第5章:消えた配給台帳
――配給は命の線。
その線が消えた時、世界は“人間”を見失う。
地下ルートを抜けた先は、冷たい空気だった。
地上に近い。
風の匂いが違う。
夜の市場から逃げてきた人々は、暗がりの広場に押し込まれていた。
誰も喋らない。
喋れば――声が割れてしまうから。
泣く子供は、もう泣いていない。
泣き疲れて眠っている。
それが一番怖かった。
ミナトは出口の外を見張りながら、短く言った。
「ここは“壁外の端”だ」
「配給の最後尾」
シオンは頷いた。
胸の奥が痛いままだった。
夜の市場に残った人たち。
扉の向こうで消えていく声。
助けられなかった命の重さを、まだ下ろせない。
でも――下ろす暇もない。
ノクスがそういう男だった。
彼は広場の端、薄暗い倉庫の中にシオンとミナト、レムを呼び寄せた。
ここだけは人が少ない。
声が響かない。
ノクスは机の上に布を敷き、そこに古い紙束を置いた。
紙。
この世界では“贅沢品”だ。
データ端末があるのに、なぜ紙が残っているのか。
シオンはすぐに分かった。
紙は、書き換えにくい。
ログと違って、消しにくい。
つまり――真実を残しやすい。
ノクスが淡々と告げる。
「配給台帳の“影”だ」
「本物じゃない。複製の複製」
ミナトが眉を寄せる。
「影?」
ノクスは頷く。
「夜は“本物”を持てない」
「本物は管理局に回収される」
シオンが紙束を見た。
ページの端が焦げている。
破れている。
水を吸って波打っている。
読みづらい。
でも、そこに書かれていた。
配給番号。
食料。
医療。
燃料。
そして――“受領印”。
受領印がある。
つまり配った。
受け取った。
なのに、端末ログがない。
ミナトが呟く。
「……配られたのに記録がない」
シオンの喉が乾く。
「……救われたのにログがない」
同じ矛盾。
同じ穴。
ノクスは机の上の紙束を指先でトントンと叩く。
「この台帳は“最後尾”にしか存在しない」
「配給が足りない場所」
「死に近い場所」
ミナトが唸る。
「……だから改竄しやすい」
ノクスは首を横に振った。
「改竄ではない」
「改竄なら“残る”」
「これは消失だ」
消失。
その言葉が空気を凍らせる。
シオンは思い出す。
夜の市場で“登録された瞬間、消える”という噂。
あれが噂じゃないなら――
台帳の消失も噂じゃない。
「誰が消したの?」
シオンは声を絞った。
ノクスは答えない。
代わりに別の質問を返してきた。
「監査官」
「君は“消せる側”の人間だ」
シオンは固まった。
消せる側。
管理局の内部にいた者。
制度の鍵を触れる者。
善意の人間でも、制度側にいた瞬間、
“消せる側”になってしまう。
シオンは反射的に首を振った。
「私は……消してない」
「消したくない」
ノクスは淡々と頷いた。
「分かってる」
「だから君を使う」
使う。
またその言葉。
救済の道具。
制度の鍵。
生存の武器。
シオンは胸が苦しくなる。
ノクスが紙束から1枚抜き、シオンの前に置いた。
そこには、配給番号と受領印と――
受領者名。
だが、受領者名の欄が、空白になっている。
シオンは目を見開いた。
「……名前がない」
ミナトも気づく。
「受領印があるのに、名前がない……?」
ノクスは短く言う。
「これが“消失”の形だ」
「最初から空白だったわけじゃない」
「空白にされた」
空白にされた。
名前が消える。
記録が消える。
生存が消える。
つまり――
人間が“存在しなかったことにされる”。
シオンの手が震えた。
「……こんなの」
「こんなの、救済じゃない……」
ノクスの声は冷たい。
「救済だ」
「救済を“綺麗に見せる”ための救済」
綺麗に見せる。
それが怖かった。
それが一番、暴力だった。
救うために切り捨てるのではない。
切り捨てたことを見せないために“消す”。
管理の合理が、ここまで進んでいる。
ミナトが怒りを押し殺すように言った。
「……誰がやってる」
「GENESIS CONTROLか?」
ノクスは答える代わりに、遠い視線を向けた。
「関係者は多い」
「だけど、やり方は一つだ」
シオンが問う。
「やり方?」
