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第4章:夜の仲介者(ノクス)

――夜は、正しさを持たない。持っているのは“代償”だけだ。


瓦礫の駅を抜けた先は、地上だった。


いや――

地上“だった場所”。


崩壊した高架道路の下。

折れた信号機。

骨のように折れ曲がった鉄骨。

土埃と、煤と、錆の匂い。


夜は黒くない。

この世界では、昼も夜も灰色だった。

光はあるのに、色がない。


その中で、ノクスだけが異様に鮮明に見えた。


暗いコート。

白い手袋。

そして歩き方に、迷いがない。


逃げる時、人は“必死”になる。

必死になると、“余裕”が消える。


だがノクスは違う。


逃げているのに、追われていないみたいに歩く。


それがこの男の怖さだった。


「止まれ」

ノクスが唐突に言った。


ミナトが即座に止まり、振り返る。


「何だ」

「追跡はまだ来る」


ノクスは手を上げ、空間を制した。

夜の人間たちも、その一動作で止まる。

信号みたいに。


シオンはその瞬間、理解した。


この男は“戦わない”のではない。

“従わせる”のだ。


権限で。

恐怖で。

流通で。


ノクスは低い声で言う。


「ここから先は、俺の領域だ」

「勝手な正義を振りかざすなら帰れ」


ミナトが言い返す。


「帰れないから来た」


ノクスは笑う。


「なら覚えろ」

「夜のルールは、救済じゃない」

「取引だ」


取引。


それは第3章でシオンが飲み込んだ言葉。

だが、飲み込んだだけで理解はしていない。


理解するには、痛みが必要だ。


ノクスは歩き出し、瓦礫の街を案内するように進む。

その後ろを、ミナト、レム、シオンが続いた。


少し離れた位置に夜の人間が数人つく。

護衛ではない。

監視でもない。


“管理”だ。


夜の管理。


シオンは気づく。


管理局の管理は、数字。

夜の管理は、距離。


距離がある者は信用されない。

距離が近い者は巻き込まれる。


ノクスはふいに言った。


「監査官」

「君は“救う”って言ったな」


シオンは頷く。


「ええ」


「どうやって?」

ノクスが問う。

「言葉で?」


シオンは胸に刺さる。


自分は観測監査官だ。

言葉で世界を説明できる。

記録できる。

判断できる。


でも、

救えるのか?


現場で?


ノクスは言った。


「夜には“救う”って言葉はない」

「あるのは“残す”だ」


残す。


アルトの言葉と重なる。

ユウの背中にも重なる。


でも違う。


アルトの残すは、判断。

ユウの残すは、拾う。

ノクスの残すは、流通。


残すために、切り捨てる。


残すために、選ぶ。


それが夜だ。


レムが小声で言った。


「……俺、夜にいると気持ち悪い」


ノクスは振り返らずに言う。


「正常だ」

「夜は、人間が人間を測る場所だ」


測る。


まるでGENESISの評価値みたいな言葉。

なのに、それを言っているのは管理外の人間だ。


シオンは少しだけ腹が立った。


「あなたたちは管理を嫌っているんじゃないの?」

シオンが言う。

「なのに、同じことをしてる」


ノクスが止まった。

ゆっくり振り返る。


目が、笑っていない。


「嫌ってない」

ノクスは言った。

「便利だからな」


その答えに、シオンは言葉を失った。


便利。


それは正直な言葉だ。

管理は冷酷だけど、合理的で、便利だった。


だから世界は受け入れた。

だから崩壊後も続いた。


ノクスは続ける。


「夜は管理を憎む理由がない」

「管理がなければ、俺たちは“敵”がいなくなる」


「敵がいなくなる?」

ミナトが低い声で聞く。


ノクスは淡々と答える。


「敵がいないと、人は戦えない」

「戦えないと、秩序が保てない」


その言葉が、シオンの背中に冷気を落とした。


この男は、戦争を肯定しているわけじゃない。

ただ、世界の構造を理解している。


そしてそれを利用している。


ノクスは進み、地下へ続く階段を降りていった。

鉄扉。

暗い通路。

しかし、途中から光が増える。


街灯じゃない。

電力供給がある。


つまり、ここには“資源”がある。


地下の空間に入った瞬間、空気が変わった。


油の匂い。

汗の匂い。

食料の匂い。


生きている匂い。


そこは“夜の市場”だった。


人がいる。

子供もいる。

武器商もいる。

医療係もいる。

回収屋もいる。


秩序がある。

でも警察はいない。


それなのに暴動が起きていない。


なぜ?


