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第1章:救われたのに、記録がない

――境界線に落ちていたのは、命の痕跡だった。


崩壊後の空は、薄い金属膜のように鈍く濁っている。

朝なのか夕方なのか、雲が重すぎて判別がつかない。

どの時間にも共通するのは、呼吸のたびに肺の奥が乾いていく感覚だけだった。


境界線――。

管理機構《GENESIS》が定めた、監視と救済の“端”にあたる区域。

ここから先は、地図の塗りが急に雑になる。


保護区画は数字に置き換えられ、

非保護区画はただ「外」と呼ばれ、

どちらでもない中間だけが、「境界」として残っていた。


この境界は“危険”だから存在するのではない。

境界は、管理の理念が届ききらない地点として残った。

「救う」ために設計されたはずのシステムが、救いきれない事実を抱え込む場所。

それを人間の目で見張り、矛盾を拾い集める役目が、観測監査官の仕事だった。


シオンは、気圧の低い空の下で車両を降りた。

足元の地面は、砂でも土でもなく、砕けたコンクリの粉。

踏むたびに僅かな音がして、遠くの廃ビルの隙間へ消えていく。


胸元にぶら下げた携帯端末が、規則正しく震えた。

その振動だけが、この場所にまだ“文明のリズム”が残っている証明だった。


シオンは端末の画面を指で弾く。


【通達:境界監査】

件名:非ログ救助事案(一次報告)

