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第11章:救済は最適化である

――助けることは、正しい。

だからこそ、止められない。


境界の朝は、白い。


夜が明けても暖かさは来ない。

ただ光が増えるだけだ。


地下を抜けた一行は、結局“救済ルート”に乗せられた。

それが最も安全で、最も危険だった。


登録局員たちは、丁寧だった。

声も低い。

動きも遅い。

対象を驚かせないように――それが教育されていた。


「落ち着いてくださいね」

「ここは保護区域です」

「あなたは、もう大丈夫です」


子どもたちは頷くしかない。

頷く以外の選択肢がない。


そしてシオンも、頷くしかない。


(私は今、救った側だ)

(でも同時に――差し出した側でもある)


リリスが小さく呟いた。


「……私がしたこと」

「正しかったのかな」


ミナトが吐き捨てる。


「助けた」

「それだけだろ」


ノクスは何も言わない。

彼は“結果”だけを見る。


救えた。

だがこれは、始まりに過ぎない。


保護施設は、鉄の箱だった。


壁は白い。

床は白い。

空気は薄い。


“清潔”という名の支配。


受付に通されると、

登録局員が端末を差し出した。


「監査官シオン様」

「仮登録から正式登録へ移行する手続きをお願いします」


正式登録。


その言葉が、喉に引っかかる。

それは救いの完成であり、檻の確定だ。


シオンは端末に触れた。

画面には、最適化の項目が並ぶ。


登録対象:2名

希望適合値:測定中

保護優先度:暫定B

教育プログラム:適用可能

将来貢献可能性:未評価

リスク:低


リスク:低。


低いなら、守る。

高いなら、切る。


ただそれだけ。


シオンは目を閉じた。


「……希望適合値って、何ですか?」


登録局員がにこやかに答える。


「“救った後に”どう生きるかを測る指標です」

「保護資源は有限ですから」

「希望が続く個体に投資するべきです」


希望が続く個体。


希望が切れる個体は、切り捨てる。


希望まで、評価される。


シオンは言葉を失った。


その時、扉が開いた。


足音がしない。

なのに空気が変わった。


全員が振り返る。


そこにいたのは――

女性だった。


制服ではない。

軍服でもない。

だが“権限”の匂いがする。


柔らかいジャケット。

整理された髪。

表情は穏やか。

笑みは優しい。


そして目は――冷たいほど澄んでいる。


「初めまして」


彼女は丁寧に頭を下げた。


「救済最適化局、カリナです」

「あなたが観測監査官・シオンですね」


カリナ。


第2幕で提示される“敵の正論”。

でも敵じゃない。


彼女は、本当に救いたい人間だ。


シオンは立ち上がる。


「……救済最適化局?」


カリナは頷いた。


「はい」

「境界線の混乱を減らすために設立されました」

「“救えたのに記録がない”矛盾が増えています」

「その歪みは、いずれ人を殺します」


ミナトが食ってかかる。


「今まさに殺してるだろ」

「登録した瞬間、追跡される」

「それが救済かよ」


カリナは怒らない。

声も上げない。

ただ、事実を返す。


「追跡は救済です」

「“保護対象が消えない”ための手段です」

「非ログ救助は、美談に見えます」

「でも“美談”は、制度を壊します」


シオンが息を呑む。


美談が制度を壊す。


アルトと同じ言葉だ。

でも意味が違う。


アルトは“残せ”と言った。

カリナは“整えろ”と言っている。


カリナは子どもたちに膝をついた。


目線を合わせる。

優しく微笑む。


「怖かったね」

「もう大丈夫」

「あなたは、ここで守られる」


子どもが小さく頷く。


その瞬間、シオンは心の奥が痛んだ。


(守られる)

(守られるって……誰が決める?)


