第8章:封鎖線の準備
――正しい準備ほど、逃げ道を奪う。
そして人は、奪っていることに気づかない。
夜明け前の空は、いちばん残酷だ。
暗いのに、光が近い。
逃げ切れないことだけが分かる。
瓦礫の下の空洞で、シオンたちは息を整えていた。
リリスの肩の傷は深くない。
だが彼女の中の“痛み”は、もっと深いところに刺さっていた。
ミナトが布で圧迫しながら言う。
「血は止まる」
「でも戻れねぇな」
リリスは小さく笑った。
笑うしかない顔だった。
「……戻れません」
「戻ったら、また押します」
「私は……押す人間だから」
シオンは首を振った。
「違うよ」
「押す人間じゃない」
「押させられてきた人だ」
ノクスが背を向けたまま言う。
「優しさは、押させられる」
「制度はそう作る」
「罪悪感で動く人間ほど、使いやすい」
リリスが息を呑んだ。
それは悪意の言葉じゃない。
現実の言葉だった。
レムが壁際でうずくまっている。
目を閉じて、耳を塞いでいる。
それでも静かに震えていた。
「……まだ、聞こえる」
レムが呟いた。
シオンが寄る。
「何が?」
「追手?」
レムは首を横に振った。
「追手じゃない」
「空」
「空が……鳴ってる」
鳴ってる。
その表現が、怖かった。
音じゃない。
世界の歪み。
Δの予兆。
まだ能力じゃない。
ただ“ズレ”が現れている。
ノクスが瓦礫の隙間から外を見て、短く言った。
「動く」
「夜が薄くなる」
外へ出る。
冷たい風が頬を叩く。
遠くの空に、青白い光が増えていた。
封鎖線の光だ。
昨日より増えている。
昨日より近い。
ミナトが言った。
「……設置、早すぎる」
「これ、準備じゃない」
「もう“開始”だろ」
シオンは喉の奥が固くなるのを感じた。
第7章で知った。
登録は保護じゃない。
登録は拘束になる。
そして第8章で分かる。
拘束は、準備段階で始まる。
人は封鎖の前に、逃げ道を失う。
彼らは夜の影を辿り、境界の街へ向かった。
崩壊した街の中心部。
かつては人の生活があった場所。
今は、廃墟と市場と武装が混ざる。
そこに“新しい秩序”が降りてきていた。
配給ポイント。
GENESISの臨時端末が並び、
仮設のゲートが組まれている。
そして一番怖いもの。
――人々が列を作っている。
並んでいる。
怯えているのに。
疑っているのに。
それでも並ぶ。
なぜなら、配給は生きる権利だから。
シオンは唇を噛んだ。
自分の正しさが揺れる。
登録は怖い。
でも配給がないと死ぬ。
どちらも正しい。
どちらも地獄。
リリスが囁いた。
「……これ、登録試験の前哨です」
「正式登録の前に……『適合』を測る」
「善意の導線です」
善意の導線。
優しく案内して、
優しく誘導して、
優しく逃げ道を消す。
ミナトが吐き捨てる。
「優しい罠だな」
ノクスは目を細めた。
「敵は強い」
「武器じゃない」
「正論が武器だ」
列の先頭では、係員が笑顔を作っていた。
笑顔が下手だった。
それでも笑顔である必要がある。
「次の方、こちらへ」
「配給受領と同時に、保護登録を行います」
「拒否も可能です。ですが登録されれば、医療と居住区の優先枠が付与されます」
拒否も可能。
でも拒否すれば、
生存率が落ちる。
拒否できる人間なんて少ない。
それが制度の強さだ。
シオンが息を吸う。
「……ここで何が起きてるのか」
「確認しないと」
ノクスが言う。
「近づけば照合される」
ミナトが小声で言った。
「じゃあ誰が行く?」
全員が一瞬黙った。
その沈黙の中で、リリスが前へ出た。
「私が行きます」
シオンがすぐ言う。
「ダメだよ!」
「あなたは照合される!」
「もう“矛盾”って言われた!」
リリスは震えながら、でも真っ直ぐ言った。
「だからです」
「私が作った導線を、私が壊したい」
