第3章:境界の案内人(ミナト)
――拾われた未来は、地図に載らない。
地下通路は暗かった。
だが“暗い”というより、光を拒んでいるように感じた。
照明が無いのではない。
“照明が意味を持たない”空気がある。
湿ったコンクリート。
剥がれた配線。
壁に残る古い標識――崩壊前の言語。
そこを歩くミナトは、迷いがなかった。
まるでここが自分の体内にある血管のように。
シオンはその背中を追いながら、胸の奥が落ち着かないのを感じた。
監査官として生きてきた時間が、ここでは通用しない。
権限も。
記録も。
規定も。
ここにあるのは、命を繋ぐための“感覚”だけだ。
「……ここ、どこへ繋がってるの?」
シオンが問いかけると、ミナトは振り返らず答えた。
「境界の裏側」
「配給列の影」
「登録端末の死角」
「監視ドームが拾えない場所」
淡々と、しかし確信に満ちた声。
「でも」
シオンは息を吸う。
「あなたは、なぜ私たちを助けた」
ミナトは歩きながら言った。
「助けたんじゃない」
「拾っただけ」
――拾った。
その言葉は、シオンの胸に突き刺さった。
聞いたことがある。
世界のどこかで、同じ思想が動いていた。
拾うのは物資じゃない。未来だ。
「……拾う側の人間なの?」
シオンが言うと、ミナトは小さく笑った。
「俺は拾う側じゃない」
「拾われた側だ」
その答えは、妙に重かった。
拾う側は英雄にならない。
拾われた側も、救われたことが記録に残らない。
ここにいるのは、記録されない人間たちの“残骸”だ。
レムが横を歩きながら、低い声で呟く。
「……あんた、誰だ」
「名前、ミナトってのは本当か?」
ミナトは足を止めない。
「呼び名だ」
「登録名じゃない」
レムが小さく笑った。
どこか安心した顔。
登録名じゃない。
それだけで、この場所のルールが見える。
――制度の外で生きる者は、制度の名前を持たない。
シオンは言った。
「あなたは、境界の案内人って呼ばれてる」
「誰がそう言った?」
ミナトは少しだけ歩幅を落とした。
「夜だ」
「夜の連絡線が、そう呼んだ」
夜。
NIGHT UNION。
NIGHT RECLAIMERS。
第2作でアルトが触れた“管理外の秩序”。
「夜は敵じゃない」
ミナトは言う。
「敵は――」
言いかけて、言葉を止めた。
代わりに、壁に手を当てた。
壁が僅かに震える。
遠くで、重い機械音。
監視ドームの巡回機が動く音だ。
ミナトは低く言った。
「敵は“閉じる仕組み”だ」
閉じる仕組み。
境界を閉じる。
逃げ道を閉じる。
選択肢を閉じる。
救済が暴力に変わる瞬間は、いつも“閉じる”時だ。
ミナトは角を曲がり、細い通路を抜けた。
そこに小さな扉がある。
鉄ではなく、木の扉。
崩壊後に誰かが“付け足した”扉だ。
ミナトは合図もなく開ける。
中には、暖かい光があった。
そこは小さな空間だった。
ランタン。
毛布。
水。
薬品棚。
古い端末の残骸。
そして壁に貼られた紙片。
――手書きの地図。
線がぐちゃぐちゃで、座標はない。
だが、誰かが必死に繋いだ“道”が残っている。
シオンは一瞬、息を止めた。
「……これ、ルートマップ」
ミナトは頷いた。
「拾うための地図」
「登録されないための地図」
「消えないための地図」
シオンは地図を指差した。
「これ、誰が作ったの?」
ミナトは少し黙った。
黙った時間が、答えより多くを語る。
そして短く言った。
「……ユウの仲間たち」
ユウ。
その名前は“直接”語られないはずだった。
でも、彼の存在は痕跡として残る。
ミナトの言葉は続く。
「ユウ本人は来ない」
「来たら、全員が危ない」
「でも彼のやり方は残った」
「拾い方が残った」
「だから、ここがまだ生きてる」
――拾い方が残った。
それは思想の継承だ。
英雄の不在によって成立する伝説。
シオンは、胸の奥が苦しくなるのを感じた。
世界を変えない人間が、
世界を変えてしまった。
そしてその“誤差”は、今、制度に潰されようとしている。
レムが地図を見ながら呟く。
「……こんなの、誰が信じるんだよ」
「地図があるのに、地図じゃない」
