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第20章:アルトの限界

――「残す判断」は、誰のためだった。


地下道の空気は古い。

湿ったコンクリート、錆びた鉄、そして――人の気配。


暗闇の奥から現れた男は、ライトも付けずに歩いてきた。

足音が静かすぎる。逃げ方を知っている人間の歩き方だ。


背は高くない。だが、肩が“現場”の形をしている。

無駄な動きがない。視線だけで全員を測る。


ミナトが一歩前に出る。


「誰だ」


男は答えない。

代わりに、レムを抱くシオンの腕に視線を止めた。


「……その子、まだ“ここ”にいるのか」


シオンの喉が鳴った。


「はい。消えかけました」


男は小さく息を吐く。


「やっぱり始まったな」


セイルが言う。


「あなたは、ユウを知ってる」


男は目を細めた。


「“知ってる”って言い方は違う」

「俺は、ユウに拾われた」


ミサが息を呑む。


拾われた。

それはこの世界で、最も重い言葉だ。


男は名を名乗らないまま、地下道の壁を軽く叩いた。


コン、コン。


すると鉄の扉が軋んで開き、薄暗い作業区画が覗いた。

中には寝具、工具、配線、簡易の食料棚。

生き延びるための生活そのもの。


「入れ」

「追跡が切れても、匂いは残る」


ノクスが一歩遅れて入る。

扉が閉まる瞬間、彼は周囲を見回し、低く言った。


「……この地下、ルートが繋がってるな」


男が短く笑った。


「夜の連合の仲介者がそれを言うか」

「……ユウのルートを、夜が真似した」


ノクスは否定しない。


「真似ではない」

「残ったものを引き継いだだけだ」


男はちらりとノクスを見て、何も言わなかった。


沈黙が“承認”に変わる。


作業区画の中央に、古い机がある。

その上に置かれていたのは、紙の地図だった。


紙。


ログに残らない。

管理が拾いにくい。


シオンの胸の奥が痛んだ。

ユウのやり方だ、と本能が言っている。


男は地図の一点を指した。


「BORDER集落、ここだな」


ミナトが頷く。


「そうだ。あそこを守らないと――」


男は途中で遮った。


「守れない」

「守るって言葉は、管理が好きな言葉だ」


シオンが固まる。


男は続ける。


「守るってのは、そこに留まるってことだ」

「留まれば、回収が来る」

「回収が来れば、“正しさ”が積もる」


「正しさは、武器になる」


その言い方が、どこかアルトに似ていて、でも違った。


正しさを否定しない。

ただ、正しさの扱われ方を知っている。


ユウの影だ。


セイルが言う。


「あなたはユウの仲間だったのか?」


男は少し考えてから答えた。


「仲間じゃない」

「仲間ってのは、同じ場所に居続ける奴らだ」


「ユウは居続けない」

「拾って、渡して、消える」


「だから俺は、“仲間”じゃなくて“受け取り手”だ」


その言葉に、シオンの胸が熱くなった。


ユウは英雄じゃない。

伝説にもならない。

でも確かに、誰かに渡している。


拾った未来を。


レムが小さく呟く。


「……おじさん、においがする」


男が眉を寄せる。


「におい?」


レムは首を傾げた。


「……あの人のにおい」

「いないけど、通った」


男の目が一瞬だけ、遠くを見た。


「……そうか」


レムの言葉は、確証だった。

この地下は、ユウが通った。

ユウが残したルートだ。


シオンは口を開く。


「あなたの名前は」


男は少し黙ってから言った。


「……ミオ」


ミオ。


シオンの中で何かが繋がる。

RUINS RAIDの名が、脳裏を掠めた。


廃墟の偵察兵・ミオ。

同名。


偶然かもしれない。

でもこの世界で、偶然は薄い。


ミオは地図の線を指でなぞった。


「BORDERの近くに、封鎖線が入る」


「回収ドローンが来たなら、次は――“人間”が来る」

