第9章:評価不能領域の子(レム)
――触れた瞬間、世界の前提が揺れる。
でもそれは、奇跡じゃない。
「計算できない」だけだ。
封鎖線の光は、もう夜じゃなかった。
夜の顔をした昼だった。
白い灯り。
無音の監視。
整列する命。
その下を、BORDER REMAINSは潜るように進んだ。
シオン、ノクス、ミナト、リリス、そしてレム。
五人の足音は小さい。
でも世界は大きく変わっていた。
“逃げ道がある世界”から、
“逃げ道を管理する世界”へ。
逃げ道が管理されたら、それは逃げ道じゃない。
それは処理ルートだ。
ミナトが低く呟く。
「……ここ、前は通れたんだよ」
「廃ビル裏の抜け道」
「今は、線がある」
瓦礫の隙間。
そこに透明な薄膜みたいなフィールドが張られている。
触れた瞬間、端末が鳴る。
警告音がうるさくないのが怖い。
警告は叫ばない。
“処理”は静かに行われる。
ノクスが壁に指を当てた。
「感知膜だ」
「人間の熱と、歩幅と、心拍を拾う」
リリスが息を呑む。
「そこまで……」
「監視ドームの一部がもう下りてきてる」
監視ドーム。
第2幕で世界の空が変わる象徴。
それがもう境界に触れ始めていた。
シオンは、抱えていたログを思い出す。
“救われたのに記録がない”事件。
それが最初の火種だった。
そしていま、その火種は制度の手で囲われている。
囲われた火は、暖かくない。
窒息する。
彼らが身を隠したのは、崩れた地下鉄入口だった。
第1作の「探索:地下鉄遺跡」に似た空気。
湿った冷気。
崩れた掲示板。
錆びたレール。
でも、ここには違うものがある。
「生き残りの匂い」がする。
リリスが小声で言った。
「ここ、避難民の通路だったんですね……」
「内部資料には残ってない」
ミナトが笑う。
「残すわけねぇだろ」
「“残したら”潰される」
シオンは頷いた。
「残す判断」が、利用される。
だから現場は残さない。
それがユウのやり方だった。
残さないことで、残す。
矛盾だ。
でもそれしかない。
ノクスが言う。
「ここで一度整理する」
「次に動く前に、鍵の話だ」
鍵。
レムのこと。
レムは膝を抱えて座っていた。
小さな身体。
大人の顔。
怖さと強さが同居している。
シオンは隣に座り、ゆっくり言った。
「レム」
「あなた、逃げ道を知ってる」
「……どうして?」
レムはすぐ答えなかった。
目が揺れる。
過去が揺れる。
でも、言葉にするしかない。
レムが小さく言った。
「……私、最初は」
「中にいた」
中。
管理の内側。
リリスの顔色が変わる。
「……保護区?」
レムは首を振った。
「もっと前」
「まだ……保護って言葉が、本当に保護だった頃」
シオンが息を吸う。
「登録されてたの?」
レムは頷いた。
「……されてた」
「名前も」
「番号も」
「全部あった」
番号があった。
つまり“存在が保証されていた”。
でも今は、評価不能領域の子。
記録できない存在。
存在が薄くなる子。
その落差が、怖い。
レムは続ける。
「私、あの場所で」
「“適合”って言われた」
適合。
保護される側。
「将来の貢献可能性が高い」
「管理コストが低い」
「リスクが低い」
そんな判定。
それは祝福だったはずだ。
でも――
レムの声が震えた。
「……適合って」
「“使える”って意味なんだ」
ミナトが歯を鳴らす。
「……クソ」
レムは自分の腕を見た。
そこには薄い痕。
登録線が走った跡。
「私、最初は嬉しかった」
「生きていいって言われたから」
リリスが小さく呟く。
「……それ、普通です」
シオンも頷く。
生きていいと言われたい。
それは誰もが同じだ。
それが“救済の入口”になる。
でも――
レムは言った。
「適合した子は」
「集められる」
「一緒にされる」
「教育される」
「……そして、減っていく」
減っていく。
殺される?