区画:B-07 境界外縁

事象:生存者救助が確認されたが、救助ログが存在しない

付随:救助ビーコンが“型番欠落”状態で発見


型番欠落――。


その言葉が、喉の奥に引っかかる。

管理機構において「型番」は、秩序そのものだ。


救助ビーコンには必ず番号があり、

番号があるから救助が成立する。

番号がない救助は、救助ですらない。

それはただの“偶然”だ。


偶然は管理にとって、最も扱いにくい。


シオンは、端末を閉じて目を上げた。

境界の向こう側には、人の気配が薄い。

ただ、風と鉄と煤の匂いだけが漂っている。


「……救われたのに、記録がない、か」


口にした瞬間、皮肉だと思った。

けれど、それ以上に――怖かった。


救済は、記録で守られる。

記録があれば、その命は“拾われた”と証明される。

証明されるから、次も救われる。


逆に言えば。

記録のない救済は、次を保証しない。

救ったという事実が、誰にも守られない。


シオンは歩き出す。

廃材の柵を抜け、崩れた道路を跨ぎ、

境界監査用の簡易観測塔へ向かう。


そこにいたのは、現場監視員の男だった。

制服はGENESIS仕様だが、裾がほつれ、袖口に泥が詰まっている。

管理内の人間が、管理外の汚れを纏っている。


男はシオンを見るなり、肩を強張らせた。


「観測監査官、シオン……で合ってますか」


「ええ。一次報告、読んだ。現物は?」


男は視線を逸らし、簡易塔の中へ案内した。

狭い室内は埃と機械油の匂いが混じり、

古いモニターが数台だけ生きている。


机の上に、小さな装置が置かれていた。


救助ビーコン。

楕円形の端末で、表面には擦り傷が走り、角は欠けている。

外部装甲が剥がれた箇所から、内部の薄い金属板が見えていた。


シオンは手袋越しにそれを持ち上げ、裏側を確認する。

通常なら刻まれているはずの番号――型番の刻印がない。


いや。

ない、というより――削り取られている。


「……わざと、消されてる」


男は喉を鳴らした。


「そう見えます。ですが……削ったにしては、変なんです」


「変?」


男は小さく息を吸った。


「削った痕が……滑らかすぎる。

 削ったというより、溶けたみたいなんです。

 熱痕も、焦げも、ないのに」


シオンは装置の表面を指でなぞる。

確かに、番号があったであろう部分は、妙に“整って”いる。

粗さがない。

削り取ったなら、もっと歪んでいいはずなのに。


シオンは問いかける。


「救助された人は?」


「……今は境界保護所に。

 見つかったのは、二名。

 一人は少年、もう一人は女性。

 どちらも脱水と軽度の衰弱。外傷は少ない」


「救助者は?」


男は沈黙した。

それだけで答えが出た。


「不明、ということね」


「はい。監視ログに残っていません。

 境界外縁で救助の動きは確認されてるのに、

 カメラの映像はその瞬間だけ“欠け”ています」


「欠ける?」


「その……フレームが飛んだみたいな。

 でも、機材の故障では説明できない」


機材故障で説明できない。

それはつまり、管理の責任にできない。


シオンは、口の中が乾くのを感じた。

この世界で一番怖いのは、悪意ではない。

悪意は、対策できる。予測できる。


怖いのは“理由がない現象”だ。

評価も、管理も、救済も、すべての基盤は理由の上に立っている。

理由が崩れた瞬間、世界は制度の手を離れる。


シオンは端末を開き、現場ログを呼び出した。

境界監視映像。

救助が起きたとされる時間帯。


画面には、崩れた道路と、煤けたビル群。

風が吹き、砂埃が舞い、遠くの鉄骨が揺れる。


時間が進む。


そこに――何かが映った。


人影。


……いや、人影だったはずの場所に、黒いノイズが走る。

輪郭が滲み、光が歪み、像が一瞬だけ“存在を拒否する”ように消える。


そして次の瞬間。


地面に倒れていたはずの人間が、少し位置を変えている。

動いたのではない。

移動した、という言葉の方が正しい。


救助が起きた。

確かに起きた。

けれど、そこにいるはずの救助者が――映っていない。


シオンの指が、画面の一箇所で止まる。


「……これ」


ノイズが走った瞬間、画面の隅に薄い文字列が一瞬だけ表示された。

本来、映像に出るはずのない内部コード。


SYNC_HeartRate / 02


心拍同期。


「嘘……」


シオンは息を呑む。

心拍同期は、救助医療の一部でしか使われない。

つまり、救助者はただの通行人ではない。


“救うための知識を持っている”。


それなのに、番号がない。

それなのに、ログに残らない。

それなのに、救助だけが成立している。


救助とは、管理が与えるもののはずだった。

管理外の救助は、事故でしかないはずだった。


「……誰が、これをやった」


シオンの声は、思ったより低く出た。

男は答えない。

答えられない。


答えがないこと自体が、今は一番の答えだった。


シオンは端末を閉じ、ビーコンを机に置いた。

金属音が小さく響く。