「ラザルみたいなのがな」


その名前に、シオンは寒気を覚える。

是正執行官。

破壊。


ミナトが歯を食いしばる。


「じゃあどうすりゃいいんだよ」


ミオは即答した。


「拾え」


「守るんじゃない」

「“未来”だけ拾って運べ」


「人も、物も、情報も」

「全部抱えたら死ぬ」

「だから優先順位を決めろ」


その言葉が、シオンの胸に刺さった。


優先順位。


それは管理が決めるものだった。

でも今、現場がそれを言っている。


ただし違う。


管理は“生存率”のために切る。

ユウは“未来”のために拾う。


同じ行為でも、向いている先が違う。


ノクスが言う。


「BORDER REMAINSは、拾う側になる」


ミオが頷く。


「そうだ」

「お前らは、これから“残す側”だ」


シオンは息を呑む。


残す。


その言葉は、アルトの言葉でもある。


アルトは“評価不能領域を消さず残す”選択をした。

その結果、制度はそれを利用した。


同じ言葉でも、意味が変わってしまう。


――それが今の世界。


一方、GENESIS内部


白い壁。

無音の通路。

空気に湿度すらない。


アルトは、管制室の端末の前に座っていた。


モニターに上がってきたのは、短い通知。


Δ : TRACE STORED

発生地点:境界線外周

対象:Δ-17

優先度:A

回収プロトコル:即時


アルトの指が止まる。


「……Δ」


口に出した瞬間、喉が乾いた。


第1幕から散発していた異常。

ノイズ。

同期のズレ。

存在しないフレーム。


どれも“事故”として処理されてきた。


だがこれは違う。


“名前”が付いた。

内部で記号として分類された。


そして回収プロトコルが――即時。


アルトは呼吸を整え、ログを開く。


そこにあったのは、短い一文だけだった。


「評価不能領域を解消する」


その文言に、アルトの目が細くなる。


解消。


それは第2作で、彼が何度も使った言葉だ。

“誤差”を減らし、救済の精度を上げるために。


だが今、それは――消去の言い換えになっている。


アルトの胸に、鈍い痛みが走った。


(俺が残した判断が……)


(制度に武器として使われている)


管制室の背後から、足音がした。


「アルト」


振り返ると、監査官ヴェルナーが立っていた。


表情はいつも通り、冷たい。

だが目だけが、わずかに興味を帯びている。


「“Δ”が動いたな」


アルトは答えない。

代わりに聞いた。


「回収は、誰が指揮する?」


ヴェルナーは淡々と告げる。


「是正執行官ラザル」

「現場は迅速な方がいい」


アルトの背筋が凍った。


ラザルは、躊躇なく破壊する。


救済ではない。

切り捨てを“正しさ”として実行する。


アルトは言った。


「待ってくれ」

「“Δ”はまだ定義されていない」

「下手に触れれば――」


ヴェルナーが遮る。


「だから回収する」

「定義は、持ち帰ってからする」


その理屈は完璧だ。

管理として正しい。

だからこそ止まらない。


アルトは、拳を握った。


「……俺が現場に行く」


ヴェルナーが笑った。


「管制オペレーターが?」

「君は現場の匂いに耐えられるのか」


アルトは、目を上げた。


「耐えるために残したんだ」

「評価不能領域を」


ヴェルナーは、少しだけ首を傾げる。


「面白い」

「君の“残す判断”が、君自身を現場に引きずり出す」


そして、決定を告げるように言った。


「許可する」

「ただし君は“止めるため”ではなく、“記録するため”に行く」


アルトは息を飲んだ。


記録するため。


つまり――

止める権限はない。


現場で起きることを、

制度の中に“書き込む”役。


アルトは理解した。


(俺は、道具として動かされる)


(それでも行くしかない)