ミナトが鼻で笑う。
「壊せるか?」
「お前、もう中に入れねぇぞ」
リリスは小さく言った。
「入れなくてもいい」
「見えなくてもいい」
「……私は、聞けます」
彼女は自分のタグを握りしめた。
識別タグ。
かつては誇り。
今は罪の重さ。
でも彼女は、それを捨てない。
捨てるんじゃなく、背負って使う。
シオンは頷いた。
「……分かった」
「でも一人じゃ行かない」
「私も行く」
ミナトが舌打ちした。
「二人でやるなら、余計危ねぇ」
ノクスが言った。
「なら、影を作る」
「俺が動線をずらす」
“夜の仕事”が始まる。
敵を殺さない。
壊さない。
ただ、見えなくする。
ずらす。
拾う。
ユウの影に近い戦い方。
ノクスが先に動いた。
配給ポイントの裏側。
照明の死角。
監視カメラの視線。
影に一瞬だけ“穴”を作る。
その瞬間、シオンとリリスが歩き出した。
列の後ろへ紛れ込む。
頭を下げ、顔を隠す。
呼吸を浅くする。
周囲には人々。
疲れている。
痩せている。
手が震えている。
でも――目は光っている。
生きるための光。
シオンは胸が苦しくなる。
彼らは敵じゃない。
制度に頼る人間も、被害者だ。
問題は“救済が制度になる”こと。
列が進む。
端末が近づく。
リリスの顔色が悪い。
汗が冷えている。
「……ここ、怖い」
リリスが小さく言った。
「ここは、善意が剥がされる場所」
配給端末は白い。
清潔。
新品。
崩壊世界に似合わないほど整っている。
その清潔さが、暴力だった。
――そして、目の前で一人の老人が登録を受けた。
係員が端末をかざす。
「ありがとうございます」
「これで保護対象です」
老人はほっとした顔をした。
その瞬間。
老人の腕に、小さな光が走った。
赤い線。
皮膚の下で光るような。
シオンの心臓が跳ねた。
(……あれ、何)
係員は気づかない顔で手続きを進める。
「次の方」
老人は歩き出した。
しかし、次の瞬間。
老人の足が止まった。
まるで糸が切れたみたいに。
老人が振り返り、何かを言おうとする。
だが声が出ない。
そして――
老人の“影”が消えた。
完全に消えたんじゃない。
目に見えない。
でも、そこにいたはずの影が、光に塗り潰された。
老人は一瞬だけ、薄く見えなくなった。
存在が揺れた。
係員が眉をひそめる。
「……お客様?」
「大丈夫ですか?」
老人は笑おうとした。
でも笑えない。
そして次の瞬間、
兵が二人、静かに近づいた。
「こちらへ」
「保護区に案内します」
案内。
優しい言葉。
だが老人は抵抗できない。
抵抗する力がない。
そして列の人々も、何も言わない。
見て見ぬふり。
それが生存の技術だから。
シオンは息が詰まった。
(……消える人間)
第2幕で起きるはずの現象が、
もう始まっている。
前哨じゃない。
これは“試運転”だ。
リリスの手が震えた。
「……そんな」
「保護区って……拘束区……」
シオンが小さく言う。
「証拠がいる」
「これを止めるには、言葉じゃ足りない」
リリスは頷いた。
「……記録」
「ログを抜きます」
彼女は端末の操作手順を知っている。
でも、触れれば照合される。
矛盾として弾かれる。
それでも。
彼女は一歩前へ出た。
そして――
端末の横にある補助パネルに指を触れた。
ピ……
警告音。
リリスの顔が青ざめる。
「照合が――」
その瞬間、ノクスが遠くで小さく石を投げた。
監視カメラがそちらへ僅かに振れる。
警備兵の視線がずれる。
ほんの二秒。
二秒あれば、善意は壊せる。
リリスが囁く。
「……抜けた」
小さなデータ。
一件の移送記録。
“保護区”への搬送ログ。
だがログには、名前がなかった。
番号だけ。
被登録者:ID欠落
適合判定:保留
移送:実施
ID欠落。
記録がないまま、拘束される。
完全に矛盾だ。