「保護所へ案内して。救助された二人に会う」


「……はい」


扉を出る直前。

シオンはふと、境界線の外に目を向けた。


風の向こう、瓦礫の街が広がっている。

そこには道も、灯りも、管理もない。

それでも“生きている”何かがいる。


シオンの胸に、嫌な確信が芽生えた。


この事件は、単なるログの欠落じゃない。

管理の外で起きた救助は――

“管理されない未来”が、もう現実に増殖している証拠だ。


そして、その未来は。


誰かが拾わなければ、残らない。


――境界の保護所で、“存在しない救助者”の輪郭が立ち上がる。


境界保護所は、街の“入口”ではなく、“出口”に建っていた。

人を迎えるための施設ではなく、外に出てしまった命を回収するための施設。

壁は薄い合金板で、風が吹くたびにわずかに鳴る。

その音だけが、ここがまだ壊れていないことを主張していた。


シオンが入った瞬間、空気が変わった。

外の乾いた砂埃の匂いに、消毒剤の鋭い匂いが混ざる。

救うための匂い。

けれど、救いの匂いはいつも、どこか焦げている。


受付にいたのは、若い補助員だった。

目の下に疲労の影があり、背筋は伸びている。

シオンの制服の徽章を見ると、反射的に敬礼した。


「観測監査官、来訪記録を――」


「記録は後でいい。救助された二名に会わせて」


補助員は一瞬だけ迷った。

迷うということは、規則があるということだ。

境界の規則は、救済と監視のどちらにも傾く。

どちらを優先するかは、現場の人間に委ねられる。


「……現在、面会は制限されて――」


「この件は“非ログ救助”。管理側の判断が遅れるほど危険になる」


その言葉で、補助員の表情が変わった。

非ログ救助。

誰もが聞いた瞬間に理解する、“扱いたくない事案”だ。


補助員は小さく頷き、奥へ案内した。


廊下の照明は暗く、節電モードのまま戻らない。

壁に貼られた掲示には、簡素な文字が並んでいる。


「配給は記録に基づく」

「登録なき者への追加支援は行わない」

「救助は保護所内で完結させること」


救助が“完結”する。

その言葉が、妙に冷たい。


シオンは歩きながら、端末を開いた。

救助された二名の簡易カルテ。

少年:推定12〜14。女性:推定30前後。

どちらも“区画登録なし”。

つまり、彼らは管理に拾われていなかった。


それでも、彼らは救われた。


「……この矛盾が、今回の核だ」


案内の補助員が止まり、扉の前で言った。


「先に少年から。女性はまだ意識が不安定で……話すと熱が上がる」


「わかった」


扉が開き、シオンは小さな病室に入った。


ベッドに座っていた少年は、毛布を肩まで引き上げていた。

肌は乾いてひび割れ、目だけが異様に澄んでいる。

“生き延びた目”だ。

助けられた目というより、逃げ切った目に近い。


少年はシオンを見ると、すぐに警戒した。

制服が持つ意味を知っている。


「……また、連れていくの?」


声がかすれている。

それでも、言葉は鋭い。


シオンは一歩引いて、手を見せた。

武器も拘束具も持っていないという証明。

彼女は、命令より先に、相手の恐怖を減らすことを選んだ。


「連れていかない。話を聞きに来ただけ。

 君を救った人のこと」


少年の視線が揺れた。

救った人。

その存在を語ることが、少年にとって危険だとわかっている。


「……言ったら、あの人が消える?」


その問いに、シオンは一瞬だけ言葉を失った。

“消える”という表現。

ただの比喩に聞こえない。


「消えないようにするために、私はここにいる。

 お願い。見たことを教えて」


少年は唇を噛み、しばらく沈黙した。

それから、ぼそりと呟いた。


「……見えなかった」


「見えなかった?」


「声は聞こえた。手も触れた。

 でも、顔が……ずっと、うまく見えなかった」


シオンは背中が冷えるのを感じた。

監視映像と同じだ。

像が“拒否”される。


「フードを被っていた?」


少年は首を振った。


「違う。フードとかじゃない。

 ……なんか、空気が“ずれて”た。

 そこだけ、熱いのに冷たいみたいな。

 目が、そこに合わせられない」


熱いのに冷たい。

矛盾の感覚。

シオンの中で、さっき見た映像のノイズが蘇る。


「声は、どんな声だった?」


「男の声。若くない。

 怒ってない。命令もしない。

 ……ただ、淡々と『立てるか』って聞いた」


淡々とした救助。

優しさというより、現場の判断。

救う理由を説明しない救助。


シオンは、胸の奥で何かが引っかかった。

それは、かつて記録で読んだ“噂”の文体に似ている。


――拾えるなら拾う。

――拾うのは物資じゃない。未来だ。


名前は出ていない。

英雄譚でもない。

ただ、現場で語られる“拾う側”の言葉。


「その人、何か……特徴は?」


少年は少し考え、言った。


「左手。指が……二本、短かった」


シオンの眉が微かに動いた。

事故か、戦いか。

崩壊後世界では珍しくない。

でも、特徴になるほど印象に残ったということは、少年はそれだけ必死に見た。