なぜなら――

そこで消えるのが、誰かだから。


アルトが立ち上がった瞬間、モニターの隅に小さな表示が出た。


一瞬だけ。


Δ : RESONANCE

Δ:共鳴


アルトの目が見開かれる。


共鳴。


誰かが、Δを“使った”。


意図せずか、意図してか。


アルトの胸の奥に、言葉が浮かんだ。


――ユウ。


もちろん確証はない。

だが、現場で“道”を開ける人間がいるとしたら。


そしてその道を、誰かが引き継いだとしたら。


アルトは小さく呟いた。


「……境界が、動いた」


――止めるために来たのに、止める権利がない。


境界へ向かう輸送車は、音がしない。

タイヤの摩擦も、振動も、外の風も遮断された密閉空間。


それは安全のためではなく、感覚を奪うための車だった。


アルトは座席に背を預け、窓のない壁を見つめる。


モニターだけがある。

現在位置、外部気温、危険度。

そして――評価値。


数字。数字。数字。


救われた側の世界。


だが、今のアルトはその数字が、初めて“冷たすぎる”と感じていた。


彼の隣にはヴェルナーがいる。

無言で端末を操作している。

その指は揺れない。


反対側にいるのが、ラザルだ。


是正執行官。

顔に表情がないのではなく、最初から削り落としたような顔。


ラザルはアルトを見て、言った。


「君が今回の観測担当か」


アルトは答える。


「……記録担当だ」


ラザルは頷く。


「良い」

「記録は、正当性を支える」


その言い方が、アルトの喉を刺した。


正当性。


救済には正当性が必要で、

その正当性が、切り捨てを可能にする。


矛盾だ。


だが矛盾じゃない。

制度の中では、完全に整合している。


車の天井からスピーカー音が落ちる。


「境界外周、接近」

「監視ドーム圏内へ移行」


次の瞬間、車体がほんの少しだけ揺れた。


空気が変わる。


密閉されているはずなのに、匂いが入ってくる。


錆。

灰。

湿った土。


現場の匂い。


アルトは、胃がきゅっと縮む感覚を覚えた。


――これが、ユウが生きていた世界。


――これが、評価外が生きる場所。


輸送車のハッチが開いた。


白い光が差し込み、アルトは目を細める。


外は、境界線の外周。


地面は割れていて、鉄骨が突き出し、

遠くに朽ちた建物群が見える。


その上空に――監視ドーム。


薄い膜のような光が張られ、

空そのものが“管理されている”ように見えた。


ヴェルナーが淡々と告げる。


「監視ドームは正式運用に入った」

「境界の誤差を潰すために、必要だ」


必要。


その言葉が、アルトには重い。


誤差とは、誰のことだ。

どの命が、誤差だ。


ラザルが歩き出す。


部隊が続く。

全員が同じ装備、同じ動き、同じ速度。


統率は美しい。

だが、美しすぎて“人”がいない。


アルトはその背を追う。


歩きながらヴェルナーが囁くように言った。


「ここから君の役割だ」

「“現場の反応”を記録しろ」


アルトは返した。


「……止めるために来た」


ヴェルナーは笑う。


「止める?」

「君が止めたいのは、救済か?」


アルトの足が止まりかける。


救済。


そう、救済だ。

でも――救済の形をしている何か。


ヴェルナーは続ける。


「君は“残す判断”をした」

「だから君の言葉は、制度の根拠になる」


「つまり君は、救済を増やしたんだ」


アルトの胸が痛む。


(違う)


(残したのは、“消さないため”だ)


でも制度の中では、

残す=観測対象を増やす、に変換される。


そして観測対象は、管理の管轄になる。


アルトは答えられない。


答えた瞬間、負ける気がした。


ラザルが手を上げた。


部隊が止まる。


先行ドローンが投影したホログラムに、地点が示された。


BORDER集落。


正確な座標。

正確な人口推定。

正確な危険度。


そして表示される最も冷たい文言。


回収優先:Δ-17(幼年)