ノクスは淡々と机の上の端末を起動した。
古いモデル。
でも改造されている。
画面に表示されたのは、ひとつのプロトコル名。
RATIONS RECONCILIATION / 配給照合処理
照合処理。
それは管理局が得意な仕事だ。
現場の台帳と、中央のログを突き合わせ、ズレを修正する。
不足を補う。
余剰を回収する。
不正を検知する。
本来は“救済の維持装置”。
しかし――
救済の維持装置は、救済を壊す刃にもなる。
ノクスは言った。
「照合の名目で、人間を消せる」
「存在しないことにできる」
シオンは息を呑んだ。
それは“合理”だ。
数字上、救済が成立してしまう。
配給が足りなかった現実は消える。
死んだ人間は、最初からいなかったことになる。
救済成功率は上がる。
秩序は保たれる。
治安は守られる。
――完璧だ。
完璧すぎて、吐き気がする。
レムが震える声で言った。
「……俺も?」
「俺も、その空白になるの?」
シオンはレムを見た。
レムは第4章で“評価不能領域の子”として登場した。
記録の外で生きている存在。
そんな子が、管理局の視点では一番危険だ。
管理できない。
予測できない。
数字にできない。
つまり――消す。
シオンは思わずレムの肩を掴んだ。
「大丈夫」
「私が……」
言いかけて、止まった。
“私が守る”と口にしていいのか。
夜の市場で、守れなかった。
扉を閉めた。
名前も残せなかった。
そんな自分が、誰かを守ると言っていいのか。
シオンの喉が詰まる。
ミナトがレムの前に立つ。
「俺が守る」
「ユウの仲間だからな」
シオンはミナトの背中を見た。
強い。
でも危うい。
拾うという意思は、現場で一番美しい。
でも現場で一番死ぬ。
ノクスが低く言う。
「守りたいなら、台帳を取り戻せ」
シオンは顔を上げた。
「本物の台帳はどこに?」
ノクスは地図を広げた。
薄い紙の地図。
手書きで線が引かれている。
封鎖線。
監視ドームの位置。
配給ルートの終点。
そして赤い×印。
「ここだ」
「配給照合の仮設局」
ミナトが目を細める。
「……GENESIS CONTROLの臨時施設か」
ノクスは頷く。
「外から見れば救済拠点」
「中から見れば消失工場」
救済拠点。
消失工場。
同じ建物の、二つの顔。
シオンは胸を押さえた。
救済は善意の顔をして暴力になる。
第4章で学んだことが、ここで確定する。
そしてシオンは理解した。
自分がやろうとしているのは、
“救済そのもの”への侵入だ。
敵の基地に潜入するのではない。
善意に潜る。
制度に潜る。
正しさに潜る。
それが一番難しい。
ノクスが言う。
「監査官」
「君は内部の手順を知っている」
「だから入れる」
シオンが震える息で答える。
「……私は、もう内部じゃない」
ノクスは淡々と返した。
「内部じゃないなら、もっといい」
「迷いがあるから」
迷いがある。
それは弱さだ。
しかし同時に、人間の証明だ。
そして第2作のアルトが抱えたものでもある。
シオンは紙束を握った。
そこに残る空白。
消された名前。
消された命。
――取り戻さないといけない。
今度こそ。
そして、端末がまた小さく震えた。
Δ
一瞬だけ、表示が乱れる。
だが今回は、はっきり見えた。
台帳の空白欄に、
“何か”が書かれかけて――消えた。
文字でもない。
数字でもない。
記号。
三角形に似た揺れ。
シオンは息を止めた。
まだ誰も発動していない。
まだ誰も理解していない。
でも世界が、
“消失”と“存在”の境界で揺れている。
その揺れが――
Δの入口だ。
ノクスが最後に言った。
「行くぞ」
「次は会話じゃない」
「戦闘になる」
ミナトが笑う。
「望むところだ」
レムは震えながらも頷いた。
シオンは目を閉じ、深く息を吸った。
救済を守るために。
救済の裏側へ行く。
――消えた配給台帳を取り戻す。
そして、消えた人間を“存在したこと”に戻す。
――救済は、入口の顔をしている。
中に入った瞬間だけ、刃になる。
風が冷たい。
鉄の匂いが濃い。
夜の地下から出た一行は、崩れた高架の影を縫うように移動していた。
空は低い。