「あと、背中に……変なマーク。

 黒い布に、白い線で。

 三角みたいな……でも、途中で折れてる」


シオンの心臓がわずかに速くなる。

“Δ”に似ている。

ただし、完成していない。途中で折れている。

それは、前兆の形だ。


少年は続けた。


「その人、ずっと言ってた。

 『記録は要らない』って」


シオンは息を止めた。


「……記録は要らない、って?」


「うん。

 『記録に残すと、次の人が死ぬ』って」


救助が増えるほど、説明不能が増える。

説明不能が増えるほど、制度は“対処”を始める。

対処が始まれば、境界は閉じる。

閉じれば、外の人間は死ぬ。


少年はそれを、直感ではなく経験として言っている。


シオンは少年の目を見た。


「君は、前にも救われたの?」


少年は首を振った。


「救われたのは初めて。

 でも、見たことはある。

 ……消えるところ」


シオンの喉が鳴った。


「消える?」


少年は小さく頷いた。


「連れていかれるんじゃない。

 連れていかれたら、まだ“どこか”にいる。

 でも……あれは、違う」


少年の指が、空をなぞる。

見えない穴を示すように。


「登録端末に触れた瞬間、

 そこにいた人が……最初からいなかったみたいになる」


シオンは一瞬、世界が遠のくのを感じた。

それは救済ではない。

回収でもない。

“消去”だ。


「それを、どこで見た?」


少年は答える前に、扉の方を見た。

誰かが聞いていないか確認する仕草。

すでに少年は“監視”を身体で覚えている。


「……配給台帳のところ」


配給台帳。

第1幕の核になる矛盾が、ここで繋がる。


「配られたのに、記録がない」

その矛盾は、現場の死活に直結する。

食料がなければ死ぬ。

記録がなければ配給されない。

なら、人は記録を偽造する。

偽造を防ぐために登録が厳格化する。

厳格化は救済を“拘束”に変える。


そしてその先で、人が消える。


シオンは手を握り締めた。

爪が手袋に食い込む感触で、自分を現実に繋ぎ止める。


「……わかった。ありがとう。

 君の話は、君を守るために使う」


少年は疑うように目を細めた。


「守るって言う人、だいたい嘘つく」


「嘘つきもいる。

 でも、私は“観測監査官”だから。

 見たものを、見なかったことにはできない」


それは誓いではなく、自分の職の病だった。

矛盾を放置できない。

救えないものを、救えないままにできない。


少年はしばらく見つめてから、小さく言った。


「……じゃあ、一個だけ」


「なに?」


「その人、最後にこう言った。

 『境界は、閉じる前に渡れ』って」


シオンは胸の奥で、その言葉を反芻した。

境界は閉じる前に渡れ。

救助者は、未来を読んでいるようだった。

いや――未来ではない。

“制度の反応”を知っている。


管理の動き方を知っているのは、管理内の人間だけだ。

しかし、管理外にもそれを知る者がいる。


“拾う側”は、何度も管理と擦れた者だ。


シオンは病室を出た。

廊下に戻ると、補助員が小声で言った。


「女性の方も、少しなら話せます。

 ただ……彼女、ずっと同じ言葉を繰り返していて」


「同じ言葉?」


補助員は、困ったように眉を寄せた。


「……『記録しないで』って」


シオンの背中に、確信に近い冷えが走った。


救助者は一人ではないかもしれない。

救助の“やり方”が、伝染している。

管理外の生存ルートが、増殖している。


そしてその増殖を、管理は必ず“制度化”しようとする。

善意を、仕組みに変える。

仕組みは便利だ。

便利なものほど、人は手放せない。


手放せない仕組みが、誰かを消す。


シオンは、次の扉の前で一度だけ立ち止まった。

呼吸を整える。


この先で聞く言葉は、きっとさらに冷たい。

でも、聞かないことはできない。


――観測監査官は、希望を観測する職ではない。

崩れる兆候を、最初に見つける職だ。


扉が開く。


――救われた命は、救済の証明を拒んでいた。


病室は、少年の部屋よりもさらに静かだった。

照明は一段暗く落とされ、呼吸音さえ吸い込むような薄い壁に囲まれている。

ベッドの上で横たわる女性は、毛布を胸まで引き上げ、目だけを開けていた。


熱に浮かされた目。

だが焦点はぶれていない。

意識が曖昧なのではなく――警戒が濃い。


女はシオンを見るなり、声を絞った。


「……記録、しないで」


それが第一声だった。


シオンは一歩近づき、椅子に腰掛けた。

この距離なら、相手に逃げ場を残せる。

追い詰めるためではなく、“安心させる余白”を置く。


「記録しない。あなたが嫌ならしない。

 でも、少しだけ話してほしい。救助のこと」


女は目を閉じ、短く息を吐いた。


「救助……じゃない。

 あれは、ただ……拾われただけ」


拾われた。


その言葉は、この世界では奇妙な温度を持つ。

救済でもなく、支援でもなく、保護でもない。

ただ“拾われる”。