副次:未登録対象の再配置

想定抵抗:低〜中


アルトは息を呑む。


幼年。


子ども。


それが“想定抵抗:低”。


……当然だ。

子どもは抵抗できない。


ラザルが言う。


「速やかに終わらせる」

「救済は迅速であるべきだ」


アルトは吐きそうになった。


救済という言葉が、

今ほど残酷に聞こえたことはない。


集落に近づくにつれ、視界の端に人影が見え始める。


逃げ遅れた者。

動けない者。

祈る者。


――そして、影が見えた。


“消失者の影”。


薄い輪郭の人間たちが、地面に立っている。


アルトは足を止めた。


「……あれは」


ヴェルナーが平然と言った。


「残留ログだ」

「二層構造の境界で発生する“視覚ノイズ”」


ノイズ。


言い換え。


アルトは知っている。


それはノイズではなく、

“消えた人間が残した痕跡”だ。


そしてその痕跡が、

Δを引き寄せる。


ラザルが集落の前に立った。


拡声器を使い、声を響かせる。


「こちらはGENESIS回収班」

「未登録者に対し、保護と再配置を行う」

「抵抗は不要。救済は保証される」


“正論”だ。


住民の多くは逃げた。

残った者たちが震えながら出てくる。


その中に、レムはいない。


アルトの胸が少しだけ落ち着く。


(逃げた……?)


(シオンが――)


だがその瞬間、ラザルが端末を持ち上げた。


「痕跡はここに残っている」

「対象は逃げても、消える」


アルトの背筋が凍る。


逃げても消える。


それは、逃げ道を否定する言葉だ。


ラザルは住民たちを見渡し、淡々と告げる。


「未登録者の保護は、全体の生存率を上げる」

「境界の矛盾は、事故を生む」


「事故は、死を生む」


「だから解消する」


誰も反論できない。


死を減らす、という目的は正しい。


でもその正しさは、

“誰かを消してもいい”に変換される。


アルトは一歩前に出た。


「……待て」


ラザルが振り返る。


「記録担当が発言する必要はない」


アルトは喉を震わせながら言った。


「“Δ”は、まだ定義されていない」

「回収は――危険だ」


ラザルは一瞬だけ沈黙した。


そして言った。


「危険だから回収する」


「危険を野放しにするのは、管理の怠慢だ」


その理屈は、完璧だった。


アルトの膝が少しだけ揺れる。


止まらない。

正しさは止まらない。


その瞬間。


空気が、また歪んだ。


集落の端で、影が揺れた。


消失者の影が――“立ち上がる”ように動いた。


そして、端末の画面が勝手に点灯する。


Δ : RESONANCE

共鳴値:上昇

同期対象:複数


アルトの心臓が跳ね上がる。


複数?


つまり、Δは一人の異常ではない。

境界で生きる者が、同じ異常値を共有し始めている。


BORDER REMAINS――


シオン。

セイル。

ミナト。

ノクス。


そして、アルト自身。


アルトの端末にも、同じ表示が一瞬だけ走った。


Δ : RESONANCE DETECTED

観測者:ALTO

影響:微


アルトは息を止める。


(俺にも……残ってるのか)


(評価不能領域を残したから?)


(それとも――)


“拾われた側”だから?


