タイトル未定
夜が深まり、風が止んだ。
空には雲が垂れ込み、星も月も見えない。
だが、村の中心──石灯籠の広場には、橙色の光がゆらゆらと灯っていた。
火だ。
それも、幾十にも分かれた小さな火。
まるで、魂が宙を彷徨っているかのように。
「……火魂が、目を覚ました」
学芸員の男──鬼龍院斎は、静かにそう言った。
白装束をまとい、古式に則った儀式の準備を整えていた。
菜月もまた、袖をまくり上げ、火魂封術録を携えて広場の中央へと向かう。
この儀式は、血を引く者──すなわち鬼龍院家の者にしか扱えない。
菜月には、その資格があった。
だが、彼女の中には、迷いがあった。
蓮を“封じる”のか。それとも“救う”のか。
十五年前、火魂を解放してしまったのは、確かに弟だった。
だがそれは、ただ人を助けたかったという一途な行為だった。
「……まだ、戻れるのなら」
菜月はそっと、翡翠のペンダントに触れた。
*
広場の中心に立つ石灯籠が、突然、爆ぜた。
そこから、火が立ち上る。
音はない。ただ、熱だけが、空間を震わせる。
火の中に、影が見えた。
小さな少年の姿。
それは、十五年前と同じ姿の蓮だった。
「姉ちゃん……来ちゃ、だめだよ」
また、その声。
だが今度は、菜月は一歩前に出た。
「お前が来るのを、ずっと待ってた」
火の中の蓮が、初めて顔を上げた。
果たしてそれは蓮なのか。
いや、そんな事は菜月からしてみれば些事である。
「……さみしかった」
ぽつりと蓮が漏らした。
それが聞こえて、菜月の目からぽろりと涙が落ちた。
「私もよ、蓮。ずっと、後悔してた。
どうして、あの時あなたを止められなかったのか……
なぜ一緒に行かなかったのか……!」
菜月は封術録を開き、声を張り上げる。
「火魂の儀──開始」
斎が拍子木を打ち鳴らす。
辺りの蛍火が一斉に、石畳の周囲を渦のように舞い始めた。
菜月は封術の言葉を読み上げる。
「火ト成リシ魂ヨ、ここに結界ヲ張ル」
「封ズルニ非ズ、赦スニ非ズ、光トナレ──」
その瞬間、火が膨れ上がり、爆ぜた。
中から現れたのは、蓮だった。
少年の姿ではなく、十五年分の時間をまとった、青年の姿で。
彼は、静かに微笑んだ。
「やっと、帰れるよ」
そして、火は収まっていった。
蛍火も、ひとつ、またひとつと空へ昇っていく。
蓮の姿も、やがて火の粒となって、天へと。
「ありがとう、姉ちゃん。
俺、ようやく……消えていいんだね」
──さよなら。
その言葉とともに、最後の炎が夜空に消えた。
*
朝になった。
広場には、もう何も残っていない。
火も、煙も、声も。
ただ、静寂と、夏の匂いだけがあった。
斎は、菜月に深く頭を下げた。
「あなたが来なければ、火魂はこの村ごと焼き尽くしていたでしょう」
「……封じたんじゃない。許したのよ」
菜月は、ペンダントを握った。
その中の翡翠は、ほんの少しだけ温かかった。
*
帰り道。
車の窓を開けると、風が頬を撫でた。
道端に、一匹の蛍が舞っていた。
菜月は微笑み、呟いた。
「またどこかで、会えるかしらね」
エンジンの音が、山中に消えていった。