ノクスがいるからだ。


ノクスという存在が、抑止力になっている。


シオンは見回した。


ここは管理局の街とは違う。


管理局の街は整っている。

整っているから、弱い。

崩れると一気に崩壊する。


夜の街は、最初から崩れている。

だから、崩れない。


ノクスが言った。


「ここが夜の連合だ」

「君が守りたい“人間”は、だいたいここにいる」


シオンの胸が痛んだ。


守りたい人間。

評価されない人間。

切り捨てられる人間。

ログに残らない人間。


……それは、昔のユウの世界だ。


レムが震える声で言った。


「……俺みたいなの、いっぱいいる」


「いる」

ミナトが言った。

「だからユウは消えた」


シオンは息を呑んだ。


ユウは英雄じゃない。

革命家じゃない。


でも、

拾うことだけはやめなかった。


その結果、世界が増殖した。

管理不能な協力関係が増えた。

評価不能領域ができた。


そして今――

その領域が“夜の市場”として形になっている。


ノクスが冷たく言う。


「ユウのやり方は美しい」

「だが遅い」


シオンは反射的に聞いた。


「ならあなたのやり方は?」


ノクスは微笑み、言った。


「早い」

「だから汚い」


その答えは、あまりにも正確だった。


ノクスはシオンを市場の奥へ連れていく。

そこには小さな部屋があった。

扉の前に夜の人間が二人、黙って立っている。


ノクスが合図すると、扉が開いた。


中に入ると、机と椅子、そして壁一面の地図。

地下ルート。

地上の監視範囲。

封鎖線の配置。


シオンは息を止めた。


これは――

管理局の地図と同じだ。


いや、違う。


管理局の地図は“理想”。

夜の地図は“現実”。


ノクスは机の上に端末を置いた。

そして言った。


「さて監査官」

「君はここで、救済を“商品”として扱えるか?」


シオンは息を詰める。


救済を商品として?