ラザルが命令した。


「回収を開始する」

「対象を引きずり出せ」


部隊が散る。


住民の家屋を開け、地下を探り、隠し扉を暴く。


悲鳴。

泣き声。

怒号。


だがそれでも、ラザルの声だけが静かだ。


「抵抗は不要」

「救済だ」


その言葉を聞いた瞬間、アルトの中で何かが折れた。


救済は、こんな音を立てないはずだ。


救済は、泣かせないはずだ。


救済は――奪わないはずだ。


アルトは叫びたくなった。


でも叫べない。


権限がない。

止める権限がない。


その時。


部隊の一人が、瓦礫の下から子どもを引きずり出した。


違う。

レムじゃない。


別の子どもだ。


「違う!違う!」と泣き叫ぶ子どもを、兵士が無感情に拘束する。


住民が叫ぶ。


「その子じゃない!」

「やめてくれ!」


ラザルが言った。


「未登録は全て対象だ」


アルトは、その一言で悟った。


Δが目的じゃない。

Δは口実だ。


目的は――境界を掃除すること。


誤差を減らすこと。


二層世界の“接続”を、

“切断”へ変えること。


第2幕は、ここまで来た。


アルトは、歯を食いしばった。


そして思い出す。


――ユウは、世界を変えなかった。

――ただ拾った。

――拾えるものを拾って、繋いだ。


――だから未来が残った。


アルトは、心の中で呟いた。


(俺も……拾う側にならないと)


(残すだけじゃ足りない)


(残したら回収される)


(拾って、逃がして、繋がないと)


アルトの目が、集落の影――

消失者たちの残像を捉える。


そしてその影の奥に、ほんの一瞬だけ見えた。


裂け目。


地下へ繋がる“ズレ”。


シオンが開いた道。


アルトの呼吸が止まった。


(……あいつらは逃げた)


(逃げたんじゃない)


(“拾った”んだ)


アルトは、ヴェルナーに言った。


「俺は記録を続ける」

「だが――」


ヴェルナーが言う。


「だが?」


アルトは言った。


「記録の内容は、俺が決める」


ヴェルナーの目が細くなる。


「君は危険だな」

「でも危険は、記録すべきだ」


その言葉は皮肉にも許可だった。


アルトは静かに端末を握り、

“回収ログ”の入力欄を開いた。


そして、こう打ち込む。


現場は救済ではなく、切断である

Δは対象ではなく、境界の反応である

回収は火種を増幅する


記録は残った。


ただし――

これは制度に都合が悪い記録だ。


アルトは理解していた。


この瞬間、彼自身もまた

“評価不能領域”に近づいた。


――救済の名で奪われるなら、救済はもう“暴力”だ。


境界線の集落は、息をしていなかった。


煙。粉塵。怒鳴り声。

泣き声。足音。破壊音。

それらが混ざり合って、“生存”ではなく“処理”の音になる。


ラザルの部隊は、迷わない。

迷わないから、躊躇がない。

躊躇がないから、壊れる速度が異常に速い。


アルトはそれを見て、胃の底から熱が上がってきた。


(これは救済じゃない)


(これは――掃除だ)


ひとりの兵が、家屋の床板を剥がした。

隠し倉庫。

隠し通路。

逃げ道。


だが逃げ道は、逃げ道である瞬間に“証拠”になる。


「ここだ」

「地下だ」


兵士の声にラザルが向かう。


アルトは一歩遅れて続く。


地下に降りると、空気が変わった。

湿り気が増し、匂いが濃くなる。


そして、奇妙な“静けさ”。


音が遠い。

上の怒鳴り声が、布越しに聞こえるように薄い。


アルトは悟る。


(ここは境界だ)


二層世界の、接触面。


ラザルが端末を上げる。


「対象、反応あり」


モニターに表示されたのは、小さな座標点。

点は揺れていた。まるで呼吸するように。


Δ-17

近傍にて共鳴発生

回収可能


アルトの心臓が、嫌な跳ね方をした。


回収可能。


それは“救える”じゃない。

“持ち帰れる”だ。


ラザルが命じる。


「壁を破れ」

「抵抗があれば排除」


兵士が工具を取り出し、コンクリートを割り始める。


その時。


――ピシ、と空気が割れた。


音じゃない。

耳ではなく、目が感じたひび割れ。


壁に、黒い線が走った。


黒い線は、影でも汚れでもない。


“存在しないはずの輪郭”だった。


アルトの端末が勝手に震える。


Δ : RESONANCE

共鳴値:臨界

同期対象:4

観測不能領域:拡大


アルトは息を止めた。


同期対象:4。


四人。


それは――BORDER REMAINSの数だ。


(シオンたちが、近くにいる)


(いや……“近く”じゃない)


(この裂け目の向こうにいる)