監視ドームの光が薄く滲んでいる。
あれは星じゃない。
“見られている”という照明だ。
ミナトが先を歩き、何度も立ち止まり、耳を澄ませる。
足音を数える。
風向きを読む。
古い道路の割れ目を見る。
ユウの仲間たちは、こうやって生きる。
シオンはその背中を追いながら、何度も自分に言い聞かせた。
――迷うな。
迷えば死ぬ。
でも、迷いを捨てたら“人間”も死ぬ。
その狭間を歩く。
ノクスは後ろからついてくるだけだった。
指示は少ない。
必要なときだけ、短く言う。
「止まれ」
「待て」
「今」
その三つで十分だった。
遠くに、建物が見えた。
白い。
清潔すぎる。
この崩壊世界には不自然なほど、“新品”の輪郭。
壁面には薄い発光ライン。
入口には看板。
配給照合 仮設局 / RATIONS RECONCILIATION TEMP HUB
救済拠点。
そう見える。
入口の前には、人が並んでいた。
痩せた老人。
腕の細い母親。
包帯を巻いた若者。
誰も怒っていない。
誰も叫んでいない。
むしろ、静かに安心している。
――ここに来れば救われる。
そう信じられる場所。
それが怖かった。
ミナトが苦い顔で呟く。
「……こんな場所があったのか」
ノクスは答えない。
代わりに視線を入口の奥へ送った。
入口の内側、そこには人間がいた。
制服。
整った姿勢。
端末。
冷たい目。
GENESIS CONTROLの現場要員だ。
そして、彼らの仕事は“救済”だ。
少なくとも、表向きは。
シオンは喉が鳴る。
「私、行く」
ミナトが瞬間的に掴む。
「一人で行くな」
「死ぬぞ」
シオンは首を横に振った。
「一緒だと怪しまれる」
「私は監査官の身分を使える」
ノクスが低く言った。
「監査官」
「君は“正しさ”の顔をしてる」
「それは最強の偽装だ」
最強の偽装。
救済の制服を着た時点で、
人は誰かを切り捨てても正しく見えてしまう。
シオンは息を吸って、制服の上からフードを外した。
顔を隠す必要がない。
むしろ、見せた方がいい。
正しさの顔で。
善意の顔で。
救済の顔で。
彼女は入口へ歩き出す。
その背中を、ミナトが見送る。
レムが見送る。
ノクスが見送る。
そしてシオンは、自分の中に小さく誓った。
――私は“救うために入る”。
でも同時に、
――私は“消す側”の顔をして入る。
それが今の自分だ。
入口の前。
警備員が視線を上げる。
「身分証を」
シオンはポケットから薄いカードを出した。
GENESIS監査部の古い認証キー。
期限は切れているはずなのに――
それでもまだ、通る可能性がある。
管理は更新されても、
管理の穴はすぐには塞がらない。
シオンがカードをかざす。
端末が短く鳴った。
ピ――
画面に文字が出る。
ACCESS:LIMITED
ROLE:OBSERVER / OBSERVATION AUDITOR
通った。
しかし同時に、
警備員の目が少しだけ鋭くなる。
「監査官……?」
「ここは現場だ。上の許可は――」
シオンは言葉を重ねない。
最も危険な武器を使う。
“静かな圧”だ。
「緊急案件」
「あなたの上司に繋いで」
警備員が迷う。
迷いは、制度側の弱点だ。
制度の人間は、責任を嫌う。
責任を避けるために、命令に従う。
だからこそ、制度は強い。
警備員は通信を繋いだ。
数秒後、端末から声がする。
「……監査官?識別番号を言え」
シオンの胸が跳ねる。
本当なら、言える番号はもう無い。
でも、彼女は知っていた。
制度の言葉は、“意味”より“形式”を優先する。
だから――形式だけを渡せばいい。
「監査コード:SION-07」
存在しない番号を、存在する声で言う。
沈黙。
数秒。
その沈黙が、最も長かった。
そして返ってきた。
「……入れ」
「ただし、記録は残すな」
「現場の混乱を拡大するな」
記録は残すな。
その言葉で、確信した。
――ここは何かを隠している。
――救済を、綺麗に見せるために。
シオンは静かに中へ入った。
空気が変わる。
外は崩壊世界。
中は白い廊下。
薬品の匂い。
整備された照明。
そして何より――
音が少ない。
人間の声が少ない。