そしてシオンの端末が震えた。
また、あの同期。
ピ……ピ……
画面に黒いノイズ。
ほんの一瞬だけ、
記号が揺れる。
――Δ
まただ。
でもまだ確定じゃない。
現象はまだ“説明不能”のまま。
シオンが歯を食いしばる。
(ここで暴れたら負ける)
(ここで殺したら、正論に潰される)
彼女が選ぶべきは、別の道だ。
拾う道。
残す道。
ユウの影。
アルトの限界。
その中間にある“第三の形”。
「……戻ろう」
シオンが言った。
「ここは見た」
「次は止める準備をする」
リリスが震えながら頷いた。
「はい」
「……もう二度と、押さないために」
背後で、列が進み続ける。
人々は並ぶ。
救われたいから。
生きたいから。
正しい。
だから怖い。
そして封鎖線の光は、
さらに強くなっていく。
――封鎖は「攻撃」じゃない。
“守るための最適化”として、静かに始まる。
戻り道は、来た道より怖かった。
理由は簡単だ。
光が増えていた。
封鎖線の設置は、早い。
しかも静かだ。
爆音もない。
崩壊もない。
ただ、空が塗り替えられていく。
夜の輪郭が薄くなっていく。
「……ここまでだな」
ノクスが低く呟いた。
シオンとリリスは瓦礫の陰へ滑り込んだ。
ミナトとレムも続く。
遠くで、また電子音。
照合。
確認。
分類。
音が世界を分ける。
シオンは胸に、抜き取った“移送ログ”を抱いた。
数字しかないログ。
名前がないログ。
それでも、それは殺せない証拠だった。
リリスが息を整えながら言う。
「……保護区は」
「避難施設じゃありません」
「登録の“例外処理”を集める場所です」
ミナトが鼻で笑った。
「例外処理って、ゴミ箱だろ」
リリスは何も言い返せない。
否定できないから。
シオンが言う。
「例外は、増えてるの?」
「それとも――作られてる?」
リリスが目を伏せた。
「……両方です」
ノクスが言った。
「増えたから作る」
「作ったから増える」
循環。
正しさの循環。
善意の循環じゃない。
制度の循環。
回し始めたら止まらない。
シオンは思う。
第2作で、アルトは“残す判断”をした。
評価不能領域を消さず残した。
それは希望だった。
分岐点だった。
でも、いま起きているのは――
“残したはずの領域”を、制度が回収しようとしている。
回収。
それはユウの言葉に似ている。
だが意味が違う。
ユウの回収は拾う。
制度の回収は消す。
同じ言葉で、逆のことをする。
そこが、この世界の恐ろしさだ。
瓦礫の空洞に戻り、四人は短い休息を取った。
ミナトが壁に寄りかかり、言った。
「で? どうする」
「突っ込んで老人を奪い返すか?」
「それとも登録端末ぶっ壊すか?」
シオンはすぐに首を振った。
「壊したら負ける」
「“正論”に潰される」
ミナトが眉を吊り上げる。
「じゃあ、見捨てるのかよ」
シオンは息を吸った。
「見捨てない」
「でも、奪い返し方を間違えたら」
「次の人がもっと消える」
リリスが小さく言った。
「……私、分かります」
「壊された瞬間から、言い訳が作られる」
ノクスが淡々と続ける。
「壊れた端末は、治安維持の根拠になる」
「暴徒対策が正当化される」
「封鎖が強化される」
そう。
暴れた側が悪になる。
その瞬間、封鎖は“正義”になる。
シオンは拳を握った。
(じゃあ、どうすればいい)
答えは簡単じゃない。
だが、必要な道筋はある。
――“制度が守るもの”を逆手に取る。
制度が守るのは、秩序。
秩序が壊れると困る。
だから壊さずに、混乱を起こす。
矛盾を増やす。
処理能力を超える矛盾を。
シオンが言った。
「……封鎖線の目的は何?」
「リリス、あなたなら分かる」
リリスは少し考えてから、震える声で答えた。
「境界地域の……圧縮です」
「管理しやすい形にする」
「散っている人を集める」