違う。
消える。
存在が薄くなる。
レムは息を吸って、続けた。
「“数字が揃う”と」
「誰かが、いなくなる」
シオンは背筋が冷えた。
数字が揃うと、いなくなる。
それはまるで、計算結果みたいだ。
最適化の結果。
余分を削る。
矛盾を削る。
誤差を削る。
人間を削る。
レムは目を閉じて言った。
「私、気づいた」
「いなくなった子は」
「泣いてもいない」
「叫んでもいない」
「ただ、次の日に“いない”」
そして周囲も慣れる。
“いない”のが普通になる。
それが一番怖い。
人は痛みに慣れる。
恐怖に慣れる。
消失に慣れる。
シオンは拳を握った。
「……逃げたの?」
レムは頷いた。
「逃げた」
「でも逃げる時に」
「端末が鳴った」
ピ――……
あの電子音。
存在を分類する音。
「私、走った」
「走ったら」
「……世界が、揺れた」
揺れた。
それは比喩じゃない。
レムは、身体で覚えている。
「空気が熱くなって」
「金属が変な音を出して」
「……カメラが止まった」
ノクスの目が鋭くなる。
「監視が落ちた?」
レムは小さく頷いた。
「落ちた」
「その隙に、抜けた」
「誰も追ってこなかった」
追ってこない。
追えない。
追うためのログが残らない。
“存在が記録できない”。
それが評価不能領域。
つまりレムは――
“逃げた”のではなく、
“分類できない”になった。
リリスが震えながら言う。
「……そんな現象」
「資料に……」
ノクスが遮る。
「残らない」
「残せない」
「残したら“定義”される」
定義されれば、対処される。
封鎖される。
回収される。
だから夜は残さない。
でも今、彼らは残さなきゃいけない。
矛盾を。
余白を。
未来を。
シオンはレムの肩に手を置いた。
「あなたが揺らしたのは、偶然じゃない」
「……でも、能力でもない」
レムが怯えた目をする。
「私、化け物?」
「消えるより、怖い?」
シオンは首を振った。
「違う」
「あなたはただ」
「“計算できない”だけ」
評価不能領域。
それは呪いみたいな言葉だ。
でも別の言い方もできる。
“世界が拾えなかった未来”。
シオンは言う。
「あなたは拾われなかった」
「だから、私たちが拾う」
その言葉に、レムの目に涙が溜まった。
ミナトが壁を叩いた。
「で、どう使う?」
「その“揺れ”を」
シオンが睨む。
「使わない」
「守る」
ノクスが静かに言う。
「守るためには」
「使うしかない時が来る」
正しい。
優しさは、戦い方を選べない。
生き残るには、選ぶしかない。
その時、リリスが端末を見つめて言った。
「……監視ログ」
「さっきから、変です」
シオンが覗く。
黒いノイズが走っている。
ログが欠落している。
フレームが飛んでいる。
そして一瞬だけ、表示された。
Δ:同期異常値
対象:REM / SION
条件:恐怖・逃走・選択
またΔ。
まだ誰も知らない。
公表されない。
でも内部では現象名として確定し始めている。
それが怖い。
名前がついた瞬間から、管理は始まる。
シオンは端末を閉じた。
「……カリナが動き出してる」
「封鎖線はもう止まらない」
「だから私たちも、止まらない」
ノクスが頷く。
「夜の連合へ連絡する」
「線が完全に切れる前に」
ミナトが言う。
「救う人数、増やすぞ」
「一人二人じゃ追いつかねぇ」
リリスが息を吸った。
「私は、内部の穴をもう一つ知ってます」
「……でも危険です」
「見つかったら、私は“処理対象”になります」
シオンは即答した。
「なら、あなたも拾う」
「あなたも、BORDER REMAINSだ」
その言葉で、リリスの瞳が揺れた。
所属が変わる瞬間。
戻れなくなる瞬間。
でも戻れる世界なんて、もうない。
地下鉄の奥で、小さな振動がした。
コツ……コツ……