誰かの個人的な判断で、命が掬われる。


それは、管理にとって最も危険な概念だ。

選別の外側で命が残るという事実は、制度の正しさを揺らすから。


シオンは慎重に問う。


「あなたを拾ったのは、誰?」


女は視線を逸らし、天井を見つめた。

まるで、そこに答えが書かれているみたいに。


「顔は……見えなかった。

 でも、声は覚えてる」


「どんな声?」


「疲れてる声。

 優しいとかじゃない。

 ……慣れてる声」


慣れている。

救助に慣れている声。


「その人は、何か言った?」


女の唇が震えた。

それは恐怖だけじゃない。

感情の揺れ――救われた側が抱える、説明できない負債の揺れだ。


「『ここは記録するな』って」

「『記録したら、お前は次に消される』って」


シオンの背中に冷たい汗が滲んだ。


消される。

少年が言った言葉と同じだ。


消える、ではなく、消される。

主体がいる。

誰かが、そうする。


「……誰に消されると?」


女はすぐに答えなかった。

代わりに、小さく笑った。

笑いというより、乾いた空気が漏れただけに近い。


「誰でもいいんだよ。

 “正しい側”がやる」


正しい側。

それはつまり、管理側。


シオンは喉が鳴るのを抑えた。

管理は救うために存在する。

正しさは、人を救うためにある。

その正しさが、消す側に回るのなら――

この世界は、救済の名を借りた処理装置になる。


女は続けた。


「最初はね、嬉しかった。

 生きてていいって、思えた。

 助けられるって、まだあるんだって」


その言葉は、震えていた。

救われた瞬間に生まれた希望。

それが今、喉の奥で錆びついている。


「でも……次に“登録”の話が来た」


登録。

保護。

配給。

医療。

そのすべての入口。


「登録すれば助かる。

 登録しないと、次はない。

 そう言われた」


シオンは頷く。

それは制度の言葉だ。

合理であり、正論だ。

救済は有限だから、順番が必要。

順番を決めるために、登録が必要。


正しい。

正しいはずなのに。


女の目が、わずかに潤んだ。


「……登録して、消えた人を見た」


シオンは息を止めた。


「あなたは、目撃したのね」


女はゆっくりと頷いた。


「配給台帳の前。

 人が並んでた。

 配給券を貰って、端末に触れて、名前が記録される」


その光景は、救いの儀式だ。

食料が渡され、命が繋がる。

管理される希望の形。


「でも、あの日――」


女は唇を噛み、言葉を絞り出した。


「端末に触れた瞬間、

 その人だけ……いなくなった」


「消えた?」


「ううん。違う」

女は首を振った。


「最初から、いなかった。

 みたいに、なった」


シオンの中で、音が遠のいた。

最初からいなかったようになる。

存在を削除するような現象。


それは救済ではない。

秩序でもない。

“処理”だ。


シオンは端末を開き、記録を確認する。

保護所の入退室ログ。

配給台帳の操作ログ。

監視映像。


そこに、何もない。


当然だ。

“最初からいなかった”のなら、ログも残らない。


「……証拠が、残らない」


シオンは自分の声が震えるのを感じた。

観測監査官として、最悪の状況。

見た者がいるのに、記録が存在しない。


女は、シオンを見た。

弱っているのに、その目は鋭かった。


「あなた、正しい側でしょ」


「……私は監査官。正しさを見張る側」


「じゃあ、お願い」

女は声を絞る。


「正しくしないで。

 正しさで、人を消さないで」


それは祈りだった。

救われた者が、制度に向けて放つ最後の抵抗。


シオンは、答えられなかった。

ここで「しない」と誓うことは簡単だ。

でも、誓いは制度を止められない。

制度は個人の善意では止まらない。

むしろ善意ほど、制度を加速させる。


――救いたい。

――助けたい。

――守りたい。


その感情があるからこそ、仕組みが必要になる。

仕組みが必要になるからこそ、管理が強くなる。


そして強くなった管理は、例外を許さなくなる。


女は苦しそうに眉を寄せた。

それでも、言葉を続ける。


「拾ってくれた人が言ってた。

 『境界は、閉じる』って」


シオンは目を閉じた。

少年と同じ言葉。

別々の人物が、同じ予兆を語っている。


――境界は閉じる。

――閉じる前に渡れ。


その予兆は偶然じゃない。

現場の空気が、制度の未来を知っている。


シオンは病室を出た。

廊下に出た瞬間、息が荒くなる。


管理を信じたい。

救済は正しいと信じたい。

それでも、記録に残らない救助が増えている。

記録される救済が、人を消している。


矛盾が、増殖している。


そのとき、端末が震えた。

通信。

発信元は――内部線。


GENESIS管制系統。


シオンの指が止まる。

境界の現場にいる彼女に、内部から直接入る通信は珍しい。


画面には、短い件名が表示されていた。


【残す判断:確認依頼】

送信:評価管制オペレーター(個別回線)