受付の奥、長い廊下の先に“照合室”がある。
そこに台帳の本物がある可能性が高い。
シオンは、歩きながら壁の端末を確認する。
ログの流れ。
配給番号。
登録数。
そこに不自然な部分があった。
配給は確かに行われている。
しかし、受領者名がすべて“記号化”されている。
数字でもない。
文字でもない。
ただのID。
そして、そのIDが途中から消える。
まるで――
受領した人間が、途中から“存在しなくなった”ように。
廊下の角を曲がる。
そこに、一人の職員が立っていた。
若い女。
目が疲れている。
制服は整っているが、心が整っていない。
その胸の名札には――
LILITH / リリス
シオンは息を止めた。
第1幕の流れで出てきた“登録局員・リリス”。
善意の登録が怖いと分かる存在。
彼女が、ここにいる。
リリスはシオンを見て、小さく会釈した。
「監査官さま」
「現場は今、混乱しています」
「あなたの監査が入ると、救済が遅れます」
救済が遅れる。
正論だった。
正しい。
優しい。
現場の人間が言うべき言葉だ。
でも――
その“正しさ”が怖い。
シオンは穏やかに言った。
「救済の遅れは望んでいない」
「私は確認に来ただけ」
リリスは少しだけ笑った。
「確認だけなら、照合室へは入れません」
「照合室は誤差を処理する場所です」
誤差を処理する場所。
シオンの背中が冷える。
誤差とは、評価不能領域。
ログに残らない生存。
消える人間。
“処理する”という言葉の中に、
命が含まれている。
シオンは質問を変えた。
「配給台帳の原本はどこ?」
「紙の記録」
リリスの顔が固まる。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
「紙は……不要です」
「ログで十分です」
不要。
つまり、紙は邪魔だ。
紙があると、消せない。
書き換えられない。
真実が残る。
シオンはリリスに一歩近づいた。
声を低くする。
「リリス」
「あなたはここで、何人の“受領者名が消える瞬間”を見た?」
リリスの瞳が揺れた。
恐怖。
罪悪感。
そして――救済の疲労。
彼女はゆっくり息を吐く。
「……監査官さま」
「あなたは、何を知りたいんですか?」
シオンは答える。
「消える理由」
「消える手順」
「消える先」
リリスは小さく首を振った。
「……理由は、救済です」
「手順は、照合です」
「消える先は……知りません」
知りません。
本当に知らない。
あるいは知っていても、知れない。
制度の末端は、命令の全体像を与えられない。
それでも、“手”は動かしてしまう。
リリスは続ける。
「ここは守っているんです」
「壁外の人たちを」
「救えるだけ救うために……」
シオンの胸が痛む。
悪役じゃない。
敵ではない。
彼女は救済者だ。
だからこそ、怖い。
救済者が、消失を正当化できてしまう。
リリスは小さく言った。
「登録すれば保護される」
「登録しなければ、野垂れ死にする」
それも正しい。
正しすぎる。
シオンは気づく。
――善意が制度になる瞬間。
――第2幕の入口が、ここにある。
リリスは最後に付け足す。
「だから……」
「“空白”になる人が出ても仕方がないんです」
「全員は無理なんです」
その言葉が、夜の市場と重なった。
全員は無理。
扉は閉じる。
救済は欠落を抱える。
でも、ここは違う。
夜の市場は現場の限界だった。
ここは制度の選別だ。
足りないから切るのではなく、
綺麗に見せるために消す。
同じ“無理”でも、残酷の種類が違う。
シオンは静かに言った。
「私が見たいのは台帳じゃない」
「“空白”になった人間だ」
リリスの目が潤む。
「……あなたは危険です」
「その正しさは、現場を壊します」
シオンは返した。
「壊すべき現場もある」
「救済のために」
その時――
照合室の奥から、電子音が鳴った。
ピ、ピ、ピ。
何かが起動した。
そして、リリスの端末が震える。
彼女の顔色が変わる。
「……照合開始」
「今日の誤差処理が始まる」
誤差処理。
つまり、消失が始まる。
シオンの端末も震えた。
Δ
画面が一瞬だけ乱れ、
シオンの視界が揺れた。