ノクスは続ける。


「人を助けるには、食料がいる」

「食料には供給がいる」

「供給には武器がいる」

「武器には情報がいる」


そして最後に言った。


「情報には、君がいる」


シオンの目が揺れた。


「私を売れと言うの?」


ノクスは首を振る。


「売るんじゃない」

「君は“値段を付ける側”だ」


値段を付ける側。


シオンは息を飲む。


それは監査官の仕事に似ている。

評価値。

生存可能性。

管理コスト。

リスク。


――同じだ。


だからこそ怖い。


シオンは問い返した。


「それをやったら、私は管理局と同じになる」


ノクスは短く言う。


「同じだ」

「君はもう、同じ場所にいる」


そしてノクスは、初めて“優しい声”を出した。


「違いはひとつ」

「君は、泣ける」


シオンの喉が詰まる。


管理局の評価は泣かない。

合理は泣かない。

数字は泣かない。


でもシオンは泣ける。

泣けるから救いたい。

救いたいから苦しい。


それは弱さだ。

でも、物語に必要な強さでもある。


その時、扉の外が騒がしくなった。


誰かが叫ぶ。


「ノクス!上から来た!」

「監視ドームが封鎖線を拡張してる!」


ノクスの目が細くなる。


「……第2幕が早いな」


シオンは息を呑む。


封鎖線。


第1幕の“準備”だったはずが、

もう“実行”が始まろうとしている。


ミナトが地図を見て言う。


「逃げ道が消える」

「ユウのルートが死ぬ」


ユウの痕跡が潰される。


その言葉に、シオンの背中が冷たくなる。


ユウ本人はいない。

でもユウの残した道が消える。


それは“拾う未来”が消えることと同じだ。


ノクスは言った。


「だから夜は急ぐ」

「君が泣く暇はない」


その瞬間、

シオンの端末が勝手に震えた。


画面が暗転し、ノイズが走る。


Δ


まただ。


しかも今度は、“ログ”が変だ。

存在しないフレーム。

存在しない人物の影。


シオンは息を呑む。


そこに映ったのは――

ほんの一瞬だけ。


誰かが、瓦礫の上に立っている姿。

フード。

背中。

振り返らない。


でも分かる。


――拾う側。


ユウの影。


ノクスも見たらしい。

静かに呟く。


「……彼のルートが、生きてる」


ミナトが叫ぶ。


「今だ!」

「消える前に通す!」


シオンは端末を握りしめた。


Δが、ただの予兆じゃなくなる。

世界が揺れている。

現実がズレている。


そしてその中心に、

自分たちがいる。


ノクスが言った。


「観測監査官」

「君がこの夜で生きるなら、最初の条件はひとつだ」


「何?」

シオンが聞く。


ノクスは答えた。


「救いたい相手を、選べ」

「全員は無理だ」


その一言で、

シオンの心が砕けそうになった。


全員を救いたい。

それが理想だった。


でも、ここは崩壊後だ。


理想を持つ余裕がない世界。


ノクスは冷たく言う。


「選べないなら」

「君は救えない」


その言葉が、

シオンを真正面から殴った。


――第4章は、ここから“本当の地獄”に入る。


――救済は、善意の顔をして暴力になる。


ノクスの部屋には、地図があった。

数字じゃない。

人の足跡で引かれた線。


どの道が生きていて、

どの道が死んでいて、

どこで人が消えているか。


それは管理局の“未来予測”より、ずっと正確だった。


ミナトが地図を睨みつける。


「封鎖線の拡張が早すぎる」

「予定より三日早い」


ノクスは机に指先を置き、淡々と言った。


「予定なんて存在しない」

「管理は“遅れた方”が悪い」


シオンは息を呑んだ。


正論だ。

そして恐ろしい正論だ。


遅れた方が悪い。

追いつけない者は切り捨てられる。


それは崩壊後の世界のルール。

管理が悪いわけじゃない。

世界がそうなっている。


ミナトが低い声で言う。


「お前、嬉しそうだな」

「封鎖が進めば、夜の市場が儲かるからか?」


ノクスは首を振った。


「儲かるのは副産物だ」

「俺が欲しいのは“支配”だ」


ミナトの目が鋭くなる。

シオンは息を止めた。


ノクスは続ける。


「人が生き残るには、誰かが線を引く必要がある」

「ここまでが生存だ」

「ここから先は死だ」


その線を引くのが、ノクスだ。


管理局の評価値と同じ。

ただ、数字ではなく“夜の判断”で。


シオンは気づく。


この男は敵ではない。

でも味方でもない。


ノクスは“第三の暴力”だ。

制度の暴力でもない。

無秩序の暴力でもない。


生存の暴力。


レムが震えながら言う。


「……俺、ここでも評価されるの?」


ノクスはレムを見た。

表情は柔らかい。

けれど声は硬い。


「される」

「評価されなければ、守られない」


レムが目を伏せる。


シオンは胸が痛んだ。


評価されない世界が欲しかった。

評価不能領域が残る世界を望んだ。


なのにここでは、

評価不能領域すら“取引”の材料になる。


――希望が、商品になる。


それが第2作の終わりで生まれた余白の答えなのかもしれない。


ノクスは地図を指した。


「封鎖線はここ」

「監視ドームはここ」

「そして、配給台帳の消失地点は……ここだ」


シオンが顔を上げる。


配給台帳?


