第22章:境界崩落
――助けた。
だから、壊れた。
それでも“助けたこと”を、正しいと呼べるか。
走った。
瓦礫の谷を抜け、崩れた道路の影をくぐり、
監視の光膜が届かない角度へ逃げ込む。
背後では、回収班の足音が増えていく。
追跡は速い。
彼らは“正しい命令”で動いている。
迷いがない。
躊躇がない。
そして何より――
救済という名札がついている。
シオンは息を切らしながら、何度も後ろを振り返った。
アルトは走れている。
膝は震え、血は滲んでいる。
それでも彼は、逃げている。
自分の意思で。
拾われる側から、拾う側へ。
それが今夜起きた唯一の奇跡だと、シオンは思った。
「止まれ!」
ミナトが低く叫ぶ。
崩れた輸送トンネルの入口。
壁には昔の案内標識が残っている。
“物流第七区画”。
今はただの穴。
ノクスが笑う。
「物資の道だった場所が、逃走の道になる」
「皮肉ってやつだな」
セイルが端末を覗き込む。
「追跡波、近い」
「三分もない」
アルトが短く言った。
「もう少し…先なら…」
「通信が繋がる」
シオンは眉を寄せる。
「誰に?」
アルトは息を整えながら答える。
「……内部の残存回線」
「監査官ヴェルナーの“死んだはずの線”だ」
その言葉で、空気がさらに冷えた。
管理局内部でも、何かが壊れている。
(もう“善意の制度”が、内部すら圧迫してる)
レムが小さく言った。
「……うえ」
シオンが顔を上げる。
トンネルの天井――
ひび割れたコンクリの隙間から、夜空が見える。
いや、夜空じゃない。
監視ドームの内側だ。
淡い光膜が、境界の空を覆っている。
まるで巨大な薄氷。
そしてその薄氷が、少しずつ厚くなっていた。
セイルが呟く。
「…閉じる気だ」
ミナトが顔を歪める。
「何を?」
セイルは短く答える。
「境界そのもの」
ノクスが息を吐く。
「二層世界の“接続”が終わる」
「切断の準備だ」
ハヤトが先を歩きながら言った。
「ユウのルートが死ぬ」
それは予告じゃない。
もう起きている事実みたいだった。
シオンは歯を食いしばる。
(ユウは逃げた)
(ルートを残すために、自分を消した)
なのに今、ルートそのものが死ぬ。
ユウが消しても、管理が追いついた。
彼の“誤差”は蓄積された。
そして今、その誤差を回収するために、
世界が境界を閉じようとしている。
ユウの存在は伝説にならない。
英雄にもならない。
ただ、静かに消える。
その“消え方”すら、回収される。
奥へ進むほど、空気が重くなった。
湿り気。
金属臭。
焦げた配線の匂い。
そして――妙な静けさ。
街の音が消える。
監視の音も遠のく。
代わりに聞こえるのは、微細なノイズ。
空間が“擦れる音”。
レムが胸を押さえて言う。
「……だめ」
「ここ、きえやすい」
シオンが即座にしゃがむ。
「レム、大丈夫?」
レムは首を振る。
「ぼくじゃない」
「…みんな」
その瞬間、シオンの視界が一度だけ“ズレた”。
一歩踏み出したはずの床が、少しだけ横に滑る。
まるで世界が一枚、ずれたように。
セイルが唇を噛む。
「……まただ」
「現実の重なりが薄い」
アルトが低く言う。
「評価不能領域が…広がってる」
ノクスは笑って、でも目が笑っていない。
「広がってるんじゃねえ」
「圧縮されてる」
「境界を閉じるから、逃げ場がなくなってる」
「だから“歪み”が溜まる」
その時、背後の入口から光が差し込んだ。
回収班がトンネルに入った。
スピーカー。
「抵抗は不要」
「救済を開始する」
そして、足音。
増えていく。
セイルが端末を投げ、ジャミングを展開する。
「数秒しか持たない!」
ミナトが歯を食いしばる。
「じゃあその数秒で走れ!!」
シオンはレムを抱き上げた。
――強く掴まない。
――でも離さない。
そのバランスが怖い。
怖いけど、それしかない。
アルトがシオンの隣に並んだ。
息が上がっているのに、彼は言う。
「……俺が足を止めたら」
「置いていけ」
シオンは即答した。
「置いていかない」
アルトは目を伏せる。
「それが…一番危険だ」
