第10章:最初の登録
――救えた。
その成功体験が、いちばん危ない。
高架下を抜けた先は、雨が降っていなかった。
降っていないのに、空気は濡れている。
冷たい。
金属の匂い。
焦げた配線。
そして――甘い消毒臭。
救済区画が近い匂いだ。
ミナトが眉をひそめた。
「……近づきすぎだろ」
「封鎖線の外側に逃げたはずなのに」
ノクスは周囲を見回した。
「外側にも、内側がある」
「境界は一本線じゃない」
シオンは一歩ずつ進みながら、頭の中で整理する。
封鎖は“壁”じゃない。
網だ。
地上の門。
地下の感知膜。
空の監視柱。
端末の同期。
そして人間の心に挿し込まれる「安心」。
その安心が――
登録を選ばせる。
レムが小さく言った。
「……あそこ」
「私が消えかけた部屋、近い」
シオンの胸がきつくなる。
「助けたい子がいるって言ってたね」
レムは頷く。
「……いる」
「名前、知らない」
「でも泣いてた」
「泣いても、誰も来なかった」
その言葉が、喉に刺さる。
泣いても誰も来ない。
でも手順は来る。
シオンは決める。
「行く」
「助ける」
「――ただし、勝ち方を選ぶ」
ミナトが苛立ち混じりに言う。
「勝ち方?」
シオンは言った。
「正面から殴らない」
「正しさで戦わない」
「“救えた”を作って、でも奪われない形で終わらせる」
無理だ。
矛盾だ。
でもそれをやらないと、第2幕は確実に崩れる。
ノクスが静かに言う。
「それが出来たら」
「境界は残る」
彼らは廃ビルの影を縫って進み、
救済区画の外縁へ辿り着いた。
そこは街ではなく――
施設だった。
薄い白い壁。
整備された舗装。
動く監視カメラ。
静かな灯り。
そして入口には、大きな看板。
「登録受付:保護と再配分」
穏やかな言葉。
しかし、その下に小さな注意書きがある。
「未登録者は滞在できません」
保護のため。
安全のため。
生存率のため。
全部正しい。
全部人を切る。
リリスが端末を見て、青ざめる。
「ここ……第二区画の臨時施設です」
「元々は医療拠点」
「でも今は“希望適合予備審査”の試験場に変わってる」
希望適合。
まだ第3幕の言葉のはずなのに、
その原型がもうある。
進みすぎている。
ミナトが低く呟く。
「やっぱりだ」
「……善意が、制度になってる」
入口の前に、小さな列ができていた。
人々が静かに並んでいる。
叫ぶ者はいない。
暴れる者もいない。
疲れ切った顔。
でも安心しようとしている目。
登録すれば食べられる。
登録すれば眠れる。
登録すれば――救われる。
その空気を、シオンは痛いほど感じた。
(これが、首を締める)
(でも、否定したら人が死ぬ)
ノクスが言う。
「列に紛れるか?」
リリスが首を振った。
「無理です」
「監視は“列の外側”を見てる」
「紛れた瞬間、顔認証される」
ミナトが舌打ちする。
「詰んでんじゃねぇか」
シオンはレムを見る。
「中にいる子の場所、覚えてる?」
レムは震えながら頷いた。
「……白い廊下」
「部屋が並んでて」
「窓が無くて」
「でも音がする」
閉じ込められてる。
管理された安心の檻。
リリスが小さく言う。
「“保護”の名目なら」
「扉は外からしか開けられない」
ミナトが言った。
「じゃあ壊す」
シオンは首を振る。
「壊したら終わり」
「壊した瞬間、“危険”のラベルが貼られる」
「そして封鎖が正当化される」
ノクスが言う。
「救済の制度は、敵を必要とする」
「敵が現れた瞬間に完成する」
だから、敵になってはいけない。
シオンは言った。
「……登録する」
「一回だけ」
「最初の登録を、こちらの手で作る」
ミナトの目が鋭くなる。
「バカか?」
「登録したら消えるかもしれねぇんだぞ」
シオンは静かに言った。
「そう」
「だから――消えない人を選ぶ」
リリスが息を吞んだ。
「私が行きます」
「内部の端末を扱える」
「審査の穴も知ってる」
シオンは即答しない。
リリスを見た。
彼女は震えている。
でも、逃げない。
シオンは理解した。
彼女はもう、拾う側だ。
ノクスが言う。
「俺も行く」
「夜は、こういう時に使う」
