1話
息が、乱れていた。
喉の奥で、空気が引き裂かれるような音が鳴る。
歯が噛み合い、擦れ、低い呻きが漏れた。
「……う、ぅ……」
紅月昴龍は、夢を見ていた。
白い部屋。
光源の位置が分からない。
影が存在しないほど、均一な明るさ。
アルコール消毒の匂い。
鼻の奥に刺さる薬品の刺激。
混ざり合った匂いが鼻腔の奥に貼りつき、清潔すぎる空気が肺の奥まで流れ込んでくる。
壁も、床も、天井も。
すべてが白で塗り固められていた。
継ぎ目の少ないタイル張りか、
あるいは厚く塗装された無機質な壁。
人の気配がない。
生き物の温度が、まるで感じられない空間だった。
壁には、いくつもの扉が並んでいる。
取っ手はない。
窓もない。
白い壁と一体化したような、自動扉。
誰かが近づけば、
静かに横へ滑って開く構造なのだろう。
だが今は、すべて閉じている。
音もない。
ただ、白い光だけが空間を満たしていた。
腕を動かそうとした瞬間、
硬い感触が手首を引き止めた。
視線を落とす。
四肢が拘束具で固定されていた。
金属の枷が、逃げ場を許さない力で身体を押さえつけている。
逃げなければならない。
その意思だけが先に走り、身体は一切、応じない。
『実験体ネーム01オリジナル、固定完了』
機械音声が静かに告げる。
感情のない声。
研究施設を管理するAIだった。
『生命活動、安定』
『心拍数、正常範囲』
わずかな駆動音。
視界の外で、何かが動く。
『手術アーム、作動』
金属のアームが、静かに降りてくる。
『胸部処置、開始』
骨の奥に、触れられる感覚。
直接、内側へ器具を差し込まれているような――錯覚ではない。
胸の奥が、開かれる。
体内の何かが、取り出される。
代わりに、別のものが据えられていく。
そのすべてを、AIが淡々と進めていた。
上方。
ガラス越しの観察室。
そこに、数人の研究員が立っている。
腕を組み、こちらを見下ろしていた。
「……本当に成功すると思うか」
誰かが呟く。
「人間に龍の機関を埋め込むなど」
「理論上は可能だ」
別の声。
冷静な響きだった。
『培養龍心機関、接続準備』
AIの声が続く。
『統合培養臓器、活性率九八パーセント』
観察室の誰かが、低く言う。
「人間の枠を超える存在を作るために」
誰かが小さく笑った。
「狂気の研究だな」
「違う」
低い声が、それを遮る。
研究所の所長だった。
「進化だ」
『臓器接続、開始』
骨の奥に、さらに深い刺激が走る。
体温が奪われていく。
血が抜かれる。
『被験体血液排出、開始』
代わりに。
熱を帯びた液体が、流れ込んだ。
焼けるような熱。
血管を逆流する感覚。
――龍の血。
『被験体融合率、上昇』
『三七パーセント』
『四九パーセント』
AIが進捗を報告する。
観察室が、わずかにざわめいた。
誰かが呟く。
「……今までの個体は、この辺りで拒絶反応が出ていなかったか?」
「大体そうだな」
「心臓機関が定着する前に拒絶反応が出て死んだな」
「まあ、量産培養体だったからな」
「クローン個体の限界だな」
「拒絶反応は?」
『確認されません』
AIの声。
短い沈黙。
「……珍しいな」
「ここまで持った個体は、初めてじゃないか?」
そのとき。
誰かが、小さく鼻で笑った。
「そりゃあ、耐えないと困るだろ」
「今回の個体は、今までの量産体とは違う」
「……どういう意味だ?」
少しの間。
声が低くなる。
「噂くらい聞いているだろ」
「今回の実験体――」
「天龍家の血を引いているらしい」
観察室の空気が変わる。
「……本物か?」
「極秘だ」
「だが、そうでもなければ説明がつかない」
AIが続ける。
『融合率、上昇中』
『六八パーセント』