廊下の照明が伸びる。
床の線が歪む。
まるで現実が“薄くなる”。
誰かが、どこかで穴を開けた。
“ユウの影”か。
“アルトの残した判断”か。
それとも――
自分たちの異常値が、重なってきたのか。
シオンは決めた。
今だ。
彼女はリリスに、最後の問いを投げる。
「リリス」
「あなたは救済の側にいるの?」
「それとも消失の側にいるの?」
リリスは唇を噛んだ。
そして、答えた。
「……分からない」
「でも、私は……誰かを死なせたくない」
その答えが、救済者だった。
善意だった。
だから――
シオンはここで、彼女を敵にしないと決めた。
「じゃあ協力して」
「照合室の扉を開けて」
リリスの目が揺れる。
拒否すれば、命令に従ったまま。
協力すれば、制度から切られる。
どちらも地獄だ。
それでもリリスは、震える指でカードキーを取り出した。
「……一回だけ」
「開けたら、もう戻れません」
シオンは頷く。
「戻らない」
扉の前。
カードキー。
電子ロック解除。
ガチャン――。
開いた。
中から吹き出す冷たい空気。
金属の匂い。
そして――
人の気配がない。
救済の部屋なのに、人間がいない。
照合室には、巨大な端末群が並んでいた。
中央には、ひとつのデータ柱。
その前に、紙の束が置かれている。
台帳原本。
シオンは息を呑んだ。
目の前に答えがある。
だがその瞬間、背後で警報が鳴った。
――侵入検知。
リリスが叫ぶ。
「監査官さま!早く!」
「ここにいるのがバレたら……!」
シオンは台帳に手を伸ばした。
そのとき、照合端末の画面に表示が走る。
RATIONS RECONCILIATION EXECUTE
REMOVE:UNNECESSARY EXISTENCE
TARGET:BLANK ID 24
必要のない存在を削除。
その一文が、最悪だった。
救済の名で、命を削除する。
――ここは救済拠点じゃない。
――消失工場だ。
シオンの端末が、激しく震えた。
Δ
画面に一瞬だけ、三角形の記号が走る。
そして、照合端末のログが一瞬だけ欠けた。
ほんの0.1秒。
でも確かに。
“消せないはずのログ”が、消えた。
シオンは震えながら、台帳原本を抱えた。
「行く!」
ここから先は、逃走戦だ。
――奪うのは物資じゃない。
“存在した証拠”だ。
警報は、建物全体を震わせた。
赤い光が廊下を染め、白い壁が血の色に変わる。
ピ、ピ、ピ――
“救済拠点”の音じゃない。
“排除施設”の音だ。
シオンは台帳原本を抱えたまま走った。
紙束が重い。
命の重さだった。
背後でリリスが息を切らしている。
走り慣れていない。
それでも必死に追ってくる。
「待って……!」
「私、ここから出たら……終わりなんです!」
シオンは走りながら振り向いた。
「終わりじゃない」
「生きれば“始まり”になる」
言い切った瞬間、シオン自身の胸が震えた。
自分が、こんな言葉を言える人間だったのか。
アルトの言葉が、ここに混ざっている気がした。
――残す判断。
そして廊下の角を曲がった瞬間、
前方に影が立つ。
制服。
武装。
無表情。
GENESIS CONTROLの警備ユニット。
その肩には、低い文字が刻まれていた。
CORRECTION / 是正
是正。
間違いを正す。
制度の名で、人間を消す。
警備員が淡々と告げる。
「監査官、識別不能」
「侵入者と判定」
「回収対象を確認」
回収対象――台帳のことだ。
いや、台帳に書かれている“空白”の命のことだ。
シオンは一歩も退かなかった。
「私が監査官だ」
「止まって」
警備ユニットは首を傾げもしない。
「命令の優先順位:是正プロトコル」
「監査権限:無効」
無効。
制度は、必要なときだけ“権限”を無効化する。
都合が悪ければ、正しさを切る。
その瞬間、シオンの背中に、恐怖ではなく怒りが湧いた。
――正しさってなんだ。
――救済ってなんだ。
警備ユニットが腕を上げた。
銃口。
照準。
迷いがない。
リリスが息を呑む。
「撃つ気……!」
シオンは台帳を抱えたまま、反射的に身を翻した。
そのとき――
天井の通気口が爆ぜた。
ガンッ!!