ミナトが吐き捨てる。
「二人とも死にたいのか」
「……なら俺も行く」
シオンは言った。
「私は外で待つ」
「レムを守る」
「もし消えそうになったら、引き抜く」
レムがシオンの服を掴む。
「……シオン」
「私、また原因になる?」
シオンは首を振る。
「原因じゃない」
「分岐点だよ」
リリスは深呼吸して、列へ紛れ込んだ。
制服はない。
でも歩き方が“内部者”だ。
自然に、違和感なく。
恐ろしいほどスムーズに。
ノクスは少し遅れて列へ入った。
影のように。
ミナトは最後に入る。
不機嫌な顔を隠しもしない。
でも、それが逆に“ただの一般人”に見える。
怒る余裕がある人間は、まだ余裕がある。
列が進む。
受付の白いカウンター。
スタッフは笑っている。
優しい。
疲れている。
そして、仕事をしている。
「ようこそ、登録へ」
「お名前を」
リリスは言った。
「……リリス」
「避難民です」
スタッフは端末を叩く。
「識別、未登録」
「適合審査を開始します」
「安心してください。保護です」
保護。
その言葉で人は黙る。
リリスの手がわずかに震えた。
でも、彼女は笑って頷いた。
「はい」
嘘の笑顔。
でも必要な笑顔。
ノクスも続く。
「ノクス」
「……荷運びだ」
スタッフは淡々と処理する。
「適合審査開始」
「大丈夫です」
「抵抗しない限り危険はありません」
ミナトの番が来る。
「ミナト」
スタッフが顔を上げた。
「……あなた、表情が」
ミナトは言った。
「腹減ってんだよ」
スタッフは苦笑した。
「わかります」
「こちらへ」
それが怖い。
優しい人がやっているから。
悪意がないから。
止められない。
中に通された三人は、白い廊下を歩かされた。
床がきれいすぎる。
壁が新しすぎる。
空気が無菌すぎる。
生存のために必要な清潔。
でも生存のために、人間から匂いが消える。
レムが言った“窓がない”。
本当にない。
閉じ込めるためじゃない。
安全のため。
その言い訳がいちばん残酷だ。
扉が並ぶ。
番号。
記号。
シリアル。
その中に――
“泣き声”があった。
レムの言った通りだ。
小さな、声。
リリスが小さく囁く。
「……あそこ」
扉の横に、表示。
「保護対象:未評価」
「処理待機」
処理。
命が処理される。
ミナトが低く唸る。
「……殺す気かよ」
ノクスが言った。
「殺さない」
「でも、消す」
リリスが端末を取り出す。
内部用じゃない。
でも、同期している。
第9章で始まった“連動”。
そして今、それが役に立つ。
リリスは扉のロックに端末を当てた。
画面がノイズを吐く。
黒。
存在しないフレーム。
Δの前兆。
権限:不足
例外:同期異常値
一時解放:3秒
「……開く!」
リリスが叫ぶ。
ノクスが扉を押し開けた。
中にいたのは――
小さな子どもが二人。
痩せている。
目だけが大きい。
泣いてもいない。
泣くのをやめた目。
その目が、世界で一番怖い。
ミナトが息を呑む。
「……レムと同じだ」
レムの過去。
評価不能領域の始まり。
ノクスがしゃがみ込み、優しく言った。
「大丈夫」
「外に出る」
子どもは動かない。
動けない。
リリスが言った。
「歩けない子です」
「栄養が……」
ミナトが即座に背負った。
「黙って掴まれ」
その瞬間――
廊下の先から音。
コツ……コツ……
別の足音。
規則正しい。
迷いがない。
「回収班」
ノクスが小さく言う。
扉の外、スタッフの声。
「……適合審査室に移動してください」
「保護対象の確認が必要です」
優しい声。
でも、それはもう命令だ。
リリスの顔が青ざめる。
「ここでバレたら」
「施設全体が封鎖される」
ミナトが言った。
「封鎖される前に出る」
ノクスは首を振る。
「出られない」
「入口は監視されてる」
リリスが小さく言った。
「……別ルート」
「搬送用の裏通路があります」
シオンが外で待っている。
レムと一緒に。
ここで三人が消えたら、終わる。
でも――
ここで助けたら、成功体験が生まれる。
最初の登録。
“救えた”。
そして、その瞬間から、制度はさらに強くなる。