壁の黒線が、さらに伸びた。


空間が、きしむ。


金属が勝手に歪む。

照明が明滅する。

そして兵士の一人が、短く叫んだ。


「……足が、動かない!」


足元の影が、兵士を縛りつけている。

見えない鎖。


ラザルが言う。


「動け」

「救済を妨害するな」


兵士は呻く。

だが動けない。


その瞬間、アルトは理解した。


(これは武器じゃない)


(これは……境界の拒絶だ)


ラザルが一歩前に出る。


「障害は排除する」


彼は銃を抜いた。

壁――黒い線へ向ける。


その動きが、あまりに自然で、アルトは身体が固まった。


“撃つ”のは、敵に対してじゃない。

“矛盾”に対してだ。


矛盾を撃てば、世界は整う。


それがGENESISの手口。


ラザルが引き金を引く。


乾いた銃声。


弾丸は壁に当たった――はずだった。


だが、当たらない。


弾は途中で“消えた”。


空中で、無かったことになった。


アルトの瞳孔が開く。


(……消失)


(登録された瞬間に消える現象と同じ)


(境界は、物理すら握りつぶす)


ラザルが目を細める。


「面白い」

「これがΔか」


アルトは叫びたくなった。


面白い、じゃない。

危険だ。

これは世界の前提が壊れている。


その時、壁の向こうから声がした。


「――止めろ!!!」


怒鳴り声。

切迫した声。

だけど“誰”かは見えない。


次の瞬間。


壁の黒線が一気に裂け、

中から人影が飛び出した。


シオンだった。


髪が乱れ、腕に傷。

それでも目は燃えている。


彼女は走りながら叫ぶ。


「レムは渡さない!!」


ラザルの兵が銃を向ける。


「対象だ!」


アルトの口から、自然に言葉が出た。


「撃つな!!!」


全員の動きが止まる。


ラザルが振り返った。


「……記録担当が、命令するのか」


アルトは息を荒くしながら言った。


「それを撃てば、もっと崩れる!」

「Δは回収した瞬間に暴走する!」


ラザルは一歩も引かない。


「暴走なら処理する」


その言葉で、アルトの中の最後の“管制室”が崩れた。


処理する。

切り捨てる。

正しく。合理的に。


それが救済になるなら、救済はもう嘘だ。


シオンがレムを抱きしめていた。


レムは小さく震えている。

だが泣いていない。


泣く余裕がない。


彼の瞳がアルトを見た。


そして、ぽつりと呟く。


「……あのおにいちゃん、ログのにおいがする」


アルトは息を呑む。


ログの匂い。


管理内の匂い。

制度の匂い。


レムにとってアルトは敵だ。


それが当然だ。


でもアルトは、敵でいたくなかった。


ラザルが腕を上げる。


「確保」


兵が前へ出る。


その瞬間――


シオンの足元で、黒い線が再び走った。


空気が冷える。

熱が偏る。


床の金属が、勝手に“折れ曲がる”。


兵士が転倒する。

銃が滑り落ちる。


ラザルは眉ひとつ動かさずに、銃口をシオンへ向けた。


そして言う。


「救済だ」

「抵抗は不要だ」


アルトは、ついに前に出た。


ラザルの銃口の前に立った。


「違う」


自分でも驚くほど、声が低かった。


「救済じゃない」

「これは切断だ」


ラザルの瞳がわずかに揺れる。


「君は、管理局員だろう」


アルトは頷いた。


「そうだ」

「だから分かる」


「正しさは、人を救う」

「でも同時に、人を切る」


「今やってるのは、救う方じゃない」


「切る方だ」


ヴェルナーが静かに言った。


「アルト」

「君は越えたな」


アルトは振り返らない。


「越えた」

「……そうだ」


境界を。


管制室の壁を。


自分の中の“救われた側”を。


アルトは続ける。


「“残す判断”は、制度のためじゃない」

「現場の未来のためだ」


「だから、レムは消させない」


ラザルの声が冷たくなる。


「なら君は、評価不能領域だ」


アルトは言った。


「そうなってもいい」


その瞬間、アルトの端末が勝手に点灯した。


Δ : TRACE STORED

観測者:ALTO

共鳴値:上昇

“定義不能”