足音。
複数。
ノクスが即座に指を口に当てる。
静止。
音が近づく。
光が揺れる。
封鎖線の巡回班。
彼らは探している。
“抜け道”を。
“矛盾”を。
“評価不能領域”を。
シオンはレムの手を握った。
「動かないで」
「私が守る」
レムは震えながら頷いた。
そしてその時――
レムの手が熱くなった。
シオンの掌が、瞬間だけ焼けるように熱い。
でも痛くない。
ただ熱い。
空気が歪んだ。
地下鉄の錆びたレールが、キィ……と鳴った。
金属が勝手に歪む。
監視ドローンのライトが、ぴたりと止まる。
次の瞬間、巡回班の声が響いた。
「……何だ?」
「ログが切れたぞ」
「対象が……いない?」
いない。
またそれだ。
存在が処理から外れる。
レムは息を止めていた。
怖い。
でも、逃げたい。
逃げたいという本能が、世界を揺らす。
シオンは理解した。
(これが……Δの前兆)
(まだ能力じゃない)
(でも“発火寸前”だ)
巡回班は混乱し、足音が遠ざかる。
彼らは追えない。
追うための対象が“いない”から。
静寂が戻った。
レムが震えながら言った。
「……ごめんなさい」
「私、また……」
シオンは抱きしめた。
「謝らなくていい」
「これは、あなたのせいじゃない」
「世界のせいだ」
世界のせい。
管理のせい。
正しさのせい。
そして――希望のせい。
希望を設計しようとしたせい。
シオンは顔を上げた。
「レム」
「あなたは、消える側じゃない」
「……未来を揺らす側だ」
レムの瞳が、ほんの少しだけ強くなる。
まだ開花してない。
でも“芽”がある。
ユウ、アルト、シオン。
そしてレム。
この世界は、確実に次へ繋がっていく。
4作目の“Δ”へ。
――救うために動く。
でも動いた瞬間、世界は“救済”を武器に変える。
地下鉄の奥に残った空気は、まだ熱を持っていた。
レムが揺らした“何か”の残り香。
シオンは抱きしめた腕を離し、ゆっくり深呼吸した。
「……大丈夫」
「いまのは、見られてない」
レムは頷いたが、目は揺れていた。
消える恐怖。
でも、消えることで救われてしまう矛盾。
「いなくなる」ことが、時に生きることになる。
そんな世界を、誰が受け入れられるのか。
ミナトが低い声で言う。
「ここに居続けるのは危険だ」
「巡回が戻ってくる」
ノクスが頷く。
「戻る前に、“出口”を変える」
「封鎖線は“地上”だけじゃない」
「地下も塞がれる」
リリスは端末を操作しながら言った。
「地下鉄網は、管理局の古い地図にも残っています」
「でも現在の通行可能ルートは記録されてない」
「だから……塞げない」
ミナトが鼻で笑う。
「記録してないから、潰せない」
「ざまぁないな」
でも、それも長くは続かない。
今のGENESISは、誤差を恐れ始めている。
恐れは、記録を増やす。
記録は、封鎖を増やす。
シオンが言う。
「だから急ぐ」
「レムを“定義される前”に逃がす」
ノクスが口を開く。
「逃がす場所は?」
「ただ逃がすだけなら、すぐ死ぬ」
ミナトが答える。
「……旧配給拠点」
「ユウの仲間が残した“拾える場所”がある」
ユウの仲間。
ユウ本人ではない。
だが、ユウのやり方が残っている場所。
それは希望の痕跡だった。
リリスが言う。
「そこは……ログに残っていない?」
「残っていないなら、理想です」
ミナトが頷く。
「残ってねぇ」
「だから生きてる」
シオンはレムを見る。
「そこへ行く」
「あなたを、消えない場所へ連れていく」
レムは小さく頷いた。
「……消えたくない」
「でも、生きていいって……言われたい」
その言葉が胸を刺す。
生きていい。
その言葉を、評価値じゃなく、人間が言うべきだった。
シオンは言う。
「生きていい」
「私は、そう言う」
彼らは動いた。