カリナは立ち上がり、シオンに向き直る。


「あなたの仮登録は、見事でした」

「混乱を最小化し、命を最大化した」

「これが正しい救済です」


褒められている。

でも、それが怖い。


成功体験が制度を加速させる。


カリナは続けた。


「私たちは境界線に“救済ドーム”を建設します」

「登録を受けた者だけが、安全に移動できる」

「非ログ救助は廃止し、救済を一本化します」


一本化。


それは、世界を救う言葉でもあり、

世界を殺す言葉でもある。


ノクスが静かに言った。


「救済ドームは」

「壁だ」


カリナは微笑んだ。


「はい」

「壁は必要です」

「壁があるから、人は守られる」


ミナトが拳を握る。


「壁があるから、外は死ぬんだろ」


カリナは一瞬だけ沈黙した。

でもすぐに答える。


「外は、元々死にます」

「私たちは、救える分だけ救う」

「それ以上は、現実ではありません」


その言葉は残酷だった。

でも嘘ではない。

だから刺さる。


シオンは息を吸った。


「……あなたは悪じゃない」

「でも、あなたの救済は」

「希望を管理する」


カリナは頷いた。


「ええ」

「希望は放置すると暴走します」

「あなたは知っているはずです」

「非ログ救助が増えたから、境界線が揺れ始めた」


揺れ。


Δの前兆。


シオンの脳裏に、端末の黒い滲みが浮かぶ。


カリナはさらに言う。


「あなたの承認ログに、異常記号が混入していました」


空気が止まった。


リリスが息を呑む。


「……気づいてたんですか」


カリナは穏やかに言った。


「ええ」

「でも公表はしません」

「混乱を生むから」


混乱を生むから隠す。

合理。

正しい。


カリナはシオンを見つめる。


「あなたは観測監査官です」

「なら、協力してください」

「境界線を救うために」


協力。


その言葉が、鎖になる。


シオンは答えなかった。


代わりに、子どもたちを見た。


生きている。

まだ震えている。

でも――消えていない。


救えた。


それが事実。


それが、カリナの正しさを強くする。


(私は)

(救ったのに)

(救済の武器を渡した)


成功体験の代償。


シオンは静かに言った。


「……時間をください」

「判断するために」


カリナは頷いた。


「もちろん」

「あなたは誠実です」

「誠実な人が、救済を支える」


その言葉は優しい。

だからこそ恐ろしい。


――守るために、閉じる。

それが“正しい救済”の完成形だった。


施設の廊下は、無音だった。


足音が吸い取られるように消えていく。

壁の角には監視灯。

天井の隅に黒い小さな点。

見ていないようで、見ている。


ミナトが低く吐き捨てる。


「……息が詰まる」


ノクスは淡々と歩く。


「空気が綺麗すぎる」


綺麗すぎる。

それは“余計なものが消された”という意味だ。


人間の匂いも、汚れも、熱も。

希望さえも。


シオンは、立ち止まりそうになった。


(これが、救済)


(ここに入れば、生き残れる)


(でも――ここに入れば、戻れない)


その時、リリスが小さく言った。


「……シオンさん」

「私、端末のログを見たい」


シオンは頷いた。


「見よう」


ミナトが眉を寄せる。


「見るだけでいいのか?」

「消せねぇのか?」


リリスは首を横に振る。


「消せない」

「消そうとした瞬間、異常扱い」

「……そして、“正しい封鎖”が加速する」


正しい封鎖。


その言葉が、シオンの胸を刺した。


案内された小部屋には、透明な壁があった。


外から見える。

中からも見える。


“隔離”を“開放”として見せる設計。


カリナが椅子に座り、指を軽く動かす。


端末のホログラムが展開され、

境界線の地図が浮かび上がった。


まるで――未来予測の盤面。


「これが救済ドーム計画です」


地図の上に、半円形の光が配置されていく。

中心は保護施設群。

そこから放射状に“移送ルート”が伸びる。


そして境界線の外側が、暗い。


暗いのではない。

“未定義”になっている。


カリナは穏やかに言った。


「境界線に“安全な帯域”を作ります」

「登録者はこの帯域を移動できる」

「非登録者は、外側へ」


ミナトが即座に噛みつく。


「追い出すってことだろ」


カリナは否定しない。


「はい」

「追い出すのではなく、分類します」

「守れる範囲を守るために」


分類。


合理。

正しい。


だからこそ、逃げ場がない。


カリナは続けた。


「救済は、善意では続きません」

「善意は揺れます」

「感情で揺れる救済は、死者を増やします」


シオンは唇を噛む。


(否定できない)


自分もまた“揺れた救済”を見てきた。

救えなかった人間の目を知っている。


カリナの言葉は、救いを語っている。

だから強い。


リリスが端末を開く。


仮登録された子ども2人のログが表示された。

その中に、見慣れない項目が増えている。


希望適合値:測定中

情動安定性:低

協調性:高

Δノイズ:検出(未分類)