ミナトは答える。
「信じなくていい」
「使えばいい」
その言葉が、この場所の倫理だった。
思想ではなく、行動。
理念ではなく、生存。
ユウの思想に近い。
けれどミナトはユウではない。
ミナトは、もっと乾いている。
もっと“傷”がある。
シオンは地図の端に、見慣れない記号を見つけた。
丸の中に、斜め線。
数字ではない。
コードでもない。
そして、あの記号に似ている。
Δ
シオンの背筋が冷えた。
「……この記号、何?」
シオンが言うと、ミナトはランタンの火を僅かに弱めた。
「知らない方がいい」
「でも、もう見たんだろ」
シオンは息を呑む。
「……登録端末に出た」
ミナトは頷く。
「出る」
「最近、出るようになった」
最近。
つまり、この世界は変化している。
第2作で生まれた二層構造が、今“接続から切断へ”動いている。
「それが出た瞬間、空が揺れる」
ミナトは言う。
「道が変わる」
「人が消える」
レムが震えた声で言った。
「……やっぱり消えるんだ」
ミナトは一瞬だけ目を伏せた。
「消える」
「登録された瞬間、消える奴がいる」
シオンの胸が締め付けられる。
やっぱり。
リリスが“正式には確認されていない”と言ったやつだ。
「……どうして?」
シオンは聞いた。
「どこへ?」
ミナトは首を振った。
「分からない」
「分からないから、ここはまだ生きてる」
「分かった瞬間、管理が“正しく処理”する」
正しく処理。
つまり、消す。
シオンは理解した。
ここにあるのは、
“知らないことで守っている未来”だ。
だが――
「知らないままじゃ救えない」
シオンは言った。
ミナトは鋭く振り向いた。
「救うな」
「救おうとすると、捕まる」
「捕まる前に、拾え」
「拾って、動け」
「動いた奴だけが残る」
その言葉は、冷酷だった。
でも、現場の真実だ。
シオンは唇を噛む。
自分は理想家としてここにいる。
救う仕組みを守りたい。
希望を守りたい。
でも、この場所は“守る”じゃない。
“逃がす”だ。
「あなたは、夜と繋がってる」
シオンは言った。
「夜は何をしてる」
ミナトは端末の残骸を指した。
「繋ぐ」
「切られた連絡線を、影で繋ぎ直す」
「配給が届かない場所に、物を流す」
「消えた人間を探す」
レムが言った。
「それ、正義の味方じゃん」
ミナトは笑わない。
「違う」
「夜は秩序だ」
「ただ、管理じゃないだけ」
管理外の秩序。
それは第2作でアルトが理解したものと同じだ。
秩序を否定していない。
ただ管理されなかっただけ。
シオンは息を整えた。
「ミナト」
「私たちは、これからどうすればいい」
ミナトはランタンの光の中で、静かに言った。
「まず、レムを“登録から外す”」
「次に、監査官のあんたを“制度から外す”」
シオンの心臓が跳ねた。
「……私はまだ監査官だ」
「制度の中から止められる」
ミナトの目が冷たくなる。
「止められない」
「止めるなら、もう止まってる」
その瞬間、
シオンの端末が勝手に震えた。
通知ではない。
“ログ同期”のようなもの。
画面が一瞬だけ暗転し、
数字でも文字でもない“揺れ”が走る。
そしてまた、一瞬だけ。
Δ
シオンは息を止めた。
端末を握る手が震える。
この現象は、ただの端末のバグじゃない。
彼女の体の中――
心拍の奥まで、影響してくる。
「……また出た」
シオンが言うと、ミナトは顔色を変えた。
「……まずい」
「追跡が来る」
「追跡?」
ミナトは言った。
「登録局の追跡じゃない」
「管理局の“回収”が来る」
回収。
拾うではない。
回収だ。
拾うは未来を残す行為。
回収は未来を閉じる行為。
そしてその回収は、
“正しさの顔”をしてやって来る。
扉の外で、音がした。
重い足音。
機械音。
人間じゃない。
監視機。
治安維持ユニット。
ミナトは短く言った。
「動け」
「ここはもう使えない」
「え?」
レムが声を出す。
ミナトはランタンを消した。
闇が落ちる。
地図が暗闇に沈む。
「拾われた未来は、固定できない」
「固定した瞬間、回収される」
その言葉が、
この世界の残酷な真実だった。