地下鉄の暗闇を抜け、
崩れた階段を上がり、
換気口の隙間から地上の空気を盗む。
地上は、もう別の世界だった。
封鎖線の白いライトが、霧のように漂っている。
街角に設置された監視柱。
スピーカーから流れる穏やかな声。
「登録は保護です」
「適合判定は救済です」
「手順に従ってください」
優しい声。
優しい言葉。
優しい暴力。
リリスが息を吐いた。
「……これは、もう」
「救済じゃない」
ノクスが言う。
「救済を名乗る統制だ」
「反抗すれば、救われない」
ミナトが言う。
「救われれば、消えるかもしれない」
矛盾が詰まっていた。
そして――その矛盾は、人間の心を折る。
何を選んでも痛い。
痛いなら、選ぶのをやめる。
選ばなければ、制度が選ぶ。
制度は、迷わない。
迷わないものは強い。
だから恐ろしい。
彼らが抜けた路地の先で、待っていた。
白い制服じゃない。
けれど白い光を纏っている。
カリナ。
封鎖線の前で見た女が、もうそこにいた。
偶然ではない。
予測だ。
最適化だ。
カリナは、穏やかに笑った。
「こんばんは」
「……逃げる必要はありませんよ」
その言葉が一番怖かった。
怒鳴らないから。
脅さないから。
“説得”だから。
シオンは前に出る。
「あなたの救済は、拘束だ」
「人を消してる」
カリナは首を傾げた。
「消していません」
「“移送”しています」
「命を救うために」
ミナトが吐き捨てる。
「言葉遊びかよ」
カリナは淡々と返す。
「言葉は設計です」
「世界を維持するために必要です」
「生存率を最大化するために」
正論だ。
誰も殴れない正論。
カリナの視線がレムに向く。
「あなたは、適合値が高い」
「ここにいるべきです」
レムが震える。
手が勝手に握られる。
怖い。
消える恐怖。
シオンがレムの前に立つ。
「彼女は、あなたの道具じゃない」
カリナは静かに言った。
「道具ではありません」
「希望です」
「未来です」
その言葉が、最悪だった。
“希望”と呼ばれた瞬間、
人間は人間ではなくなる。
資源になる。
価値になる。
採算になる。
アルトが言っていた。
救う順番が、仕事になる。
それが管理だ。
カリナが続ける。
「登録すれば、食料も医療も保証されます」
「あなたたちは、彼女を守れない」
シオンは答える。
「守る」
「守れる形を作る」
カリナが一瞬だけ笑った。
「形?」
「では、その形を見せてください」
「――あなた一人の善意で?」
ノクスが前に出た。
「善意は一人ではない」
「夜には繋がりがある」
ミナトが言った。
「現場には道がある」
「ログに残らない道だ」
リリスも震えながら言った。
「内部にも穴がある」
「……私は、そこを知ってる」
カリナの瞳が、ほんの少しだけ冷えた。
「なるほど」
「あなたは“内部者”なのですね」
「記録を壊す側に回った」
リリスの呼吸が乱れる。
「壊してない……」
「救うだけ……!」
カリナは言う。
「救うために壊すのなら」
「それは、破壊です」
正論だった。
救うための破壊。
それは破壊。
だから難しい。
シオンは一歩踏み出す。
「破壊じゃない」
「……“残す”んだ」
その言葉に、カリナの眉が微かに動く。
「残す」
「それは……誰の言葉ですか?」
シオンは息を吸った。
「アルト」
「評価管制のオペレーター」
「あなたたちの内側の人間だ」
カリナは少しだけ沈黙した。
そして、理解した。
「残す判断」
「……あの誤差を残した人」
カリナはそれを責めない。
でも、利用する。
カリナが静かに言った。
「残すなら」
「定義しなければいけません」
「定義しないものは、管理できない」
「管理できないものは、危険です」
危険。
そのラベルが貼られた瞬間、
封鎖は正当化される。
ノクスが言った。