第5章の“消えた配給台帳”の火種が、すでに出ている。


ミナトが唸る。


「……ここは“配られる側”の端だ」

「いつも足りない場所」


ノクスは頷く。


「そうだ」

「足りない場所には、流通の歪みが出る」


シオンが問いかけた。


「配られたのに記録がない、って噂の……」


ノクスは言った。


「噂じゃない」

「事実だ」


その瞬間、シオンの背中が冷えた。


事実。


配給台帳は管理の根幹だ。

物資がどこへ行ったか。

誰が生き残るか。


それが“消える”。


これはただの不正じゃない。


制度が、自分の血管を見失うことだ。


ノクスはさらに言った。


「そして、台帳が消えた場所では」

「必ず“非ログ救助”が起きる」


シオンは息を呑む。


救われたのに記録がない。

配られたのに記録がない。


同じ矛盾。


同じ穴。


そしてその穴が――

“境界の未来”を作ってしまう。


ミナトが静かに言う。


「ユウがいた時も、似たことがあった」


ノクスは笑う。


「そう」

「ユウは“穴”だった」


穴。


それは褒め言葉じゃない。

でも否定でもない。


管理の中に空いた穴。

そこから漏れた生存。

そこから増えた誤差。


ユウは世界を変えない。

ただ、拾う。

拾った結果、穴が広がった。


そしてアルトはその穴を消さず、残した。


残した穴が今、

夜の市場になり、

取引の舞台になり、

封鎖の標的になっている。


全部、繋がっている。


シオンが小さく呟いた。


「……私たちのせいなんだ」


ミナトが即座に言う。


「違う」

「世界のせいだ」


ノクスが静かに言う。


「どっちも正しい」

「だから最悪だ」


その通りだった。


正しいことが重なるほど、救いは消える。


ノクスは机の引き出しから、薄いメモリチップを取り出した。

そしてシオンに投げる。


「持て」


シオンは受け取った。

軽い。

でも重い。


「これは?」


ノクスは答える。


「登録局の外部鍵」

「通称――“偽装登録”」


ミナトが怒鳴った。


「ふざけるな!」

「そんなもの使ったら、追跡が来る!」


ノクスは冷たく返した。


「追跡はすでに来る」

「なら、先に使え」


シオンは息を止めた。


偽装登録。


登録すれば保護される。

それは制度の善意の顔。


だが登録は、拘束にもなる。

追跡にもなる。


それを夜が使う。


つまり夜は、制度を“武器化”できる。


ノクスは言った。


「監査官、君は制度の人間だ」

「だから君は“鍵”を使える」


シオンが震える声で言う。


「でも、そんなことをしたら……」


ノクスが遮った。


「君が救いたいのは誰だ?」

「全員じゃない」

「選べ」


またその言葉だ。


選べ。


シオンはレムを見た。

レムは唇を噛んでいる。

幼いのに、大人みたいに痛みを堪えている。


ミナトは焦っている。

怒りと恐怖が混ざっている。


ノクスは淡々としている。

救済を感情でしない。


だから強い。

だから汚い。


シオンは手の中のチップを握りしめた。


その時、部屋の外で銃声が鳴った。


一発。

二発。


叫び声。


夜の市場がざわめく。


扉が開き、夜の人間が飛び込んできた。


「侵入だ!」

「追跡ユニットが来た!」

「監視ドームの誘導も入ってる!」


ミナトが歯を食いしばる。


「来たか……!」


ノクスは一切動揺せず、椅子から立つ。


「分かった」

「市場を閉じる」


市場を閉じる。


それは避難させるということだ。

でも同時に――

切り捨てるということでもある。


市場全員は守れない。

通路は狭い。

物資も足りない。


生き残りの選別が始まる。


シオンの心臓が跳ねた。


「待って!」

シオンが叫ぶ。

「ここには子供が――」


ノクスが振り返る。

目が冷たい。


「だから言った」

「選べ」


シオンは言葉を失った。


この男は間違ってない。

でも、許せない。


なのに――

ノクスがいなければ全員死ぬ。


救済の地獄だ。


ミナトが叫んだ。


「シオン!」

「お前が動け!」

「監査官なら判断できるだろ!」


判断。


アルトの言葉が胸を刺す。


――残す判断。


シオンは目を閉じた。

その瞬間、端末が勝手に光った。


Δ


視界の端が暗転し、

