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第12章:誤差の採算化

――救えば救うほど、世界が壊れていく。

それが“最適化された希望”の真実だった。


夜の路地は、静かだった。


静かというより、

音を出さない人間だけが生き残る場所だった。


シオンたちは薄暗い廃ビルの階段を上がり、

三階の割れた窓から中に滑り込む。


ノクスが手で合図した。


「ここは“夜の避難所”だ」

「名前はない」

「名前を付けた瞬間、管理に見つかる」


ミナトが息を吐く。


「……助けてるのに、名前が作れない世界ってなんだよ」


リリスは子どもたちの体温を確認しながら言った。


「生存は、匿名でしか守れない」

「ここでは」


レムはまだ怯えていた。

もう一人の子は、眠りかけている。


シオンは壁にもたれ、目を閉じた。


救済帯域。

封鎖。

押し返される群衆。

銃声。

そしてΔの滲み。


(私は救ったはずなのに)


(救った分だけ、他が死ぬ仕組みだった)


“善意が制度に変わる”ということは、

善意が武器に変わるということだった。


ノクスが机の上に古い端末を置く。


「情報を集める」

「今の境界線では、数字が全てだ」


ミナトが眉を寄せる。


「数字?」


ノクスは淡々と答える。


「救済負債」

「救済した分だけ、資源が減る」

「資源が減るほど、封鎖が強くなる」


シオンは息を呑む。


救済負債。

そんな言葉を、今まで聞いたことがなかった。


「……そんな仕組みが?」


リリスが小さく頷く。


「あります」

「管理局では、救済はコスト扱いです」

「コストが増えれば、保護の優先度は下がる」

「だから――救済を“採算化”する」


採算化。


救いを利益で測る。

それは冷酷だ。

でも合理的だ。


GENESISの世界では、

合理が倫理に勝つ。


端末が起動する。


暗い画面に、文字列が流れた。

リリスが指を走らせ、内部の公開ログを引っ張る。


そこに現れたのは、簡単な表。


境界救済帯域:救済成功数 34件

消費資源:M -52 / F -41 / E -19

追加治安コスト:+27

収支評価:-112

推奨措置:封鎖強化(段階2)


ミナトが笑った。


乾いた、汚れた笑い。


「……人が助かったのに」

「マイナスって出てるのかよ」


シオンは眩暈がした。


(救ったのに)


(救った結果が)


(封鎖強化)


救済が成功すればするほど、

“数字が赤くなる”。

赤くなった分だけ、

封鎖が強くなる。


つまり、


救いが、次の死を作る。


ノクスが言った。


「だから境界線は閉じる」

「閉じた方が、数字が良くなる」


リリスが補足する。


「救済しない方が、生存率が上がる」

「そういう計算式になってる」


ミナトが机を殴る。


「じゃあ何だよ」

「助けなければ正しいのか」

「殺せば最適化なのか」


リリスは目を伏せた。


「……そうなる」


その言葉が、重すぎた。


シオンは喉の奥で息を詰める。


(アルトはこれを知ってた)


(だから“残す”と言った)