シオンは歯を食いしばった。
守れない。
残せない。
だから動くしかない。
ミナトは小声で言う。
「出口は三つ」
「一つは罠」
「一つは監視されてる」
「最後の一つは……ユウの痕跡」
ユウの痕跡。
シオンの目が僅かに揺れる。
「……そこに行けば、ユウに会える?」
シオンが問うと、ミナトは即答した。
「会えない」
「会う必要もない」
「でも」
ミナトは言った。
「“拾い方”はそこにある」
扉の外で、金属が擦れる音。
ロックが外される音。
時間がない。
ミナトは振り返り、
暗闇の中で二人に言った。
「今から、お前らは“境界の残り物”になる」
「それを選べるか?」
シオンは答えた。
「選ぶ」
「救済を守るために」
レムも言った。
「……俺は、選ぶって言葉を初めて使ったかも」
ミナトは小さく頷いた。
「じゃあ行く」
「次の場所で、もう一人と合流する」
シオンが息を呑む。
「もう一人?」
ミナトは言った。
「ノクス」
「夜の仲介者だ」
第4章へ。
物語は次の歯車へ噛み合い始める。
――逃げることは、救うことより難しい。
扉が軋んだ。
金属が擦れる音が、暗闇の中で刃のように響く。
ミナトが先に動いた。
迷いがない。
「走る」
それだけ言って、通路の奥へ滑り込む。
シオンはレムの腕を掴み、追った。
足音を立てないように、でも全力で。
背後で、扉が破られる音。
重い衝撃。
木片が弾ける。
――来た。
管理局の治安維持ユニット。
人間じゃない。
だから疲れない。
だからためらわない。
機械の追跡は、怖い。
恐怖を理解しないから。
「こっち!」
ミナトが曲がり角で手を振る。
地下通路は枝分かれしていた。
崩壊前の交通網が、そのまま生存網になっている。
シオンは、ここで気づく。
この世界は“道”で決まる。
銃じゃない。
権限でもない。
道を知っている者が、命を持つ。
ミナトは“道を持っている”。
それは、ユウが消えた後に残ったものだ。
「止まるな」
ミナトが言う。
「止まった瞬間、登録される」
登録される。
捕まる。
消える。
その順番が、頭の中に刻まれていく。
レムが息を切らしながら言った。
「……俺、追われるのは慣れてる」
「でも、これは……違う」
シオンも思う。
違う。
警備兵は“人間”だった。
交渉ができる。
権限が通じる。
揺らぎがある。
でも今追ってくるのは、
制度の“指”だ。
掴むために作られた指。
ミナトは突然、足を止めた。
壁に耳を当てる。
そして小さく舌打ちした。
「……上からも来る」
「二重だ」
「上から?」
シオンが問い返す。
ミナトは言った。
「監視ドームの巡回が、地上封鎖を始めてる」
「出口は絞られる」
つまり、追跡は“逃げ道の奪取”から始まっている。
逃げ道が消えると、
人間は自分の正しさにすがる。
そして、正しい側が勝つ。
この世界の勝利は、
だいたい“正しい側の勝利”だ。
だからこそ、
“拾う側”は勝てない。
勝たない。
ただ残す。
ミナトが暗闇の中で小さな扉を蹴り開けた。
中は狭い倉庫の跡。
鉄骨の棚が崩れ、埃が舞っている。
「ここは?」
シオンが聞く。
「ユウの痕跡」
ミナトが言った。
シオンの胸が跳ねる。
レムが目を見開いた。
「……ユウって、伝説の?」
「拾う側の?」
ミナトは頷かない。
否定もしない。
ただ、棚の下から小さな箱を引きずり出した。
箱には、古い印がある。
“回収”ではない。
“管理”でもない。
手書きの記号。
歪な矢印。
道の方向を示すもの。
ミナトは箱を開け、短く言った。
「これは“拾われた未来の残り”だ」
中には、医療パックと、乾燥食料。
そして、小さなビーコン。
ビーコンの裏側には、削り取られたような跡がある。
型番が消されている。
シオンの喉が鳴った。
――第1章の噂。
型番欠落ビーコン。
ログに残らない救助。
ここに繋がっていた。
「これ……」
シオンが震える声で言う。
ミナトはビーコンを握りしめる。
「これがあると、ログに引っかからない」
「完全じゃないけど、“薄くなる”」
薄くなる。
存在が薄くなる。
それは生存のための、消える技術。