残存確率:A-


リリスの顔が青くなる。


「……Δノイズ」

「記号が、項目になってる」


シオンが喉の奥で息を呑む。


項目になった。

つまり“観測対象”になった。


カリナは淡々と説明する。


「異常は、危険因子です」

「危険因子は、管理しなければならない」

「それだけです」


ミナトが椅子を蹴りそうになる。


「それだけって言うな!」

「子どもだぞ!」


カリナは目を細める。


「だからです」

「子どもだから、守る」

「守るために、測る」


守るために測る。


その言葉は優しい。

でも、刃だった。


シオンは思い出す。


アルトの通信。


“残せ”

だが、気づかれるな


気づかれるな。

つまり、制度に飲まれるな。


でも今、すでに飲まれている。


シオンが言った。


「……希望適合値が低かったら、どうなるんですか?」


カリナは、少しだけ間を置いた。


「保護優先度が下がります」

「教育資源の配分が変わる」

「移送ルートの選択肢が減る」


ミナトが言う。


「つまり、死ぬ」


カリナは頷く。


「はい」

「現実には」


その瞬間、部屋の空気が冷えた。


ノクスが初めて、声の温度を落とした。


「……救済は」

「死の順番を決める制度になる」


カリナは静かに言った。


「元々、そうです」

「崩壊後の世界では」

「救済とは常に、選別です」


それがシリーズの根幹設定。

評価値の世界。


合理は冷酷じゃない。

合理だ。


だから正しい。

だから終わる。


その時、外の廊下がざわめいた。


遠くで人の声。

警備の動き。

そして短い警報音。


カリナが端末を操作し、状況を確認する。


「……境界線で衝突が起きました」

「非登録者が救済帯域に流入しています」


ミナトが歯を食いしばる。


「そりゃ、入るだろ」

「入りたくなるに決まってる」


カリナは冷静に言う。


「入りたい人全員を入れれば」

「帯域は崩壊します」

「崩壊すれば全員死ぬ」


ミナトが怒鳴った。


「だからって閉めるのかよ!」


カリナは答える。


「閉めます」

「閉めることが、救いです」


シオンは、胃の奥が痛くなった。


(閉めることが救い)


(それは、守るための暴力だ)


リリスが、端末の別ログを見つけた。


シオンの仮登録承認ログ。

そこに「成果評価」が付与されている。


監査官SION:救済成功

成果値:+12

推奨配属:救済最適化局


成果値。


成功した。

だから、引き抜かれる。

だから、使われる。


シオンは吐息を漏らす。


「……私が、制度の成功例にされる」


カリナは優しく頷いた。


「あなたは希望です」

「境界線を救う希望」


その言葉が、皮肉だった。


希望が数値化される世界で、

希望と言われることほど危険なことはない。


その瞬間、レムが突然、頭を抱えた。


「……う、ぁ……」


小さく呻く。

目が大きく見開かれる。


シオンが駆け寄る。


「レム!」


リリスが端末を見て叫ぶ。


「心拍が!」

「また同期してる!」

「今度は……施設の全員と!」


同時に、照明が一瞬だけ暗転した。

ほんの一瞬。

だが、確かに世界が“途切れた”。


そして端末画面に、黒い滲みが走る。


Δ


しかしそれは文字ではない。

記号というより、

“欠損したフレーム”だった。


ミナトが低く言った。


「……なんだよ、これ」


カリナの表情が、初めて揺れた。


ほんのわずか。

それでも“恐怖”に近い。


「……記録班に回します」

「すぐに」


ノクスが言った。


「公表はしない」


カリナは答えない。

否定もしない。


シオンは悟った。


(隠す)

(隠すことで制度を守る)

(制度を守ることで人を救う)