シオンは外で空を見上げていた。
白い監視光の向こう。
わずかに揺れる影。
世界が発火寸前だ。
(来て)
(戻って)
祈るように待つその耳に――
遠くで警報が鳴り始めた。
ピッ……ピッ……ピッ……
登録施設内、異常検知。
“救済”が“警戒”に変わる音。
――救えた。
だから、次は“もっと正しく”救われる。
裏通路は、白い廊下のさらに裏だった。
医療搬送用の廊下。
汚れがある。
段差がある。
古い配線が露出している。
それだけで、少しだけ呼吸ができた。
「こっち」
リリスは低い声で先導した。
視線は真っ直ぐ。
足取りは速い。
彼女は“内部の人間”だった。
でも今は、内部の抜け道を使って内部を裏切る。
それがどれほど怖いか――
それでも、足が止まらない。
ミナトは背中の子どもを落とさないように支え、歯を食いしばった。
「軽すぎる……」
ノクスが振り返る。
「声を落とせ」
「……耳がいる」
耳。
監視。
記録。
ここは“壁”じゃない。
空間そのものが管理されている。
背後からまた足音。
コツ、コツ、コツ。
一定。
同じテンポ。
追跡してるのは人じゃない。
“手順”だ。
リリスが端末を見て青ざめた。
「追跡班じゃない……」
「回収ユニットが起動してます」
「施設内に“非ログ救助”が発生したから」
ミナトが吐き捨てる。
「救助したら回収が来るって、どういう世界だよ」
ノクスが言う。
「救助は“例外”」
「例外は、制度を壊す」
「だから回収する」
「壊れる前に」
正しさが、正しさを守るために人を奪う。
リリスの声が震えた。
「……これが、管理なんだ」
角を曲がった先に、鉄扉があった。
搬送出口。
扉の横に、警告ランプ。
赤。
点滅。
LOCKDOWN
封鎖。
「嘘でしょ……」
リリスが端末を当てる。
画面が一瞬白く光って、次に黒いノイズを吐いた。
権限:不足
緊急封鎖:解除不可
解除不可。
ミナトが扉を殴ろうとする。
「ぶっ壊す!」
ノクスが止める。
「音がする」
「その瞬間、終わる」
ミナトが唸る。
「じゃあどうすんだよ!」
リリスが必死に考える。
端末を見つめる。
指を動かす。
呼吸が浅くなる。
「……別の条件」
「権限じゃない」
「封鎖は“安全”のため」
「なら、安全条件を満たせば……」
彼女の指が止まった。
「……保護対象を、登録したことにすればいい」
ミナトが目を剥いた。
「は?」
ノクスが理解してしまった顔をした。
「登録」
「保護対象が“管理下”に入れば、封鎖は解除される」
救うために登録する。
救うために、檻に入れる。
矛盾。
でも――現実。
リリスの声が小さくなる。
「登録だけなら……」
「一時登録なら……」
「たぶん、消えない」
“たぶん”。
その言葉が怖い。
ミナトが歯を鳴らす。
「そんな賭け、出来るかよ」
ノクスは言った。
「賭けないと」
「ここで全員回収される」
三人が捕まる。
子どもが奪われる。
そして外で待つシオンとレムが、次に刈り取られる。
選択は一つ。
最初の登録。
リリスは子どもの手首を取った。
細い。
骨が浮いている。
端末を当てる。
画面が震える。
対象:未評価
登録形式:仮登録(72時間)
保護レベル:暫定
条件:監査官承認
監査官承認。
そんなものはない。
今ここにはいない。
リリスが息を止める。
「……シオン」
「観測監査官」
「彼女のIDが必要」
ノクスが低く言った。
「外だ」
「繋げるか?」
リリスは首を振る。
「通常は無理」
「でも……」
画面の隅に、黒いノイズ。
存在しないフレーム。
Δ。
第9章で見た。
同期異常値。
リリスの端末が勝手に、通信モードを開いた。
同期要求:SION
緊急回線:例外ルート
リリスの目が揺れた。
「……繋がる」
「繋がってしまう」
ノクスが言った。
「繋げ」
「今だけでいい」
外。
シオンはレムの肩を抱いて、施設を見上げていた。
警報が鳴っている。
白い光が増えている。
人々の列がざわつき始める。
「……始まった」
シオンの端末が震えた。
リリスからの通信。
そして、強制同期。
画面に表示。