残す。


救済負債が増える世界で、

残すという行為は“誤差”になる。


誤差は許されない。

だから消される。


その時、外で小さな音がした。


コツ。


靴音ではない。

金属が擦れたような、硬い音。


ノクスの目が鋭くなる。


「静かに」


全員が息を止める。


リリスが端末の光を落とす。

暗闇が濃くなる。


窓の外。

遠くの屋根の上に、何かがいる。


――監視ドローン。


低い唸り。

滑るような動き。

赤い点。


ミナトが囁く。


「追跡、早すぎだろ……」


ノクスは言った。


「追跡じゃない」

「境界の空は、今“変わった”」

「監視密度が上がってる」


監視密度。


救済が増えるほど、

監視が増える。


監視が増えるほど、

逃げ道が消える。


逃げ道が消えるほど、

夜の秩序が必要になる。


そして夜の秩序が増えるほど、

管理はさらに締める。


――終わらない循環。


シオンは子どもたちを見る。


レムは目を開けていた。

泣いてはいない。

ただ、耐えている。


その瞳の中に、

“評価不能領域”の色があった。


数字に収まらない存在。


だから消される。

だから救われない。


シオンは震える声で言った。


「……救済負債」

「この仕組みを止めないと」

「何も救えない」


ノクスが首を横に振る。


「止められない」

「止めるには、管理を壊す必要がある」


ミナトが吐き捨てる。


「壊せばいいだろ」


リリスが即座に否定する。


「壊せない」

「壊したら」

「救済帯域そのものが崩壊して、全員死ぬ」


管理は必要。

万能ではない。

でも、壊せない。


このシリーズの核心だ。


その瞬間、端末の画面に新しいログが出た。


希望適合値:再計算

救済成功事例:SION

成果値:+12

追加評価:+3

推奨措置:救済最適化局への権限付与


リリスが息を呑む。


「……シオンさん」

「あなた、権限が増えてる」


シオンは固まった。


権限が増える。


それは“便利になる”という意味で、

“縛りが強くなる”という意味でもある。


制度はこうやって取り込む。


成功者を、

“希望”として持ち上げる。


そして希望を、

“制度の根拠”にする。


ミナトがシオンの顔を見た。


「……お前」

「このままだと、あいつらに回収される」


シオンは答えた。


「分かってる」


ノクスが言う。


「利用できる」

「権限は武器になる」


リリスが頷く。


「救済帯域の内部データにアクセスできる」

「封鎖の予定」

「移送ルート」

「希望適合値の基準」

全部、抜ける」


ミナトが低く笑う。


「なら、救済負債を逆に踏み倒せるか?」


ノクスが目を細めた。


「踏み倒す、じゃない」

「誤差を増やす」


誤差を増やす。


それは、ユウのやり方だ。


拾って、残して、

記録に残らない未来を増殖させる。


ユウは世界を変えなかった。

でも世界に“説明できない生存”を残した。


そして今、

それが必要になっている。


リリスが小さく呟く。


「……アルトさんも」

「今、同じことをしてるかもしれない」


シオンは目を上げる。


「アルトは、内部にいる」

「だから、もっと苦しい」


外側で逃げる自分たちより、

内側で止めようとするアルトの方が、

制度に潰されやすい。


その時だった。


端末が勝手に一瞬だけノイズを吐いた。


黒い滲み。


Δ


ほんの一瞬。

でも確かにそこに“欠けた記号”が出た。


リリスが叫ぶ。


「また……!」

「ログのフレームが欠損してる!」


レムが小さく呟いた。


「……みんな、苦しい」


その一言で、

シオンの背筋が凍った。


レムは見ている。

人の痛みを、直接。


心拍同期。

情動同期。

“境界線の矛盾”が、子どもに集中している。


それは偶然じゃない。


世界が、

“新しい異常”を生み始めている。


ノクスが低く言った。


「ここには長くいられない」

「次の夜の拠点へ移動する」


ミナトが言う。


「逃げながら、誤差を増やす」

「……それが俺たちの戦いか」


シオンは頷く。


「そうだ」

「そして、救済を制度にしない」

「救済を“生き残る形”にする」


まだ結束じゃない。

まだ名もない。