無限の正しさ。

無限の逃げ場のなさ。


ミナトがシオンを見た。

目が燃えている。


「……ここから出よう」

「子どもを守るなら、ここじゃない」


リリスが言った。


「でも、出た瞬間に追跡されます」

「登録ログがある」


ノクスが静かに言った。


「なら、逆に使う」

「登録ログを盾にする」


カリナが立ち上がった。


「逃げるつもりですか?」


声は穏やか。

だがその穏やかさの奥に、

“手続きを起動する冷たさ”がある。


シオンは答えた。


「判断の時間をください」

「その間、子どもたちはここに置かない」


カリナは小さく首を傾げた。


「それは、保護拒否です」


シオンは言い切った。


「違う」

「“保護の形”を変えるだけです」


その瞬間、カリナの目が細くなる。


彼女は敵じゃない。

でも――壁だ。


「……分かりました」

「あなたが監査官である限り」

「手続きは保留にしましょう」


保留。


つまり、今はまだ撃てない。

だが銃口は向いたままだ。


――救うために閉じる。

閉じるために、壊す。

それが“正しさ”の末端だった。


施設の外は、騒がしかった。


遠くから怒号が聞こえる。

金属の擦れる音。

何かが叩かれる乾いた響き。

そして、規則的な足音――治安維持隊の行進。


窓の外に見える境界線は、

朝の白さのまま、冷たく揺れていた。


シオンは子どもたちの手を握った。


レムはまだ頭を押さえ、

もう一人の子は震えている。


「……帰りたい」

小さな声。

どこに帰りたいのかは、分からない。


帰る場所はもう無い。

だから、人は“守られる場所”に縋る。


その縋りが、

管理にとって最も扱いやすい資源になる。


カリナは扉の前に立った。

背筋は真っ直ぐ。

声は静か。

でもそれは、命令の声だった。


「境界線で衝突が拡大しています」

「救済帯域への侵入が増えた」

「治安維持隊が封鎖を開始します」


ミナトが吐き捨てる。


「封鎖って言えば正しいけどな」

「要するに、押し返すんだろ」


カリナは頷く。


「はい」

「押し返します」

「守るべき範囲を守る」


シオンが問う。


「……押し返した先に、人は生きられるんですか」


カリナは答えた。


「生きられない人もいます」

「でも、それが現実です」


現実。


逃げ場を潰す最強の言葉。


善意で語られる現実は、

抵抗する理由を奪う。


突然、警報が鳴った。


短い。

鋭い。

“侵入者”を知らせる音。


施設内の照明が赤く点滅する。

空気が一段冷たくなる。


リリスが端末を開いて叫んだ。


「外……!」

「救済帯域の入口に、人が集まってる!」

「押し返されて……倒れてる!」


画面には、遠景の監視映像。

人の群れ。

怒号。

泣き声。

そして――盾。


治安維持隊の盾が、

人の胸を押し返している。


その瞬間、ミナトが動いた。


「……ふざけんな」


椅子を蹴って立ち上がり、扉へ向かう。


シオンが腕を掴んだ。


「ミナト!」


ミナトは振り返らない。


「助けるって言っただろ」

「助けたはずだろ」

「なのに――」


言葉が詰まる。


助けたはずだ。

でも、助けてない。

助かったのは“中に入れた者”だけだ。


他は、

“助ける対象ではない”に分類されただけ。


ノクスが静かに言った。


「ミナト」

「今出れば、君は死ぬ」


ミナトが笑う。


「死ぬ? いいじゃねぇか」

「ここで生きてる方が気持ち悪い」


その言葉は、正しい。

そして危険だった。


正しさが爆発すると、

人は簡単に一線を越える。


シオンは掴む手に力を込めた。


「お前が死んだら、子どもも死ぬ!」

「私たちは――逃げるために生きてるんじゃない」

「残すために動いてる!」


残すため。


アルトの言葉が、シオンの中で燃えた。


“残す判断”

