2話
目覚めは、静かだった。
目覚めは、静かだった。
何かを体験していたような感覚だけが残っている。
だが、それが何だったのかは思い出せない。
後味の悪さだけが、妙にはっきりしていた。
昴龍は天井を見上げたまま、数秒だけ呼吸を整えた。
生活感の薄いここは、仮の住まい。
二階建てで、やけに広い。
学園に通うために用意された家だ。
――トントン、カンカン。
階下から、かすかな音が届く。
包丁がまな板に当たる、規則正しい響き。
味噌の匂いが空気に混じり、ゆっくりと上がってくる。
さっきまで胸の奥に残っていた嫌な感覚が、
その匂いに溶けていく気がした。
「……グゥ」
無意識に腹が鳴った。
昴龍は小さくため息をつく。
「……これは反則だろ」
誰に言うでもなく呟いて、ベッドを出た。
階段を下りると、吹き抜けのあるリビングが広がる。
二人で使うには、明らかに広すぎる空間。
朝の光が大きな窓から差し込み、床に影を落としていた。
台所に立っていたのは、龍華だった。
エプロン姿で、フライパンを覗き込んでいる。
その後ろ姿を見ていると、
不思議と肩の力が抜けた。
龍華がふと振り返る。
「あ、起きた」
「おはよう」
「おはよう。ちょうどいいところだった」
少しだけ嬉しそうに笑う。
「配膳、手伝ってくれる?」
昴龍は軽く肩をすくめた。
「それ、手伝う前提の言い方だろ」
「だって絶対手伝ってくれるでしょ」
「……まあ、そうだけど」
少しだけ笑いながら、皿を運ぶ。
食卓には、湯気の立つ朝食が並んだ。
白米。
味噌汁。
焼き魚。
卵焼き。
「魚……大丈夫かな」
龍華が少し不安そうに言う。
「慣れてないのに焼き魚にしちゃって」
昴龍は箸で魚をつつく。
一口食べて、少し間を置いた。
龍華がじっとこちらを見る。
「……どう?」
「うん」
もう一口食べる。
「普通にうまい」
「普通って何!」
龍華がむっとする。
昴龍は笑った。
「ちゃんとおいしいって意味」
龍華は少しだけ頬を緩めた。
「そっか……よかった」
食卓には、穏やかな時間が流れる。
米を噛む音。
味噌汁の温度が、内臓へ落ちていく感覚。
昴龍は思う。
こういう時間が、
壊れずに続けばいい、と。
食事を終え、洗面所へ向かう。
水で顔を洗い、タオルで拭く。
鏡の前に立った、その瞬間――
次の瞬間、すべてが消えた。
いや。
消えたのは、鏡の中だけではない。
音がない。
外の光も、揺れない。
世界が、止まっていた。
昴龍はゆっくりと瞬きをする。
そのときだった。
鏡の中の「それ」が、動いた。
幼い自分の姿をしたものが、
鏡の奥で一歩、前に出る。
昴龍は眉をひそめた。
「……なんだ、お前」
鏡の中の少年は、くすりと笑う。
昴龍よりも幼い顔。
だが、その目だけは妙に冷静だった。
「やっと気づいた?」
「質問に答えろ」
少年は肩をすくめる。
「相変わらずだね」
「世界は、もう動き始めた」
昴龍は目を細めた。
「……は?」
「運命ってやつ」
少年は鏡の縁に肘をつく。
「残念だけど」
「もう、止まらないよ」
昴龍は短く息を吐く。
「意味が分からん」
「それより」
一歩、鏡に近づく。
「お前は、誰だ」
少年はきょとんとした顔をした。
それから、小さく笑う。
「僕?」
少し首を傾げる。
「僕は――弟だよ」
昴龍は眉をひそめた。
「……は?」
少年は楽しそうに肩をすくめる。
「ほら、よく見ると似てるでしょ」
にやりと笑う。
昴龍は短く息を吐いた。
「ふざけてるのか」
少年は首を横に振る。
「いや。いたって真面目だよ」
昴龍は鏡を睨んだまま言う。
「……仮に、お前が俺だとして」
昴龍は鏡の中の少年を見据える。
「なんて呼べばいい」
少年は一瞬きょとんとした。
「名前?」
それから、少し考えて笑う。
「ないんだよね、まだ」
肩をすくめる。
「だからさ」
にやりと笑う。
「お兄さんが付けてよ」
「呼びやすいやつ」
昴龍は少し考える。
「……零龍」
少年が目を瞬かせる。
「れいりゅう?」
昴龍は肩をすくめた。
「なんとなくだ」
少年は少し黙る。
それから、ゆっくり笑った。
「いいね」
「気に入ったよ」
「これからよろしく、兄さん」