救済に見えるけど、実態は逃亡だ。
レムがビーコンを見つめながら呟く。
「……俺、これで拾われたのか」
ミナトは頷いた。
「拾われた」
「だから生きてる」
そしてミナトは、シオンを見た。
「監査官」
「お前はこれを“違法”と言えるか?」
シオンは言葉に詰まった。
監査官の答えは本来、決まっている。
違法。
非正規。
秩序破壊。
管理コスト増大。
リスク要因。
でも、目の前には少年がいる。
このビーコンがなければ死んでいた少年。
シオンはゆっくり息を吐き、答えた。
「……違法だ」
「でも必要だ」
ミナトが笑った。
初めて、少しだけ人間の笑い。
「そう言えるなら、まだ大丈夫だ」
「制度の人間は、違法を言えなくなる」
違法を言えなくなる。
つまり、正しさに完全に飲まれる。
「行くぞ」
ミナトがビーコンをレムに渡す。
レムは受け取った。
それは武器じゃない。
生存の鍵だ。
その瞬間――
遠くで金属音が響いた。
ガシャ…ガシャ…ガシャ…
足音じゃない。
重い機械の接触音。
追跡ユニットが、地下へ侵入している。
シオンは反射的に端末を起動した。
監査官として、情報を取らなければならない癖。
だが画面は乱れた。
数字が滲む。
ログが揺れる。
心拍が、端末と同期するような感覚。
また、あれが来る。
“世界のズレ”。
シオンの視界の端で、レムが突然よろめいた。
「……っ」
レムが息を詰める。
「レム?」
シオンが支えようとした瞬間、ミナトが叫んだ。
「触るな!」
シオンの手が止まる。
ミナトはレムの肩を掴み、引きずるように倉庫の奥へ押し込んだ。
そしてシオンの胸元を掴む。
「今、“出た”」
ミナトが低い声で言う。
「お前の端末に」
シオンは息を呑む。
「……Δ?」
ミナトは頷いた。
目が笑っていない。
「出た」
「今出たから、追跡が早くなる」
レムが苦しそうに言った。
「俺……息が……」
「胸が、変だ」
シオンは心臓が冷える。
Δはただの記号じゃない。
ただの予兆じゃない。
身体に触れている。
まだ発動じゃない。
でも“発火寸前”の火種が、体内に埋まっている。
ミナトは言った。
「レムは、評価不能領域の子だ」
「最初から“薄い存在”で生きてきた」
「だからΔの揺れに耐えられる」
レムが目を見開く。
「……耐えてねえよ」
ミナトは続けた。
「耐えてる」
「今まで生きてるだけで証明だ」
シオンは唇を噛み、問い返した。
「じゃあ私は?」
「私は耐えられるの?」
ミナトがシオンを見る。
その目が一瞬だけ、迷う。
「……分からない」
「でもお前は、制度の中で生きてきた」
「だから揺れが大きい」
制度の中は安定している。
安定は人間を弱くする。
外側の揺れに耐えられない。
――管理が救った命。
同時に、管理が切り捨てた命。
アルトの言葉が、シオンの中に刺さる。
自分は今、切り捨てられる側へ落ちた。
その時、倉庫の入口に光が差した。
白い光。
ランタンの光じゃない。
照明弾のような、無機質な光。
金属の影が立ち上がる。
治安維持ユニット。
人型。
だが顔がない。
代わりにセンサーが光っている。
それは“見ている”のではなく、“照合している”。
「対象確認」
機械の音声。
「未登録個体:1」
「監査官権限:1」
「回収優先度:高」
回収。
その言葉に、シオンの背筋が震えた。
ミナトが舌打ちする。
「……早い」
「もう来た」
レムが震えながら言った。
「……終わり?」
ミナトは首を振った。
「終わりじゃない」
「今から“夜”に渡す」
夜。
ノクス。
「走れるか?」
ミナトがレムに聞く。
レムは小さく頷いた。
唇は青い。
でも目は生きている。
シオンも頷く。
「走る」
ミナトが倉庫の奥の鉄板を蹴った。
隠し通路。
床が開く。
「ここだ!」
ミナトが叫ぶ。
三人が滑り込む。
背後で、金属の手が伸びる音。
機械が“捕まえる”ために動く音。
シオンの足が滑り、転びそうになる。
その瞬間――
視界が一瞬だけ暗転した。
“ノイズの黒”。
空じゃない。
地下なのに、黒い空みたいなものが広がる。
心拍が、誰かと同期する。
レムと?