承認要求:仮登録(72時間)
対象:未評価(2名)
理由:保護のため
※承認しない場合、回収手順へ移行
シオンの喉が詰まる。
承認すれば、救える。
承認すれば、“救済の成功体験”が生まれる。
でも承認は、管理に加担することでもある。
そして成功体験は制度を加速させる。
アルトの言葉が刺さる。
――救いの形を見せるな。
見せた瞬間、制度が奪う。
それでも。
シオンは、レムを見る。
レムは震えながら頷いた。
「……助けたい」
「消える前に」
シオンは息を吸う。
「私が選ぶ」
「選んで、責任を持つ」
指が承認ボタンに触れる。
その瞬間――
端末が、ほんの一瞬だけ黒く染まった。
画面の中央に、見慣れない記号。
Δ
そして、すぐに消える。
シオンの背筋が凍った。
(今のは何)
(誰が出した)
(私? それとも――)
でも迷っていられない。
シオンは承認した。
施設内。
リリスの端末が確定音を鳴らす。
ピン。
承認:SION(観測監査官)
仮登録:完了
保護対象:管理下へ移行
LOCKDOWN:解除条件成立
鉄扉のランプが赤から青へ変わった。
解錠。
ガコン、と重い音。
ミナトが呟く。
「……開いた」
ノクスが言った。
「行くぞ」
扉を押し開けた先は、
外の夜風だった。
冷たい。
でも生きている匂い。
ミナトが走り出す。
ノクスが後ろを確認する。
リリスは振り返った。
廊下の奥から、回収ユニットが現れる。
顔がない。
マスクの奥が黒い。
そして、優しい声。
「保護対象は登録されました」
「回収は中止します」
「――協力に感謝します」
感謝。
恐ろしい。
救えた。
たった一回の承認で。
その成功体験が、世界を変える。
リリスの喉が震えた。
「……救えたのに」
「怖い」
ノクスが答えた。
「救えたからだ」
「次は、“もっと正しく”救われる」
そして制度は、もっと速くなる。
外。
シオンとレムは出口の陰で待っていた。
扉が開き、三人が飛び出してくる。
ミナトの背中には子ども。
もう一人はノクスが抱えている。
シオンは駆け寄った。
「……無事!?」
リリスが息を切らして頷く。
「仮登録です」
「72時間」
「でも……これで救えました」
レムが子どもたちを見て、涙をこぼした。
「……よかった」
「消えてない」
子どもの片方が、かすれた声で言った。
「……あったかい」
その声だけで、シオンの胸が潰れそうになる。
救えた。
本当に救えた。
その瞬間――
施設の上空で、監視ドローンがひとつ旋回した。
そのライトが、一瞬だけ揺れる。
まるで“記録”が追いついていないみたいに。
そして遠くで、別の警報が鳴り始めた。
ピッ……ピッ……ピッ……
今度は、もっと低い音。
施設の外側。
境界線全体。
“次の段階”の準備音。
ノクスが呟いた。
「……これが」
「最初の登録」
ミナトが吐き捨てる。
「救えたのに、負けた気がする」
シオンは言った。
「負けてない」
「でも、次はもっと難しくなる」
リリスが端末を見つめた。
画面の隅に、ログ。
登録承認者:SION
同期異常値:Δ
記録:保留
保留。
つまり――内部は気づいている。
Δを。
でも公表はされない。
まだ誰も発動していない。
それでも世界が発火寸前で動き始めた。
――救えた。
その事実が、追跡の開始合図になる。
逃げ道は、風の匂いがする方だった。
でも今は――風が“管理の匂い”を運んでくる。
ミナトは子どもを背負ったまま走り、
ノクスはもう一人を抱きかかえて足音を殺す。
リリスは端末を抱え、必死に画面を睨みつけている。
シオンは最後尾で、レムの手を離さない。
「……走れる?」
レムは、震える声で答えた。
「うん」
「走る」
「……今は」
子どもたちは軽すぎた。
助かったはずなのに、命の薄さを感じる重さだった。
シオンは喉が乾く。
(救えた)
(でも――ここからが本当の地獄だ)
裏路地に入った瞬間、ノクスが足を止めた。
「止まるな」
「……聞こえる」
シオンも耳を澄ませた。
“機械音”ではない。
“足音”でもない。
規則正しい、微細な振動。
空気が鳴っている。