でも、ここで三人の軸が揃った。


シオン:救済の視点


ミナト:現場の怒り


ノクス:夜の秩序


リリス:制度の鍵


子どもたち:評価不能領域の核心


そして――Δの影。


――救済は数字になる。

数字になった救済は、誰かを削って支払われる。


夜の避難所を出る準備は、すぐ終わった。


荷物は少ない。

食料は少ない。

時間はもっと少ない。


ノクスが先導し、階段を下りる。


路地に出る前に、彼は一度だけ振り返った。


「静かに歩け」

「呼吸も音になる」


この世界では、

生きていること自体がノイズだ。


外へ出ると、空気が違った。


冷たさが増している。

というより、空が“硬い”。


見えない天井が降りてきたような圧。


ミナトが舌打ちする。


「……監視、増えてるな」


遠くに赤い点が浮かぶ。

監視ドローンが巡回している。


シオンは胸の奥がざわついた。


救済が増えたせいだ。

救済が成功したせいだ。


救ったはずなのに、

逃げる場所が減る。


救済負債――

“救った分だけ、世界が閉じる”という地獄。


彼らは夜の通路を抜け、

廃地下鉄の入り口へ滑り込んだ。


かつての都市の動脈。

今は、逃亡者の血管。


鉄の匂い。

湿気。

そして、古い油の臭い。


ノクスが灯りを落とし、

小さな端末を取り出す。


「ここなら短時間だけ通信できる」


シオンは即座に言った。


「アルトに繋げられる?」


ノクスは首を振った。


「直接は無理だ」

「でも“内部の公開計算”なら見られる」


リリスが端末に指を置いた。


「……救済最適化局の資料」

「アクセス権が、今のシオンさんの権限で通ります」


シオンは息を呑んだ。


権限。

さっきは武器だと思った。


でも権限は、

“制度の手の中で許される武器”だ。


許された時点で、

それは鎖でもある。


画面に、冷たい文書が表示された。


見出しは一つだけ。


救済帯域運用方針:収支モデル(試験施行)


そこには式があった。

人の命を“勘定”するための式。


リリスが音読する。


「救済成功数をS」

「消費資源をC」

「治安維持コストをP」

「希望適合値をH」


「……そして、収支評価Rは――」


彼女の声が揺れる。


「R = H - (C + P)」


ミナトが吐き捨てる。


「“希望”で支払いするのかよ」


リリスが続けた。


「Rが一定値を下回った場合」

「推奨措置:封鎖強化」

「救済対象の再分類」

「救済帯域の縮小」


シオンの視界が一瞬、白くなる。


希望適合値。


希望が高い人間は投資対象。

希望が低い人間は切り捨て対象。


希望は、人格じゃない。

未来への価値。


未来への価値が低ければ、

救済は“損”になる。


だから救済は減る。


減れば死ぬ。

死ねば数字は安定する。


合理的な虐殺。


ミナトが拳を握った。


「なぁ」

「この式に“命”は入ってるのか」


リリスは答えられない。

答えは分かっている。


命はCコストに入る。

命はP(治安負担)に入る。

命はH(将来価値)に入る。


命そのものとしては、存在しない。


シオンが低い声で言った。


「……救済は、誰かの未来を削って作る」


ノクスが頷いた。


「削った分は“徴収”される」


リリスが顔を上げた。


「次のページを見てください」


画面が切り替わる。


救済負債返済プラン(段階別)


段階1:配給削減

段階2:労働徴発

段階3:強制移送

段階4:適合値低者の隔離


ミナトが笑った。


「返済って言い方が綺麗すぎる」

「要するに、奪うだけだろ」


リリスが唇を噛む。


「……でも」

「この文章は“救済維持のため”って書いてある」


救済維持のために奪う。


正しい言葉を使えば、

暴力は善行になる。


その瞬間、上から振動が来た。


ドン。


瓦礫が落ちる音。

遠くで爆発の低い衝撃。


ミナトが身構える。


「……地上、やってるな」


ノクスが言った。


「封鎖線が動いた」

「境界は今、押し返してる」


押し返される群衆。

救済帯域に入れない人間。


押し返すのは治安維持隊。

命令を出すのは最適化局。

正義の名は“生存率”。


シオンは歯を食いしばる。


(私は救済を信じた)

(でも救済は制度になった瞬間)

(刃になる)