一瞬だけ、世界が“歪む”。


音が遅れて聞こえる。

銃声の残響が伸びる。

息が重くなる。


そして、

空間の端に“存在しない影”が見えた。


フードの男。


背中。


拾う側。


ユウの影。


まただ。


シオンは唇を震わせた。


「……いる」

「ユウが、まだいる……」


ミナトが息を止める。


ノクスが小さく笑う。


「影だけな」

「本人は現れない」


それがユウらしい。

英雄にならない。

直接は交わらない。

でも世界に痕跡を残す。


その痕跡が、今この市場を生かしている。


そして、今それが消されようとしている。


ノクスは淡々と指示を出した。


「出口Aを開けろ」

「出口Bは閉鎖」

「荷は置け」

「子供だけ優先」


シオンは息を呑んだ。


子供だけ優先。


夜にも善意がある。

ただし、それは制度の善意じゃない。


“残すための善意”だ。


ミナトが言った。


「ノクス……」

「お前、それでも人間か」


ノクスは振り返らないまま言った。


「人間だからやる」

「機械なら、全員切る」


その言葉が、シオンの胸に刺さった。


管理局は合理で切る。

夜は生存で切る。


どちらも、人間の作った刃だ。


シオンは決断した。


チップを握り、端末を開く。


「偽装登録を使う」

シオンは言った。

「追跡を誘導してでも、出口を作る」


ミナトが叫ぶ。


「正気か!」

「そんなことしたら――」


「分かってる!」

シオンが叫び返す。

「でも、何もしなければ全員消える!」


ノクスが初めてシオンを見た。

それは評価の目だった。


「いい」

「君は夜に来た」


シオンは息を吐き、

偽装登録を起動した。


――ログが生成される。


存在しないはずの救済ログ。

存在しないはずの配給記録。

存在しないはずの登録ID。


世界が一瞬、震えた。


Δ


端末の画面に、また記号が走る。

今度は“揺れ”じゃない。


“反応”だ。


追跡ユニットが通路の奥で止まる。

進路が変わる。


誘導された。


シオンは震える声で呟いた。


「……動いた」


ミナトが目を見開く。


「お前……何をした……」


ノクスが淡々と言う。


「救済を武器にした」

「そして制度を欺いた」


シオンは泣きそうだった。


救うために、汚れた。

救うために、制度を壊した。


でも破壊ではない。


利用だ。


アルトの思想に近い。

壊さないで勝つ。


ユウの思想にも近い。

拾うために手段を選ばない。


そしてそれを繋ぐのが――

シオンの役目だ。


銃声が近づく。


追跡ユニットが市場の入口まで来る。


夜の人間たちが構える。


ノクスが静かに言った。


「ここから先は、代償の時間だ」

「監査官、泣くな」

「泣く暇があるなら走れ」


シオンは歯を食いしばった。


走る。

逃げる。

守る。


救済は、戦いだ。


――第4章は、まだ終わらない。


――選別の瞬間、人は“正しさ”を失う。

それでも、生き残るために手を動かす。


銃声は近かった。

音が、壁を叩く。


夜の市場の空気が一気に薄くなった気がした。

人の呼吸が増え、汗が増え、恐怖が増える。


それでも――

暴動は起きない。


ノクスがいるからだ。


市場の奥、狭い通路の前に人が集まり始める。

子供を抱える腕。

荷物を背負う肩。

震える膝。

泣き声。


現場で見ると、“理想”は簡単に壊れる。


シオンは叫びたくなった。


「全員逃がせる!」

「逃がすべきだ!」

「救うんだ!」


でも、喉が動かなかった。


分かってしまったからだ。


この通路は狭い。

出口はひとつ。

時間は少ない。

追跡ユニットは近い。


全員は、無理だ。


――“全員を救う”は、ここでは嘘になる。


ノクスが短く命令した。


「出口A、開放」

「出口B、閉鎖」

「荷は置け」

「子供を先に通せ」


夜の人間たちが動く。

迷いがない。


迷っている時間が、命を奪う。


ミナトがノクスの前に立ちはだかった。


「出口Bはまだ使える!」

「閉じるな!」


ノクスは視線を上げない。

ただ言った。


「Bは監視ドームに見られてる」

「開けた瞬間、全員まとめて狩られる」


ミナトが歯を食いしばる。


「じゃあ、見られないようにする方法を――」


「ない」

