タイトル未定
蛍が舞うのは、まだ早い時期だった。
梅雨の湿気が肌にまとわりつき、重たく澱んだ風が山中を這っていた。
鬼龍院菜月は、車を停めると、バックミラーに映る自分の顔を一瞥した。
無表情な目元にかかる黒髪、首元には翡翠のペンダント。
それは、かつて弟から贈られたものだった。
「蛍火の郷、ね……」
口の中でそう繰り返す。
熊本県の山奥、地図にさえ記されていないような廃村。
十数年前までは、数十人が暮らしていたとされるが、土砂災害と住民の高齢化で放棄されたという。
そこに「六月になると、死者の火が灯る」と、近隣の村人が噂するようになった。
その噂を知ったのは、たまたま訪れた郷土資料館だった。
展示品の古文書の片隅に、墨で書かれた一文が目を引いた。
「夏至ノ夜、魂ヲ火トナシ、封ズル術アリ。村ヨリ出デズ」
そして──
「その村の名は」と、学芸員が小声で言った。
「蛍火って、呼ばれていたらしいんです」
菜月の手が、一瞬止まった。
彼女の弟、鬼龍院蓮が最後に姿を消したのは、十五年前の夏だった。
調査旅行の途中で立ち寄った「ある村」での行方不明。
あの時、記録に村名は残されていなかった。
だが、彼のカメラに残された最後の写真には、こうあった。
──《ホタルが、道案内をしてくれる》。
菜月は覚悟を決めて、蛍火の郷へと入ることにした。
*
朽ちかけた鳥居をくぐると、空気が一変した。
木々のざわめきが、まるで誰かのささやきのように耳を打つ。
家々はすでに倒壊し、土に還ろうとしている。
だが、村の中央にある石畳の広場だけが、不自然なほど綺麗に保たれていた。
その中心には、大きな石灯籠──その上には何か、焼け焦げた紙片のようなものが貼り付いている。
菜月はカメラを構えつつ、広場を歩いた。
足元に、パチ……と小さな音がした。
見ると、草むらの中に、微かに橙色の光が灯っていた。
「……蛍?」
近づいて見ると、それは蛍のような光ではなかった。
火だ。だが、焚き火ではない。
まるで「浮いている」かのように、宙にふわりと揺れていた。
そして、その炎の中に、顔が──
菜月は一歩、後ずさる。
顔。
いや、目だった。
自分をじっと見つめている、懐かしい光の目。
「……蓮?」
光はふっと掠れ、山の奥へとゆっくりと移動し始めた。
菜月は一瞬ためらったが、足が勝手に動いた。
気がつけば、深い杉林へと踏み込んでいた。
──カサッ
後ろから、足音。
振り返るが、誰もいない。
「誰……?」
再び前を向くと、光はもう見えなかった。
代わりにそこには、朽ちかけた祠がひっそりと佇んでいた。
その戸の前には、焦げた線香が三本──最近誰かが供えた痕跡がある。
村は無人のはずだった。
菜月の中に、違和感と記憶がよみがえる。
あの日、蓮が最後に残した言葉。
「姉ちゃん、火の中には、声があるよ」
その意味が、今、ようやく彼女の背筋を冷たく撫でた。
祠の戸を開けた瞬間、奥からゆっくりと煙が流れ出す。
煙の中に──声があった。
「姉ちゃん──まだ、来ちゃだめだよ」