「残ってる物資を把握する」
「治安を安定させる」
ミナトが笑う。
「全部正しいじゃねぇか」
リリスは顔を上げた。
「でもその正しさは」
「……逃げ道を殺します」
シオンは頷く。
「圧縮」
「それが封鎖線の本質」
圧縮は優しい言葉だ。
密度を上げる。
効率を上げる。
救える数を増やす。
だけど――圧縮は息を止める。
逃げる空間を殺す。
余白を殺す。
評価不能領域を殺す。
そして、余白が死んだ世界には、希望が残らない。
“設計された希望”しか残らない。
その希望は、誰かを切る。
その時、ノクスが小さく手を上げた。
「聞こえる」
遠く。
通信音。
低い周波数のノイズ。
夜の連合が使う、裏回線。
でも今日は違う。
それは断続的で、焦っていた。
ノクスが耳に小型端末を当てる。
「……途切れてる」
「回線が切られ始めた」
NIGHT UNIONの連絡線が切れる。
第2幕の前兆。
そして次の瞬間。
シオンの端末が震えた。
着信。
通信相手の表示はない。
だが、この通信の感じを、シオンは覚えている。
短く、正確で、息苦しい。
アルト。
シオンは端末を耳に当てた。
「……聞こえます」
ノイズの向こうから声がした。
『シオン』
『今、境界にいるな』
「はい」
『封鎖線が動いたのを確認した』
『予想より早い』
『……俺の判断が、利用されている』
シオンは息を止めた。
「利用?」
アルトの声は静かだった。
感情を押し殺している。
でも、その奥が焼けている。
『評価不能領域を残した』
『その存在を、俺は“消さない”と決めた』
『だが上層は違う』
『“残したのだから、分類できるはずだ”と言い始めた』
シオンの背筋が凍った。
残す判断が――
制度化の根拠にされる。
希望が、拘束の理由になる。
アルトが続ける。
『登録試験は、救済ではない』
『分類だ』
『分類できない者は、保護区に送られる』
『……保護区の中で、消える』
リリスが口を押さえて泣きそうになる。
シオンは絞り出すように言った。
「消える、って……何ですか」
「殺してるんですか」
アルトは、ほんの少し沈黙した。
『殺していない』
『……殺してはいない』
『だが、存在が処理される』
『ログが削られ、IDが欠落し、最終的に“対象がいない”ことになる』
それは殺しより残酷だ。
死体が残らない。
記憶も残らない。
葬る場所もない。
人間が“ゼロ”になる。
シオンは歯を食いしばる。
「止められますか」
アルトは即答しなかった。
それが答えだった。
『内部からは……止められない』
『止めれば反乱になる』
『反乱になれば、封鎖は正義になる』
『だから俺は――壊さない』
壊さない。
アルトはずっとその戦い方だ。
制度を破壊しない。
でも、未来を残す。
『シオン』
『お前は現場にいる』
『なら、残せ』
『拾うんだ』
『“拾う側のやり方”を』
拾う側のやり方。
ユウの思想が、ここで刺さる。
アルトはユウを知らない。
交わらない。
でも彼は今、ユウの戦い方を必要としている。
シオンは言った。
「……拾う側って」
「どうやって拾うんですか」
「私は、拾い方を知らない」
アルトの声が少しだけ柔らかくなった。
『拾うのは物じゃない』
『未来だ』
『だから、数値じゃ拾えない』
『……拾える形を作れ』
拾える形。
それは“制度の外の救済”を作ること。
ノクスが小さく頷く。
彼はもう分かっている。
夜の連合は、制度の外で救ってきた。
だが、封鎖線が夜を殺すなら――
夜の救済も殺される。
アルトの声が一段低くなる。
『封鎖線の準備が終わる前に動け』
『境界は、もう逃げ道じゃなくなる』
『接続が切断になる』
通信が途切れた。
最後に残ったのはノイズと、短い電子音。
ピ――……
それが、まるで心電図の停止みたいに感じた。
沈黙。
瓦礫の空洞の中で、呼吸だけが鳴る。