――ドローン。
上空ではなく、街の高架の影。
灯りの届かない場所で、静かに視界を削っている。
ミナトが唸る。
「追ってきやがった」
リリスが端末を見たまま言う。
「追ってきた、じゃない」
「……私たちが“追跡可能になった”」
シオンが息を呑む。
追跡可能。
登録したことで、
助かったことで、
そして――“管理下に入った”ことで。
救済は、位置情報になる。
保護は、識別子になる。
命は、番号になる。
それが合理。
それが最適化。
リリスの端末に表示される。
仮登録対象:2名
同行者:4名
移動ログ:取得中
逸脱判定:監視推奨
監視推奨。
優しい言葉で追跡する。
シオンが言った。
「つまり」
「救えた代わりに」
「逃げられなくなった……?」
ノクスが答えた。
「逃げられる」
「ただし、“逃げている”と証明される」
ミナトが吐き捨てる。
「地獄だな」
その時、子どもの片方が小さく咳をした。
乾いた咳。
胸の中に、砂があるみたいな音。
シオンは立ち止まりそうになる。
でも止まれない。
リリスが焦った声を出した。
「このままじゃ追いつかれます!」
「監視ドームが境界全体で起動してる」
「今の警報は“区域内”じゃない」
「“境界線”の警報です!」
境界線。
世界を二層に分けた余白が、
切断へと移行しようとしている。
シオンは必死に考える。
いま必要なのは、逃走ではない。
“逃走に見えない移動”だ。
ノクスが言った。
「夜のルートがある」
ミナトが睨む。
「信用できんのかよ」
ノクスは淡々と返す。
「信用じゃない」
「生存の現実だ」
彼らは崩れた地下鉄入口へ滑り込んだ。
湿気。
カビ。
遠くで滴る水音。
ここは“ログが薄い”。
管理が全てを見られない場所。
評価不能領域の温床。
皮肉にも、それが救いになる。
階段を降りる途中、シオンは気づいた。
レムが息を乱している。
ただ疲れたわけじゃない。
目が、焦点を結んでいない。
「レム?」
レムは唇を震わせた。
「……変」
「さっきから、音が二重」
「見えないのに、見える」
シオンの背筋が冷たくなる。
Δの布石。
でも、まだ“能力”じゃない。
ただの異常。
ただの揺れ。
ただの前兆。
リリスも気づいたのか、端末を見て顔色を失った。
「……ログが」
「レムさんの心拍、同期してる」
ミナトが足を止める。
「誰とだ」
リリスの指が震える。
「……全員と」
その瞬間。
地下鉄の暗闇で、
一瞬だけ照明が“逆に明るく”なった。
照明が点いたわけじゃない。
暗闇の密度が変わった。
空気が薄くなる。
冷気が刺さる。
金属の梁が、ぎし、と鳴った。
まるで勝手に歪んだみたいに。
ノクスが低く言った。
「……来てる」
ミナトが言った。
「何が」
ノクスは答えない。
答えられない。
だがシオンは分かってしまった。
“管理”が追いつこうとしている。
ログが、境界の外まで伸びようとしている。
そしてその加速に、
Δの異常が噛み合ってしまっている。
地下通路の奥。
壁に貼り付けられた古い案内板の前で、ノクスが止まった。
「ここで分かれる」
シオンが即座に言う。
「分かれない」
「今は一人でも欠けたら終わる」
ノクスは言った。
「違う」
「分かれるんじゃない」
「“見せる”」
ミナトが眉を寄せる。
「何を」
ノクスは短く答えた。
「登録対象」
リリスが息を呑む。
「……囮にするってこと?」
ノクスは首を振る。
「囮じゃない」
「“保護対象”として正しく動かす」
「逃走じゃなく、移送に見せる」
管理は、敵を追う。
でも保護対象の移送なら追えない。
追う理由が消える。
正しさが消える。
ノクスは続けた。
「登録対象は、救済施設へ戻る」
「でも実際には、夜の別ルートへ流す」
「追跡は“保護手順”として処理される」
シオンは唇を噛んだ。
救えた成功体験を、さらに利用する。
制度の動線を逆に使う。
頭が良すぎる。
汚すぎる。
でも――生きる。
リリスが言った。
「……できます」
「私なら端末で移送ログを書ける」
「ただし」
シオンが聞く。
「ただし?」
リリスは震えた。
「それをやったら」