それは破壊じゃない。

だが逃避でもない。


ミナトが歯を食いしばる。


「……じゃあどうする」

「見てろって言うのか」


シオンは答える。


「見ない」

「抜ける」


リリスが顔を上げた。


「……抜ける?」


ノクスが小さく頷いた。


「夜の出口がある」

「この施設には、登録の裏ルートがある」


カリナが眉を寄せた。


「……それを知っているのは」

「NIGHT側の人間だけです」


ノクスは微笑まない。


「夜は、秩序だ」

「逃げ道を作る秩序」


シオンはカリナを見る。


「あなたは止めますか」


カリナは、少しだけ沈黙した。


止めれば正しい。

止めなければ不正。

でも、止めれば死ぬ。


救済は選別。

選別の外に出る者は、救済の敵になる。


カリナは小さく言った。


「……私は」

「あなたを敵にしたくない」


その一言が、逆に怖かった。


彼女は本当に善い。

善いから、制度を守る。


制度を守るためなら、

善い人ほど冷たくなれる。


カリナは続けた。


「でも、あなたが外に出れば」

「治安維持の判断は別です」

「制度が追います」


制度が追う。


つまり、カリナは追わない。

だが壁は動く。


リリスが端末に手を伸ばした。

震える指。

でも目は真っ直ぐだった。


「登録ログを……逆利用します」


シオンが息を呑む。


「できるの?」


リリスは頷く。


「監査官の権限が残ってる」

「仮登録は“保護移送中”扱いになる」

「この状態なら、移送ルートに紛れ込める」


保護移送中。


それは“守られる”という意味であり、

“運ばれる”という意味でもある。


自由じゃない。

でも今は、その鎖を武器にするしかない。


ノクスが言う。


「輸送搬入口を使う」

「見張りが薄い」


ミナトが低く笑った。


「正しさを踏み台にするのかよ」


シオンは言った。


「正しさに殺されるくらいなら」

「正しさを使って生きる」


廊下を走る。


子どもたちは抱えられ、

小さな足は床を蹴らない。


足音が響く。

だが警報と怒号に紛れた。


角を曲がった瞬間、

施設の壁面スクリーンにニュースが流れた。


「救済帯域の安全確保のため、封鎖を強化します」

「非登録者の侵入は、全体の生存率を下げます」

「これは合理的な措置です」


合理的。


正しい。

でも救われない。


シオンは画面を見ない。

見れば、止まる。

止まれば、終わる。


搬入口。


巨大なシャッター。

そこに二人の治安維持隊員がいた。


盾と銃。

顔は覆われている。


リリスが端末を掲げ、震えない声を作る。


「仮登録対象の移送です」

「監査官権限で、優先移送ルートに接続します」


隊員の一人が端末を見る。


視線がシオンに向く。


「……監査官」

「確認します」


その瞬間、レムが小さく呻いた。


「……う」


そして世界が、また揺れた。


照明が一瞬だけ落ちる。

空気が沈む。

耳が詰まる。


短い断絶。


隊員の端末画面が、黒い滲みで覆われた。


“フレームが欠ける”感覚。


そして――


Δ


画面の隅に、

ほんの一瞬だけ出た記号。


隊員が息を呑む。


「……何だ、今の」


シオンは体が凍りつく。


(まただ)

(レムの周囲で)

(世界がノイズを吐く)


カリナの言った“危険因子”。

制度が追いかける“未分類”。


ミナトが前に出ようとする。

だがノクスが肩を押さえた。


「待て」


ノクスは隊員に向かい、淡々と告げた。


「ログ障害だ」

「救済帯域の混乱で回線が詰まってる」


隊員は迷う。

迷いは、制度の中で唯一の穴だ。


リリスが畳み掛ける。


「今ここで止めれば、移送遅延になります」

「責任ログに残ります」


責任ログ。


この世界で最も恐ろしい言葉。


隊員の喉が動いた。

そして――シャッターが開く。


金属音。

冷たい風。

外の朝の白が差し込む。


「……通れ」


一行は走った。


輸送用の通路。

鉄の匂い。

薬品の匂い。

そして、外の騒乱の匂い。


遠くで誰かが叫ぶ。


「入れてくれ!」

「子どもがいる!」

「助けてくれ!」


救済帯域の入口。

押し返される群衆。


シオンは目を逸らさなかった。


逸らせなかった。


(これが)

(私が成功した救済の続き)


救えた。

でも救えない。


その矛盾が、胸を裂く。


ミナトが歯を食いしばる。


「……クソが」


ノクスが言う。


「見ろ」

「忘れるな」

「夜は、忘れないためにある」


通路を抜ける直前、

背後で銃声が鳴った。


撃ったのは治安維持隊。

空へ。

威嚇。


群衆が崩れる。

悲鳴が上がる。

誰かが倒れる。


その瞬間、レムが叫んだ。


「やめて!」


叫んだだけなのに、

空気が震えた。


金属が、きしんだ。


照明が、波打つように揺れた。


世界が一瞬、熱を失う。

そして――逆に一箇所だけ熱が偏る。


シオンの肌が焼けるように熱い。


Δの布石。


まだ発動じゃない。

でも“世界の仕様が崩れた”。


リリスが端末を見て青ざめる。


「……ログが」

「全員に共通の異常値が残ってる」


ノクスが呟いた。


「印がついたな」


印。


それは追跡のための印であり、

未来の引き金の印だった。


外へ出た。


空は白い。

だが、さっきまでと違う。


揺れている。

薄く。

見えないほどに。


まるで、世界が“発火寸前”で息を止めている。


シオンは立ち止まり、振り返った。


施設の奥。

あの白い箱。

あれは救いであり、檻だ。


カリナは追ってこない。

追わない。


でも、追跡は始まる。


制度が動く。

正しさが走る。


シオンは胸の奥で誓った。


(救済を否定しない)

(管理を壊さない)


(でも――救いを閉じ込めない)


まだ結束じゃない。

まだ名前もない。


ただ、三人は同じ方向を向いていた。


境界に残る未来のために。

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