ミナトが最初に口を開いた。
「……なぁ」
「俺ら、何と戦ってんだ?」
シオンは答える。
「正しさ」
ミナトが笑った。
でも笑いは乾いていた。
「勝てるのか?」
ノクスが言った。
「勝つ必要はない」
「残せばいい」
その言葉が、アルトと同じだった。
そしてその時、レムが小さく呟いた。
「……増えてる」
「消える人、増えてる」
「線の向こう、どんどん消える」
シオンがレムの肩を掴む。
「分かるの?」
「どこで?」
レムは震えながら指を差した。
「……保護区」
「そこ、黒い」
「音が……ない」
「ゼロみたい」
ゼロ。
AFTER ZERO。
崩壊後の“ゼロの先”。
シオンの胸が痛くなる。
(私たちは、ここで止めなきゃいけない)
でも止め方を間違えたら、
封鎖は正義になる。
だから――
止めるんじゃない。
“拾える未来を作る”。
シオンは言った。
「……救済を、制度から引き剥がす」
「登録させずに救う」
「記録されずに守る」
リリスが顔を上げた。
「そんなこと、できますか」
シオンは即答できない。
でも答えなければならない。
「やる」
「やらなきゃ、未来がゼロになる」
ノクスが短く言った。
「方法はある」
「夜の連合は、それをやってきた」
ミナトが言う。
「じゃあ、夜が死ぬ前にやるしかねぇ」
リリスが震える声で続けた。
「……私も」
「私、登録端末の穴、知ってます」
「抜け道を……作れる」
シオンは頷いた。
それが第8章の核だ。
封鎖線の準備。
正しい準備。
そして、逃げ道を作る戦い。
破壊ではない。
革命ではない。
ただ、余白を残す。
評価不能領域を、拾える形にする。
その時、シオンの端末がまた震えた。
画面に、また黒いノイズ。
前より長い。
前より濃い。
そして一瞬だけ映った。
Δ:同期異常値
対象:SION / LEM / LILIS
条件:近接・恐怖・選択
現象:熱偏差/金属歪み/観測欠落
シオンの呼吸が止まる。
まだ発動じゃない。
でも、世界が“記録”し始めた。
GENESIS内部で、Δはもう現象名になりつつある。
公表されないまま。
管理されないまま。
管理されようとしているまま。
シオンは端末を閉じた。
「……行こう」
ミナトが立ち上がる。
「どこに?」
シオンは言った。
「封鎖線の内側へ」
「……救いに行く」
「消える前に」
ノクスが笑った。
「最悪だな」
「でも、それが夜の戦い方だ」
リリスが涙を拭いた。
「私、押した分……」
「拾います」
レムが小さく頷いた。
「……怖いけど」
「消えるの、嫌だ」
シオンはその言葉を胸に刺した。
消えるのが嫌だ。
それは生存の本音。
希望の本音。
そしてそれが、管理の敵になる。
――救済は、扉だ。
でも扉は、閉じるためにも使える。
封鎖線の光は、もう「遠景」じゃなかった。
街の輪郭に入り込み、路地の端を塗り替えていく。
壁じゃないのに、壁になる。
誰も殴られていないのに、逃げられない。
それが封鎖線の恐ろしさだった。
ミナトが低い声で言う。
「……見えた」
「保護区の入口」
瓦礫の向こう、臨時ゲート。
GENESISの白い布幕。
“救済の受付”みたいな顔。
その横には、武装した警備。
銃を構えていない。
立っているだけ。
それだけで人は従う。
シオンは息を吸った。
(壊さない)
(でも止める)
(救済を、制度から引き剥がす)
アルトの言葉が頭の奥で響く。
――拾える形を作れ。
ノクスが指で合図を出した。
「二分散」。
視線を分ける。
音をずらす。
夜がやること。
リリスは小さな端末を握りしめていた。
彼女は内部の人間だった。
だから穴も知っている。
そして、そこに触れるのが一番怖い。
リリスが言う。
「……端末の照合は二段階です」
「一次が“受領”」
「二次が“登録”」