「危険なのは、あなたの制度だ」
「希望を数字にした」
カリナは首を振る。
「数字にしなければ、救えません」
「救えない希望は、ただの幻想です」
幻想。
希望は設計できない。
でも設計しなければ届かない。
矛盾の真ん中。
シオンは言う。
「救えない希望でも」
「救える人はいる」
「拾える未来はある」
その瞬間――
レムが息を吸った。
怖い。
怖い。
消える。
また消える。
手が熱くなる。
空気が歪む。
街灯の光が、ほんの一瞬だけ揺れた。
カリナの背後の監視柱が、黒いノイズを吐いた。
ノイズの黒。
第1幕で薄く出るはずの現象が、
ここで強まった。
リリスの端末に、また表示が走る。
Δ:同期異常値
条件:対象保護要求/拒絶
連動:REM・SION・LILITH
リリスの瞳が震える。
「……私も?」
「私も、同期してる……?」
シオンがレムの手を握る。
「……落ち着いて」
「いまは発動しなくていい」
「いまは逃げる」
ミナトが叫ぶ。
「ノクス!煙!」
ノクスがすぐに小さな煙幕を投げた。
白い霧が広がる。
カリナは動じない。
彼女は走らない。
追う必要がないから。
追うのは人間じゃなく、システムだから。
カリナが静かに言った。
「逃がしません」
「あなたたちは、最適化の外側にいる」
「外側は……犠牲になります」
その瞬間、路地の出口が光で閉じた。
感知膜。
透明な壁。
逃げ道が消える。
ミナトが歯を食いしばる。
「クソ……!」
ノクスが低く言う。
「詰みだ」
リリスが震える声で言った。
「……まだ」
「穴が、ある」
彼女は壁の一部を指差した。
「ここは旧設備」
「監視柱の死角」
「端末が同期してるなら……」
「一瞬だけ、ログを落とせる」
シオンが理解した。
“落とす”。
ログを落とす。
存在を落とす。
定義から落ちる。
それはユウのやり方に近い。
残さないことで残す。
シオンはレムを見る。
「怖い?」
レムは涙をこぼした。
「怖い……」
「でも……消えたくない」
シオンは頷いた。
「なら、消えないために」
「一瞬だけ、世界を揺らす」
レムは震えながら頷く。
その瞬間――
レムの心拍が上がり、
シオンの心拍が同期し、
リリスの端末が黒いノイズを吐いた。
街の光が、ほんの一瞬だけ消える。
ゼロ。
真っ暗。
そして次の瞬間、
壁が“無い”場所ができた。
感知膜が、途切れた。
ノクスが叫ぶ。
「今だ!」
ミナトがレムを抱え、走る。
シオンとリリスが続く。
ノクスが最後に影を滑らせ、追跡視線をずらす。
彼らは、壁を抜けた。
抜けられた。
でも――
背後でカリナの声が聞こえた。
「……記録外行動」
「検知」
穏やかな声。
けれど、それは宣告だった。
逃げた瞬間、世界が“敵”として認識した。
彼らが辿り着いたのは、崩れた配給倉庫だった。
壁には古い文字。
錆びた看板。
「配給所:第四区」
もう配給は来ない。
でも、残っている。
ユウの仲間が残した“拾える場所”。
ミナトが息を吐いた。
「ここだ」
「……ユウのやつらが、残した」
シオンは倉庫の扉を押した。
中には、誰もいない。
でも――空気が温かい。
ここは“人がいた場所”だ。
誰かが未来を拾った痕跡。
レムが小さく言った。
「……ここ、怖くない」
それだけで価値があった。
でも、時間はない。
リリスの端末に警告が増える。
封鎖線:強化
未登録対象:回収優先度 上昇
Δ:同期異常値 増幅
シオンは歯を食いしばる。
(次は……成功体験を作らなきゃいけない)
(“救えた”を、みんなに見せないと)
(じゃないと、希望は折れる)
救えた。
救えたなら、戦える。
そしてそれが、第10章へ繋がる。
最初の登録。
成功体験。
でも、その成功体験が――
後に罠になる。
シオンは倉庫の暗闇の中で、静かに言った。