シオンは言い切る。
「危険でも、拾う」
「あなたが“残す”って選んだ未来を」
アルトの目が揺れた。
そして小さく頷いた。
トンネルの奥に、古い制御室があった。
鉄扉。
錆びたコンソール。
破損した通信機。
だが端末のランプが、かすかに生きている。
アルトが息を呑む。
「……ここだ」
セイルが警戒する。
「罠じゃないか?」
アルトは首を振る。
「罠なら、もっと綺麗だ」
「これは…忘れられた線だ」
ハヤトが背後を見張る。
ノクスは扉の脇を確保する。
ミナトが拳を握り、叫ぶ。
「早くしろ!すぐ来る!」
アルトは通信機を叩いた。
一回。
二回。
三回。
反応はない。
シオンの心臓が速くなる。
(間に合わない)
その時――
通信機が、唐突に鳴った。
ザザッ……とノイズが走り、
低い声が聞こえた。
『……こちら、ヴェルナー』
その声で、アルトが一瞬だけ目を閉じた。
救われたように。
そして同時に、絶望したように。
『アルト。お前は――境界にいるな』
アルトは短く答える。
「います」
『……回収命令が出ている』
『救済計画は“第二段階”に入った』
シオンが息を呑む。
第二段階。
それは封鎖線の本格化。
強制登録。
境界切断。
第2幕の落下点。
ヴェルナーは続けた。
『監視ドームが境界を完全封鎖する』
『逃げるなら…今しかない』
アルトは震える声で言う。
「逃げるだけで…いいんですか」
「境界に残る人間は?」
ヴェルナーは沈黙した。
そして、苦い声で答える。
『……救済の対象になった者は』
『救済の材料になる』
その言葉は残酷で、
でも世界の現実だった。
その瞬間、制御室の壁が震えた。
外からの衝撃。
鉄扉が叩かれる。
回収班が到達した。
スピーカーが近い。
「――対象確認」
「拘束を開始する」
ミナトが怒鳴る。
「来た!!」
ハヤトが低く言う。
「……時間切れだ」
セイルが端末を構える。
「出口は?」
ノクスが笑う。
「出口ならある」
「壁を壊せばな」
ミナトが叫ぶ。
「最高だな!!」
しかし、扉が開いた。
破壊じゃない。
鍵が開いた。
誰かが、開けた。
そこに立っていたのは――
制服の女だった。
管理局員。
だが目は怯えていない。
むしろ、信じている目だ。
“善意の登録”の目。
登録局員・リリス。
シオンは喉が凍る。
(第1幕で見た…あの人)
彼女は静かに言った。
「抵抗しないでください」
「皆さんを…救います」
救う。
その言葉が、ここでは拘束だ。
リリスはアルトを見て、微笑んだ。
「アルトさん」
「あなたも救済されるべきです」
アルトの顔が真っ白になる。
「……救済?」
リリスは頷く。
「希望適合値の計測により」
「あなたは“保護対象”です」
その言葉で、シオンは理解した。
アルトはもう人じゃない。
希望適合値の材料。
境界封鎖の根拠。
回収の象徴。
レムが小さく言った。
「……あのひと」
「こわい」
シオンはリリスを見た。
リリスは悪役じゃない。
ただ、本当に救おうとしてる。
だから怖い。
善意が制度になった時、
それは抵抗できない暴力になる。
シオンは一歩だけ前へ出た。
「あなたは救済が正しいと信じてる」
「でも救われた瞬間、消える人がいる」
リリスは目を伏せない。
「消えるのではありません」
「管理されるのです」
シオンの喉が熱くなる。
「それを救いと呼ぶなら…」
「あなたは、人を数字に変えてる」
リリスは静かに返す。
「数字にしないと、救えないんです」
その返答が、正論だった。
そして、正論だからこそ――
シオンは戦慄した。
その瞬間、空が鳴った。
ドームが、轟音もなく厚くなる。
境界の上に、もう一枚。
光膜が重なる。
逃げ道が、閉じ始める。
セイルが叫ぶ。
「封鎖が進む!」
「裂け目が…潰される!」
ノクスが笑う。
「潰されるなら、開け直すだけだろ」
ミナトが拳を握る。
「誰が?」
ノクスは目を細めた。
「――俺たちだ」
BORDER REMAINS。
まだ結成してない。
まだ名前だけ。
でも今、この瞬間。
彼らは一つの動きをする。
拾う。