「一次だけなら……完全な照合じゃない」
ミナトが眉をひそめる。
「受領だけで配給は取れるのか?」
リリスは頷いた。
「本来は無理です」
「でも……抜け道があります」
「一次だけ通して、二次を“保留”にする」
「保留のまま抜けたら、端末は“処理中”として残ります」
シオンが聞く。
「処理中が増えたら?」
リリスは震えながら言った。
「システムが詰まります」
「“例外処理”が増える」
「……保護区に送る余裕がなくなる」
ノクスが小さく笑う。
「制度を殺さずに、息を詰まらせる」
ミナトが言った。
「詰まらせりゃ、救える時間が増える」
シオンは頷いた。
「その時間で、逃がす」
「救って、隠して、繋ぐ」
その瞬間だけ、彼らは一つの形になった。
まだチーム名はない。
結束も完成していない。
でも方向だけは一致した。
――管理でも、無秩序でもない。
第三の形を残す。
彼らが動いたのは、配給ポイントの裏だった。
列の外側。
照明の死角。
ノクスが影を作り、ミナトが道を選ぶ。
リリスが端末の裏口を開け、シオンが“救われる側”の心を拾う。
そこへ――
運ばれてくる。
担架。
二つ。
倒れた人間。
若い女と、少年。
女の腕には登録線が光っていた。
赤い線。
薄い血管のように、皮膚の下で走る。
少年は泣いていた。
泣いているのに声が出ない。
喉が詰まっている。
シオンの視界が狭くなる。
(あれは……保護じゃない)
係員が淡々と告げた。
「適合判定、保留」
「移送します」
「保護区へ」
保護区へ。
優しい言葉の形をした“処理”。
少年が必死に手を伸ばす。
母親の指を掴もうとしている。
でも掴めない。
掴めた瞬間――彼の影が揺れた。
まただ。
存在が、薄くなる。
周囲の人々は見ている。
見ているのに動かない。
誰も正義を否定できないから。
否定したら、自分が救われないから。
シオンは足が出かけた。
ミナトが腕を掴む。
「今はダメだ!」
「行けば撃たれる!」
シオンは震える声で言った。
「撃たれてもいい!」
「……消えるんだよ!」
リリスが叫びそうになり、唇を噛んで耐えた。
ノクスが低く言う。
「救うなら」
「一人じゃなく、道で救え」
道で救え。
拾える形。
救える形。
シオンは歯を食いしばり、耐えた。
その耐え方が、戦いだった。
担架はゲートの奥へ消えた。
そしてその瞬間――
少年の泣き声が、完全に途切れた。
音が消えたんじゃない。
“存在が消えた”みたいな無音。
レムが膝から崩れた。
「……やだ」
「消えるの、やだ……!」
シオンはレムを抱きしめる。
「消させない」
「絶対に」
自分に言い聞かせるみたいに。
リリスが端末の裏に回る。
彼女の手は震えている。
でも動く。
覚えた手順を、呪いみたいに辿る。
「一次認証を……仮固定」
「二次登録を……保留」
「……これで、一人は救える」
ミナトが言う。
「誰を?」
リリスの目が列の中の少女を捉えた。
痩せている。
手が震えている。
でも目が強い。
少女はカードを握りしめている。
配給カード。
登録カード。
生きるための“鍵”。
シオンが囁く。
「行くよ」
少女の後ろに近づき、シオンは小さく声をかけた。
「ねえ」
「あなた、逃げたい?」
少女の目が動く。
警戒。
不信。
でもその奥に、生きたいという本能。
少女は唇を震わせた。
「逃げたら……死ぬ」
「でも……並んでも、死ぬ」
シオンは頷く。
「死なない道を作る」
「今だけ、信じて」
少女は一瞬だけ迷った。
そして――頷いた。
その瞬間、シオンの端末が震えた。
黒いノイズ。
短い熱。
金属の匂い。
Δの予兆。
まだ発動じゃない。
でも、“選択”の瞬間に必ず出る。
リリスが端末を一瞬だけ操作する。
「……今」
シオンが少女の腕を掴み、列から外す。
ほんの一歩。
一歩だけで、世界が変わる。