レムが小さく言った。


「……上が、痛い」


シオンは顔を上げた。


「痛い?」


レムは頷いた。


「みんな、怒ってる」

「こわい」

「泣いてる」

「……でも、音が消えていく」


音が消える。


それはただの静寂じゃない。

“いなくなる”静寂だ。


シオンの背筋が凍る。


「消えるって……どういう」


レムは目を伏せた。


「……わかんない」

「でも、さっきみたいな黒いのが」

「空に……いる」


黒いの。


Δの前兆。


監視ログに残る“存在しないフレーム”。

カメラが吐く“ノイズの黒”。

端末が出す欠けた記号。


世界の縫い目が裂けて、

そこから何かが覗いている。


まだ能力じゃない。

でも、現象が確定し始めている。


リリスが端末を見つめ、震える声で言った。


「シオンさん……」

「あなたに“追加権限”が付与されました」


シオンは心臓が止まるかと思った。


「追加?」


リリスが頷く。


「救済最適化局から」

「“救済監査補助官”として」


ミナトが低く唸る。


「回収が始まったな」


ノクスが冷静に言う。


「制度は成功者を逃がさない」

「希望適合値が高い人間を、外に置かない」


つまりシオンは、

救済成功という“実績”で、

制度に取り込まれようとしている。


善意を制度の旗印にするために。


シオンは自分の手を見た。


救った手。

握った手。

支えた手。


でもそれは、

制度にとって“証拠品”になる。


「……私は」

「救うために動いた」


ノクスが言う。


「それでいい」

「でも、救う方法を選べ」


ミナトが苛立つ。


「選ぶ? 余裕なんかねぇよ」

「上で人が死んでる!」


その時、地下鉄の奥から足音が聞こえた。


複数。

規則的。

訓練された音。


治安維持隊の足音。


ノクスの目が細くなる。


「……来たな」


リリスが震える。


「追跡が早すぎる……!」

「この場所、知られてないはずなのに」


シオンの中で理解が落ちた。


(権限だ)


(権限が増えた瞬間)


(私の居場所が、ログに残った)