ノクスの声は、刃だった。

「世界に都合のいい奇跡はない」


その瞬間、シオンの端末がまた震えた。


Δ


一瞬、映像が乱れる。

銃声が遠くなる。

世界がズレる。


そして端末のログに、あり得ない記録が走った。


UNLOGGED ACTION DETECTED

SOURCE:UNKNOWN

FRAME:NO DATA


“誰かの行動”がある。

でも、誰かが分からない。


シオンは確信する。


ユウの影――

拾う側が、まだどこかで動いている。


本人は現れない。

でも世界に穴を開け続けている。


その穴が、今この夜を生かしている。


しかし、ノクスはそれを“希望”と呼ばない。

呼ぶなら“材料”だ。


ノクスは淡々と続ける。


「走れ」

「泣くな」

「残せ」


“残せ”。


その言葉が、アルトの影と重なった。


アルトは残すために制度を壊さなかった。

ノクスは残すために人を切る。


同じ言葉でも、意味が違う。


ミナトが叫ぶ。


「シオン!お前の偽装登録、追跡をずらせるのか!」


シオンは頷く。


「数分なら……!」

「でもずっとは無理!」


その時だった。


市場の入口付近で、大きな爆音が響いた。


鉄扉が吹き飛ぶ。


白い光。


そして――

“無音の足音”。


追跡ユニット。


GENESISの治安維持機構。

装甲。

冷却された思考。

人間の命を“数字”として処理する存在。


だが、恐ろしいのは機械ではない。


それを正しいと思ってしまえる人間の精神だ。


追跡ユニットの背後に、監視ドームの光が差し込む。

空が、死んだ目をしている。


逃げ道は閉じつつある。


夜の人間が叫ぶ。


「来たぞ!押さえろ!」


銃声。

火花。

鉄の悲鳴。


しかし追跡ユニットは止まらない。

撃たれても、倒れない。

倒れる必要がない。


――目的は殲滅ではない。

捕獲だ。


捕獲して、登録して、消す。


その瞬間、シオンは理解した。


第2幕で語られた“消える人間”。

登録された瞬間、消える現象。


これが始まりだ。


ノクスが低い声で言った。


「時間切れだ」


シオンが叫ぶ。


「まだ中に人が――!」


ノクスは振り向き、初めて怒鳴った。


「だから選べと言った!」


空気が凍った。


命令じゃない。

正論でもない。


生存の宣告だ。


ノクスは冷静に“最後の手”を打つ。


「出口A、最後の締め」

「ここから先は通すな」

「通したら、全員死ぬ」


夜の人間が震える声で返事をする。


「……ノクス、まだ……」

「まだ子供が二人……!」


シオンが息を止めた。


子供が二人。


さっき「子供優先」と言ったのに。

それでも漏れる。


完璧な救済なんてない。

救済はいつも、欠落を抱える。


ミナトが走り出そうとする。

だがノクスが手で止める。


「行くな」

「行けば、お前も消える」


ミナトは怒りで震えていた。


「俺は……!」

「ユウの仲間だ!」

「拾うって決めたんだ!」


その言葉に、シオンの胸が痛んだ。


ユウの仲間。

拾う側の人間。


その誇りは美しい。

でもこの場では、死ぬ。


ノクスは冷たい声で言う。


「ユウは“拾えないもの”を拾いに行かない」

「彼は死なない方法を知ってる」


ミナトの目が揺れる。


「……違う」

「ユウは、死ぬ時は死ぬ」


ノクスはわずかに笑った。


「だから伝説になった」


その時、通路の奥から、小さな叫び声が響いた。


「……たすけて……!」


子供の声。


シオンの身体が動いた。

理屈より早く。


一歩。


二歩。


出口へ向かう。


ミナトが叫ぶ。


「シオン!」


ノクスが低く言う。


「止まれ」


止まらなかった。


止まれなかった。


救いたいと思った瞬間、

救済は理屈を超える。


――そして、その瞬間に人は死ぬ。


追跡ユニットがシオンに照準を合わせた。


赤い光。

無感情なターゲットロック。


シオンの心臓が凍る。


終わる。


ここで終わる。


その時――


Δ


世界が、“沈んだ”。


音が消える。

光が引き伸ばされる。

空間の境界が歪む。


シオンの視界の端に、黒い影が走った。


フードの男――ではない。


もっと近い。

もっと速い。


人影が、シオンの前に割り込んだ。


誰だ?


