そんな馬鹿じゃないよ」
「え?」
「自分のことは自分でちゃんと考えとると思う。少しは信用してあげるのが、いちばんなんじゃない?」
栄子は一瞬、言葉を失った。
まさか茂之の口から、そんなふうに大人びた言葉が出るとは思ってもみなかったからだ。
茂之は、言いにくそうにしながらも続けた。
「だって、お姉ちゃん、言い方はきつい時あるけど、悪いことしとる感じじゃないし。たぶん、お母さんに色々聞かれると、余計にイライラするんやと思う」
圭一が思わず吹き出した。
「おお、茂之、えらい達観しとるな」
「達観って何や」
「大人みたいってことや」
「ふーん」
茂之はまた鉛筆を持ち直したが、その耳が少し赤くなっている。
栄子は息子を見つめたまま、複雑な気持ちになった。
嬉しいような、驚いたような、それでいてやはり、胸の奥の不安は残ったままだった。
「信用、か……」
小さくつぶやく。
それができたら、どれだけ楽だろう。
けれど、母親というのは厄介なものだ。
頭で「大丈夫」と言い聞かせても、胸のどこかがずっと引っかかる。
ほんの少しの沈黙。
時計の針の音だけがやけに大きく聞こえた。
④ 二階のドアの向こう
その時、二階でドアが閉まる音がした。
栄子の肩がぴくりと揺れる。
「……また部屋入った」
圭一が苦笑する。
「自分の部屋やし、入るやろ」
「そういうこと言うとるんじゃないわ」
だが、栄子の目は真剣だった。
香奈美はこの頃、スマートフォンを見ている時間が増えた。
食事の前後でも手放さず、誰かと連絡を取り合っている様子もある。
だが、「誰と?」と聞けば嫌な顔をする。
部活の友達なのか。
クラスの子なのか。
それとも、栄子の知らない誰かなのか。
そんなことまで考えてしまう自分に、栄子は少し嫌気がさしていた。
「うち、嫌われとるんかな……」
ぽろりとこぼれたその言葉に、圭一が少し真面目な顔になる。
「そんなことないやろ」
「でも、何言うても鬱陶しそうな顔されるし」
「それは今、お母さんやからや。いちばん近い相手に当たっとるだけや」
「それ、慰めになっとる?」
「半分はな」
圭一がそう言うと、茂之がくすっと笑った。
けれど栄子は笑えなかった。
母として、何か見落としている気がする。
何かが静かにずれている気がする。
けれど、それが何なのかは、まだわからない。
ただ、胸の奥だけが、妙にざわついていた。
⑤ まだ誰も知らない
その夜。
栄子は洗濯物をたたみながら、何度も二階を見上げた。
香奈美の部屋の灯りはついている。
だが、中で何をしているのかまではわからない。
話しかけたほうがいいのか。
今はそっとしておいたほうがいいのか。
その判断すらつかなくなっていた。
「少しは信用してあげるのが、いちばん」
茂之の言葉が頭の中で繰り返される。
その通りなのだろう。
けれど、胸騒ぎというものは、理屈では消えてくれない。
もし、学校で何かあったら。
もし、友達関係で悩んでいたら。
もし、自分の知らない誰かが、あの子の心に入り込んでいたら。
そこまで考えて、栄子は自分で自分を打ち消した。
「まさかね……」
そうつぶやいてみても、不安は消えなかった。
まだこの時、真田家はごく普通の家庭だった。
穏やかな夫がいて。
反抗期まっただ中の娘がいて。
少し大人びた優しい息子がいて。
どこの家にもあるような悩みが、食卓の上に転がっているだけだった。
誰も知らなかった。
この小さな違和感が、
この“気になる”という胸さわぎが、
やがて家族のすべてを揺るがす長い悪夢の入口になることを。