金属片が散る。
粉塵が舞う。
白い廊下が一瞬で崩壊世界の色になる。
そこから落ちてきた影が二つ。
ひとつは、迷いのない動き。
ひとつは、夜に溶ける動き。
ミナトとノクスだった。
ミナトが着地と同時に叫ぶ。
「シオン!!!」
「取ったか!」
シオンは息を切らしながら台帳を掲げた。
「取った!!」
ミナトが笑った。
その笑いは戦場のものだった。
「よし!!」
ノクスは笑わない。
視線だけで状況を読む。
「出口は?」
「封鎖される」
シオンが答える。
「正面は無理!」
「裏の搬入口に――」
言い終わる前に、警備ユニットが動いた。
速い。
人間じゃない。
是正執行。
抹消処理。
ミナトが前に出た。
「来い!!」
彼は銃を撃たない。
刃を抜いた。
廃材を削った短剣。
ユウの仲間が使う、“拾った武器”。
金属音。
ガキン――!!
ミナトの刃が警備ユニットの腕に当たる。
火花が散る。
人間の戦い方じゃない。
警備ユニットは痛がらない。
ただ、処理を続ける。
ノクスが静かに投げる。
小さな球体。
煙幕。
シューッと黒い煙が広がり、視界を潰す。
この世界の夜が、廊下の中に流れ込む。
ノクスが低く言った。
「動け」
レムが奥から走ってきた。
震えた目をしているのに、足だけは止まらない。
「シオン!!」
「無事!?」
「無事!」
シオンは答えながら、リリスの手を引いた。
「この人も連れていく!」
「リリス!」
ミナトが一瞬だけ眉を上げた。
「……管理局の人間か?」
リリスが怯えた目で見上げる。
「私は……私は……」
シオンが言い切る。
「救済側の人だ」
「ただ、それが制度に切られるだけ」
ノクスは短く言う。
「連れて行け」
「迷えば死ぬ」
その言葉が冷たいのに、優しかった。
迷いを切れ、と言っているのではない。
迷いを抱えたまま走れ、と言っている。
四人は煙の中を突っ切った。
だが――
出口はすでに塞がれていた。
鉄のシャッターが降りている。
赤いランプ。
封鎖。
ミナトが舌打ちする。
「クソ……!」
ノクスが静かに端末を取り出す。
彼の端末は、夜のネットワークを繋ぐ。
だがここは監視が濃い。
「通信が死ぬ」
「遮断が始まってる」
遮断。
第2幕の匂いが濃くなる。
シオンは台帳を抱えたまま、背中で壁を感じた。
逃げ道がない。
その時、警備ユニットが煙を突き抜けて現れた。
白い影。
赤い照準。
そして淡々と告げる。
「回収」
「消失対象を回収」
次の瞬間――
床が震えた。
いや、床じゃない。
空気そのものが震えた。
視界が一瞬だけ歪む。
照明が揺れ、壁の線が伸びる。
金属が鳴く。
ギィ――……と、嫌な音。
シオンの端末が震える。
Δ
ミナトの端末も震える。
Δ
レムの首のあたりにぶら下がっていた古いタグが、微かに光った。
Δ
三人共通。
世界が“同期”した。
リリスだけが、その揺れを見て怯える。
「なに……これ……」
ノクスは目を細めた。
彼の端末には、何も出ていない。
ノクスは“Δの外”にいる。
彼は夜だ。
彼は制度外だ。
彼は観測されない側だ。
だから、Δはまだ彼を選ばない。
ミナトが叫ぶ。
「今の、何だ!?」
シオンは答えられない。
答えが分からない。
だが確信だけはあった。
――これは能力じゃない。
――まだ開花じゃない。
――ただの“前兆”だ。
警備ユニットの動きが一瞬止まった。
ほんの0.2秒。
その0.2秒が、命を分ける。
ミナトが即座に踏み込む。
刃を突き立て、ユニットの関節を抉る。
「今だ!!」
ノクスが床に何かを投げた。
衝撃ではない。
磁気の乱れ。
ブツッと照明が落ちる。
完全な暗闇。
そこに夜が勝つ。
ノクスの声だけが響く。
「右」
「搬入口の手動レバーがある」
ミナトが走る。
レムが続く。
シオンはリリスを引き、台帳を抱えたまま走った。
搬入口。
手動レバー。
ミナトが全体重をかけて引き下げる。
ガガガガ……!