残す。
逃がす。
奪われないように。
そして――
壊さないまま、勝つ。
アルトが息を吸う。
「俺が…やる」
シオンが目を見開く。
「アルト?」
アルトはリリスを見て、静かに言った。
「救済が正しいなら」
「俺は…正しく壊さない」
「正しく残す」
彼が端末に触れた瞬間、
制御室の灯りが一瞬だけ落ちた。
真っ暗。
そして次の瞬間――
壁に“存在しないフレーム”が走った。
映像の端に、黒い線。
人型の輪郭。
そして、見えないはずの記号。
Δ
誰も口にしない。
誰も理解しない。
でも確実に、
この場に“新しい現象”が混ざった。
――救いたい。
――その気持ちが、刃になる。
境界が落ちる音は、爆発じゃない。
静かに“正しさ”が勝つ音だった。
制御室の灯りが落ちたまま、薄暗い。
緊急灯が赤く点滅し、
壁の配線が裂け、火花が散る。
アルトの指先は端末の上に置かれたまま動かない。
呼吸が浅い。
でも視線は鋭い。
彼は今――
「戦う」じゃなく「選ぶ」側に立っていた。
リリスが一歩、制御室の中へ入る。
銃は持っていない。
それが怖い。
彼女は“正しい制度”を背負っている。
「アルトさん」
「端末から離れてください」
アルトは静かに答えた。
「離れたら、君は俺を救済する」
リリスは頷いた。
「当然です」
シオンの喉が鳴る。
(当然…)
(当然が、恐ろしい)
リリスは続ける。
「あなたは希望適合値が高い」
「この世界に必要です」
アルトは目を伏せた。
「…必要?」
「誰にとって」
リリスは迷わない。
「人類にとってです」
正論。
正しさ。
だから止められない。
外で鉄扉が叩かれた。
一回。二回。三回。
重い音。
回収班が到達している。
ミナトが歯を食いしばる。
「早くしろ!」
「ここ、囲まれるぞ!」
セイルが端末を覗き込む。
「封鎖膜の収束が速い」
「このままだと…裂け目も、空も、閉じる」
ノクスが笑う。
「じゃあ閉じる前に、盗むしかないだろ」
「何を?」とミナト。
ノクスは言った。
「時間」
ハヤトが扉の前に立ち、
壁際に体を寄せる。
銃を構えない。
刃も抜かない。
ただ――
扉が開く角度を読む目をしている。
彼は戦闘じゃない。
逃走の設計をする。
ユウの仲間は、勝たない。
残す。
レムがシオンの腕の中で震えた。
「……くる」
「ひかりが、つよい」
シオンが天井を見上げる。
監視ドームの光膜が、
隙間からこの制御室まで浸透してきている。
外の空が明るくなる。
夜なのに、昼みたいに白い。
(境界が…閉じる)
シオンは理解した。
光膜が厚くなるほど、
この世界は“管理の中”に統合される。
管理の外側は残らない。
評価不能領域が、
削除される。
いや、“救済される”。
その言葉が、この世界の一番の悪意だ。
アルトが端末を叩いた。
「ヴェルナー」
「聞こえるか」
ノイズ越しに、低い声。
『聞こえている』
アルトは言った。
「救済計画第二段階」
「境界完全封鎖」
「…止める方法はあるか」
ヴェルナーは沈黙した。
その沈黙が答えだった。
止められない。
止めるには、管理を壊す必要がある。
でもアルトは壊さない。
壊さないで勝つ。
それが彼の限界で、
彼の救いでもある。
ヴェルナーが言った。
『止める方法はない』
『だが…穴はある』
アルトの目が鋭くなる。
「穴?」
『評価不能領域は削除できない』
『…定義できないものは、管理できない』
『だから管理局は“覆う”』
『境界を閉じ、外側を消す』
『存在しないことにする』
アルトは呟いた。
「存在しない…」
その言葉がシオンを刺す。
レムの存在。
ユウの痕跡。
拾われた未来。
全部、存在しないことにされる。
リリスが優しい声で言った。
「アルトさん」
「あなたの苦しみも、救済対象です」
その言葉が、
アルトの心を壊しかけた。
優しさが刃になる瞬間。
アルトは唇を噛み、絞り出すように言う。
「……君は正しい」
リリスは微笑んだ。
「はい」
アルトは続けた。
「でも正しさは」
「世界を救う」
「そして世界を切る」
リリスは首を傾げる。