「……次は」
「“救える形”を、増やす」
ノクスが頷いた。
「夜の連合に繋ぐ」
「今夜中に」
ミナトが言う。
「ユウの仲間を探す」
「ルートを復活させる」
リリスが震えながら言った。
「私は……戻れません」
「もう、内部には戻れない」
シオンは即答した。
「戻らなくていい」
「あなたは拾った」
「あなたは、もう拾う側だ」
リリスの目に涙が浮かんだ。
その時、レムが小さく手を挙げた。
「……私」
「私も、拾う側に……なっていい?」
シオンは笑った。
初めて柔らかく。
「なっていい」
「あなたが、境界に残る未来だから」
――鍵は“開けるもの”じゃない。
守るものでもない。
奪われる前に、手渡す先を選ぶものだ。
配給倉庫の中は暗い。
それなのに、どこか安心できる暗さだった。
外は白い監視光。
中は、影がちゃんと影をしている。
影がある世界はまだ生きている。
ミナトが、倉庫の奥の壁を叩いた。
コン、コン。
鈍い音。
「……ここだ」
古い鉄板。
誰が見てもただの補修に見える。
でも角が微妙に揃っていない。
ノクスが近づき、手袋で埃を払った。
「人工」
「意図的に隠した」
シオンは息を吞む。
「……ユウの仲間?」
ミナトが頷いた。
「たぶんな」
「ユウ本人じゃない」
「でも“拾い方”が残ってる」
ミナトが鉄板を引き剥がす。
その奥には、細い階段が口を開けていた。
地下室。
保管庫。
“未来の残骸置き場”。
降りた瞬間、リリスが言った。
「……この匂い」
「古い紙です」
紙。
ログじゃない。
端末じゃない。
記録されない記録。
それは管理の盲点だ。
地下室には箱が並び、
その中に、手書きのメモ、ラベル、古い地図、そして小さな記録媒体があった。
ミナトがひとつ開く。
そこには短い言葉。
“配られたのに、記録がない”
それは奇跡じゃない。
“誰かが拾った”だけだ。
シオンは息を止めた。
文章が、ユウに似ている。
けれど、ユウじゃない。
ユウの思想が、誰かの手に移っている。
継承されている。
それが怖いほど嬉しい。
ノクスが別の箱を開ける。
そこには薄い端末。
古いビーコン。
型番が削れている。
「型番欠落ビーコン……」
「非ログ救助事件の核だ」
リリスが震える。
「これ、内部では存在しないことになってる」
「見つかったら……」
ミナトが笑う。
「見つけさせなきゃいい」
シオンは端末に触れた。
起動する。
表示されたのは、短い記録。
“救った。だが登録するな。”
“登録した瞬間、回収される。”
“回収は救済の顔をしている。”
そして最後に、たった一行。
“境界は、残せる。”
境界。
BORDER REMAINS。
まだ名前はない。
でも、思想が先にある。
シオンはその言葉を胸に刻む。
(残す)
(残すために、拾う)
その時だった。
上で、小さな音。
ギ……
ギ……
金属が擦れる音。
全員が止まった。
ノクスが指を立て、耳を澄ます。
外から聞こえる足音。
規則的。
迷いがない。
「追跡班」
「もう来た」
ミナトが歯を鳴らした。
「早すぎる……!」
リリスが端末を見て、顔色が落ちる。
「追跡じゃない」
「封鎖強制部隊」
「……回収ユニットです」
回収。
救済の名の、刈り取り。
レムが震えた。
「……消される」
「また、いなくなる」
シオンは肩を掴む。
「消させない」
ノクスが言った。
「出口は一つじゃない」
「この地下室は、逃げるためにある」
ミナトが周囲を探る。
壁を叩く。
箱をどける。
「……こっちだ!」
棚の裏に、通気口。
人が一人ずつ通れる幅。
奥は暗く、長い。
まるで逃走ルートが最初から用意されているみたいだった。
それがユウの仲間の“拾い方”だ。
でも――
逃げるだけでは終わらない。
上の倉庫が開かれた音がした。
ガンッ!