鉄が軋み、
シャッターが少しだけ開いた。
狭い。
でも通れる。
「行け!!」
ノクスが最後尾を押さえながら、警備ユニットの影を見ていた。
白い輪郭が迫る。
だがその瞬間――
シオンの視界に、“空白”が走る。
空白の中に、台帳のページが浮かぶ。
受領印。
消された名前。
空白。
そして、頭の中に言葉が落ちた。
――存在を消す手順。
――配給照合処理。
――記録外行動検知。
それは第2作のアルトが扱った語彙だった。
管理の内部の言葉だった。
でも今、シオンはそれを“理解”ではなく“感覚”で掴んでいる。
それが最も異常だった。
理解していないのに、分かる。
数字じゃないのに、掴める。
それは評価不能領域の感覚。
ユウが残した“拾い方”。
そしてアルトが残した“残し方”。
二人の思想が、シオンの中で衝突している。
衝突の火花が――Δの揺れを生む。
シオンは歯を食いしばって叫んだ。
「今のうちに抜ける!!」
「この揺れは長く続かない!!」
全員がシャッターの隙間を抜ける。
最後にノクスが滑り込むように外へ出た瞬間、
シャッターが完全に閉まった。
ガンッ!!と衝撃。
中から警備ユニットが叩いた音。
だがもう、届かない。
四人は崩れた搬出口の先、瓦礫の影に転がり込む。
息を切らす。
空が見える。
監視ドームの光が遠い。
生きている。
ミナトが笑い、台帳を見た。
「……それが本物か」
シオンは頷いた。
「本物」
「でも――欠落がある」
リリスが震えた声で言う。
「欠落……?」
シオンは台帳を開き、焦げたページを示した。
そこだけ、剥ぎ取られている。
意図的に。
「“消える先”の記録が抜かれてる」
「……ここだけ」
ノクスが低く言う。
「つまり、ここから先が本命だ」
レムが呟く。
「俺たちは……どこへ行く?」
シオンは台帳を閉じた。
紙束の重さを、抱きしめるように胸に押し当てる。
「境界の奥」
「消失が起きてる場所の中心」
「そして――」
彼女はリリスを見る。
「あなたは、もう戻れない」
リリスは泣きそうな目で笑った。
「……分かってます」
「でも、戻ったら私は“消す側”に戻る」
「それだけは……嫌です」
ミナトが頷く。
「なら、来い」
「ユウの仲間として迎える」
その言葉に、シオンは胸が痛くなった。
ユウはここにいない。
でも確かに、彼の痕跡は生きている。
拾う側。
拾われなかった未来を繋ぐ側。
その輪の中に、
管理局の人間が一人混ざった。
それが今回の勝利だった。
戦いに勝ったのではない。
“存在を残した”ことに勝った。
その時――
遠い空の監視光が、一瞬だけ揺れた。
ただの気のせいかもしれない。
でも、シオンの端末には確かに残った。
Δ / anomaly recorded
SYNC VALUE:3
三人の異常値が同期した。
能力ではない。
まだ発動ではない。
でも世界が、
三人を一つの座標に固定し始めている。
シオンは目を閉じた。
この揺れは、4作目に繋がる。
必ず。
そして彼女は、静かに言った。
「これで終わらない」
「ここからが始まりだ」
ノクスが短く返す。
「そうだ」
「救済の顔の裏側を、もっと見せられる」
ミナトが笑う。
「なら、走るしかないな」
レムは震えながらも頷いた。
「……俺も、走る」
「消されないために」
四人は立ち上がる。
瓦礫の街へ戻る。
背中には台帳。
胸には空白。
そして足元に、境界線。
――BORDER REMAINS。
この名がまだ呼ばれていないのに、
もうその形になり始めている。