アルトの背中が汗で濡れる。


(……俺も、Δに触れた)


まだ発動ではない。

でも、世界が彼に印を付けた。


シオンがアルトを見た。


敵のはずの男が、

自分を守るように立っている。


理解が追いつかない目。


でもその目が、わずかに変わる。


「……あなた、アルト?」


アルトは短く頷く。


「そうだ」


シオンは歯を食いしばった。


「なんで、ここにいる」


アルトは答えた。


「止めに来た」

「止められなかった」


「……だから、今止める」


それは言い訳でも正義でもない。

ただの“選択”だった。


次の瞬間。


地下の裂け目の向こうから、声がした。


「シオン!!」


ミナトだ。


さらに、その後ろに別の影――

セイルとノクスが見えた。


三人が裂け目の向こうから手を伸ばしている。


BORDER REMAINSが、揃っている。


ラザルの部隊が一斉に銃を向けた。


「増援か」


「全員確保」


その瞬間、地下の空気が――“悲鳴”を上げた。


共鳴が爆発する。


黒い線が壁一面に走り、

空間が歪む。


照明が落ち、視界が白く飛び、

アルトの耳がキーンと鳴る。


そして。


音が消えた。


ほんの数秒、世界が無音になった。


無音の中で、アルトは見た。


シオンの背後――

レムの影が揺れている。


影が“二重”になり、

存在が薄くなりかける。


消える。


登録されると消える現象と同じ。


シオンが叫ぶ。


「レム!!」


アルトは反射的に手を伸ばした。


(掴め)


(掴め、今)


その瞬間、アルトの指先が触れた。


レムの腕に。


冷たい。


人間の温度じゃない。


でも確かに、そこにいる。


アルトは強く握った。


「消えるな!」


その声は命令じゃない。

祈りだ。


すると――レムの輪郭が戻った。


ほんの少しだけ、戻った。


世界が、息をした。


ラザルが低く言う。


「……その男も、回収対象だ」


ヴェルナーが笑った。


「君は最初から、ここへ落ちる運命だったな」


アルトは息を荒くしながら、裂け目の向こうを見る。


ミナト、セイル、ノクス。


彼らの目には警戒がある。

当然だ。アルトは敵だった。


でも今は――


同じ境界の中にいる。


アルトは短く言った。


「逃げろ」

「ここは潰れる」


ノクスが目を細めた。


「……お前が言うな」


アルトは、初めて少しだけ笑った。


「分かってる」


そして、シオンに言う。


「レムを連れて行け」

「俺が時間を作る」


シオンが叫ぶ。


「死ぬ気!?」


アルトは答えた。


「死なない」

「……死んでもいいわけじゃない」


「ただ、残す」


それが、アルトの限界だった。

限界だからこそ、選べた。


シオンは歯を食いしばり、裂け目へ走った。


ミナトが手を伸ばし、レムを受け取る。

セイルが後方を支え、ノクスが逃走路を確保する。


BORDER REMAINSが、ひとつの動きになる。


それは、チームの“結成”ではない。


でも。


“結束の始まり”だ。


最後に、シオンが振り返った。


裂け目の前で、アルトがラザルと向き合っている。


アルトはもう、管制室の人間じゃない。


現場で、“拾う側”の選択をした人間だ。


シオンは小さく呟いた。


「……あなたも、境界に残るの?」


アルトは答えない。


代わりに、端末を握った。


そして、ログにひとことだけ残す。


救済は、回収ではない。


その瞬間、裂け目が閉じた。


黒い線が消え、壁はただのコンクリートに戻る。


アルトは、ひとり取り残された。


だがその顔に、恐怖よりも静かな決意があった。

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