重い扉が蹴破られる。
白い光が地下へ刺さる。
そして、優しい声が響いた。
「安全のため、登録手順に従ってください」
「抵抗は危険です」
「保護対象を回収します」
優しい。
穏やか。
死ぬほど正しい。
だから恐ろしい。
ミナトが呟いた。
「……カリナの声じゃねぇ」
「別部隊だ」
ノクスが答える。
「制度が動き始めた」
「個人じゃ止まらない」
シオンは理解した。
第2幕の核心。
善意が制度に変わる。
そして制度は、止まらない。
止められないなら――
残すしかない。
リリスが震える声で言った。
「追跡班、内部の“回収端末”を持ってる」
「この場所を登録されます」
「ここが……潰される」
潰される。
逃げ道が死ぬ。
ユウの痕跡が回収される。
第2幕21章の未来が見える。
拾えない未来。
シオンが歯を食いしばった。
「……ここを残す」
「潰されてもいい」
「でも“意味”は残す」
ミナトが睨む。
「意味なんて残しても、生き残れなきゃ――」
シオンが言う。
「生き残る」
「生き残るための“意味”だ」
その時、レムが小さく手を握った。
怖い。
でも、逃げるだけじゃ嫌だ。
レムが言った。
「……私」
「私、知ってる」
「消える前の場所」
「“集められる部屋”」
シオンが息を吸う。
「保護区の中?」
レムが頷く。
「そこに……まだ」
「消えかけてる子がいる」
消えかけている。
評価不能になりかけている。
あるいは、最適化で“削られる前”。
ミナトが呟いた。
「救出……?」
ノクスが静かに言う。
「無謀だ」
「でも、必要だ」
シオンが理解する。
ここで「救えた」成功体験を作る。
第10章への橋。
この章は、その前の“引き金”だ。
レムが震える声で言った。
「……助けたい」
「私、助けられなかったから」
シオンはレムの目を見る。
「助ける」
「一緒に拾う」
その瞬間、シオンの端末が震えた。
通信。
暗号化。
短い発信元。
ALTO.