「切られるのは仕方ありません」
「それが合理です」
合理。
GENESISの言葉。
アルトの言葉でもあった。
だからこそ、彼は今、震えている。
外の扉が、ついに開いた。
ギィ…と軋む音。
冷気が流れ込み、
光が差す。
そこに立っていたのは――
是正執行官・ラザル。
無表情。
迷いゼロ。
背後に回収班。
ドローン。
拘束具。
ラザルは淡々と告げる。
「対象を確認」
「アルト」
「BORDER REMAINS(未登録集団)」
「救済拘束を開始する」
その声で、ミナトが叫んだ。
「誰が拘束されるかよ!!」
前へ出ようとした瞬間、
ハヤトが腕で止めた。
「撃つな」
ミナトが睨む。
「は?」
ハヤトは言った。
「撃った瞬間、全滅だ」
その言葉には現場の重さがあった。
ここで撃てば――
彼らは“敵”として確定する。
管理にとっての正義が完成する。
だから撃たない。
撃たずに勝つ。
ラザルがシオンを見る。
「観測監査官・シオン」
「あなたは救済に協力していたはずだ」
シオンは息を呑む。
真実だ。
彼女は善意で登録を始めた。
だから今、この場にいる。
ラザルは続ける。
「あなたの記録は有用だ」
「あなたは救われる」
救われる。
この言葉が、彼女を縛る。
シオンは一歩進んだ。
「私は救済を信じてました」
ラザルは頷く。
「正しい選択だ」
シオンは声を震わせながら言う。
「でも…救済は」
「奪うことになった」
ラザルは淡々と返す。
「奪っていない」
「配分しているだけだ」
正論。
完全な合理。
誰も論破できない。
だから――
戦うしかない。
論じゃなく、生存で。
アルトが一歩前へ出た。
「ラザル」
「俺を回収してもいい」
シオンが叫ぶ。
「アルト!」
アルトは続けた。
「でも、ここにいる子は違う」
レムを見た。
「評価不能領域の子は」
「…管理できない」
ラザルの瞳が一瞬だけ細くなる。
「管理不能は、危険だ」
アルトは頷く。
「危険だ」
「だから残すべきだ」
ラザルは冷たく言った。
「残せない」
「境界は閉じる」
その一言が、
この章のタイトルそのものだった。
境界崩落。
世界が二層になった後、
今度は二層が切断される。
その瞬間、レムが目を見開いた。
「……だめ!!」
空気が揺れた。
制御室の壁が、
一瞬だけ“ズレる”。
存在しないフレームが走る。
そして光膜が、
なぜかこの室内だけ薄くなる。
セイルが叫ぶ。
「今だ!」
ノクスが笑う。
「ほらな」
「時間、盗めた」
ミナトが咆哮する。
「走るぞ!!」
BORDER REMAINSが動いた。
一斉に。
ハヤトが先に扉の横を抜け、
回収班の動線を“ずらす”。
セイルがジャミングを重ね、
ドローンの照準を一瞬狂わせる。
ノクスが煙幕を投げ、
視界を切る。
ミナトが瓦礫を蹴り、
通路を崩して追跡を遅らせる。
シオンはレムを抱えたまま走る。
アルトは自分の足で走る。
拾われる側ではない。
拾う側として。
背後でラザルが叫んだ。
「逃走を確認」
「境界封鎖を前倒しする」
その瞬間、空が鳴った。
光膜が一気に収束する。
空が、白く閉じる。
「まずい!!」セイルが叫ぶ。
裂け目が潰れる。
ユウのルートが死ぬ。
世界の“誤差”が消される。
シオンの胸が裂けそうになる。
その時――
アルトが叫んだ。
「止まれ!」
全員が止まる。
「アルト!?」ミナト。
アルトは端末を握りしめている。
「封鎖を止められない」
「でも…“残す穴”は作れる」
彼は息を吸って言った。
「ここに」
「評価不能領域を“生成”する」
シオンが理解する。
GNC-CONTROL-020――
記録外行動検知。
評価不能領域を生成。
アルトはそれを使うつもりだ。
制度の穴を、制度で作る。
壊さない。
でも残す。
最後の一手。
アルトが端末にコードを流し込んだ瞬間、
空が一瞬だけ黒くノイズを吐いた。
監視ログが乱れ、
光膜がほんの少しだけ“止まる”。
世界が躓いた。
そして、制御室の壁に
小さな黒い記号が滲む。
Δ
今度は幻じゃない。
シオンは確信する。