ミナトと?
違う。
もっと遠く。
誰かの存在。
誰かの判断。
シオンの耳の奥に、言葉が届く。
『残せ』
声ではない。
通信でもない。
でも確かに届いた。
アルトだ。
“姿”ではなく、言葉で刺す。
シオンは歯を食いしばり、立ち上がった。
転ばない。
今は、正しさより、動くことが必要だ。
三人は鉄板の下へ落ちる。
暗い水路。
足首まで水が溜まっている。
そこを走る。
冷たい水が脚を刺す。
背後で、鉄板が閉まる音。
追跡ユニットの金属が、上を叩く音。
間に合った。
だが、息をつく暇はない。
ミナトは言った。
「この先でノクスと合流する」
「夜の仲介者だ」
シオンは問い返す。
「ノクスは信じられる?」
ミナトは即答しない。
その代わりに言った。
「信じるな」
「取引しろ」
取引。
それが夜の秩序だ。
善意では繋がらない。
合理で繋ぐ。
合理。
その言葉は管理のものだったはずなのに、
管理外でも合理が必要になる。
この世界は、冷たい。
シオンは歯を食いしばった。
――それでも救う。
救済の形は変わる。
監査官の救済ではなく、
境界の救済へ。
水路の先に、微かな灯りが見えた。
そしてその灯りの前に、
誰かが立っている。
背が高い。
コート。
顔の半分が影。
笑っているのか、分からない。
その人物が、静かに言った。
「……やっと来たか」
「噂の監査官」
ミナトが低く言う。
「ノクス」
「予定より早い追跡だ」
ノクスは肩をすくめた。
「境界の空気が変わった」
「正しさが増えると、逃げ道が減る」
そしてノクスは、シオンを見て続けた。
「ようこそ、境界の裏へ」
「君はもう、制度の人間じゃない」
その言葉が、
シオンの立場を決定づけた。
――境界の裏側には、正しさでは辿り着けない。
水路の灯りは、弱い。
だがその弱さが、逆に安心を作っていた。
強い光は監視の合図だ。
弱い光は、生存者の合図。
ノクスはそこに立っていた。
暗闇に溶ける黒いコート。
手袋。
視線は優しそうで、どこか冷たい。
そして何より――
“余裕”があった。
ミナトが警戒したまま言う。
「予定より早い」
「追跡ユニットが地下に入った」
ノクスは小さく笑った。
「地下に入るのは簡単だ」
「出ていくのが難しい」
シオンは息を呑んだ。
その言い方は、まるで――
“狩り”の話をしているみたいだった。
レムが小声で呟く。
「……こいつ、怖い」
ノクスは聞こえたはずなのに、表情を変えない。
そのまま、ゆっくりとシオンへ視線を向けた。
「観測監査官・シオン」
「君がここに来るとは思わなかった」
シオンは口を開きかけた。
だが、監査官としての言葉が出ない。
権限確認。
身分照合。
規定の提示。
全部、ここでは無意味だ。
ノクスは続ける。
「君がここにいるという事実は、ひとつの結論だ」
「制度は君を守らなかった」
シオンの胸が痛んだ。
守られなかったわけじゃない。
守られていた。
ずっと。
でもそれは――
“守られる価値がある”と評価されたからだ。
そして今、評価が揺れた。
揺れただけで、境界へ落ちた。
ミナトが短く言う。
「ノクス、時間がない」
「追跡が来る」
ノクスは肩をすくめる。
「大丈夫」
「ここは夜の道だ」
夜の道。
それは、ユウが残した“拾うルート”とは違う。
もっと現実的で、もっと冷たい。
ノクスは背後を指差した。
そこにあるのは小さな扉。
薄い鉄板。
でも“鍵穴が無い”。
ミナトが眉をひそめる。
「……合言葉か?」
ノクスは笑う。
「合言葉じゃない」
「値札だ」
値札。
シオンの背筋が冷えた。
ノクスは言った。
「ここを通るなら、情報を置け」
「夜は無料じゃない」
ミナトが舌打ちする。
「お前らしい」
「何が欲しい」
ノクスは、シオンを見た。
「君だよ」