――ALTO


アルト。


シオンは息を呑んだ。

第二作の主人公。

管理内で“残す判断”を選び、世界を二層にした男。

彼の名前は、公表されていない。

だが内部では、誰もが知っている。


シオンは周囲を確認し、廊下の角で通話を開いた。


ノイズ混じりの音声。

だが、声ははっきりしていた。


『……聞こえるか。観測監査官、シオン』


その声は若い。

そして疲れている。

感情を抑え込むために、静かすぎる。


「聞こえます。オペレーター・アルト。

 どうして私に?」


一拍の沈黙。

その沈黙が、内部の圧力を感じさせた。


『境界で、“非ログ救助”が増えている』


「……はい」


『それは、俺が残した“誤差”の副作用だ』


シオンは指を握る。


「副作用……?」


『管理は、誤差を嫌う。

 誤差が増えれば増えるほど、制度はそれを“最適化”しようとする』


「……救助を制度化する」


『そうだ。

 善意が制度になると、救済は“拘束”になる』


アルトの言葉は、冷たいのに正確だった。

彼は救済を信じていた男だ。

その男が、救済の暴走を最も理解している。


シオンは言った。


「登録端末で、人が“消える”現象が起きています。

 証拠が残らない。最初からいなかったみたいに――」


アルトの声が、わずかに低くなった。


『……その報告は、もう届いている』


「届いている?」


『内部では、現象として記録され始めている。

 だが、公表はされない。

 公表すれば、救済そのものが揺らぐからだ』


シオンの喉が乾く。


「じゃあ、どうすれば」


アルトは答えをくれない。

答えではなく、判断材料だけを渡す。


『君は現場にいる。

 現場の判断だけが、まだ間に合う』


「現場の判断……?」


『“残す”んだ。

 評価不能領域を、消さずに残せ。

 消される前に、ルートを繋げ』


ルート。

それは管理外の生存経路。

拾う側が残した、説明できない道。


ユウの痕跡。


シオンは息を呑む。

ユウという名前は、ここでは禁句だ。

伝説にしてはいけない。

英雄にしてはいけない。

制度に回収されるから。


アルトの声が、最後に刺さった。


『一つだけ言う。

 次の数日で、境界は閉じる』


通信が切れる。


シオンは端末を握り締めた。

手が冷たい。

汗が滲む。

心臓の鼓動が、耳の奥でうるさい。


境界が閉じる。


救われたのに記録がない。

記録された瞬間に消える。

救済が暴力に変わる前兆が、すでに始まっている。


その時――。


端末の画面が一瞬だけ乱れた。


黒いノイズ。

フレーム落ちのような、存在を拒む揺れ。


そして、画面の右上に、見たことのない記号が一瞬だけ浮かんだ。


△――

いや、違う。

線が一本、多い。


Δ


シオンは目を瞬いた。

次の瞬間には、何もなかった。


ただ、端末はいつも通りのログ画面に戻っている。

誤作動。

そう片付けるには、今見たものは鮮明すぎた。


シオンは喉を鳴らし、ゆっくりと呟いた。


「……今のは、なんだ」


答えはない。

まだ誰も発動していない。

まだ誰も能力を持っていない。

だが世界のどこかで、“発火寸前”の何かが生まれている。


救済が制度に変わる時。

希望が数値に変わる時。

未来は、拾われるのではなく、燃える。


シオンは歩き出した。


次に行くべき場所は一つ。

配給台帳。

矛盾の中心。

消えた人間の入口。


第1章は、ここで終わる。


境界線の空は相変わらず濁っている。

だが、シオンの目にはもう違って見えた。


この空は、曇っているのではない。

“閉じ始めている”。

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