(世界が…変わり始めてる)
まだ発動じゃない。
まだ能力じゃない。
でも、現象は確定しつつある。
――境界が落ちる。
それは敗北じゃない。
“未来の置き場”が、奪われるということだ。
走る。
足が痛い。
肺が焼ける。
瓦礫が刺さる。
それでも走る。
逃げるためじゃない。
残すために走る。
アルトが開けた“穴”は、長く保たない。
制度が作った穴は、制度が塞ぐ。
だから今、この数分がすべてだった。
光膜が近い。
監視ドームの白が、夜を食っていく。
空が――閉じる。
シオンはレムを抱え直した。
レムは顔を上げて、空を見ている。
「……しめる」
「ふた、する」
小さな声。
なのに言葉が重すぎた。
世界が、蓋をする。
境界を、誤差を、希望を。
蓋をして、
見えなかったことにする。
「出口だ!」
ミナトが叫ぶ。
崩れた高架下の裂け目。
都市の外れに続く、
ユウのルート――だった場所。
ミナトが息を切らして笑う。
「まだ生きてる!」
「ユウの道、残ってる!」
ハヤトの目が鋭くなる。
「……いや」
セイルが端末を見て、顔色を変えた。
「封鎖帯、先に展開してる」
「ここは…“塞がれる”」
ノクスが舌打ちする。
「上等だ」
ミナトが吠える。
「上等じゃねえだろ!!」
ノクスは笑って、でも目が怖い。
「上等だ」
「塞がれるなら――ぶち抜け」
現実的じゃない。
無茶だ。
でも今は無茶しかない。
アルトが足を止めた。
膝が震える。
血が垂れている。
それでも立っている。
彼は空を見た。
白い光膜の奥。
そこには“完璧な管理”がある。
そしてアルトは言った。
「……ここを通す」
シオンが叫ぶ。
「どうやって!」
アルトは静かに言う。
「残す」
その一言が、ユウの思想と重なる。
拾う。
残す。
世界を変えない。
でも世界を残す。
アルトは端末を掲げた。
あの“穴”を作った端末だ。
「評価不能領域を…固定する」
セイルが息を呑む。
「固定?」
「そんなことできるのか」
アルトは頷かない。
できるかどうかじゃない。
やる。
「制度の穴を、壁にする」
「一瞬だけ…境界を浮かせる」
シオンの背筋が震えた。
それはアルトが、
“管理側の武器”を握る瞬間だった。
背後から声が飛んだ。
「対象の逃走を確認」
「封鎖完了まで、残り一分」
ラザルの声。
追いついている。
リリスの声も混じる。
「お願いです」
「止まってください」
止まったら救われる。
救われたら消える。
その言葉がもう、呪いに聞こえる。
セイルが叫ぶ。
「アルト、時間がない!」
アルトは頷く。
そして端末に指を滑らせた。
カチ、と小さな操作音。
次の瞬間――
空が、裂けた。
正確には、裂けたように“見えた”。
白い光膜が一瞬だけ薄くなり、
裂け目の向こうに黒い夜が覗く。
出口が開いた。
いや、逃走路が復活した。
ミナトが吠える。
「行けええええ!!」
BORDER REMAINSが一斉に走る。
ハヤトが最初に抜ける。
ミナトが続く。
ノクスが笑って滑り込む。
セイルが端末を抱えて飛ぶ。
シオンも飛び込む。
レムを抱えたまま。
その瞬間、
シオンの視界がまた“ズレた”。
世界が一枚ずれる感覚。
耳鳴り。
身体が軽くなる。
まるで現実の重さが一瞬だけ抜けたみたいに。
そして――
レムの手が、シオンの胸を掴んだ。
「……だいじょうぶ」
「ここ、きえる」
消える。
違う。
消え“やすい”。
それが評価不能領域の真実。
アルトが最後に残った。
光膜が閉じる。
裂け目が潰れる。
セイルが叫んだ。
「アルト!!」
シオンも叫んだ。
「アルト!!」
アルトは振り返らない。
振り返ったら、戻る。
戻ったら、救われる。
救われたら、終わる。
アルトは前だけを見る。
そして――
一歩踏み込んだ瞬間。
光膜が彼の背中を掠めた。
白い光が走る。
痛み。
叫びは出ない。
アルトは歯を食いしばり、
そのまま裂け目の向こうへ落ちた。
ギリギリで。
間に合った。
裂け目が閉じる。
空が塞がる。
境界が落ちた。
その瞬間、
世界は二層構造から“断絶”へ変わる。