「私が完全に“管理側の嘘”を使うことになる」
「もう戻れない」
シオンは答えた。
「戻らなくていい」
「今は、生き残る方が先」
その言葉が、リリスを救うと同時に壊した。
彼女の目が、決まった。
「……やります」
移送ログは、静かに成立した。
移送目的:保護継続
移送経路:臨時保護ルート(地下)
監査官承認:SION
同行者:夜間搬送員(NOX)
シオンの名前が、再び使われる。
善意がまた制度になる。
それでも――
今は助けるため。
ミナトがノクスを睨む。
「お前」
「信用できねぇ」
ノクスは子どもを抱えたまま言った。
「信用しろとは言わない」
「ただ、夜を使え」
その言葉は、敵じゃない。
でも味方とも違う。
境界の人間の言葉だ。
地下通路を進む途中、
突然、シオンの端末が震えた。
知らない回線。
見たことのないID。
リリスの端末にも同時に同じ通知。
内部通信:ALTO
緊急:境界封鎖が“前倒し”された
登録ログに異常記号が混入した
それは、まだ定義するな
“残せ”
だが、気づかれるな
アルト。
姿は見えない。
でも声が刺す。
シオンは返信しない。
返信した瞬間、ログになる。
ただ、目を閉じて呟く。
「……わかった」
その瞬間、また一瞬だけ、端末の画面が黒く滲んだ。
Δ
今度は、はっきり見えた。
シオンの背筋が凍る。
これが何か、まだ分からない。
でも確実に、何かが“ここにいる”。
レムが小さく言った。
「……ねえ」
「いま、誰かいた」
シオンは言った。
「いない」
「でも、残った」
ついに出口が見えた。
夜の風。
腐った雨の匂い。
遠い灯り。
しかし出口の向こうには、
影が立っていた。
管理局の制服ではない。
回収班でもない。
――ただの人間。
でも、その背後には小型の監視灯が浮いている。
リリスが息を呑んだ。
「……登録局員」
「“善意の登録”をする人たちです」
あの第1幕で出てきた存在。
リリスが恐れていた存在。
彼らは笑っている。
本当に優しい笑顔で。
そして言った。
「よかった」
「保護対象が見つかったんですね」
「こちらで引き継ぎます」
引き継ぎ。
正しい言葉。
ミナトが一歩前に出る。
「引き継がせねぇ」
その瞬間、シオンが腕を伸ばして止めた。
「――待って」
ミナトが叫ぶ。
「なんでだよ!」
シオンは答えた。
「ここで殴ったら」
「“危険”が完成する」
「封鎖が正当化される」
登録局員はにこやかに言う。
「危険なんですか?」
「私たちはただ、助けたいだけです」
それが一番怖い。
ノクスが低く言った。
「……制度が完成する」
シオンは前に出た。
「引き継ぎます」
「ただし、私が監査官として確認する」
登録局員は少し驚いた顔をした。
でもすぐ笑った。
「もちろんです」
「正しく救いましょう」
正しく救う。
その言葉が、
この世界で一番危険だ。
シオンは子どもを見た。
その目はまだ生きている。
だから――
いまは“勝つ”。
シオンは静かに言った。
「私が、最初の登録を承認した」
「だから、私が最後まで責任を持つ」
登録局員が頷く。
「素晴らしい」
「では、正式登録へ進みましょう」
正式登録。
その言葉で空気が冷えた。
ミナトが唸る。
「……来たぞ」
ここから第2幕が始まる。
善意が制度に変わる。
救えた成功体験が、
首を締める。
シオンは笑顔を作った。
嘘の笑顔。
でも必要な笑顔。
「はい」
「……進みます」
そして心の中で誓った。
(でも、奪わせない)
(拾う未来を、殺させない)
その夜。
GENESIS内部の記録室で、ひとつのログが生成された。
異常現象:同期異常
記号:Δ
発生条件:未確定
公表:不可
処理:保留
監視対象:SION / YUU(欠損)/ ALTO
ユウの名前が、欠損として残る。
本人は不在。
でも影は、ログに刺さる。
拾う側は沈黙したまま、
世界に答えだけが残る。
第10章・結末
最初の登録は成功した。
救えた。
子どもたちは消えていない。
だが同時に、
“救済が制度になる扉”が開いた。
そして境界線は――
もう元には戻らない。