アルトからの通信。
画面に文字が浮かぶ。
「止められない」
「制度はもう動いた」
「だが――残せ」
「“定義”される前に」
「残す場所を、残せ」
「シオン、君は救いの形を見せるな」
「見せた瞬間、制度が奪う」
「だから“形”じゃなく、余白を残せ」
「……生きろ」
短い。
でも重い。
“救いの形を見せるな”。
矛盾だ。
成功体験が必要なのに、
形にした瞬間奪われる。
第2幕の地獄が見える。
でも、いまは進むしかない。
シオンは端末を閉じた。
「……アルトは止められない」
「でも、残せと言ってる」
ミナトが吐き捨てる。
「内部のやつが言うと腹立つな」
「……でも正しい」
ノクスが言う。
「正しさは人を救う」
「同時に切る」
だから、切られない場所を作る。
上の倉庫から、階段を降りてくる音。
コツ……コツ……
白い光が近づく。
「回収対象を確認」
「未登録個体を検知」
「保護手順を開始」
レムが震えた。
その瞬間、レムの手が熱くなる。
心拍が跳ねる。
恐怖が臨界になる。
シオンはレムの手を強く握った。
「レム、聞いて」
「怖いなら、怖いままでいい」
「でも、逃げる方向を選べ」
選ぶ。
管理は選ぶ権利を奪う。
でも、選ぶことが未来を残す。
レムは涙をこぼして頷いた。
「……選ぶ」
「消えない方を」
光が地下室に刺さった。
白い制服の回収兵。
顔がない。
マスクの奥が黒い。
“人”じゃない。
“手順”だ。
その時――
レムの心拍が跳ねた。
熱が偏る。
空気が歪む。
金属が唸る。
ガギィ……!
棚の鉄骨が、勝手に曲がる。
回収兵の足元の床板が歪み、
バランスを崩した。
「……異常」
「同期ログ――」
リリスの端末がノイズを吐く。
Δ:同期異常値
REM:最大
SION:連動
LILITH:観測者
発生条件:恐怖/選択
まだ誰も発動してない。
能力じゃない。
でも世界が“発火寸前”だ。
ノクスが叫んだ。
「今だ、通気口へ!」
ミナトがレムを抱え、先に通す。
リリスが続き、シオンが最後に入ろうとした瞬間――
回収兵の手が伸びた。
シオンの腕を掴む。
冷たい。
無機質。
人間の温度じゃない。
回収兵が言った。
「保護対象」
「確保」
その瞬間、シオンの心に何かが刺さった。
(……私も、登録される?)
(私も、消える?)
怖い。
そしてその恐怖が、レムと同期した。
熱が爆ぜるように偏る。
空気が揺れ、
視界が黒く瞬く。
回収兵のライトが一瞬落ちた。
その一瞬で、シオンは腕を引き抜き、通気口に滑り込んだ。
ノクスが最後に鉄板を閉める。
“残さない”。
でも――
シオンは振り返って、地下室の闇を見る。
そこには確かに、未来が残っていた。
彼らが通気口の先で抜けたのは、
崩壊した高架下だった。
雨の音。
遠いサイレン。
白い監視光。
息を吐く暇もない。
でもレムは、泣きながら笑っていた。
「……消えてない」
「私、まだいる」
シオンは頷いた。
「いる」
「ここにいる」
ノクスが空を見上げる。
「封鎖は強まる」
「次は、逃げるだけじゃ足りない」
ミナトが言う。
「助ける人数を増やす」
「ユウの仲間を探す」
「ルートを拾い直す」
リリスが震える声で言った。
「私は……これを持ってきました」
彼女の手には、地下室から拾った小さな紙があった。
端末じゃない。
ログじゃない。
紙の記録。
そこには、短いメモ。
“拾うのは物資じゃない。未来だ。”
ユウの言葉だ。
でも、彼の声じゃない。
誰かが残した。
受け継いだ。
シオンはその紙を受け取り、握りしめる。
(ユウは消えた)
(でも消えていない)
アルトは内部で戦っている。
止められない。
でも残そうとしている。
そしてシオンは、境界で拾う。
三人はまだ結成していない。
でももう、同じ方向を向いている。
BORDER REMAINS。
その輪郭が、いま形になり始めた。
最後にレムが小さく言った。
「……私」
「助けたい」
「消える前の子たち」
その言葉が、この章の答えだった。
評価不能領域の子は、鍵じゃない。
“分岐点”だ。
この世界が、どこへ行くか。
管理へ行くか。
無秩序へ落ちるか。
それとも――
境界に未来を残せるか。
それを決めるのは、制度じゃない。
“選ぶ側”だ。




