タイトル未定
煙の奥から確かに聞こえた。
「姉ちゃん──まだ、来ちゃだめだよ」
その声は、菜月の耳に残る十五年前の記憶と、寸分違わなかった。
祠の戸口を開いたまま、菜月は言葉もなく立ち尽くした。
声はすぐに消え、祠の内部はただの暗がりに戻っている。
だが、菜月の目はその奥にある“棚”に気づいた。
積もった埃の下に、厚手の和紙が何重にも巻かれた包み。
彼女は手袋を嵌め直すと、それを慎重に取り上げた。
巻紙の表には、筆でこう記されていた。
「火魂封術録」
研究者としての血が騒いだ。
この名は、民俗学や陰陽五行を研究する者たちの中でも、伝説的に語られる秘儀の名だ。
火を媒介に、死者の魂を封じ込め、災厄の再来を防ぐという。
しかし、現代までその具体的な術式が伝わった例はない。
なぜなら──
それを行った村は、すべて滅びている。
*
簡易の現地調査テントの中、菜月は火魂封術録の解読に取りかかっていた。
江戸末期と推測される筆跡。
現代仮名遣いとは異なるが、彼女には読めた。
──《火魂ノ宿リシ地、夏至ノ夜ニ開カレル。》
──《禁ヲ破リ、火ヲ追ウ者、己ガ魂ヲ焼カルル。》
火の灯る場所は、夏至の夜に開かれる“火の道”であり、そこに近づく者は魂を喰われるという。
そして、「火に宿る魂」は、その者が“後悔”や“執着”を持って死んだとき、蛍のように光を灯す。
菜月は、あの浮かぶ炎──蛍火──の中に、蓮の目を見た。
ということは、弟はまだそこにいる。
火の中に閉じ込められたまま。
「まるで……幽霊の収容所ね」
呟きながら、彼女は別の記述に目を留めた。
「火魂封術ヲ行イシ巫女ノ家系、鬼龍院ノ名ヲ継グ者ニ伝ヘヨ」
指先が止まる。
──鬼龍院?
まさか。
彼女の家系が、かつてこの村と関わっていた?
弟の蓮が、何らかの因縁に引き寄せられたのか?
そのとき、外でカサッと音がした。
テントの外に出ると、誰もいない。
だが、再び地面に小さな火──蛍火が灯っていた。
ゆらゆらと、山の奥へ誘うように動いていく。
「……行くしか、ないのね」
*
火を追って辿り着いたのは、村の外れにある洞窟だった。
入口には、縄が結界のように張られ、紙垂がいくつもぶら下がっている。
菜月は懐中電灯を片手に、ゆっくりと中へ入った。
内部は思ったより広く、奥には封鎖された石室があった。
その前には、小さな祠のような構造があり、そこに古びた布人形が供えられていた。
その顔には、蓮の写真が貼られていた。
──写真?
菜月は思わず目を見張った。
確かにそれは、十五年前に失踪した蓮の高校時代の顔写真だった。
この村に誰かが“保管”していたのだ。
では、誰が?
その時だった。
背後に、足音。
振り返ると、洞窟の入口に人影が立っていた。
白装束。
顔には布を巻いている。
だがその姿には、見覚えがあった。
「……あなただったの」
学芸員。
郷土資料館で菜月に“蛍火の郷”の存在を教えた人物。
「あなたは、鬼龍院の末裔ですね。菜月さん」
「なぜ、私の家のことを──」
「私も……鬼龍院の血を引いているんです」
男は静かに布を外した。
頬には、火傷の痕。
その眼は、かつて菜月が見たことのある目をしていた。
「蛍火の封印は、あの夜、破られた。
あなたの弟さんが──封印を、解いてしまったんです」
菜月の脳裏に、十五年前の雨の夜がよみがえる。
蓮が、何かを「見た」と言っていた。
「火の中に、泣いてる人がいる」──そう言って、彼は走り出した。
弟は、助けようとしたのだ。
火に囚われた何者かを。
だがそれが、封印された“火魂”の開放につながってしまった。
「今夜、夏至の夜に火魂の扉が開きます」
「あなたが行かねば、彼の魂は……永遠に火となって燃え続けます」
菜月は、拳を握りしめた。
「……なら、私が終わらせる」