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  作者: あい太郎
1/3

タイトル未定

 蛍が舞うのは、まだ早い時期だった。

 梅雨の湿気が肌にまとわりつき、重たく澱んだ風が山中を這っていた。


 鬼龍院菜月は、車を停めると、バックミラーに映る自分の顔を一瞥した。

 無表情な目元にかかる黒髪、首元には翡翠のペンダント。

 それは、かつて弟から贈られたものだった。


 「蛍火の郷、ね……」

 口の中でそう繰り返す。

 熊本県の山奥、地図にさえ記されていないような廃村。

 十数年前までは、数十人が暮らしていたとされるが、土砂災害と住民の高齢化で放棄されたという。

 そこに「六月になると、死者の火が灯る」と、近隣の村人が噂するようになった。


 その噂を知ったのは、たまたま訪れた郷土資料館だった。

 展示品の古文書の片隅に、墨で書かれた一文が目を引いた。


「夏至ノ夜、魂ヲ火トナシ、封ズル術アリ。村ヨリ出デズ」


 そして──

 「その村の名は」と、学芸員が小声で言った。

 「蛍火ほたるびって、呼ばれていたらしいんです」


 菜月の手が、一瞬止まった。


 彼女の弟、鬼龍院蓮れんが最後に姿を消したのは、十五年前の夏だった。

 調査旅行の途中で立ち寄った「ある村」での行方不明。

 あの時、記録に村名は残されていなかった。

 だが、彼のカメラに残された最後の写真には、こうあった。


 ──《ホタルが、道案内をしてくれる》。


 菜月は覚悟を決めて、蛍火の郷へと入ることにした。



 朽ちかけた鳥居をくぐると、空気が一変した。

 木々のざわめきが、まるで誰かのささやきのように耳を打つ。


 家々はすでに倒壊し、土に還ろうとしている。

 だが、村の中央にある石畳の広場だけが、不自然なほど綺麗に保たれていた。

 その中心には、大きな石灯籠──その上には何か、焼け焦げた紙片のようなものが貼り付いている。


 菜月はカメラを構えつつ、広場を歩いた。

 足元に、パチ……と小さな音がした。

 見ると、草むらの中に、微かに橙色の光が灯っていた。


 「……蛍?」


 近づいて見ると、それは蛍のような光ではなかった。

 火だ。だが、焚き火ではない。

 まるで「浮いている」かのように、宙にふわりと揺れていた。


 そして、その炎の中に、顔が──


 菜月は一歩、後ずさる。

 顔。

 いや、目だった。

 自分をじっと見つめている、懐かしい光の目。


 「……蓮?」


 光はふっと掠れ、山の奥へとゆっくりと移動し始めた。

 菜月は一瞬ためらったが、足が勝手に動いた。

 気がつけば、深い杉林へと踏み込んでいた。


 ──カサッ


 後ろから、足音。

 振り返るが、誰もいない。


 「誰……?」


 再び前を向くと、光はもう見えなかった。


 代わりにそこには、朽ちかけた祠がひっそりと佇んでいた。

 その戸の前には、焦げた線香が三本──最近誰かが供えた痕跡がある。


 村は無人のはずだった。


 菜月の中に、違和感と記憶がよみがえる。

 あの日、蓮が最後に残した言葉。


 「姉ちゃん、火の中には、声があるよ」


 その意味が、今、ようやく彼女の背筋を冷たく撫でた。


 祠の戸を開けた瞬間、奥からゆっくりと煙が流れ出す。

 煙の中に──声があった。


 「姉ちゃん──まだ、来ちゃだめだよ」

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