警備員の視線が動く。
「そこの人」
ミナトが即座に別方向へ石を投げた。
カン、と音が鳴る。
警備員がそちらを見る。
ノクスが影を滑らせ、光の輪郭を少しだけ歪ませた。
視線が外れる。
その二秒で、少女は瓦礫の裏へ消えた。
救えた。
“壊さずに”救えた。
シオンは息を吐く。
その瞬間、背後で端末が警告音を鳴らした。
ピ――ピ――
リリスの顔が青ざめる。
「……増えてる」
「保留が増えた」
「システムが例外処理に入る」
ノクスが言う。
「いい」
「詰まれ」
ミナトが言う。
「詰ませろ」
シオンが頷く。
「詰ませる」
「詰ませて、その隙に拾う」
拾う。
ユウの言葉が、ここで“使える形”になる。
だが、制度は甘くない。
警備員の一人が、端末の異常に気づいた。
「……保留が多い」
「ここで処理が止まってる」
係員が焦った声で言う。
「例外処理が増えています!」
「保護区へ移送を――」
その瞬間。
白い装甲車が一台、ゲート前に滑り込んだ。
静かに。
堂々と。
扉が開く。
降りてきたのは――女。
制服じゃない。
だが制服より、制度に見えた。
髪はまとめられ、表情は穏やか。
視線は冷たい。
彼女が周囲を一度だけ見回し、言った。
「混乱が出ていますね」
その声は優しい。
でも逆らえない。
リリスが震えた。
「……カリナ」
カリナ。
第2幕で本格登場するはずの人物。
敵の正論を堂々と語る者。
彼女がここで現れるのは早すぎる。
つまり――
状況は想定より悪い。
カリナは端末を見て、淡々と言う。
「保留は救済の遅延です」
「遅延は死者を増やします」
「なら、最適化しましょう」
最適化。
その言葉で、シオンの胃がひっくり返る。
カリナは警備員に指示する。
「列を二つに」
「一次受領だけの者は、右へ」
「登録完了者は、左へ」
「保留は――保護区へ」
その瞬間、列の人々がざわめいた。
右へ行けば配給だけ。
左へ行けば保護枠。
どちらが正しいか。
答えは簡単だ。
生きたいなら、左へ。
だから人は左へ集まる。
そして左へ集まった者が、
消える可能性を背負う。
善意の導線が、さらに強化された。
リリスが震える声で言った。
「……私の抜け道が」
「修正される……」
シオンは拳を握る。
「だったら、次の方法」
「次の拾い方を作る」
ノクスが言う。
「封鎖線は“準備”じゃない」
「戦闘開始だ」
ミナトが笑った。
「……やっとかよ」
シオンはカリナを見た。
敵じゃない。
悪じゃない。
正しい人間だ。
だから、倒せない。
倒せない相手と戦う方法は一つ。
――正しさを超える矛盾を、残す。
そして救えるものだけ拾う。
シオンが言った。
「レム」
「あなたが鍵になる」
レムが涙を拭いた。
「……私?」
「私、何もできない」
シオンは首を振る。
「できる」
「あなたは、“評価不能領域そのもの”だから」
その言葉に、レムの目が大きく揺れた。
怖い。
でも、逃げられない。
逃げれば消える。
ここに残るしかない。
ノクスが静かに言う。
「次は、救う人数を増やす」
「夜の連合を繋ぐ」
「封鎖線が閉じる前に」
ミナトが頷いた。
「チームで動くしかねぇ」
その瞬間、シオンの中で何かが固まった。
この三人は、もう別々に戦えない。
善意だけでもダメ。
夜の技術だけでもダメ。
現場のルートだけでもダメ。
三つが揃って、ようやく“拾える”。
――BORDER REMAINS。
まだ名前じゃない。
でもその輪郭は、生まれた。
そして封鎖線の光が、さらに一段強くなった。
境界が、閉じ始める。
第8章はここで終わる。
“準備”の章なのに、もう戦争が始まった。
壊さずに救う戦い。
正しさを殺さずに、余白を残す戦い。
次は――
第9章。
評価不能領域の子。
世界の前提を揺らす“鍵”が、
物語の中心に来る。