「君の“ログ”が欲しい」
シオンの喉が乾いた。
ログ。
監査官が持つ、制度の記録。
それは武器になる。
でも同時に、人を殺せる。
シオンは言った。
「ログを渡せば、誰が消えるか分かる」
「あなたはそれを売るつもり?」
ノクスは即答した。
「売る」
「必要なところへ」
その“必要”が恐ろしい。
夜の秩序は正義じゃない。
ただの流通だ。
シオンは歯を食いしばる。
でも、ここで拒めば終わる。
追跡ユニットが来る。
レムが回収される。
自分も消える。
――救うために、汚れる必要がある。
それが第3作の地獄だ。
シオンはゆっくり端末を取り出した。
画面はまだ揺れている。
ノイズの黒が薄く残っている。
ミナトが小さく言った。
「やめろ」
「ログを渡したら、戻れない」
戻れない。
その言葉は、シオンの心臓を掴んだ。
戻れない。
制度に戻れない。
監査官の自分に戻れない。
でも――
「戻りたいわけじゃない」
シオンは言った。
ミナトが目を見開く。
ノクスが僅かに口角を上げる。
シオンは続けた。
「守るために来た」
「でも守るには、制度の外のやり方が必要だって分かった」
ノクスは静かに頷いた。
「いいね」
「その言い方は“夜向き”だ」
シオンは端末のログを開く。
そこにあるのは、境界線の救助記録。
登録端末の出力。
消えた配給台帳の痕跡。
そして一度だけ出た記号。
Δ
画面の端で、ミナトが目を細めた。
「……また出てる」
ノクスは興味深そうに呟く。
「ほう」
「君にも出たか」
“君にも”。
つまりノクスも見たことがある。
夜の秩序の中で、Δは既に“噂”になっている。
シオンは言った。
「これが何か知ってるの?」
ノクスは首を振った。
「知らない」
「だから価値がある」
その答えは、あまりに夜だった。
ミナトが怒りを抑えた声で言う。
「知らないものを流通させるな」
「死ぬぞ」
ノクスは平然としている。
「死ぬのはいつでもだ」
「でも、流れない情報は死体だ」
シオンは気づく。
夜は、
“救う”ために動いているわけじゃない。
夜は、
“残る”ために動いている。
その残り方が、冷たい。
でもこの冷たさがなければ、
境界の裏側は生き残れないのかもしれない。
ノクスは端末のデータを受け取り、扉に触れた。
扉が僅かに震え、音もなく開く。
――センサー式でもない。
でも仕組みがある。
これは、崩壊後に作られた“夜の鍵”だ。
ノクスが言った。
「行くぞ」
「追跡はもう近い」
三人が扉をくぐる。
そこは広い空間だった。
地下の駅の残骸。
線路が途切れ、瓦礫が積もっている。
だが――
そこに人がいた。
数人。
武器を持つ。
目は鋭い。
でも殺気がない。
殺気がないのが逆に怖い。
彼らは“狙わない”のではなく、
“必要なら撃つ”だけだ。
ノクスが言う。
「夜の連絡線」
「ここから上へ抜ける」
ミナトが周囲を見回し、吐き捨てるように言う。
「……増えてるな」
「夜の人間が」
ノクスは頷いた。
「増えるさ」
「正しさが増えれば、影も増える」
正しさが増えれば、影も増える。
それは恐ろしい社会の法則だ。
シオンは聞いた。
「あなたたちは、管理を倒したいわけじゃないの?」
ノクスは言った。
「倒しても意味がない」
「倒したら、次の管理が生まれる」
その言葉は、アルトの思想に近い。
管理を破壊しない。
反乱もしない。
ただ残す。
でも夜は、善意じゃない。
夜は、合理で残す。
ミナトがレムに水を渡す。
レムは震える手で受け取った。
その時、レムが呟く。
「……俺、消えたくない」
その言葉が、シオンの胸を刺した。
消えたくない。
ただそれだけ。
それだけなのに、世界は許さない。
ノクスがレムを見た。
「評価不能領域の子」
「君は価値がある」
レムが顔を歪める。