管理される未来。
管理されない未来。
その間に、道がなくなる。
ユウのルートが死ぬ。
世界の誤差が消される。
それが、境界崩落。
一同は荒れた外縁区画へ転がり込む。
そこは夜だ。
暗い。
寒い。
静かだ。
でも――生きている。
ミナトが笑いながら地面を殴った。
「ははっ…!」
「生きてる!」
セイルは震える指でログを確認している。
「封鎖完了…」
「境界、完全閉鎖」
ノクスが息を吐いた。
「終わったな」
ハヤトが小さく言う。
「……始まった」
その声の方が正しい。
アルトは膝をついた。
肩を押さえ、血を止めようとする。
シオンが駆け寄る。
「アルト、傷…!」
アルトは息を荒くしながら言った。
「大丈夫だ」
嘘だ。
大丈夫じゃない。
でも彼は言う。
「…助かった」
その言葉に、シオンの胸が潰れそうになる。
助かった。
助けた。
助けたから、壊れた。
助けたから、境界が落ちた。
善意が制度に変わった結果、
世界が閉じた。
その時、セイルが端末を握りしめたまま呟いた。
「……ログが変だ」
シオンが顔を上げる。
「何?」
セイルの声が震える。
「アルトの端末が…」
「“何か”を記録してる」
アルトも顔を上げる。
セイルは画面を見せた。
そこには、短い一行。
Δ — DETECTED
シオンの背中が冷たくなる。
まだ能力じゃない。
まだ発動じゃない。
でも――
GENESIS内部で
“現象名”として確定した。
世界が、名前を与えた。
Δ(デルタ)
さらにセイルが続ける。
「もっと怖いのがある」
「全員のログに…共通の異常値が出てる」
シオンが喉を鳴らす。
「共通…?」
セイルが頷く。
「心拍」
「脳波」
「…空間同期」
ノクスが笑った。
「仲良しだな」
笑えない。
それは“リンク”だ。
未来のための共鳴。
4作目のための伏線。
ユウも、アルトも、シオンも。
まだ開花してない。
でも強いΔを持つ器。
その器が、同じ異常値で焼け始めている。
その直後。
遠くの夜空に、
白い柱が立った。
封鎖線の中心――境界都市側。
あそこに、
まだ人がいる。
ミナトが唇を噛む。
「……ミオの拠点」
ハヤトが静かに言った。
「潰された」
シオンが凍る。
「……そんな…」
セイルがログを確認し、
震える声で言った。
「回収ログに載ってる」
「“回収完了”」
その四文字が、世界の冷酷さだった。
拾えない未来。
拾いに行けない未来。
助けたのに、
助けた分だけ奪われる。
第2幕の落下点が、
完全に地面へ落ちた。
シオンは立ち上がった。
震える膝で。
それでも立った。
そして皆を見る。
「……終わらせない」
ミナトが笑う。
「終わってねえよな」
ノクスが肩をすくめる。
「終わりたくねえなら、名前が要るぜ」
シオンが言った。
「名前?」
セイルが頷く。
「記録されないための名前」
「拾い続けるための名前」
アルトが小さく息を吐く。
「…俺たちは」
「境界に残ったものだ」
シオンは静かに言う。
「境界の残骸」
その瞬間、ミナトが言った。
「BORDER REMAINS」
全員が黙った。
それがただのチーム名じゃないと分かった。
それは宣言だ。
管理でも無秩序でもない。
第三の形。
拾う側の沈黙を継ぐ者たち。
アルトが最後に言った。
「俺は管理を壊さない」
「でも、閉じた世界は…残せない」
シオンが答える。
「残すよ」
ノクスが笑う。
「盗んででもな」
ハヤトが目を細める。
「拾う」
ミナトが拳を握る。
「ぶん殴ってでも守る」
セイルが端末を抱きしめる。
「ログに残らなくても…繋ぐ」
レムが小さく言った。
「……きえるまえに」
その言葉が、すべてだった。
境界は落ちた。
でも未来は落ちなかった。
落ちたのは道だけだ。
なら道はまた拾えばいい。
ユウがそうしたみたいに。
アルトがそう選んだみたいに。
シオンが今、そう決めたみたいに。
そして空のどこかで、
監視ログが最後に吐き出す。
Δ
その文字だけが残る。
誰も発動していない。
誰も戦っていない。
なのに世界は、
発火寸前で終わる。