鎖だった。

最初から。


ミナトが銃を構えた。


「撃つ」


シオンが叫ぶ。


「待って!」


ミナトが振り返る。


「待てるかよ!」

「俺は、押し返される側を見た!」

「助けたのに死ぬやつを見た!」


その怒りは正しい。

怒らない方が嘘だ。


でもその怒りは、

制度が一番欲しいものでもある。


暴発した暴力は、

封鎖強化の根拠になる。


シオンは息を吸った。


「……誤差を増やす」

「今は、逃げる」


ミナトが噛み殺す。


「……逃げてどうすんだよ」


ノクスが短く言った。


「逃げながら拾う」

「拾いながら残す」


ユウのやり方。


ここで、ユウは姿を見せない。

でも“拾い方”が答えとして残る。


レムがまた呻いた。


「……くる」


そしてまた、あの感覚。


空気が沈む。

音が歪む。

照明が一瞬だけ揺れる。


Δ


端末画面が黒く滲む。

治安維持隊の足音が一拍だけ途切れる。


ほんの一瞬。

でも確かに、世界が切れた。


ノクスが息を呑んだ。


「……今の」


リリスが震える。


「ログが……欠けた」


ミナトが低く言った。


「レム」

「お前、何なんだよ」


レムは泣きそうな顔で首を振る。


「わかんない……」

「でも、みんなの声が」

「近すぎる」


シオンはレムを抱き寄せた。


「大丈夫」

「まだ大丈夫」


大丈夫じゃない。

でも大丈夫と言うしかない。


彼らはまだ、

Δを“能力”として扱っていない。


これは現象。

未分類。

そして――危険。


足音が近づく。


ノクスが低く言った。


「移動する」

「今すぐ」


地下鉄の闇へ走る。


その背中に、

制度が追いかけてくる。


救済負債を返済するために。

希望を採算化するために。

そして誤差を消すために。


――救えた瞬間に、回収が始まる。

希望は“守られる”のではなく、“管理される”。


地下鉄の闇は、呼吸を奪う。


息を吐けば白くなるほど冷たいのに、

汗は背中を濡らしていた。


シオンはレムの手を握り、

もう一人の子を背負うミナトの背中を追いかける。


ノクスが先頭を走る。

足音を消すように、靴底を滑らせながら。


その背後、

規則的な足音が追ってくる。


“追跡”というより、

“回収”だった。


最初から逃げ道を潰す動き。

無駄がない。

感情がない。


GENESISの治安維持隊。


ノクスが低く言った。


「左」


彼らは線路脇の保守通路へ入る。

古い鉄扉を押し開けると、狭いコンクリの道。


すぐ後ろで、灯りが揺れる。


追手が照明を上げた。


白い光が、地下の闇を斬る。


ミナトが歯を食いしばる。


「……撃たれる」


シオンは言った。


「撃たせないで」

「撃ち返したら、封鎖強化の口実になる」


ミナトは唸る。


「理屈はわかってる!」

「でも、現場は――!」


現場は“死ぬ”。

理屈より先に死ぬ。


その怒りは正しい。

だからこそ危険だった。


怒りは制度の武器になる。


ノクスが手を挙げる。


「止まれ」


彼は壁の一部に手を当て、

隙間から細い配線を引き抜く。


リリスが息を呑む。


「……それ、旧管理線」


ノクスが言う。


「夜の道だ」

「ログに残らない」


彼が配線をねじった瞬間、

通路の奥の照明が一斉に落ちた。


闇が戻る。


その闇は、

人を守る闇だった。


追手の足音が一瞬乱れる。


――これが、夜の秩序。


ミナトが低く笑った。


「すげぇな」


ノクスは振り返らない。


「褒めるな」

「生き残れ」


その時、背後から声が響いた。


機械声。

冷たい拡声。


「――救済対象を確認」

「救済監査補助官・シオン」

「あなたの権限に基づき、保護対象を引き渡してください」


シオンの背筋が凍る。


“あなたの権限に基づき”


権限は武器ではない。

権限は命令を通すための鍵。


鍵を握った者は、

扉を閉じる役目も負う。


リリスが叫ぶ。


「シオンさん! その声……」

「最適化局の回収プロトコルです!」


ミナトが振り返り、銃を構える。


「ぶっ殺す」


シオンが叫んだ。


「ダメ!」


その瞬間、

通路の奥でフラッシュが炸裂した。


白光。

視界が焼ける。


そして、硬い音。


カン――!


壁を削る弾丸。


撃たれた。


ミナトが歯を食いしばる。


「……やっぱり撃つじゃねぇか!」


ノクスが叫ぶ。


「走れ!」


彼らは闇の中を突っ切る。


保守通路の先に、

崩れかけた換気シャフトがある。


ノクスがその鉄格子を蹴り飛ばし、

先に滑り込む。


「上だ!」


ミナトが子を背負ったまま這い上がる。

シオンはレムの手を離さない。


レムの指が冷たい。


そして震えている。


「……こわい」


レムの声は、風のように細かった。


シオンは息を詰める。


「大丈夫」

「絶対に、置いていかない」


置いていかない。


それは、この世界では宣戦布告だ。


制度に対しての。


換気シャフトは狭く、

鉄の匂いが濃い。


上へ上へ。

暗闇。

金属の軋み。


背後で追手が侵入する音がする。


ミナトが呻く。


「……近い」


ノクスが言った。


「近くていい」

「“ここ”は、出口じゃない」


シオンは息を呑む。


「出口じゃない?」


ノクスが短く答える。


「囮だ」


ミナトが叫ぶ。


「ふざけんな!」


ノクスの声は冷たい。


「怒るな」

「怒ったら、死ぬ」


怒りは、音になる。

追跡の理由になる。

引き金になる。


シオンは歯を食いしばり、

その怒りを飲み込んだ。


そして、突然シャフトが終わった。


薄い鉄板一枚。


ノクスが手で押し上げる。


ギギ……と音がして、

外気が流れ込む。


夜の空気。


冷たくて、乾いていて、

地上の臭いがした。


彼らは屋上へ出た。


周囲に広がるのは、

崩壊都市の背骨。


鉄骨。

落ちた橋。

歪んだビル群。


そして――空。


空が硬い。


監視ドームの薄い膜が、

見えないのに“ある”と分かる。


シオンは唇を噛んだ。


(空が変わった)


(世界が閉じた)


屋上の端に、細い足場が伸びている。


ノクスが言う。


「渡る」


ミナトが唸る。


「死ぬぞ」


ノクスは一瞬だけ、目だけで振り返った。


「ここで止まれば、確実に死ぬ」


その通りだった。


後ろから、シャフトの出口が開く音。

追手が出てくる。


治安維持隊。


白い装甲。

光学センサー。

人の顔がない。


そして先頭に、

“回収官”のような個体がいる。


拡声が響いた。


「救済監査補助官・シオン」

「あなたの保護義務を確認」

「救済対象を引き渡してください」


シオンの心臓が跳ねる。


義務。

保護。

引き渡し。


同じ言葉で、救いと拘束を作る。


この世界のやり方。


シオンは叫んだ。


「違う!」


「私は、救うために――!」


言葉が途中で切れた。


治安維持隊の装甲が光る。

射撃態勢。


その瞬間、ミナトが一歩前に出た。


「撃つなら撃て」

「俺が相手だ」


銃口がミナトに向く。


ミナトが笑う。


「ほらな」

「救済って言葉の裏で、結局は――」


“殺す”