誰かが小さく呟いた。
「……なるほどな」
「それなら、ここまで耐えるのも納得だ」
『融合率、七〇パーセント』
『龍心機関、定着プロセス進行中』
『統合培養臓器、安定』
AIが報告する。
観察室の空気が、わずかに張り詰めた。
主導者が静かに言う。
「統合処置を続行しろ」
『了解』
『統合プロセス、継続』
次の瞬間。
『警告』
AIの声が響く。
『融合率、急上昇』
『想定値を突破』
『八九パーセント』
観察室がざわめいた。
「……適合率が上がった。人格分離の兆候があるな」
研究者の声が遠くで言う。
『心臓機関エネルギー反応、異常』
『被験体生命反応、急激に上昇』
『危険レベル上昇』
『制御不能』
胸の奥で、
何かが目を覚ました。
頭の奥で、声がする。
それは恐怖でも、悲鳴でもない。
冷えきった、命令だった。
――壊せ。
拘束具を。
この部屋を。
この世界を。
すべて。
その声は、昴龍自身のものだった。
だが、
今まで一度も聞いたことのない声だった。
意識の奥で、もう一つの“自分”が笑った。
感情のない、静かな笑みだった。
そのとき。
硝子の向こうに、人影があった。
幼い少女。
龍華に、酷くよく似た人物。
彼女は、泣いていた。
何かを叫んでいる。
だが、声は届かない。
その瞬間。
世界が暗転する。
視界が途切れた。
――――――――――――――――――――――――――――――――
目が、開く。
暗闇。
木目の天井が、ぼんやりと滲んで見えた。
昴龍は、息を吸い、吐く。
胸の奥が、異様な速さで脈打っている。
「……兄さん」
かすれた声が、すぐ傍で聞こえた。
視線を動かすと、龍華が身を起こしていた。
夜灯に照らされた表情には、眠気よりも、不安が濃く滲んでいる。
昴龍は、何か言おうとした。
だが――
その瞳は、わずかに動きを止める。
自分の内側で、
もう一つの視線が龍華を見つめていた。
冷静に。
静かに。
龍華の存在を、
確かめるように見つめる。
その視線は、
いつもの兄のものではなかった。
感情の温度を失った、
どこか遠くから観測するような目。
龍華は、すぐに気づいた。
そして、ためらわず昴龍の頭を胸元へ引き寄せる。
抱き込むように、逃がさない力で。
「大丈夫……ここだよ」
その声は、
この時間が終わらないことを願う、呪文のようだった。
そして、問題はないと判断したかのように、
その気配は静かに奥へ退いていった。
「……あれ?」
次の瞬間、 いつもの昴龍が、困ったように瞬きをする。
涙が、止まらなかった。
理由は分からない。
抗う気力も、もう残っていない。
ただ、ひどく懐かしくて――
妹が、ここにいることが。
それが、たまらなく嬉しかった。
やがて、昴龍は再び眠りに落ちる。
龍華は、そのまま動かなかった。
兄の寝息が、ゆっくりと落ち着くまで。
完全に眠りに落ちたことを確かめてから、
外套を羽織る。
起こさぬよう、足音を殺して外へ出た。
なぜ、自分たちはある期間の記憶を失っているのか。
なぜ、こんな関係になってしまったのか。
考えても、答えは出ない。
それでも、歩く。
気づけば、家の前に立っていた。
仮の住まい。
壁は薄く、床鳴りもする。
急ごしらえの家。
家というには、ぬくもりのない場所。
だが、今は、それでいい。
空が、わずかに白み始めている。
明日。
――いや、もう今日だ。
入学試験がある。
学園は隠蔽領域に存在し、部外者は立ち入れない。
試験は、人間界にある龍族組合の建物を借りて行われる。
筆記試験。
実技試験。
龍華は振り返る。
眠っている兄の部屋を、静かに見上げた。
決意だけを、胸の奥へ沈める。
夜は、まだ終わらない。