「価値とか言うなよ」
ノクスは肩をすくめる。
「夜では価値が命だ」
「価値が無いと、誰も拾わない」
拾わない。
その言葉が、ユウの思想とぶつかる。
ユウは拾った。
価値がなくても拾った。
拾えるなら拾った。
ノクスは違う。
価値があるものだけが流れる。
価値が無いものは、消える。
だから夜は秩序であり、
同時に冷酷だ。
シオンはここで選ぶ必要がある。
ユウの“拾い方”を信じるか。
ノクスの“流し方”を利用するか。
両方を手に入れなければ、
この境界は越えられない。
ミナトが言った。
「シオン」
「お前は監査官だ」
「だから、お前が見たものを言葉にできる」
シオンは息を呑む。
そうだ。
自分は言葉にできる。
制度の中で、観測と記録の訓練を積んできた。
レムは現場の痛みを持っている。
ミナトは道を持っている。
ノクスは流れを持っている。
そして、アルトは“判断”を持っている。
今、ピースが揃い始めている。
ノクスが笑う。
「いい顔になってきた」
「君はもう制度の目じゃない」
「境界の目だ」
その瞬間――
地下駅全体が、震えた。
遠くで響く金属音。
追跡ユニットの群れ。
さらに違う音が混ざる。
“空気が裂けるような音”。
シオンは息を止めた。
空気が裂ける?
地下なのに?
視界の端が、また暗転する。
ノイズの黒。
そして一瞬だけ、空間の“温度”が歪む。
熱が偏る。
――第2幕の布石と同じ現象。
まだ誰も発動していない。
でも世界が“発火寸前”だ。
レムが叫んだ。
「来る!」
追跡ユニットが駅に入ってくる。
数体じゃない。
十体以上。
“回収”のための部隊。
ノクスは冷静だった。
「夜の連絡線、散開」
「シオン、選べ」
シオンが息を呑む。
「何を?」
ノクスは言った。
「君はこれから、救済を“制度”でやるか」
「救済を“境界”でやるか」
シオンは答えた。
「境界でやる」
「でも、制度も利用する」
ノクスが笑った。
それは初めて“満足”の笑いだった。
「いい」
「その矛盾が生き残る」
ミナトが叫ぶ。
「走るぞ!」
三人は夜の人間たちと共に、崩れた線路へ走り出す。
鉄骨を飛び越え、瓦礫を踏む。
追跡ユニットが迫る。
その時――
シオンの端末が勝手に起動した。
そして画面に表示される。
Δ
今度は、ただの記号じゃない。
その下に、
意味不明な数値が並ぶ。
心拍。
体温。
筋電位。
同期率。
シオンの体の内側が、熱を持つ。
「……何これ」
シオンが呟く。
ミナトが叫んだ。
「見るな!」
「まだ早い!」
早い。
つまり、これを理解した瞬間、世界が変わる。
でももう遅い。
視界の中に、Δが焼き付いた。
ノクスが背後で低く言った。
「確定してきたな」
「GENESISが隠したがるわけだ」
隠したがる。
つまり管理局も知り始めている。
Δは、
評価不能領域の“次”だ。
評価不能領域が残ったことで、
世界は“別の現象”を産み始めた。
それがΔ。
まだ能力じゃない。
まだ異能じゃない。
でも――
世界が変異し始めている。
シオンは走りながら、思った。
自分は、
ユウのように拾うことはできない。
アルトのように判断することもできない。
ノクスのように流すこともできない。
ミナトのように道を覚えることもできない。
でも。
自分には“救済の視点”がある。
救うと決める力がある。
そして今、
その救済は制度を越えていく。
――境界線の矛盾。
この章のタイトルが、胸の中で重く響いた。
三人は闇へ走る。
夜の連絡線が開かれる。
追跡ユニットが瓦礫を踏み潰しながら迫る。
そして――
最後にノクスが振り返り、淡々と言った。
「境界はもう後戻りできない」
「だけど、戻れない未来の方が、強い」
その言葉が、
第3章の結末を締めた。