シオンは見えない。

ただ、“拾われた感覚”だけがあった。


次の瞬間、シオンは床に叩きつけられた。


痛み。

息が詰まる。


だが、生きている。


銃声は壁に当たって火花を散らしていた。


ノクスが低く呟く。


「……クソ」

「今のは……“穴”だ」


穴。


まただ。


ユウの残した穴。

評価不能領域の穴。


それが、シオンを生かした。


だがそれは奇跡じゃない。


“誤差”だ。


ノクスはシオンを掴み、引きずるように出口へ向かわせる。


「監査官!」

「死にたいなら一人で死ね!」

「市場を巻き込むな!」


怒鳴り声は正しい。

でも、シオンは泣いていた。


涙が出るのは、生きている証拠だ。

そして生きている限り、救えなかった命が残る。


出口Aの前。

子供たちが押し込まれている。

荷物を捨てた人が、泣いている。

大人が歯を食いしばっている。


出口の向こうは暗い。

でも暗さは、生存の色だった。


ノクスが叫ぶ。


「閉じろ!」


鉄扉が下りる。


ギリギリの隙間から、最後の人が滑り込む。


そして――

閉まった。


市場の中に、声が残った。


助けて。


開けて。


置いていくな。


シオンの喉が裂けそうだった。


「……やだ……!」

「そんなの、救済じゃない……!」


ノクスは扉に背を向け、淡々と歩き出す。


「救済だ」

「救済は“残った側”が言う言葉じゃない」


その言葉が、残酷だった。


でも、真実だった。


救われた側だけが、救済を語れる。

救われなかった側は、救済を呪う。


ミナトが壁を殴った。


「……クソ……!」

「ユウなら……!」


ノクスが振り返る。


「ユウなら何だ?」

「扉を開けたか?」


ミナトが答えられない。


シオンも答えられない。


ユウなら開けたかもしれない。

でもそれは、全滅につながるかもしれない。


ユウは英雄じゃない。

だから“世界を救う”行動はしない。


拾えるなら拾う。

拾えないなら、残す。


――それがユウのルールだ。


だからこそ、

彼はここにいない。


いるのは影だけ。

穴だけ。


ノクスは静かに言った。


「拾う側の沈黙は、強い」

「だが、遅い」


そして続ける。


「今の世界は早い」

「だから、救済も早く殺しに来る」


追跡ユニットの音が遠ざかる。

彼らは市場の中を制圧し始めた。


登録。

拘束。

消失。


その未来が確定する。


シオンは震える声で言った。


「……消えるの……?」

「登録された人たちは……」


ノクスは答えない。

答えられない。


答えられないということは、

もう知っているということだ。


出口の先。

夜の地下ルートを走りながら、ミナトが呟いた。


「配給台帳……」

「消えるのは物資じゃない」


シオンが息を呑む。


「人……?」


ミナトは頷いた。


「配られたのに記録がない」

「救われたのにログがない」


その矛盾は――

“人が消えている”ことを意味する。


ノクスが低く言う。


「第5章の仕事だ」

「監査官、君は台帳を見つけろ」


「台帳を見つけて、どうするの?」

シオンが問う。


ノクスは淡々と答えた。


「証拠にする」

「そして武器にする」


武器。


救済が武器になる。

善意が制度になる。

制度が暴力になる。


それがこの世界。


シオンは泣きながら、でも言った。


「……私は、武器になりたくない」


ノクスは少しだけ優しい声で言った。


「なら、救済だけで勝て」

「できるならな」


その時、シオンの端末にまたノイズが走った。


Δ


今度は短い。

でも明確だった。


画面に、たった一行だけ残る。


Δ:CONFIRMED (UNPUBLISHED)


確定。


ただし公表されない。

内部記録だけ。


まだ“異能”じゃない。

まだ“能力”じゃない。


でも世界が、発火寸前だ。


そしてそれは、

シオンだけのログじゃない。


ミナトの端末にも同じノイズ。

レムのビーコンにも同じ揺れ。


三人の異常値が、揃い始める。


――BORDER REMAINSの前兆。


まだ結束していない。

まだ仲間じゃない。


でも、同じ“穴”を背負った者になった。


シオンは息を吸い、言った。


「……行こう」

「消えた配給台帳を見つける」

「消えた人を、戻す方法を探す」


ミナトが頷く。


「それができたら」

「ユウに近づける」


ノクスは笑った。


「近づくな」

「ユウは遠いから意味がある」


そして、最後に言った。


「だが……」

「君たち三人が揃えば、境界は壊れるかもしれない」


シオンはその言葉を否定できなかった。


壊れるのは管理か。

壊れるのは秩序か。

壊れるのは希望か。


分からない。


ただ一つだけ確かなのは――

この世界は、もう元に戻らない。


そして次の章で、

“配られたはずの命”の記録を追う。

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