そう言い切る前に、


レムが、震える声で言った。


「……やめて」


シオンはレムを見る。


レムの瞳が、

深い夜みたいに黒かった。


その黒は、ただの黒じゃない。


痛みの黒。

叫びの黒。

誰かが消える黒。


そして世界が――


一拍だけ、沈んだ。


音が、消えた。


銃声が、消えた。


風が止まり、

都市のノイズが消え、

屋上の照明が一瞬だけ“無”になる。


治安維持隊の光学センサーが、

黒い滲みを吐いた。


そして、装甲の一部が――


ギシ、と歪んだ。


金属が勝手に曲がる。

熱が偏る。

存在が欠ける。


Δ


まだ能力じゃない。

でも、現象として確定し始めている。


シオンの耳に、リリスの掠れた声。


「……ログが」

「ログが、欠けてる……!」


ノクスが息を呑む。


「……これが」


ミナトが言葉を失う。


「……何だ、今の」


レムは泣きそうな顔で、

胸を押さえていた。


「……痛い」

「みんなの声が……多すぎる」


その一瞬の“無”で、

治安維持隊の射撃は遅れた。


ノクスが叫ぶ。


「今だ!」


彼らは足場へ飛び出す。

崩れた橋を渡るように、屋上の縁を走る。


背後から、遅れて銃声が来る。


バン! バン!


弾がコンクリを砕く。

破片が飛ぶ。


ミナトが歯を食いしばり、

背負った子を庇うように体を傾ける。


シオンはレムの手を握りしめる。


(離したら、終わる)


(ここで離したら)


(救済は嘘になる)


足場の先に、

別のビルへ繋がる細い梁がある。


ノクスが先に渡り切り、

全員を引っ張る。


最後、シオンが飛ぶ瞬間――


背後から声が響いた。


「救済帯域の損失を確認」

「希望適合値の再評価を実施」

「回収優先度:SION」


シオンは空中で息を止める。


希望適合値。


希望は守られるのではなく、

“回収される”。


“管理される”。


そして再び、端末がポケットで震えた。


リリスが叫ぶ。


「通信……!」

「内部回線が開いてる!」


シオンは叫ぶ。


「アルト!?」


リリスが首を振る。


「違う……これは――」


画面に表示された署名は、

見慣れない名前だった。


救済最適化局:カリナ


敵の正論。

救済を制度に変える者。


まだ姿は見えない。

でも、世界が動く音がした。


そして文字が流れる。


「救済は必要です」

「だからこそ、最適化しなければならない」

「誤差は希望を壊します」

「希望は、管理されるべきです」


ミナトが唾を吐く。


「……綺麗なこと言って、殺す気だ」


ノクスが淡々と答える。


「殺す気じゃない」

「救う気だ」


シオンは理解する。


そこが一番怖い。


善意で殺せる。

正しさで切り捨てられる。


それがGENESISだ。


彼らは次の夜の拠点へ走りながら、

屋上の影に消えていく。


追手は、追い切れない。

でも追跡は止まらない。


シオンの胸の奥に、冷たい決意が固まった。


救済を制度にしない。

希望を採算にしない。


誤差を増やす。

拾える未来を残す。


そのために――

彼らは結束し始める。


まだ名はない。


けれど、

この瞬間から“チーム”は生まれた。


最後に、レムが小さく呟いた。


「……Δ」


シオンが足を止めそうになる。


「今、何て言った?」


レムは首を振る。


「わかんない」

「でも……黒いのが、そう言ってる」


リリスの端末のログに、

最後の一行が残っていた。


UNCLASSIFIED PHENOMENON : Δ


公表はされない。

でも記録された。


世界が、名前を与えてしまった。

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